お社の朝は早い。
午前4時に起き出して境内の掃除。神饌と祝詞を奉って、その朝のコンディションによって必要なチューニングをする。コンディションというのはつまり、水脈の濁りとか地脈のねじれとか、鏡ちゃんによると重力分布の歪みとか、そういう結界に緩みを生じる不具合の補修だ。
今朝は南紀の崩れの影響であちこちズレが出ているので、それぞれの得意分野でいろいろやってみた。私と咲(えみ)さんは弓。トンちゃんは笛。きーちゃんは土俵でドスンドスンと四股を踏んでいた。きーちゃんは弓道師範の満先生の息子なのに、どうしても弓が苦手で9歳ぐらいで相撲に転向した。タカちゃんも中学生ぐらいから日本中飛んでチューニングに忙しかったので、弓道はやるものの試合で成績を残したりしていない。そんなわけで長男の仁史さんが二代目として一身に道場を背負っている。
満叔父さんと仁史さんと、仁史さんとこの長男の星一くんは、年に一回、弓の神技のためにこのお社にやってくる。一般公開で蟇目の儀や流鏑馬を披露する。それ以外は、東の端の結界を守る拠点として、日々関東平野のはずれで弓を引いている。
このお社の主祭神は住吉三神。海の神、そして航海の神さまである。もっとも、このポピュラーな神様がうちの神社に統合されたのは瓦解前後の比較的最近の話らしい。その以前は江戸時代の地図を見ると弁天さまと呼ばれていた。水と音楽の神様である。今は住吉さんの脇で、枝社として祀られている。そしてそれ以前、室町ぐらいだとこの小山は霊験あらたかな湧き水として周囲の村人の崇敬を集めていた。その湧き水というのは黒曜が守っていた桂清水。つまり大本のお祭神は黒曜、ということになる。
そしてその黒曜は、今は不在なのである。
当代柱の姫のサクヤさんは、結界の要なんだからここでがんばってるだけで十分なんだよ、ときーちゃんや咲さんが再三言い聞かせているにもかかわらず、弓も楽器も、ましてや出かけて結界の綻びを修繕したりできないことに気後れを感じているらしい。殊更に私と、西の端の魔女、紫(ゆかり)さんに気を遣っているような気がする。申し訳なく思ってもらうのも申し訳ないが、当然とすましていられるのも悔しい気がして、女心はややこしい。
黒曜と宝珠が奪われて結界が破れかけてこの方20年余り、一族郎党てんてこ舞いで大規模工事をしているわけだが、その間にサクヤさんは2回結婚して二児の母。別にサクヤさんの責任などでは全然まったく無いのだが、私も紫さんも独身なのである。いささか僻みたくなるというものである。
とはいえ、紫さんには極上の彼氏がいるのである。イタリア国籍のルーマニア人でかのウフィツィ美術館のキュレーター。何より35歳男性というのに女性とみまごう美形で、イタリアの街を歩こうものなら左右の伊達男から花を贈られるという。実際のところ、映画スターやモデルも含めて、面食いの私が見てもこれほど均整がとれてしかも繊細な造作の顔の持ち主を見たことがない。しかも、その彼氏、リューカはホタルが見える類の人種なのだ。見えるだけではない。どういうわけか、ホタルに敬われる人徳の持ち主。まさに魔女の恋人としては120点満点なのだ。
そんなリューカと紫さんは、私たちが南紀に出発する朝の7時に神社にやって来て合流した。紫さんは来るなり、昨夜から離れに泊まっている瑠那の配偶者、佐伯さんの頼んでメールをチェックした。
この佐伯さんという人が、また一癖も二癖もある御仁である。まず魅月ちゃんを上回る毒舌。リューカやタカちゃんとはまた別の種類の端正な容姿の持ち主。そして天才的に切れる頭脳。
彼には左腕が無い。仔細は教えてもらってないのだけど、佐伯さんは10年ぐらい前にイタリアで瑠那と出会った。その当時、どうやらどこぞのマフィアの末端で働いていたらしい。そこでとにかく瑠那と出会い、組織を抜け、今度は日本の財政界を裏で操るようなフィクサーに才能を買われて日本にやって来た。左腕は、古巣を脱退する時の置きみやげ、ということらしい。なかなか壮絶というか、不謹慎な言い方をすれば映画のようにドラマティックなお話である。
そんなわけで、そうそう簡単にハッキングされないような通信方法など朝飯前なのである。
メールというのは、ヨーロッパの片田舎をうろうろして黒曜を探している、柱の姫の母親葵さんとうちの兄からの連絡である。ついでに葵さんは紫さんの2歳下の妹でもある。本人はまったく自覚が無いが、相当な千里眼持ちなのだ。でも遠見をしている間、トランス状態で自分では解析できない。同行している兄の望(のぞみ)が、まるで水晶球のように葵さんの託宣を読み解いては見当をつけて黒曜の足跡をたどっているのである。
足跡、というのはつまりさらわれた黒曜はひとところに置いておかれているわけじゃないようなのだ。踏み込んではもぬけの殻、という状況がここ数年続いているらしい。
「一体どういう人が何の必要があって、結界を破って黒曜をさらったのかしら」
私たちはここ20年余り、推測を繰り返して来た。
鏡ちゃんの見立ては、どういう背景の集団かはともかく、結界をつぶして竜宮さまに暴れていただきたい人々。つまり人間の世の中をすべてご破算にして、ノアの方舟時代の洪水でも再現する気じゃないか、と言う。
リューカの推論はちょっと変わっていた。視点が理系というか、さすが最新機器を使って絵画の顔料の元素組成だの調べて真贋判定したり修復したりする専門家だけある。彼はものの動きを元素の流れで見ているのだ。
「”エレメント”って、つまり要素、でっしゃろ?」
奈良の文化財研究所にしょっちゅう出入りしては機械使ってるせいで、リューカは妙な関西弁を話す。緩やかな細いウェーブを描くプラチナブロンドと青味がかった深い緑色の瞳をもつ美貌とトンチンカンな方言の取り合わせはなかなか味がある。
「真朱(まそお)って水銀硫化物やないですか。黒曜は会うたことないけど、多分、鉛の要素持ったスピリットやと思うんです」
「水銀と鉛」
私や紫(ゆかり)さんはポカンとしてしまった。そんなこと、考えてみたこともなかった。
「つまり錬金術使てる一味やと思うんです」
「ふん。ヨーロッパはその手の秘密結社、掃いて捨てるほどあるからな」
佐伯さんがコメントした。魅月と瓜二つの色素の抜けた白い髪に眼光鋭い朱色の双眸。リューカと佐伯さんが並んでいると綺羅綺羅しい眺めである。こんな並外れた美形に頻繁に囲まれていると私の面食いレベルがどんどん上がるばかりで悩ましい。
「それと、ほら、えーと仙人、ちゃうな、仙丹てあるやないですか。不老不死の妙薬」
「ああ。道教も入ってるのか」
「ほうほう。それや。それですよ。身体に毒なもの飲んで作り変えるというヤツ」
その知識は人文学者の兄貴や葵さんから聞いて、私にもわかる。奈良や平安時代に日本でも大陸由来の道教が流行って宮廷人が鉛だのヒ素だのを練った仙丹を飲んでいたとか。
「ま、そいつらが不老不死を狙ってるかはともかく」
「何かを作り替えたり、生み出したりしたいんやないですか」
「何かって?」
紫さんはまだ半信半疑だ。
「ほら。地底のスピリッツのパワーを使うて、世界を作り替えるとか」
「人間を一掃するとかな」
佐伯さんは容赦ない考察をする。私はぞっとした。
「前に紫さん、言うてたやないですか。黒曜と鏡ちゃんは仲いいけど正反対の属性やて」
「ああ。話したことあるかもしれないわね」
「黒曜は水とか氷。鏡ちゃん、つまり真朱は火の属性を持つ妖魔なんでしょ」
「ええ」
「でもどっちも死と再生のカミサマでしょ」
思いもつかない話の展開が連続して、私も紫さんも頭がついていかない。
「冬に生き物が消えても春また湧いてくる。野火で草木が焼き払われても灰からまた芽が生えてくる」
佐伯さんは半ば考え込みながらつぶやいた。
死と再生。
黒曜と鏡ちゃんをさらった人は、何を殺し、何を再生したいのか。
リューカと佐伯さんが我々のチームに加わって10年近い。この2人は日本とヨーロッパを行き来しているので、あちらで情報をつかんでは流してくれる。そして有望そうな手がかりを見つけると、葵さんとうちの兄貴が出かけて行く。そんな10年だった。
そしてこの朝。
佐伯さんがパソコンを立ち上げ、何かソフトを立ち上げて兄貴とスカイプでつながった。スピーカーを使ってみんなで画面をのぞき込んだ。
「おう。今、どこだ」
「クロアチアのカロ先生の隠れ家だ。午前0時」
7時間の時差だ。あちらは西なので今日の午前0時、ということになる。
「例の修道院、何か手がかりありました?」
リューカからの情報で、兄貴たちは修道院の書庫に行っていたはずだ。司書を務める修道者と交渉して禁帯出の古書を見せてもらうのだと言っていた。
「古書に古代の泉信仰の聖地で、中世に錬金術者が秘法を行っていた、という記述があって、それで葵さんとしのび込んだ」
黒づくめの怪盗のような出で立ちで、2人して夜陰に乗じて崩れかけた聖堂の地下室に下りていったらしい。
「迎え討たれた、というか向こうはこっちのことを知ってて待ち伏せされたって感じだった」
「え、ちょっと、大丈夫だったの」
紫さんが慌てた声を出した。
「いーちゃんは? 何でそこにいないの?」
いーちゃんとは、葵さんの愛称である。
「葵さんは」
兄貴が少し言いよどんで、ちょっとため息をついた。カメラから目をそらしてうなだれている。こんなしょぼくれた兄貴は珍しい。
「ノンちゃん、いーちゃんは? 大丈夫なの?」
紫さんが問い詰める。
「葵さんは」
兄貴が言いにくそうに、まだ言葉を選んでいる。
そこへ着替えを済ませて朝ご飯に下りて来た小学生の白黒コンビが混ざって来た。この2人は朝5時の拝礼を済ませた後、境内のお掃除は免除されて出発まで仮眠をとっていたのだ。
「あ、ノンちゃんだ。お祖母ちゃまは一緒? 元気?」
「あ、ノン太だ。まだ葵さんに手を出してないの?」
いつもの挨拶をしてから、2人はその場の空気がおかしいことに気付いたようだ。
「え、どうしたの。何かあったの?」
「まだ、よくわからないのよ。詳しいことこれから聞くから、あんた達は先に朝ご飯済ませて顔洗いなさい。洗面所混むでしょ」
「え、でも」
「8時半には出るから。とにかく出かける準備しなさい。わかったら後で話すから」
紫さんにきっぱり言われて、白黒コンビはしぶしぶ台所に移動した。
「それで。どうなったって?」
佐伯さんが返事を促す。
「葵さん、は、ええと、寝ている。というか目を覚まさない」
兄貴はまだ言い淀んでいる。
「え、どういうことなの。どこかケガしたってこと?」
紫さんが動揺しているのがわかる。
「いや。ケガはない。あれは、どういうんだろう。精神攻撃? みたいなものを受けたんだと思う。俺にはよくわからない。切れ切れにしか見えなかった。何かイメージみたいなの」
「で、でも、碧(みどり)ちゃんも連れてったんでしょう?」
碧ちゃんは、葵さん付きのホタルである。確か5、600年生きているベテランだ。なのに葵さんにはメガネをかけたそばかすだらけの暗い表情をした13,4の男の子に見えているらしい。兄貴には葵さんに瓜二つで緑色の髪の女の人に見えているそうだ。
「碧ちゃんは、石に戻った。今、葵さんの胸元にかかってる」
「碧ちゃんでも守れなかったってこと?」
紫さんの声が震えた。私も信じられない。碧ちゃんは、葵さんが生まれた時に桜さんが護衛役に頼んだホタルなのだ。このお社に出入りするホタルの中でも別格に強い力を持っているはずなのに。
「碧ちゃんも、同じ攻撃を被ったんだと思う。それでも散り散りにならずに踏みとどまった。それで、葵さんが気を失ったので葵さんの中に入った。入って、それで葵さんの身体を動かしてくれて、それで何とか逃げてこれた」
兄貴は鈍感なおかげでもろに影響を受けることもなく、碧ちゃん入りの葵さんを引きずって宿に戻った。意識のない葵さんを電車に乗せてクロアチアまで逃げて、今は葵さんと兄貴の恩師、唐牛教授の別荘に隠れているのだと言う。
「そこは安全なのか?」
佐伯さんが冷静な声で聞く。この人がこういう声を出すときは頭の中で猛烈に状況分析をしているのだ。
「ここまで追いかけては来ないと思う。あいつらは、というかあいつは、こっちに時間を与えるつもりなんだと、思う」
兄貴は画面から目を逸らしたまま、考え考え言う。尊敬する唐牛先生をまねているつもりなのか肩につく長髪をひとつに結んだ、その後頭部を左手で掴んで、左腕で守るように頭を抱えている。相当まいった時のポーズだ。
「あいつって見たんどすか。どんなお人でした」
リューカが聞く。
「子供、だった。15、6という感じに見えた。少年、なのかな。ちょっと中性的というか、声変わり前の高い声で、ヤケに甲高く響く声でさ、それで」
「洗脳されたってわけか」
佐伯さんが結論づける。
「洗脳」
紫さんがショックを受けたように繰り返す。
「洗脳というか、説得というか。自分たちにこそ理がある、みたいな」
「どういうこと」
「だから。俺にはよく見えなかったんだよ。とにかく葵さんの身体を日本に持って帰る。碧ちゃんから聞いてくれ」
珍しい。兄貴がイラだったような話し方をしている。こんなところ、初めて見た。いつも飄々と私や瑠那の兄貴分をやってるくせに。
「意識が無いって、それでいーちゃんの身体は? 水分とか、摂れてるの? ご飯は? おトイレは?」
紫さんが問いただす。
「うん。フロとかトイレとかは大丈夫。昨日は冷え切ってたんで、バスタブにお湯張って葵さんごとけっこう長いこと浸かってた。あいつもバテてたんで」
「でも碧ちゃん、お肉食べないでしょ」
「うん。でもひき肉とか魚とかは大丈夫らしいんで、コンソメスープとかかつおだしの雑炊とかちょっとずつ食べさせている。ただ葵さんの意識は、眠ったままだ。多分、夢を見てるような状態なんだと思う」
ここまで言うと、兄貴は長い溜息をついて目を閉じた。左腕で頭を抱えたまま天井を仰いでいる。これは相当にバテている。
「望さん、えらいしんどそうですな。寝てはりますか?」
「あ、うん。俺は大丈夫。カロ先生の奥さんもリュブヤナにいたんで駆けつけてくれて、交替で見診てくれてるんだ。医者はちょっと貧血気味だけど健康に問題ないって言ってる」
「そうなの」
紫さんはちょっと安心したようだ。
小学生コンビに朝ご飯を食べさせたサクヤさんと咲(えみ)さん、車に荷物を積んでいたきーちゃんも加わって、モニターの前で方針を話し合った。
「とりあえず。脱水症状や栄養失調の心配が無いなら、もう数日そこにいるべきだわ。今お社に帰って来ても、ここは乱れているから葵ちゃんに良くない。まずは南紀を修繕しないと」
咲さんがきっぱりと決断を下した。
「これからすぐ南紀に行くんだ。都やりゅー坊も連れてく。2、3日で肩がつくと思う。のん太、もうちょっとそっちで粘れ」
きーちゃんが励ます。
「のんちゃん。のんちゃんが一緒にいてくれて、ホントに良かった。お母さんをお願いね」
サクヤさんがモニターに向かって頭を下げている。母親の容態に動揺はしているのだろうが、声は落ち着いて見える。
「俺、葵さんとこ行く。クロアチア行く」
トンちゃんの方は動揺しているようだ。上ずった声を出す。
「何言ってるの。トンちゃんはここでサクヤについててもらわないと。ここが起点でしょ。ここがしっかりしてないと、南紀を補正する基準がぐらつくじゃないの」
「でも。葵さんが」
トンちゃんが言い募る。この子は昔から、葵さんの体調に敏感だった。本人が無頓着なだけに、サクヤさんと一緒に葵さんの面倒を見ているつもりなのだ。
「鳶ノ介」
咲さんが叱りつけるように大きな声を出した。
「あなたは、ここにいなさい。南紀を直さないと、葵ちゃんが帰って来れない」
「トンすけ。当てにしてる。がんばれよ、長男坊」
いつの間にか兄貴がモニターに向き直っている。動揺しているトンちゃんを見て、かえって落ち着いたのだろう。兄貴モードが復活したようだ。
「私が行くわ」
紫さんがきっぱり言った。
「リューカと都ちゃんがいれば、南紀は大丈夫でしょう。鏡ちゃんもいるし」
「ま、一応俺もいるしな」
きーちゃんが付け加える。
「私も。お祖母ちゃまのためにがんばる」
台所からこっそり話を聞いていたらしい桐花が申し出る。
「パパーは私らに情報流してくれるんでしょ」
魅月は相変わらずクールな声で父親に要請している。
「まあな。葵さんにはお世話になってるからな」
「私はトンすけをドヤしつける係り、ってとこね」
日頃トンちゃんのおむつを替えてやったとイジメている瑠那は努めて明るい声を出す。彼女は11歳でここに引き取られてから、葵さんに育ててもらったようなものなのだ。
「のん太、義母さんを頼むわよ。情けない声出してる暇ないでしょ。あんた、私の義父親になるつもりなんでしょ」
瑠那の檄に、私はショックを受けた。え? 兄貴が? 葵さんを? だって葵さんって、あれ、いくつだっけ。確か私の母親と同じ年じゃなかったっけ。兄貴、6歳でここでタカちゃんに会ったっていってたから、つまり葵さんにも6歳で会ったってことよね。あれ。その時、葵さんいくつ? 23歳? 大学院を休学してサクヤさんの面倒見てた時? いつの間にそんなことになったの? というか知らなかったの、私だけ?
私はすっかり混乱してしまったが、他の面々は動揺していない。冗談だったのかも。いや、そういう雰囲気でもない。え、本当なの? 兄貴も別に焦ったり照れたりしてる風じゃない。どういうことなの。何だか、葵さんが大変な状態なのに、何もかも吹っ飛ぶような衝撃だ。
「じゃあ、紫ちゃんはクロアチア。トンちゃんはここ。私もここにいる。後は予定通り南紀に出発。これから正念場よ」
咲さんが号令を出す。トンちゃんはすっかり今日は高校休むつもりみたいだ。自分でさっさと学校に電話している。牧野先生に事情を話して、うまく担任の先生に伝えてもらうよう頼んでいる。瑠那はあわただしく出勤の準備を始めた。サクヤさんもそろそろ社務所を開ける用意をしないといけない。
そうだった。今日は平日だった。きーちゃんは、今年学年主任押し付けられた代わりに担任ないから、とか言って年休もぎ取ったとして。あれ、そう言えば小学生コンビは? 学校休みなの?
でもとにかく。兄貴はいつの間にそういうことになったの。新さん亡くなって、葵さん20年以上未亡人だけど。でもでも。えええええ。どういうこと。
まだ混乱している私を、小学生コンビがミニバンに押し込んだ。
「これ。昨日蒸かした芋饅頭。車の中で食べ。でもお菓子ばっかり食べたらあかんよ。騒いでおとさん、困らせないようにね」
サクヤさんはいつもの調子で子供らの世話をやいている。
「おこづかい。サービスエリアなんかで要らんもの買わないのよ。南紀でおみやげ買いたくても、今度はお祖母ちゃん、一緒じゃないんだからね。お父ちゃんにせびらないのよ」
咲さんも孫たちに念を押す。
「お袋もサクヤも。そんぐらいにしとけ。そら出発するぞ。お袋、うち頼む。サクヤは無理しないで寝てろ。禰宜さんの出張頼んだから、社務所は任せたらいいから。いいな?」
「はいはい。トンちゃんにもわあわあ言われるから。大人にしてます」
この2人は結婚9年と思えないほど仲がいい。毎度当てられる。紫ちゃんはリューカにお見送りのキスをしている。こっちはこっちでさすがにヨーロッパスタイルで当てられる。
それはともかく。今は兄貴よ。私の知らない間に。
”都。落ち着け。黒雲が出て来た。道中荒れるぞ”
ドンちゃんにたしなめられた。
”葵は碧がいるから大丈夫だ。心配するな”
いや、もちろん葵さんも心配だけれども。今は兄貴よ。そんな野望持ってる兄貴がついてて、葵さんは安全なの? 寝てるところを襲ったりしないでしょうね。
ああ。でも確かに空が暗くなって来ちゃった。落ち着かなきゃ。深呼吸深呼吸。ああでも。
混乱している私を乗せて、ミニバンは出発した。そうだ、とにかく南紀を直さないと。そしたら兄貴を葵さんが帰ってくる。それから問い詰めたらいい。でもホント、どういうこと。
私はもう一度、深呼吸した。
「鏡ちゃん。お薄ちょうだい。それと芋饅頭も」
まずは血糖値上げよう。今から正念場だ。
南のほの暗い森で(その2)
2015.10.25
うちの兄は、妹の欲目を抜きに客観的に三高のイケメンの部類に入ると思う。
身長178。37歳。一応キューテイコクダイのひとつで大学院まで進んで、そこで助手を数年勤めた後、そこから車で15分の公立大に異動して現在准教授。この年で肩まで髪を伸ばしていても不潔に見えないのは大したものじゃないだろうか。お腹は出てないし、額は薄くなっていないし、今のところオヤジ臭もしてない。美形とかではないけど、見苦しくない造作をしていると思う。
なのに独身なのである。大学のセンセーなんて社会的信用が、とか言われそうなカタい職業に就いてるくせに、そしてどうやらそこそこモテていそうなのに独身。バレンタインの度にけっこうな数のチョコレートをもらって来ていたし、女の子と付き合ったことも私が知ってるだけで数度あるはずだ。でも独身。
私は何となく、兄が結婚しないのはタカちゃんのせいじゃないかと思っていた。
兄は6歳の頃からタカちゃんを掛かり切りで面倒見て来た。兄が中学3年生の時に私の父が関東方面に転勤になったのだが、兄はひとりこの都のはずれに残ってお社の離れに下宿し、今に至る。お社から自転車通学圏にある、そのキューテイコクダイに現役合格して見せるから、と両親を説得したのだ。多分、あれはタカちゃんから離れたくなかったからだと思う。受験生に転校させるのも、と父は折れた。転勤先にあまり進学率の高い高校が無かったのが、兄に幸いした。下宿代は親戚価格で食費を月2万。新さんと葵さんという現役研究者が2人もいる環境なのも、勉学に最適と判断されたのだろう。新さんは兄が大学に入った年に亡くなってしまったのだけど。
兄はなかなか優秀だったらしくて、新さんと葵さんの恩師、唐牛教授の研究室で院生から助手になった。今は、唐牛教授の研究仲間の宮本先生のところで働いている。葵さんは新さんが亡くなる前から唐牛教授のスタッフなので、だいたいこの4人で何かアヤシゲなことを研究している。
つまり兄にとって葵さんは、下宿のオバさんで、指導教官で、一時は上司で、今は共同研究者。タカちゃんがサクヤさんと結婚してからは、従兄弟の義母さんということになる。
そういえば、その宮本先生が葵さんを狙ってたのだが、そのアプローチに一切なびかず、というかアプローチされていることにも一切気づいてもらえずにこやかにスルーされ続けて、とうとう40過ぎて諦めて別の女性と結婚したのだと兄に聞いたことがある。あれは多分、兄が宮本先生の研究室に移るちょっと前のことだった。あの時、兄がいやにうれしそうだったので、何だか変だなあとは思っていたのだ。
まさかあの時、ライバルが消えたことを喜んでいたとは。私は全然知らなかった。
さっきは葵さんのことで頭がいっぱいで流してしまったが、そういえば魅月も変なことを言ってたんだった。
”ノン太。まだ葵さんに手を出してないの?”
兄も葵さんにアプローチしているのに、宮本先生みたいにスルーされ続けているってこと? 2人が黒曜と宝珠を探して世界中を旅をし始めたのは何年前だっけ? ずっと2人切りで旅している間にそんなことになったのだろうか。
ひとりでぐるぐる考えていても仕方ない。年に一度もろくに会えない私より、この人々の方がよっぽど兄の生態に詳しいに違いないのだ。
「あの。うちの兄が瑠那の義父になりたいとかいうのは、つまりどういうことなのかな」
我ながら回りくどい切り出し方だと思う。
「気づいてないのは葵さんと都ちゃんだけなんじゃないの?」
魅月が相変わらずしれっと答える。
「つまり、葵さんにはその気が無いってことなのね?」
「その気も何も、気づいてないんだって。思いつきもしないんじゃないの? 葵さんにとって、のん太はサクヤさんの兄貴分でしょ」
「でも、のんちゃんが大学移ったのは葵さんと結婚できるようにするためなんだよね、父上?」
桐花は時々きーちゃんを父上と呼ぶ。そして葵さんのことはだいたい葵さんと呼ぶ。大家族で女性の多いお社では、叔母さんもお母さんもお祖母さんもインフレなので、個人名で呼ぶのが一番混乱が少なくてよいのだ。
「ああ、何かそういう話だったらしいな」
きーちゃんが運転しながら娘の質問に答える。
「どういうことなの?」
「会社とかもそうらしいが、大学だと同じ部署の人間同士で結婚ってのは何かと面倒らしい」
「ああ、確かにそうかも」
「で、葵さんにプロポーズする気があるならちょうど公募があるから自分とこに来いって、宮本先生に言われたらしい」
かつてのライバルに、大した申し出である。それにしても兄が異動したのって、あれ、何年前だっけ。あんな頃からずっと?
「兄貴はタカちゃんが好きなんだと思ってたのに」
私が思わずつぶやくと、すかさず魅月にツッコミを入れられた。
「自分が好きなものを何でも他人も同じぐらい好きだと思わない方がいいわよ」
「まあ、ノンちゃんはトンちゃんのパパと並んでも見劣りしないけどね。それに今の大学の女子学生達にも主にそういう目線で人気らしいよ」
桐花も付け加える。
「そういう目線って?」
「宮本先生もお腹出てないし、けっこう渋いオジサンじゃない。だからあの2人はカップルってことになってるんだって。トンちゃんのパパとベタベタしてる若い頃の写真も出回ってるらしいのよ」
「でも、望はん、わしとフィレンツェで会った時にはもうかなり、葵さんのこと気にしてましたよなあ?」
リューカも会話に参加して来た。
「そうなのか? 俺はその頃寝てたからよくわからん」
鏡ちゃんが首をかしげている。鏡ちゃんがきささんの身体に入ったりしてこうしておしゃべりできるようになったのは桐花が生まれてから、つまりこの7年ほどのことだ。
「まあ、あの辺りから、だよな。瑠那がよく気をもんでイライラしてた」
きーちゃんが新情報を開陳する。
「え。瑠那が? どうして?」
「だから。うちの母は都ちゃんと同じで面食いなのよ。世話焼きののん太とケンカばっかりしてたけど、のん太のこと好きだったんだって。でも相手が葵さんだから言い出さずにあきらめたんだって」
魅月がクールに言う。7歳の子がこうも淡々と母親の少女時代の恋愛を語れるものだろうか。
「でも葵さんは全然気づかないわけね?」
「だって葵さんだもの」
桐花がきっぱり言う。
そうなのだ。葵さんは、さすがサクヤさんの母親というべきか、何というか人並みはずれて世間離れしているのだ。年齢的にも外見的にも年相応になってない。葵さんは四捨五入すればそろそろ還暦のはずなのだが、40かそこらに見える。
兄をこのお社に連れて来たのは私の母だ。タカちゃんがああいう体質なので、母の姉、咲(えみ)さんはタカちゃんを連れてここに身を寄せていた。咲さんのダンナさんの満さんは、サクヤさんのお父さんである新さんのお兄さん。新さんは南部のうちから織居のうちに入った婿養子だ。私の母は、父と再婚した後、兄を同い年の従兄弟に引き合わせたのだ。まだ私が生まれる前の話だ。
6歳のタカちゃんは、一言もしゃべらないし、空をふわふわ浮いて物を飛ばしたり急に消えたり、3歳のサクヤさんを飛ばしたりしていた。これはで小学校なんかいけない。フツウの遊び仲間でもできれば常識を覚えるかも、という策略だったらしい。
うちの長男の徹兄さんはなかなか自分の父親の再婚相手に馴染まなかった。2人の母親のゆりえさんが亡くなった時、徹兄さんは7歳、望兄さんは2歳。その時、私の母はまだ17歳。2人をゆりえさんの病室にお見舞いに連れて行き、お父さんが帰って来るまで家でご預かってご飯食べさせたりオフロに入れたり遊ばせたりしてくれる、近所のお姉さんだった。
父は今でも時々言う。
「母さんは、父さんじゃなくて望を気に入ってうちに来たようなもんだよなあ」
ノロ気である。実際のところ、母方の家族ぐるみで心細い2人の兄弟を不憫がって可愛がっていたわけなのだが、父がけっこう大きな企業の研究開発の技術者でそこそこ高給取りだったものだから、母との再婚についてはとやかく言う親戚が多かった。徹兄さんは、そういう親戚から要らんことを吹き込まれてたらしい。
仕事で連日帰宅が遅い父親と、母に何かと当たる徹兄さんとオロオロする母の間で、望兄さんは気苦労していたようだ。その苦労性で世話焼きの性格をお社でもいかんなく発揮して、6歳からタカちゃんの面倒を見てきたわけである。兄にとってもフクザツな家庭で煮詰まるより、いい気分転換になっていたのじゃないかと思う。徹兄さんは母に懐かないまま、中高一貫の私立の全寮制学校に進学して12で家を出てしまった。実家に盆暮れに帰ってくるようになったのは30もけっこう過ぎて結婚して子供ができてからのことだ。親になってみて考えることもあったのかもしれない。
それにしても。
南紀に向かうミニバンでは、運転するきーちゃんの横でリューカがカーナビ、iPad、アナログの地図を駆使してナビゲーターを勤めていた。後部座席から回ってくるお菓子や飲み物をきーちゃんの口に入れる係りでもある。一番後ろの席では荷物に埋まりながら白黒美少女コンビがきゃっきゃとはしゃいでお菓子を食べている。真ん中のシートに私と鏡ちゃん、それにドンちゃん。紫さんがクロアチア組になったので、空いたスペースでドンちゃんが実体化して車窓の風景をきょきょろしていた。
後部座席の2人がきゃあああっと歓声を上げた。
「あまりはしゃぐとくたびれるぞ。今のうちに昼寝しておけ」
鏡ちゃんがたしなめる。
「でもでも。ねえ、鏡ちゃん、これ見て」
どうやら2人は、お社の佐伯さんとラインでつながっているらしい。佐伯さんは重役出勤というかフレックスというか、今日は一日お社に残ってクロアチア組のサポートをしてくれる予定のようだ。
出発して1時間も経たないうちに、リューカのところに佐伯さんからメールが来ていた。
「佐伯さん、クロアチアに護衛を3人手配してくれはったそうでっせ」
「ええと、それ、例の裏社会の?」
「まあ、元はそうかもしれませんが、足洗った人たちやと書いてはります」
「さすが、うちのパパー。ブラボー」
魅月は父親をイタリア語呼びしている。
「うちも助っ人頼んでおきました」
「助っ人? リューカの知り合い?」
「あの辺一帯に一族散らばってるよって。うちら、そういう方面も得意なのいてますけん」
「そういうの?」
「都ちゃんやら紫ちゃんと同類の」
ああ、なるほど。この人はホタルが見える人間だった。親戚にもそういう血筋がいるのかもしれない。
その後の道中ずっと、みっちゃんがラインで佐伯さんとやり取りしては車中の一同に実況してくれていた。
「それがね、佐伯さんからのんちゃんにね、”オーロラ姫と白雪姫がどうして目覚めたか知ってる?”って送ってもらったの」
高度なセキュリティーで何と可愛らしい通信内容であることか。
「そしたら、のんちゃんの返信がね、”却下。代案寄越せ”って言うの」
「だから、”へたれ”って言ってもらったのよね」
白黒コンビにかかっては37歳イケメンの兄も形無しである。
「そしたらね、そしたらね」
何だかやたらにテンション高いな。
「”試したけど、効かなかった”だって」
2人はきゃっきゃと盛り上がっていて、鏡ちゃんはやれやれとため息をつく。きーちゃんは肩をすくめた。
私は何だかがっくりしてしまった。
兄貴、何やってんの。私、何やってんだろ。
私たち、何しに行くんだっけ。
とりあえずサービスエリアで休憩中に、編集長の大江さんに電話して事情を話した。大江さんは去年奈良京都の取材方々お社にもやって来て、一同を観察して帰った。ややこしいうちの状況もだいたい把握してくれているのだ。
「葵さんて、あの、やたら若いスットンキョウな人か」
スットンキョウ。この形容は兄貴の口からも聞いたことがある気がする。
「そ、そうです。柱の姫のお母さんです」
「容態が回復するのがいつかわからないってことか」
「とにかく南紀でうまく行けば、見通しが立つんですが」
「ふーん」
電話口の向こうでガサガサ音がする。多分また髪をわさわさかいているのだろう。
「とにかく、写真のデータは撮った端からキャプションつけてこっちに送れ。スケッチ的な記事でもいいから、毎日寄越せ。フィルムのカメラも持って行ってるだろうな」
「はい。2台」
「バックアップ撮っておけよ。フィルムは1本ごとにすぐこっちに送れ、雷起こしたり大雨起こす前に」
「うわ。はい。気をつけます」
去年、帯電してデジタルデータをすべておじゃんにした上に、デジカメの基盤まで破壊してしまった前科がある。くどくど念を押されても文句言えない。
「カメラを一台、あのキュレーターのお兄さんに渡して何でもいいから撮ってもらえ。あの人の写真は使える」
「はい」
「一週間後に記事を仕上げてこっちに送れるなら、その後、3、4日そっちに残ってもいい」
「ホントですか?」
「奈良か天橋立か、レポート記事1本。それと来週の書評とコラムもそっちに回す。パソコン、つながるんだろうな?」
情け容赦無いな。でも有難い。
「2日にいっぺんは通じるところに出て来るようにします」
「ま、あのメンツなら大丈夫かもしれないが。とにかく、気をつけて行って来い」
最後の言葉が何というか、温かいねぎらいに満ちて響いたのでちょっとびっくりしてしまった。私ってもしかして上司に恵まれているのかな。
年齢イコール彼氏無しのアラサーだけど、家業と本業両立して、怪しい仲間に囲まれ、眼福この上ない美形男性にも事欠かない。こんな人生もいいのかもしれない。
”都”
ドンちゃんが呼びに来た。
”どうしたの? 六甲のミネラルウォーターもう1本飲む?”
”いや。この裏手の緑地に湧水があるらしいのだ”
そう言えば、そんな案内板があったような。
”水、浴びていいか?”
ちょっと待て。今、ドンちゃんはどの程度フツウの人に見えているんだっけ。小型犬がわしわし吠えている。小さい子も口ぽかんと開けて、青い髪を長く垂らしたこの珍妙な風体の青年を見上げている。うん。でも大人には見えてないようだ。
”手早く済ませてよ。それと、こら、姿変えなさい。人のままそんな。待ちなさい!”
ホタルのお守りもなかなか大変だ。でも退屈しない。こんな人生も、まあ有りなのかもしれないな。
”そんな形じゃなくて。こら、もっと魚みたいになれないの?”
ああ。子供が2、3人集まって来てしまった。平日で良かった。徹夜らしいトラックの運ちゃんが目をこすっている。
”こら。鏡ちゃんに叱ってもらうわよ。水はねかさないの! 大人しく浸かってなさい!”
こんな光景を見たら大江さんなら喜ぶんだろうな。でも写真には写らないから記事にならない。記憶にしか残せない、他人様にはとても見せられない、そんなケッタイな経験ばかり積んで来た。まあいいや、こんな人生で。私は日向で伸びをした。
さて。そろそろきーちゃんも疲れて来ただろう。運転変わってあげよう。飛ばすわよ。
南のほの暗い森で(その3)
2016.02.04
那智勝浦の温泉旅館に到着した時には、はしゃぎ疲れた白黒コンビが後部座席でぐっすり寝ていた。しかしそれ以上にグロッキーなのはドンちゃんだった。高速を下りたところから熊野本宮の方へ山側に抜ける予定だったのだが、田辺辺りでとうとう石に戻ってしまった。急遽、海岸沿いを走るルートに変更して海を臨む宿に落ち着いた。
”殿。申し訳ない”
”いいさ。想像の範囲内だ。思ったより歪みが深刻みたいだな”
宿の裏手でお社からポリタンで汲んで持って来た桂清水をきーちゃんにかけてもらって、ドンちゃんはようやく勾玉形の水色の石から出て来た。
”今日はもう寝てろ。お前がセンサーだからな。明日働いてもらうから、温泉にでも浸かっておけ”
”真朱(まそお)殿。かたじけない”
「こいつがこの調子だと、こいつの弟分もみんなダメージあるんだろうな」
きーちゃんが地図を広げて周囲の地形を見ている。リューカはiPadで地質図と航空写真を呼び出して地図と見比べ始めた。
「ドンちゃんさんが、ここから北だとしんどい言うてはったでしょ。するとこの川の水源があかんのですか」
「あの子は十津川から連れて来たから」
私が説明する。そうだ。ドンちゃんはこんなに遠い深い森ところから、空気の汚い私の街までついて来てくれていたのだ。はるばる帰って来たのに故郷が荒れて、川に浸かることもできないなんて。
「しかし変な話だな。去年は確かにここの北で大規模な土砂崩れ起こって、集落にも被害が出ただろ。今年はそんなニュース無い。新宮と十津川のお宮さんにも聞いてみたが、目立った異常は無いらしい。ちょっとした崩落とか濁水なんかは続いてるそうだが」
きーちゃんには宮司さんネットワークがあるのだ。中にはけっこう見える人もいるし、こちらの事情をご存知の人もいる。
「あ、でも不動滝の坊さんが変なこと言ってたな」
「変って?」
「10日ぐらい前からずっと妙な山鳴りがしてたのに、3日前にぴたっと止まったらしい」
「だけど歪みが治ったってわけでもないわけよね、ドンちゃん見てると」
「そういうことだ」
きーちゃんと2人して首をひねっていると、リューカが鏡ちゃんに声をかけた。
「しんどそうですな。ちょっと横にならはったらどないです」
鏡ちゃんは布団をのべて桐花と魅月を寝かせていた。寝ていても2人は手をしっかり握ったままだ。車から抱いて下した時に離したはずだが、またいつの間にか手をつないでいる。魅月はこうして桐花に寄り添って守っているのだ。そんな2人の髪を、鏡ちゃんは優しくなでていた。
「ホントだ。ごめん、気づかなくて」
「オレ、そんなに顔色悪いか?」
「ううん。いつも通り綺麗よ。でも炎の色が」
鏡ちゃんをいつも取り巻いている炎のようなオレンジの光。ゆらめきながら金色からオレンジに温かく色を変えて傍にいる人間を照らしてくれる光。その光が褪せていた。
「きさ祖母さまはいつも桐花を庇ってくれてるからな。桐花にダメージあるとしわ寄せ被るんだろ」
「祖母さまって呼ぶんじゃないよ。年取った気がするだろ」
「80越して何言ってんだ。年寄りの冷や水すんな。風呂入って寝てろ」
きーちゃんをそんな会話をしていると、お社を守っている鏡ちゃんと言うより、きーちゃんのお祖母さんのきささんのようだ。鏡ちゃんときささんの人格ってどうなってるんだろう。2人の意識は完全に融合しているんだろうか? それとも交代制で二重人格のように表に出てくるのだろうか?
「大丈夫? 耳鳴りとか頭痛とかしない?」
「耳鳴り、というのとは違う」
鏡ちゃんは偏頭痛に悩む人みたいにこめかみに手をやっている。
「静か過ぎるんだ。何も、聞こえない」
「何も聞こえない?」
「ここはヘンだ。時間が止まっている。水脈が麻痺してる」
私ときーちゃんとリューカは顔を見合わせた。
「とりあえず、祖母さまはこいつらと寝ててくれよ」
「祖母さまって呼ぶんじゃないって言ったろ」
「いいから。ほら、布団敷いたから」
きーちゃんはブツブツ文句言っている鏡ちゃんを布団に押し込んだ。
「ほしたら、自分はドンちゃんさんとお風呂いただいときます」
「うん。俺はお寺さんに挨拶してくるよ。都、一緒に来るだろ?」
「そうね。私もお話しうかがいたいし」
というわけで三手に分かれた。
咲さんから預かったお手製のもろみ味噌だの自慢の肉巻きだのがズッシリ入ったクーラーバッグを肩にかけたきーちゃんと、ぽくぽく歩く。私は気になってたことを聞いてみた。
「ねえ。今日平日よね。桐ちゃんとみっちゃん、学校お休みでいいの?」
「ああ。あの2人は自主停学だ」
「停学!」
きーちゃんが言うには、桐花に何かと言って来る女子がいて、先週にパニックに近い興奮状態で何とバケツの水を桐花にぶっかけたらしい。魅月もとばっちりでびしょ濡れになった。廊下でみんなが見ている前でのできごとだったので、先生達も生徒も集まって衆人環視の中、水をぼたぼた垂らした2人が、その子に「寄らないで! あんた達、変! 気持ち悪い!」と怒鳴られた。
保健室の先生からタオルを受け取ると、魅月がきっぱり宣言した。
「桐花はストレスで最近ずっと眠れないんです。私も食欲ありません。しばらく休んで療養させていただきます」
先生方が止める間もあらばこそ、魅月はやや呆然としている桐花の腕を掴んでさっさと校庭を横切り、タクシーを停めて家に帰ってしまった。それが一昨日のこと。
「元々、都が帰って来て一緒にここに来る予定だったからな。風邪か何か理由つけて休むつもりだったのが、まあ、これ幸いと、と言うか堂々と、と言うか」
きーちゃんはため息をつきつつ、時々ちょっと噴き出しながら話す。
「学校からじゃんじゃん電話かかってくるし、家庭訪問したいと言うし、大変だった。おふくろが応対に出て、”ひどくショックを受けていて”とか何とか説明して休みをもらった」
「で、でもこんなとこに遠出してていいの?」
「まあ、気分転換とでも何でも言い訳つくさ」
きーちゃんは肩をすくめる。その気楽そうな顔に腹が立って来た。
「笑い事じゃないわ。みんなの前でバケツの水かけられるなんて。ひどい話じゃない」
自分がいじめられてた頃を思い出して、私は泣きたくなって来た。
「そうだが、桐花はそれほどショックじゃないらしいんだ。要するにその子、見える子なんだよ。小学校の横手の井戸水が濁ってホタルの集団が助けを求めて桐花のところに殺到した。その子は中途半端に見えるもので、それがどす黒い渦か何かに見えたらしい」
「あああ」
「水、水、というホタルの声も感知したらしいんだな。反射的にバケツに水汲んでぶっかけてしまった。すると、今度はその子のところに殺到した」
「あああああ」
その子も半狂乱である。魅月はその状況を利用したわけだ。
きーちゃんが言うには、その子の母親はサクヤの2つ上で、中学校でサクヤにいろいろきつく当たっていたらしい。要するに母親も見える人だったわけだ。理由がわかっているので、サクヤも言い返したりせず黙って甘受していた。それでもそんな学校生活居心地いいわけがない。かばってくれる子もけっこういたが、余計に風当たり強くなってしまった。
「みんな、その子に騙されてるのよ! 今に祟られても知らないから!」という感じのことをしばしば言われていたらしい。父親の失踪についてまで責められたらサクヤもうなだれるしかない。
「要するに、その子、タカ兄のことが好きだったんだな。タカ兄がまた、空気を一切読まずにサクヤの送り迎えとかするもんだから」
「あああああ」
「新さんのことを知ってるだけに、真剣にタカ兄を神社から引き離したかったみたいだ」
サクヤさんはしょっちゅう倒れながらも足りない出席日数をレポートなどで補って、どうにか高校を卒業した。高校卒業は新さんの遺言だったらしい。”明日にも結界た解けたらどうする。学歴なんか本当は大した意味はないけど、人生の選択肢は増える”。”ご先祖から引き継いだ使命があるとしても、自分の人生をあきらめることはない”。
「自分の人生」
銀の髪、金の瞳の姫君の末裔に、自分の人生なんかあるだろうか。選択肢なんて限られる。結界を守ることが最優先課題なのだ。
特に柱の姫は、結界の中心からほとんど動けない。いくつか大きな”節”を周囲の尾根などに調整して、限られた方向には数十キロ行ける場所もある。だが基本的には半径5キロの範囲で暮らしているのだ。それに結界の負担が重くて、中学も高校も体調のいい時に時々通うので精一杯。神社の敷地内で暮らしていけるように、咲さんはサクヤに和裁、茶道、華道を教えた。正式な免状は試験のようなものを受けに行かないといけないらしく、仮免状態らしい。それでも子供相手に教えたり、助手として咲さんの教室を手伝ったりしている。もちろん神社の仕事も忙しい。
「仕事してないと社会から引きこもっちゃうでしょ。かかわってないと、ますます偏見が強くなるかもしれないし。親がいつまでもいるわけでなし」と言うのが咲さんの弁。
サクヤさんが自分で立って生きて行けるように。
「いろいろ大変だけど、でもきーちゃん、美人の奥さんと美少年と美少女の子供2人、うらやましがられたりすることもあるんじゃない?」
私は励ますつもりで言ってみた。
「美少年美少女はともかく、サクヤは美人かなあ。あいつ、けっこう男顔だぜ?」
「えっ。サクヤさんの顔、好みじゃないの?」
べた惚れだと思っていたので、少なからずびっくりした。
「好みだとか好みじゃないとか、そんなこと考える前から一緒にいたからなあ」
それはそれで、すごい惚気なような気もする。
「ああ。でも匂いは好みかもな」
「匂い」
「うん。いつもいい匂いするだろ、サクヤ。スイセンとかヒイラギの花みたいな」
ものすごい惚気である。
「美人で、いつも花の香りがする奥さん、かあ。それにいつも優しいし。怒ったことなんかないんじゃない? サクヤさんて」
「いや、あいつの腹パンは威力あるぞ」
「腹パン」
次々に予想外の感想が出て来る。
「少食なのも、お姫様っぽいなと思ってたの」
「ええ? あいつ、食べられないものはそりゃあるけど、食べられるものに関してはかなり食い意地張ってるぞ」
「食い意地」
これほどサクヤさんとそぐわない言葉があろうか。
「大根、セロリ、芋栗カボチャ。ソラマメにひよこ豆。ああ、アスパラもか。鯛にひらめ。酒はいくらでも飲むし」
何だか私の中のサクヤさんのイメージががらがらと崩れてゆく。
美人で優しくて控えめで病弱で。そんな女性だからタカちゃんに選ばれたんだって思ってた。私はひとつも当てはまらない。だから仕方ないんだってあきらめてた。
「都、おまえさ。おまえのイジケた卑屈さは面白いし、それはそれで可愛いからいいと思ってたんだけどさ。勝手なイメージで羨ましがるのは、サクヤに失礼じゃないか」
「え」
「サクヤが高校の時、理系だったって知ってたか?」
「ええ?」
「俺、あいつが新さんの遺言のことを言うんで、聞いたことあるんだ。あれ、まだサクヤが中2かそこらの時だ」
その時、きーちゃんは小学校低学年。
”もし結界が解けて自由になったら何がしたい?”
今だったらとても聞けない。残酷かもしれない質問だ。
「あいつ最初に海が見たいって。それから山に登ってみたいって」
5歳で柱の姫になったサクヤさんには見果てぬ夢だ。
「そんで、大学で物理か工学やって、ロケット作りたかったんだってさ」
「ロケット!」
「今もよく、宇宙関係の本とか読んでるよ。宇宙開発の記事とかスクラップしてるし」
まったく予想外だった。
「あいつにしたら、お前や瑠奈が羨ましいと思うよ。お前はあいつのあこがれなんだよ」
頭がしびれるようなショックだった。
大学に行って働く傍ら、日本中飛び回って結界の修理。それもこれも柱の姫様のため。勝手に自分が犠牲になっているような気持ちでいた。人の苦労も知らないで、みんなに守られていつも綺麗で優しくて、とひがんでた。
羨ましい? あこがれ?
私こそ、みんなに守られたかった。お姫様みたいに大事にされて、美しく微笑みたかった。タカちゃんに選ばれたかった。
「な。勝手に羨ましがられるって腹立つもんだろ?」
きーちゃんはしれっと言う。口惜しい。さすが中学校の教師である。きっと生徒の話を丁寧に聞いて、自分の意見を押し付けない、いい先生に違いない。
「おまえはそれでいいんだよ。ひがんだりイジケたりしながら、お前はよくやってるよ」
弓道でそれなりの成績を残した。記事もそれなりに好評みたいだ。
私、やれてるのかな。なりたい自分になれてるのかな。
「あんまり自分を卑下してると、自分を認めてくれてる人に失礼やぞ」
同じことを満叔父さんにも言われたことがある気がする。
「もっと自分に自信を持って、自分に誇りを持て」
自信かあ。私に一番無いものだ。
「ま、その年で自信満々で自分大好きなのも気持ち悪いしな。要するにそのままでいいと思うぜ。満足したらそこで終わりだもんな。イジケながらそのままがんばれよ」
きーちゃんがニヤニヤしながら言う。憎たらしい。しれっとカウンセリングされてしまった。
いつも”私なんか”と思うくせがついている。今まで勝手にひがんで、サクヤさんとゆっくり話したことが無かった。帰ったらいろいろ話してみよう。
まだタカちゃんの話はできないと思うけど。
イジケながらでも、私にもできることがある。タカちゃんが残していったものを守るために。タカちゃんが私に残してくれたささやかな自信を守るためにも。そのうち、自分で自分を褒めてやれることが見つかるかもしれない。うん、イジケながらがんばって行こう。
とりあえずここを修繕して、葵さんに起きてもらって、兄貴の話を聞かなくちゃ。
兄貴の顔を見るのが楽しみだ。
南のほの暗い森で(その4)
2016.04.01
これは何という色だろう。何という光。私が今見ているのは、何が発しているエネルギーなのだろう。
中学校の理科の時間に色の原理を習った。赤い光は赤く見える波長の光。でも赤く見える物体は、赤の補色の青緑の光を吸収している。私たちには青緑を除いた波長の光が届いて赤く見えるだけなのだ。
ではドンちゃんの青緑の髪は? 赤い色を吸収しているの? だからドンちゃんは赤い焔をまとった鏡ちゃんに懐いているのかしら。青い光は赤い光よりエネルギーが強いのだと習った。でも赤い光は深く遠くまで届く。だから鏡ちゃんは地下深くに守られた赤い石の精霊なのかしら。私の金と銀の髪は? 金の補色は何色なの? 私の髪はどんなエネルギーの光を吸収しているの?
その光の帯に包まれて、私は言葉が出てこなかった。聖堂のような静謐な空間。メイさんの工房の高い天井から様々な色に染められた布が下げられて、明り取りの窓から降り注ぐ西に傾いた金色の日の光を透かしていた。光の粒子が見える。私は布を吊り下げた高い天井を見上げて、圧倒されてただぐるぐるとエネルギーと波長について理科の知識を復習していた。色とりどりの布を通した光が私の周りで溶け合って温かい白になる。ここにすべてがある。ここにひとつの世界がある。涙がこぼれそうになった。
「毎度のことながら、何というかすごいな。メイさんの作品は」
「な、すごいですやろ。毎晩寝ずに織って染めてを繰り返しとおんや。それこそ取り憑かれたみたいに」
「ただ平坦な布地でこれだけ迫力あるって、うん、やっぱりすごい。あかんな。俺、一応国語の先生やっとるのに、こんな語彙力じゃ落第や」
きーちゃんと、不動滝の住職さんが作品の間をゆっくり歩きながら話している。
「すごいって、ええ誉め言葉やな。麒治郎さん、ありがとう。ほやけど、文才はやっぱり本職ライターの都ちゃんに負けるみたいやね」
メイさんがいい香りのするお茶をトレイに載せて工房に入って来た。編んでも腰まで届くまっすぐな髪は、彼女が作った布の群れを透かした光と同じ。白く輝いている。
「はは。ライター2年生でも餅は餅屋やな」
住職さんがお茶を配りながら笑った。
「都ちゃん、ようおこし。都ちゃんが去年書いてくれた記事のおかげで、工房に問い合わせがぽつぽつ来るようになってな。今度、秋に奈良のギャラリーで小さいけど個展やることになったんよ」
「個展! すごい! おめでとうございます!」
メイさんはにっこり笑った。その綺麗な笑顔はとても87歳に見えない。近くでまじまじと見つめても年齢不詳だ。
「おおきに。都ちゃんのおかげや、ほんまに。個展やら初めてでびっくりすることばっかりやけど、やっぱり嬉しいもんやね」
「でもメイさん、大丈夫なんか。そんな人目につくとこ来て」
きーちゃんが心配する。年齢不詳のミステリアスな織物作家、というイメージで売るにしても、都市で個展となれば露出は避けられない。
「うふふ、大丈夫や。影武者頼んださけ」
「影武者」
「メイさんの頼みやもん。よう断れへんやん。やけど、何着ていこ。何話したらええんか、もう頭真っ白や」
工房の助手の梓さんが、甘夏のゼリーを入れたガラスの器をテーブルに並べた。いい香りだ。
「ひゃかいうちにおあがり。これもメイさんがこしらえたんやさけ」
梓さんはふっくらした色白の頬に、ピンクゴールドの細い縁の老眼鏡をかけたふんわりした人柄がそのまま現れた笑顔を見せる。とても波乱万丈な人生を送った女性に見えない。10年ほど前、嫁ぎ先でつらい目に遭って身体を壊した挙句、離婚して子供の親権も取られてボロボロでここに帰って来たそうだ。傷ついた心にこの布たちの光がどんなに染みたことだろう。
「個展までにこの布でいくつか服作ったらええやん。梓さんには何色がええかな。案外、こういうキリッとした花藍が似合うんやない」
「あれ。こら、痩せて見えそうや。おつむも良う見えるんとちゃうかな」
2人の女がけろけろ笑う。
メイさんの本名はメズという。生まれた時から真っ白な髪。時々、真っ赤に見える明るい茶色の目。その特異な風貌のせいで、5歳まで閉じ込められて育ったそうだ。それを、この不動滝の先々代の住職夫婦が引き取った。小学校に入ったものの、成長が遅くて12歳になってもいつまでも5,6歳にしか見えなかった。中学校に入った途端に今度は1年で身長が30センチも伸びて、大人のような姿形になってしまった。
メズとは牛頭馬頭の馬の方。地獄の獄卒の名前である。寺の養女になった時に、”メイ子”と改名した。それでも小さな集落のことだ。実の祖父母に厭われてつけられたこの酷い名前をいつまでも覚えていて、ぶつけてくる年寄りがいる。この辺りは坂上田村麻呂に蹴散らされた鬼の残党が逃げ込んだという伝承がある土地なのだ。
”鬼の血が出た”
メイさんの母親が不義を疑われ、一方的に離縁されたそうだ。メイさん自身は寺に来る前の記憶があまりない。それでもお節介な村の衆があれこれ吹き込んでくれた。戦後で混血児や外国人に対する偏見が強かった時代でもある。誰もメイさんと一緒になろうという男は現れなかった。先代も今のご住職も養子である。
メイさんの風貌は、鬼の血ではない。銀の髪、金の瞳の姫の血筋だからだ。3人の妹姫の末っこの末裔。紀伊半島の中央を走る亀裂を鎮め水銀朱を求めて、都から南下した親族が熊野や伊勢志摩に散らばった。時々そのご先祖の血が濃く出る子供がいるのだ。メイさんの場合、私やタカちゃんのように地震や嵐を呼ぶわけではない。ただ、数年に一度昏睡状態になるだけだ。そしてその度に時間が止まったり、急に進んだりする。
「寝てる間、竜宮城で遊んでるんやと思うわ。目が覚めた時、あまり覚えてないんやけど、ただすごく綺麗で幸せな夢を見てる感じやのは覚えとる。玉手箱開けた覚えは無いんやけどな」
メイさんが話してくれたことがある。
「この人生は、竜宮城で遊んだツケなんちゃうかな」
そうつぶやくように言った横顔がとても綺麗だった。
「次に竜宮城行ったら、もう戻って来られへんかもしらん」
自分自身の子供はいないけれど、メイさんは先代と当代の住職を育て、寺を守った。その傍ら、桑を育て、蚕を飼い、糸を紡いで草木で染めて、布を織った。その手仕事の中に何を吐き出していたんだろう。ひとりでひっそり続けて来た工房に、助手として梓さんを迎え、今では月1回ずつ梓さんは名古屋と大阪で織物教室を開いている。
「作品もお弟子さん達も、あがらの子供やっしょ」
2人の子供の無い女性が、日々、このエネルギーに満ちた光を生み出している。
「リューカさんにも御礼言わんとあかんなあ。あんなええ写真撮ってもろて」
去年の秋、私が書いた記事を飾ってくれたのはリューカの写真だった。布の織りなす光と影。工房のこの空気を見事に捉えていた。出版社には、メイさんと梓さんの織物とともに、カメラマンについても問い合わせが相次いだものだ。うちの雑誌の観光ルポに度々現れる年齢不詳性別不明な美人が撮影者であることはマル秘だった。
「一緒に来てるんですけど、ドンちゃんがへばっているのでついててもらってるんです」
「ほやの。残念やわ。用事済んだら、絶対また寄ってや」
「はい」
「ほやけど、今回の用事は何なん」
「まだ、ようわからんのです」
きーちゃんがため息をつく。
「ドンちゃんも鏡ちゃんもへばるぐらい、何かえらいことあんのやろ」
「おかはん、言うてらでしょ。水が何か変やって」
住職がメイさんに聞く。
「ほにほに。何やこう、ちゃうのよ。なあ、梓さん」
「ほやほや。うまいこと言えんけど、何やこう、ちゃうんです」
先週ぐらいから、同じ染料、同じ水を使っても糸の発色が違うらしい。2人は絹糸を持って来て見せてくれた。どちらも乾燥させた3年もののアカネの根を砕いたもので染めたのだが、1枚は鮮やかな赤。もう1枚はくすんだ茶色だった。
「どっちも同じ袋から出したアカネなんよ。よう混ぜたあるからおんなじはずや」
「先週は煮出した汁に漬けていっぺんでこの赤や。そやのに、おとついは3回漬けてもこれや」
「水質が変わったってこと?」
「お茶の味も何やこう、ちゃうしな」
「ちゃうちゃう」
鏡ちゃんがこめかみを押さえながら言った言葉を思い出した。
”時間が止まっている。水脈が麻痺している”
考え込んでいると、柔らかいものが肩を包んだ。
「都ちゃん。これ、持っていき。薄いけどぬくいさけ。詰んだ目えで織っちゃあから山道でもひっかからんし」
「でも、これ、絹でしょ。そんな、勿体無いです」
「何言いよんの。きつかいない。これは鏡ちゃん、こっちは桐ちゃん、ほいでこれがみっちゃん」
メイさんが、朱色、薄紫、光沢のあるパールグレーの長方形のストールを並べた。私には桐花のより少し青みの強い紫。
「都忘れの色。それとドンちゃんの髪の色や」
メイさんにはドンちゃんはどんな姿に見えてるんだろう。
「さっちゃん達の分も用意するさか、帰りに寄ってや。ドンちゃんにも会いたいし」
「ええ。必ず」
「気いつけえよ。都ちゃん、去年もやにこいことしちゃあし」
私は赤面した。去年は気張って雷呼んでしまったのだ。
「これ、持っとき。宿でおあがり」
梓さんと住職さんと3人がかりで柑橘類いろいろ、おやつにサキイカ、お酒いろいろ待たせてくれた。
「車で来れば良かったな」
きーちゃんが笑う。咲(えみ)さんのおみやげを全部出して空になったクーラーバッグに、ぎゅうぎゅうに詰め込んだ。
寺からかなり遠く離れても振り返ると、梓さんとメイさんが手を振っていた。
もし、結界が解けたら。メイさんの時間はどうなるんだろう。きさちゃんは?
ドンちゃんは竜宮に帰ってしまうのだろうか。
お役目が解けて、それでも私たちにホタルは見えるんだろうか。
ぽろっと涙がこぼれ落ちて自分でもびっくりした。慌てて、ストールで顔を隠して、これをメイさんからもらったことを思い出してまたぽろぽろ涙がこぼれてしまった。
西に来ると涙腺の調子が狂ってしまう。
「何とかせんとなあ」
きーちゃんは、私がべそかいてるのを気づいているのかいないのか。夕焼けの鮮やかな空を見上げて、ぽつんと言う。
「水がおかしいままやと、メイさんら、個展に出すもんもよう作れんやろ」
「うん」
「どんべえも祖母ちゃんも伸びてるし、俺らががんばらんとな。葵さんが寝たままなんも困るし」
「うん」
「ま、その前に温泉と夕飯や」
「うん」
そうだ。がんばらないと。ごちゃごちゃ考えるのは後でいい。今は私に出来ることをするだけだ。
「夕飯、マグロと牛の御膳らしいぞ」
「うん」
どうやら、きーちゃんは食べ物の話をしたら私が元気になると思っているらしい。まあ、効果はある。何だかお腹がすいて来た。
「ほれ」
きーちゃんが私の口に何か放り込んだ。甘い。
「何これ」
「おっさん(お坊さん)が持たしてくれた黒飴。ここの名物や」
そう言いながら自分もひとつ口に入れる。
「ご飯前なのに」
「かまへん。宿までまだだいぶ歩くんやし」
「うん」
口の中でじんわり濃い甘みが広がった。甘い。でも甘みだけじゃない、いろんな味がする。こういうの、滋味というのだろうか。
西の空の残照の中に金星が光っている。見上げると東南のちょっと高いところに木星と火星。西南にスピカとアルクトゥールス。この星たちには、1000年もおとついも変わらないんだろうな。竜宮さまにとっても。右往左往して泣いたり笑ったり忙しないのは人間だけだ。それでも私たちは幸せになりたい。
だから今出来ることをしよう。なるようになるし、なるようにしかならない。ケセラセラ、だ。
きーちゃんのポケットでケータイが鳴った。ディズニーの”星に願いを”のメロディ。
「桐からだ」
ケータイを開く前に言い当てるところを見ると、着信音を設定してあるのだろう。
「目、覚ましたらしいな。おみやげ屋見に行っていいか、聞いて来た」
大きな手でポチポチ娘に返信を打つきーちゃんを見ていると、何だか笑えて来て仕方ない。
「ね、サクヤさんのは何」
「へ? 何の話や?」
「ケータイの着信音」
きーちゃんが赤くなった。
「何もない」
「ウソ。教えてよ」
「知らん」
早足で先に行こうとする。後で桐ちゃんとみっちゃんに聞いてみよう。何だろう。桜さんの旦那さんの光(みつる)さんから始まって、住吉の面々はジャズファンだ。亡くなった新さんはプロのジャズピアニストだったし、禰宜の山本さんはベース、きーちゃんはドラム。トンちゃんは山本さんに習って、背伸びしながらベースの練習をしている。だからジャズに違いない。マイ・ファニー・バレンタインかな。ワルツ・フォー・デビーかな。それともムーン・リバー。
あの頃、ケータイなんか持ってなかったけど。でももし持っていたら。もし、タカちゃんからの着信を知らせる曲をひとつ選ぶなら。
フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーンがいいな。私を月に連れてって。
私を月に連れてって。星たちの間で遊んでみたいの。木星や火星の春がどんなだか見せて。
あなたはずっと私の憧れ。こんなに憧れ慕うのはあなただけ。お願い、消えないで。
つまり、あなたを愛してるの。あなたはきっと、私のことわかってくれる。
お願い、消えないで。
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