philosophical chaosmos

八百万のものを哲学する
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精神と物質:差異共振認識/連続同一性認識の二重構造の人間

2006-12-31 02:26:13 | プラトニック・シナジー理論
これまで、自己認識方程式i*(-i)⇒+1を、作業仮説的に転用して、存在方程式として使用している。そして、左辺にフッサール現象学の志向性を見ているが、また、志向性は、不連続的差異論から連続的同一性の志向性であると、これまで、また、作業仮説にして、考察・検討を続けている。そして、この連続的同一性志向性を、現実態(エネルゲイア)、即ち、エネルギーと考えている。つまり、認識/存在方程式の左辺i*(-i)を可能態(デュナミス)=潜在態(ポテンシャル・エネルギー)と見て、この賦活・活性化を現実態(エネルゲイア)と考えているのである。
 そして、連続的同一性志向性=現実態(エネルゲイア)=エネルギーが、現象・物質化であると、これも、作業仮説しているのである。自己認識・存在方程式の左辺i*(-i)は、即非態、対極(太極)態であり、デュナミスであり、零度エネルギーである。これは、虚エネルギーである。【問題は、連続的同一性志向性エネルギーをどう考えるかである。これを実エネルギーとしていいのか。それとも、虚エネルギーの変容と見るべきなのか。ここでは、第2段階の1/4回転が生起すると考えているのである。だから、連続的同一性志向性エネルギーとは、次元変換エネルギーでもあることになるのである。垂直の捩れをもたらすエネルギーである。そして、これは、現象・物質を発現するのである。だから、単純に見ると、これは物質エネルギーとなるだろう。ここは実に微妙な領域である。即非態は可能態・潜在態・零度エネルギーである。これが、第2段階の1/4回転で、連続的同一性エネルギーに転化するのである。このエネルギーの解釈は2通りある。一つは、虚エネルギーに属するというもので、一つは、実エネルギーに属するというものである。ここでは、実エネルギーに属するものとして考察していきたい。つまり、虚エネルギーから、次元変換を介して、実エネルギーに転換したとここでは考えたい。】この虚エネルギーが次元変換して、実エネルギーとしての連続的同一性志向性エネルギーになって、現象・物質が発現すると考えられるのである。以上が、これまでの検討の簡単な整理である。結局、認識即存在なのである。だから、現象界は、認識即存在に満ちていることになるだろう。換言すると、物質的認識・存在に満ちているということである。つまり、唯物現象界である。
 とまれ、ここで、心身二元論を考えよう。以上のように考えると、心即身体となるはずである。そして、これが、一般に生命体・生物の様態ではないだろうか。そう、動物の場合、心即身体が本能として作用していると言えるだろう。
 しかし、人間の場合は、これに当てはまらないと言えるだろう。認識と存在が即ではなくて、ズレ・間(あいだ)・亀裂、即ち、差異があると言えよう。つまり、動物や植物の場合は、認識即存在であるが、人間の場合は、認識即非存在である。確かに、動物・植物の場合、根源は、人間と同様に、即非態である。即ち、i*(-i)であると考えられる。しかしながら、連続的同一性化して、i→-(-i)となり、連続的同一性存在となる。いわば、動物・植物の「自我」になるのである。しかしながら、人間の場合は、連続的同一性志向性の結果は同じであるが、しかし、根源がおそらく異なるのである。即非態が動物・植物と異なるのである。この問題ついては、認識と連続的同一性の問題として考察していきたい。
 何故、人間において、他の生物と比べて、認識、意識、知が顕著なのだろうか。ゲノムを見たとき、生物間では、それほど相違がないように見えるのであるが、この明白な違いは何か。ここで、作業仮説というか、思考実験をするのであるが、問題の起因は、やはり、メディア界(メディア内在超越空間:メディア内超空間)にあると推測される。メディア界は、

差異1:差異2:差異3:・・・:差異n (:は即非共振の記号)

と図式化され、即非共振している様相である。問題は、この諸差異、複数差異の、連結である。例えば、差異1と差異2が連続化するとしよう。しかし、この連続化に対して、差異3がそれを認識するとしよう。すると、差異3:(差異1=差異2)という図式となるだろう。(尚、=は連続化である。)この考え方を敷延すると、差異全体の即非総体があり、それに対して、差異の連続化=現象化という事態があり、いわば、即非認識様相と差異連続様態の二重性・二層性がここに想定できないのかと思われるのである。端的に言えば、メディア界と現象界の二重・二層性である。原認識界/現象界(認識=存在)の二重・二層性である。ここで、二点について、説明しないといけない。一つは、メディア界のもつ認識性についてであり、一つは、人間と他の生物の違いについてである。
 先ず、メディア界の認識性についてであるが、これは、永遠界であり、いわば、全知の世界である。ここでは、志向性は、連続的同一性ではなくて、差異共振的志向性であり、差異と差異は相互に他者を理解しているのである。では、このメディア界の認識とは、存在とどう関係するのだろうか。ここでは、知即存在である。だから、現象界の認識=存在と似ているのである。しかし、質が異なると考えられるのである。メディア界の認識とは、差異共振認識であるのに対して、現象界の認識とは、連続的同一性認識であるのである。そして、また、メディア界は、永遠界であり、また、無限界であるから、現象界の時空性は超越しているのである。いわば、超時空としてのメディア界・メディア空間なのである。ということで、メディア界的認識は、超時空的認識、差異共振的認識であることがわかった。
 次に、人間と他の生物の相違であるが、人間は、メディア界認識を他の生物に比べて、決定的に恵まれているのである。つまり、一般に生物では、メディア界から現象界への転化の場合、差異の連続化が発現して、生命体となり、差異自体は、いわば、連続的同一性に同化され、飲み込まれているのである。しかし、人間においては、メディア界が過剰に存しているのであり、差異が連続・現象化しても、すべて差異が連続・現象化するのではなく、連続・現象化されない差異(メディア界・差異共振界・即非態)が賦活されているのである。この連続・現象化されない差異が、人間の認識衝動であると思われるのである(作業仮説)。そうすると、この連続・現象化されない、不連続的差異の共振作用の動態を表す用語が必要なように思われるのである。零度エネルギーでいいのかもしれない。あるいは、虚エネルギー。とまれ、認識エネルギーを意味する用語が必要なのである。確かに、連続的同一性志向性エネルギーは、認識即存在であるが、それは連続性認識エネルギーなので、ここには当てはまらないのである。つまり、差異認識エネルギーの用語が必要なのである。あるいは、即非認識エネルギーの用語である。
 少し角度を変えて見ると、連続性認識エネルギーは身体・肉体になるのである。人体である。そして、十分に言うなら、連続性認識をもった身体・肉体である。これは、動物的身体である。しかるに、この動物的身体を形成しない不連続性認識のエネルギーが人間にはあると考えられるのである。そして、これが、人間本来の認識衝動であると考えられるのである。創造衝動、宗教衝動、芸術衝動も、この認識衝動に入ると考えられる。これが、人間を他の生物から区別するメルクマールと言えよう。そして、これを精神と呼んでいいのである。私が心身体と呼んだものも、ここに入ると言えよう。そう、人が「愛」と呼ぶのは、やはり、ここを指していると見るべきである。しかし、「愛」とは、実は、連続性とつながっているので、不適切であると私は考えている。共振倫理、共倫とでも言うべきではないかと思われるのである。共感性と呼んだものも、ここを指すのである。また、私がリリシズムと呼ぶものもここを指しているのである。(現代のポップスは、このリリシズムが消えている。連続性・自我の似非音楽になっているのである。)とまれ、差異即非認識動態を意味する用語として、シナジーないしシネルゲイアを暫定的にあげておきたい(日本語では、共振態か?)。すると、人間は、シナジーとエネルギーの二重ダイナミクスをもつのである。そして、これは、シナジー認識/エネルギー認識の二重性である。
 以上から、人間の特異性、即ち、差異認識性と連続性、あるいは、シナジーとエネルギー、共振態と連続態の二重・二層性が明らかになった。これは、伝統哲学では、無限と有限、永遠と時間、等々のパラドクスとして延べられてきたものである。キルケゴールがこれを的確に把捉していると言える。そして、ジョルダーノ・ブルーノも、その内在超越的一性の哲学で、これを説いていると考えられよう。
 最後に、以上の視点から、近代化について考察してみよう。直観で言えば、近代主義は、以上の二重性認識の混同があるのである。即ち、差異共振認識と差異連続認識の二つが本来あるのに、近代は、後者の認識を前者にも適用して、結局、連続認識中心主義になり、差異共振認識を否定・排除・隠蔽したのである。これが、近代合理主義であり、唯物科学主義である。近代の「理性」とは、連続的同一性の「理性」に過ぎず、また、カントの超越論的形式に過ぎず、結局、それをヘーゲルが手品的に、精神の衣装を与えて、弁証法的合理化したのである。ヘーゲルの精神とは、差異共振認識衝動を連続化して、それを連続認識に統一したものと考えられる。それは、反動的全体主義認識である。ファシズムである。そう、ナチズムの思想的淵源は、ヘーゲルだろう。

「暗殺リスト」:末世と神のヴィジョン・エネルギーの交替

2006-12-25 00:56:08 | プラトニック・シナジー理論
フィクションで、私の「暗殺リスト」があるが、その中には、たくさんの人間が入ることになる。否、人間だけでなく、神も入る。この世、この人間界を造った神は暗殺するに値するだろう。狂気のリア王が、恩知らずの娘を生んだ自然の鋳型を破壊してしまえ、絶叫するが、その破壊的衝動は、理解できるものである。愚劣な人間を造った神は破壊するに値するだろう。
 とまれ、この思想は、まったく新しくなく、グノーシス主義である。それは、この世を邪悪な神が造ったと考えたのである。グノーシス主義が発生するときは、当然ながら、末世、「カリ・ユガ」である。思えば、聖書にも、創世記にも、邪悪な人間を滅ぼすために、大洪水を起こしたという有名なノアの箱船の話がある。人間が駄目になるのは、神の原因というよりは、原点にあった内的ヴィジョンが衰えるためであろう。内的ヴィジョンとは、エネルギーをもつヴィジョンであるから、創造的である。だから、内的創造エネルゲイア・ヴィジョンである。しかし、このエネルギーは、単に物質エネルギーではなくて、イデア的エネルギーである。造語して、イデルゲイア、イデルジー等を考えよう。もっとも、メディア的エネルギーだから、メデルゲイア、メデルジーでもいい。
 とまれ、この根源的ヴィジョネルギー(ヴィジョン+エネルギー)の喪失が、末世、「カリ・ユガ」を生むと言えるだろう。つまり、これは、神のエネルギーの新陳代謝の問題のように思える。最初は、神のエネルギーは新鮮であり、人間は、その神的ヴィジョンに基づいて、社会・文化等を構築したと考えられる。しかし、この神のエネルギーが衰えるにつれて、社会は堕落し、腐敗するのである。思うに、その末世において、新たな神のエネルギーが発すると言えるだろう。おそらく、ここには、力学があるのである。神のエネルギー力学があるのである。神のダイナミクスである。今日、世界、日本を見ると、これまで、文明を形成した根源的ヴィジョンが衰退・老衰して、カオスとなっている。新しいヴィジョン、新しい神的ヴィジョンが必要なのである。
 もっとも、力学であるから、科学的に説明できなくてはならない。神的科学、神のサイエンスである。これに関しては、これまで、論じてきたが、簡単に言えば、西洋文明の神のヴィジョンが衰退したということだろう。つまり、キリスト教の神のヴィジョンがもう、衰退したということである。というか、とっくに衰退したのである。キリスト教の理性と古代ギリシアの理性が結合して、近代理性が生まれた。しかし、近代理性は、近代合理主義となり、いったんは、薔薇色の未来を約束したが、今日、不信の状態となっているのである。
 理論的には、プラトニック・シナジー理論が明らかにしたように、東西文明は、統一されるのである。西洋は、内在的に否定された東洋を求めてきたし、東洋は、近代西洋文明への不信から、東西超克を希求してきて、東西が一致したのである。
 西洋文明の原理である二項対立・優劣二元論は、連続的同一性の原理であり、それは、差異を徹底的に排除するものである。この差異否定のヴィジョンが西洋文明の原動力であったと言えよう。それは、一神教のヴィジョンである。唯一の神以外の神(差異、他者)は認められないという発想である。この一神教ヴィジョンが、今日、行き詰まり、衰退したのである。
 この連続的同一性の原理であるが、それは、思うに、不連続的差異論で言うメディア界の必然性によって発生すると、今、私は考えているのである。即ち、メディア界は、本来、差異共振シナジー様態であるが、それが、内界から外界へと志向すると考えられるのである。喩えて言えば、種子の中の胚芽が、外部へと展開・発展する様態を考えるといいだろう。英語で言えば、inからoutへの転化である。メディア界が内部であるとすれば、それが、外部化するのが、連続的同一性化である。そして、これは、そのまま、現象化であると考えられるのである。つまり、今の時点では、連続的同一性化=現象化である。しかしながら、要注意なのは、この内部から外部という現象化事象は、単に同一次元で生起するのではないということである。この点が、おそらく、最高最大に注意すべきポイントである。つまり、内部から外部への転化とは、次元変換でもあるということである。プラトニック・シナジー理論は、これが、虚軸から実軸への転換であると明らかにしたのである。虚数から実数への変換なのである。虚次元から実次元への変換なのである。これを、私は、内在超越性という視点で述べているのである。一番、分かり易いのは、ガウス平面で、実軸と虚軸の直交座標を考えることである。だから、精緻に言うならば、内部は、超越的内部、超越的内界ということになるだろう。
 だから、連続的同一性化とは、超越的内界から時空間的外界への転化ということになるだろう。この時のエネルギーが、つまり、連続的同一性のエネルギーが、現象界の物質エネルギーではないだろうか。先の考察から言えば、否定的志向性である。⇒(-)である。これは、差異・他者を否定するエネルギーである。そして、心身二元論が生起するのである。心と身体の二元論である。そして、一神教、ユダヤ/キリスト教(イスラム教の一部)は、この現象化の終局と言えるだろう。
 ところで、遺伝子とは、この連続的同一性の多種多様な原型のことではないだろうか。これは、巨視的に見れば、生物に限らないだろう。鉱物の原型があるのであり、それも鉱物の遺伝子と言えると思うのである。結局、形相の問題である。形質も形相に入るだろう。つまり、超越的内界に、「遺伝子」・原型・形相があるのであり、それが、否定エネルギーの対発生によって、現象様態化するのではないだろうか。つまり、超越的内界における対・連続的同一性エネルギーの発生が現象化を施行するということである。そして、帰結的に一神教が生まれるのである。【では、多神教・自然宗教の発生は、どういうことなのか考える必要があるだろう。多神教は、一神教の発生させる基盤であるように思えるのである。イシス・オシリス神話(神話もかつては、宗教であったと考えられる)から、太陽崇拝が生まれて、ファラオー崇拝が発生したと考えられるのであるし、また、古代オリエントの神話にも、同様なことが確認できるだろう。】
 では、先にも考察したが、脱現象化、差異への回帰、トランス・モダンの力学の発生原因は、どこにあるのかということになるだろう。
 ここでは、連続的同一性・対エネルギーの発生領域である超越的内界空間次元を考えればいいだろう。ここは、零度共振領域である。ここには、零度のエネルギーがあると考えられるのである。この零度のエネルギーが、対の連続的同一性エネルギーへと転化するのであり、これが、言わば、エネルゲイアと言えるだろう。零度のエネルギーとは、デュナミス(可能態)と言えるのではないだろうか。
 さて、発生した連続的同一性の対エネルギーであるが、当然、それは、消耗して、消滅するだろう。そう、現象界に見られる、生成消滅(生死・死生)は、このエネルギーの生成消滅によると言えるのではないだろうか。すると、理論的には、当然、再び、零度に回帰するだろう。このゼロ度回帰が、差異共振シナジー様相の形成を意味するのではないのか。
 思うに、連続的同一性エネルギーが作用とすると、それに対する反作用があるだろう。それが、差異エネルギーではないだろうか。これは、単純な力学ではないだろうか。連続的同一性エネルギーが消費される。すると、否定・排除・隠蔽・抑圧されていて差異のエネルギーが発動するということではないのか。数式で考えよう。
 i*(-i)が超越的内界の差異共振シナジー様相である。そして、i→(-)(-i)⇒-1となる。これが、連続的同一性の現象化である。ここで、*を零度ないし零度差異共振様相と考えると、*が→(-)となるのが、連続的同一性のエネルギーないし否定志向性である。それに対して、当然、反作用的に、→ (+)の動態が発生すると考えられるのではないだろうか。この→(+)は、肯定的志向性、即ち、差異エネルギーであり、結果として、差異共振シナジー事象を形成するのではないか。
 では、もしそうならば、どうして、最初に、→(-)の否定的志向性が発生し、次に、→(+)の肯定志向性が発生するのだろうかという疑問に対する解明が必要である。思うに、これは、内界から外界への転換力学の必然ではないだろうか。内界の様相を否定して、外界が発生するのではないだろうか。i*(-i) という内界の様相に対して、→(-)という否定的志向性が発生して、他者・差異を否定して、連続的同一性の外界・現象・物質が発生するということではないだろうか。内界を否定しなければ、外界である現象は発現しないと考えられるのである。
 では、さらに、どうして、外界・現象化する必要があるのか、ということになる。永遠・無限の世界からどうして、有限の世界に移行する必要があるのかである。というか、有限化の力学の問題である。
 ここで、フッサールの志向性の理論を敷延的に援用して考察しよう。主体から他者への志向性とは、実際は、主体の連続的同一性の投影であるということである。(これが、フッサール現象学の一つの側面である。)結局、志向性においては、他者・差異は、他者・差異自体としては、認識されずに、主体の連続的同一性のおいて認識されるということである(参照・カントの超越論的形式と物自体)。そして、これが、現象化である。そして、自我(無明)の発生である。自然は、思うに、人間を愚者fool(タロット・カードで、ゼロがフールなのは、意味深長である)として創造したことになるのである。知的盲目として人間を創造したのである。(おそらく、これは、他の生物にも言えそうである。ただし、言語を使用している分、人間の方が、さらに愚者・痴愚者である。ホモ・サピエンスという言葉は、恥ずかしいほどの傲りの命名であろう。)
 とまれ、自然的志向性は、連続的同一性の志向性であり、他者・差異は否定されるのである。そう、ここで、有名なプラトンの洞窟の喩えを想起してもいいだろう。洞窟のスクリーンに投影される影像は、連続的同一性としての現象と考えられる。これは、光や視覚の問題でもあろう。とまれ、自然的志向性は、連続的同一性志向性である。だから、初めから、倒錯していることになるだろう。つまり、他者・差異の外界的認識は、倒錯しているのである。自然の、一種、悪意、意地悪さではないだろうか。自然状態(フッサールの自然的態度)では、自然の真相は認識できないのである。それは、いいとしよう。
 では、ここで、先の問題の差異エネルギーの発生について考察しよう。自然的志向性は、結局、連続的同一性エネルギーであり、差異を否定した。しかし、力学的には、差異が反発して、差異のエネルギーが発動するはずである。しかし、問題は、差異は、連続的同一性のエネルギーを帯びるのではないかということである。先には、ソのように考えたが、ここでは、発想を変えて、思考実験したい。
 思うに、超越的内界において、主体と他者が零度共振しているのである。つまり、主体のエネルギーと他者のエネルギーとの均衡が取れて、零度になっているのではないだろうか。しかるに、主体のエネルギーが発動して、現象化が起こる。しかし、そのときは、他者のエネルギーが隠蔽されることになるだろう。しかしながら、主体のエネルギーが消費されれば、当然、隠蔽された他者のエネルギーが発動されるだろう。これが、差異エネルギーではないのか。すると、主体の連続的同一性エネルギーが、連続的同一性構造の形成に機能したとすれば、他者の差異エネルギーは、脱構造エネルギーではないだろうか。主体は、他者の差異エネルギーを受容することで、新たに、差異共振シナジー様相を構築するのではないだろうか。そして、これが、脱近代、トランス・モダンの事象を意味するのではないのか。そう、仏教が初めの脱近代、トランス・モダン理論であろう。そして、ほぼ同時代のプラトン哲学もそうであろう。悟りとは、この差異エネルギーの肯定である。つまり、不連続な差異エネルギーの肯定である。釈迦牟尼やプラトンは、内界に視線を遣ることで、瞑想することで、あるいは、秘儀参入すること(参照:エレウシスの秘儀)で、これを成就したのだろう。
 そうならば、自然は、親切ということになるだろう。最初は、自然は、意地悪であるが、その後は、親切になると言えよう。ただし、自然の事象を正に、自然(じねん)に受け取る必要があるのである。つまり、肯定的に受容する必要があるのである。後にこれを理論化したのは、スピノザであろう。能動的観念とは、この自然の肯定のことであろう。
 では、差異エネルギーとは何なのであろうか。あるいは、どうして、即非性や共感性が発生するのだろうか。思うに、差異エネルギーとは、逆志向性なのではないのか。それで、原点にもどるのではないだろうか。最初、主体は、他者を志向したが、それは、連続的同一性であった。その後、他者のエネルギー、差異エネルギーが発動する。そのとき、他者から主体への志向性がある。これは、主体への回帰である。主体への回帰とは、差異共振シナジー界への回帰ではないか。零度への回帰ではないのか。そう、考えてみれば、差異エネルギー、逆志向性とは、主体にとっては、差異の受容である。連続的同一性を+のエネルギーとすれば、差異は-のエネルギーである。そして、プラスマイナス=零度を帰結するのではないのか。-のエネルギーは、力であり、差異共振シナジーへと主体を駆動させるのはないだろうか。
 いちおう、以上の思考実験を作業仮説して結論すると、自然は、志向性を確かにもつのであるが、それは、初めは、主体から他者への志向性であり、次に、他者から主体への志向性へと交替する力学があるということになる。簡単に言えば、連続化のエネルギーが最初にあり、次に、相補的に、脱連続化のエネルギーが発生して、零度に回帰するということである。
 では、この順番は何を意味するのか。この順番の力学は何か、となる。これは、自然志向性力学としか言い様がないのではないだろうか。連続から脱連続へという自然力学である。しかし、何故、連続化するのか、ということに答えていないだろう。否、答えている。それは、志向性とは、最初が、連続的志向性であるということである。主体から他者への志向性とは、連続的志向性であるということである。

二項対立・優劣性の発生原因について:否定原因の飢えと差異共振様相の回帰としてのトランス・モダン

2006-12-21 00:47:07 | プラトニック・シナジー理論
二項対立・優劣性の発生原因について:否定原因の飢えと差異共振様相の回帰としてのトランス・モダン

テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係

先に、陽主体iによる連続的同一性の優越意識認識は、基盤として、陰他者-iにおける劣等意識があるというようなことを簡単に触れたが、この点について、詳論したい。
 問題は、受動的感覚のことである。また、感覚と感情と意識と認識と知性のことである。ここでは、受動的感覚を考えたい。先ず、心身を根源に置く必要がある。さらに言えば、心身より先に、差異を原根源に考える必要があるだろう。差異とは、この場合、即非関係にある差異である。即非差異ないし対極差異と呼んでおこう。つまり、i*(-i)が原根源にあるということである。自己やその倒錯である自我の起源はこれであると考えられる。
 では、この原自己ないし元自己(元己、元個、原己、原個)の進展のことを考えると、現象界において、この原自己が剥き出しで置かれると考えられる。誕生以前は、子宮内で、差異共振様相であったと考えられる。胎児と母体との差異共振様相である。両者、個でありつつ、同時に共振しているのである。両者の即非・対極関係があるということである。
 しかし、出生後は、新生児は、子宮内とは全く異なる環境に置かれる。子宮内を、メディア環境と呼べるならば、出生後の環境は、当然、現象環境である。この現象環境において、新生児は、メディア環境においてと同様に、最初振舞うだろう。つまり、有り体に言えば、新生児の感覚意識する現象界とは、メディア環境的現象界、あるいは、差異共振的現象界となるのである。そして、これが、「コスモス」である。メディア環境における「コスモス」と現象界における「コスモス」があるのである。前者を即自態とすれば、後者は対自態である。(思うに、空海の両界曼荼羅であるが、金剛界曼荼羅が前者で、胎蔵界曼荼羅とは後者ではないのか。後で、検討。)
 しかしながら、当然、現象界は、メディア環境ではありえないのであり、新生児は、ここで、苦を感じることになるのである。スピノザ的に言えば、悲しみを覚えるのである。これは、イデア力学(イデア科学)的にはどういうことなのであろうか。それは、簡単に考えれば、差異共振性の不成立であり、そのために、原初・無垢の歓喜が、経験の悲しみとなるのであるが、この差異共振性の不成立とは、差異共振性の否定態と言えるのではないだろうか。差異共振性が、肯定態とするならば、その不成立とは、否定態と言えるだろう。差異共振性i*(-i)⇒+1で、この+を肯定態とするならば、不成立は、-1の様態であると言えるだろう。つまり、-{i*(-i)}⇒-1と考えられるのではないだろうか。これは、当然、-(i)*(-i) か、又は、i*-(-i) のことと展開できるだろう。前者が、宗教ないし信仰的様態であり、後者が、自我様態であろう。(思うに、史的に見ると、中世までは、前者の様態が続き、近代は、それが、いわば、反転して、後者の様態になったと言えるのではないだろうか。)
 とまれ、この二つの否定的様態が、進展した現象的様態となるのだろう。つまり、出生後の原初においては、子宮内におけるメディア環境を継続した様態であるが、その後の「経験」によって、新生児は、否定的様態を獲得すると言えるだろう。問題は、この否定的様態への対処法である。このことに関して、確認しておくべき事象は、言語獲得の意義である。ここでは、二通りの言語獲得があると考えられるのである。一つは、差異共振的歓喜ないし共感的言語形成である。「わたし」と他者Aとは、一体である。しかし、同時に、「わたし」は「わたし」であり、他者Aとは異なるのである。正に、即非様態の言語形成があると考えられるのである。他者Aは、「花」となるのである。他方、否定的様態における言語形成があるだろう。「わたし」の差異共振性を否定する対象に対する言語形成である。ここで、自然を考えよう。自然は、「わたし」の食べ物をもたらしてくれる。しかし、あるときは、自然は、無慈悲であり、食べ物を「わたし」に与えない。この場合、自然は、「わたし」にとり、快・不快の対象である。しかしながら、問題は、単純ではない。新生児にとり、自然は、本来、メディア環境である。「わたし」は自然と差異共振様相にあると言えよう。「わたし」と自然との即非・対極様相である。だから、食べ物に取得に関する快・不快の「弁証法」が、「わたし」を絶対的に支配することはないのである。
 とまれ、問題は、言語形成ないし名付けの意義である。他者Xを「何か」Nと呼ぶとき、差異共振環境ならば、他者Xは、主体iにとて、差異共振的他者であり、他者の名前(言語)Nは、差異共振様相を指していることになるだろう。つまり、i*(-i)における-iとしての他者であり、他者の名前Nである。これは、差異共振言語と呼んでいいだろう。つまり、i*(-i)⇒+1の名・言である。+1を確定する言語である。おそらく、この言語がなければ、差異共振様態のままであり、認識には進まないだろう。そう、差異共振様態は、いわば、直観様相なのであり、それだけでは、知的認識にはならないと考えられる。差異共振性に言語を与えることで、+1の認識となると考えられるのである。だから、⇒は、言語構築性を意味していると言えるだろう。だから、+1とは、差異言語であると言えるだろう。
これに対して、否定様態の言語があるだろう。-1の言語である。これは、連続的同一性言語(簡単に、同一性言語)と呼べよう。
 問題は、この同一性言語の力学である。二項対立言語の力学である。ライオンと鹿がいるとしよう。「わたし」にとり、ライオンは「強い」、鹿は「弱い」のである。後者を取って、食べ物にできるのである。狩りを行ない、鹿を仕留めて、「わたし」は勝利することができるのである。ここに強弱ないし優劣の観念の萌芽があるだろう。「わたし」はライオンに対しては弱いが、鹿に対しては強いのである。ラインに対しては、劣等であるが、鹿に対しては、優越するのである。ここにある意識様態の力学は何だろうか。もし、差異共振認識があれば、ライオンと鹿は、自然の両極であり、両者必要なものであり、強弱・優劣の差別は生じないだろう。鹿には、鹿の存在意義があるのである。あえて言えば、「弱い」、「劣等」には、それの積極的意義があるのである。
 では、強弱・優劣の二項対立的価値観はどこから生まれるのだろうか。当然、差異共振的価値観の喪失後である。ライオンと鹿の両面に積極的意義を認める差異共振・共立的価値観の喪失後である。このためには、絶対的二元的区別の世界観が必要だろう。「わたし」と他者とが、絶対的に分離しているという世界観である。
 とまれ、ここで、以前のアポリアにもどると言えよう。結局、差異共振様相を否定する事態とは何なのか、ということになるだろう。ここで、直観で考えよう。それは、差異共振様相を否定する事態とは、孤独である。あるいは、孤立無援の状態である。絶対的孤独である。これは、わかりやすい例をあげれば、飢え、飢渇であろう。自然は、「わたし」に食べ物を与えてくれない。植物は枯れ、雨は降らない。祈っても、食べ物が得られないのである。いわば、差異共振の神に見放された様態である。自然の神に見捨てられた様態である。「わたし」は「わたし」であり、絶対的な「わたし」である。思うに、ここにおいて、一神教が発生があるだろう。絶対的な「わたし」である神である。絶対的な「わたし」を保証する神である。それは、当然、自然を超越した神である。超越神である。否定様態だるから、「わたし」は悲しみの様態にある。つまり、ルサンチマンである。(ニーチェのキリスト教批判が正しいだろう。しかし、ニーチェ自身、旧約聖書を肯定しているので、分裂しているだろう。晩年の「力の意志」の思想は、分裂しているだろう。)ここには、反差異・連続的同一性となった自己即ち、自我があると言えるだろう。ルサンチマンの連続的同一性の主体があるのである。-1である。(ヤハウェとは、この否定様態の名前であろう。ラカンの父の名は、これではないのか。)ここにおいて、他者は否定されるしかないのである。「わたし」は絶対であり、他者は否定されるべきである。「わたし」は自然を超越した存在であり、他者に優越しているのである。これが、優越性の発生の原因であると考えられよう。つまり、絶対的超越性である。そして、これは、差異共振様相の否定態であり、実は、差異共振性を反転的に指示しているのである。つまり、メディア空間を指しているのである。
 思うに、差異共振的現象性は、メディア空間と現象空間が未分化である。つまり、連続化しやすいと言えるだろう。メディア即現象空間だろう。つまり、内在空間である。連続的な差異の共存がここにはあるのである。(ベルクソン/ハイデガー/ドゥルーズ、等)
 しかし、絶対的孤独の絶対的自我によって、すべては、超越的同一性化されるのである。差異共振様相の否定としての超越的絶対的同一性である。-1である。ヤハウェである。ルサンチマンである。専制である。父権制である。
 結局、絶対的孤独による絶対・超越的主体が、優劣的二元論、二項対立の発生であったと考えられるのである。
 しかしながら、これは、差異共振様相の否定態であるから、当然、肯定態に変換しうるのである。否定態から肯定態への転換は、スピノザの能動的観念の発想、フッサール現象学、聖霊主義、仏教、他に見ることができるだろう。しかし、この力学は何か。この肯定力学とは何か。肯定回帰的力学とは何か。キリストは愛を説いたが、もう、愛ではないだろう。否定の否定である。「父」が、新たな「母」になることだろう。新たな差異共振。それは、再び、絶対的孤独から生まれるだろう。以前は、飢え・飢渇から発した。しかし、今度は、それではありえないだろう。近代科学・技術・産業とは、物質的飢渇を満たす方法ではあった。しかし、今や、それは、過飽和である。もっとも、ここで、根本的に考えれば、飢えや飢渇による否定とは、差異共振性に対する否定なのであり、いわば、裏返しの差異共振性なのである。つまり、連続的同一性とは、裏返しの差異共振性なのである。それが、西欧において、帰結的に、近代主義を生んだのであり、今日、ポスト近代主義の事態となっているが、それは、差異共振性への否定の原因であった物質的飢え・飢渇が克服された様態である。つまり、ポスト近代主義とは、差異共振様相を否定した物質的飢え・飢渇が解消された事態を意味しているのであり、それは、当然ながら、差異共振様相の回帰であり、ポスト連続的同一性、ポスト一神教を意味すると考えられるのである。物質的飢え・飢渇の解消は、否定性の解消であり、否定の否定で、肯定が回帰するのである。

近代的没倫理自我から即非倫理自己主体へ:現代日本人の没倫理性と日本破滅・亡国の瀬戸際

2006-12-07 23:14:48 | プラトニック・シナジー理論
近代的没倫理自我から即非倫理自己主体へ:現代日本人の没倫理性と日本破滅・亡国の瀬戸際

テーマ:滅びゆく日本と新倫理社会へ

繰り返すと、先の考察から、近代的自我が、差異を否定する根拠が明確になってきた。極めて単純である。中世・封建時代における他律的道徳が、社会・経済・文化変動によって、崩壊して、個体が、いわば、野放しにされて、自我欲望のまま、言動するようになったということが根因ということである。つまり、中世・封建時代の「倫理」は、他律・外在的であれ、それは、内観性(-i)をもっていたと考えられるが、この崩壊により、主観が内観から離脱して、外観に向けられて【自我投影して、-(-i)】、自我欲望的になった【i*-(-i)⇒-1】ということである。明日野氏の言葉では、倒錯となったのである。闇となったのである。
 この内観を離脱して、外観中心になった近代的自我の力学をここで、明確にしたい。これまで、何度も試論ないし思考実験してきたが、ポイントは、陽認識i が陰認識-iを否定することにある。この力学は、主体投影(自己投影・自我投影)で説明できると考えられる。即ち、反復するが、主体である陽認識iが他者 -iを理解しようとするとき、必然的に、主体の形式である陽的同一性を他者に投影すると考えられるということである。つまり、i*-(-i)⇒-1となるといういおとである。-(-i)の最初の-が、他者否定という記号である。別の記号で表記すると、i→-(-i)=-1である。→は、志向性であるが、他者への志向性が、否定的志向性、反差異・連続的同一性になっているのである。この陽認識は、陽同一性認識と言ってもいいだろう。そして、先には、光認識とも言ったが、これは、誤解・混乱を招くので避ける。正しくは、外観認識である。
 問題は、この陽認識・外観認識・心的認識が、陰認識・内観認識・身体認識を排除することである。あるいは、即非認識、陰陽認識を排除することと言ってもいい。これは、正に、デカルト合理主義の問題である。明晰な観念が、不明晰な観念を排除するという問題であるからである。
 ここで、思考実験しよう。中世的ヒエラルキー価値観から解き放たれ、野放しにされた《個》を想定しよう。これが、近世・近代初期の主観の様態だと考えられよう。不安、拠り所の無さ、頼りなさ、等があるだろう。デカルトやパスカルを襲ったのもこのような一種実存的な不安と考えられる。つまり、《個》の基盤を何処に置くかの問題なのである。もはや、外在・他律的な価値観は崩壊したのである。そう、「神の死」があったと言えるだろう。この、言わば、剥き出しの《個》の様態とは、実は、無垢の即非の様態であると思われるのである。つまり、「わたし」は「わたし」だけであったり、あるいは、「わたし」は「他者」であったりするのである。つまり、A=A、あるいは、A=非Aである。揺らぎの様態であり、実に不安定である。一種、実存様態である。この、いわば、原《個》、素《個》、祖《個》の様態において、不安を解消するには、確固とした基盤が必要である。それを、デカルトは探究して、画期的なコギト哲学を打立てたのである。即ち、当然にも、コギト(我思う)を基盤にしたのである。そして、ここから、明晰で判明な観念だけが採用されて、あいまいな観念が排斥されて、近代合理主義の祖となったのである。デカルトは、差異哲学と近代合理哲学の両者の創始者である。
 思うに、確かに、個において、明晰で判明な観念を肯定したのは、画期的である。つまり、差異、単独者、特異性において、肯定した点がそうなのである。明晰で判明な観念とは、知的には、当たり前のことであり、なんの独創性もないだろう。しかし、個において、そうした点が本質的なのである。これが、近代、プロト・モダン革命である。即ち、i*(-i)⇒+1の自己認識方程式で言うと、主体であるiが純粋・明晰化したと言えるだろう。これが、他者-iの主体同一化(i化)であると考えられるのではないだろうか。純粋i化である。これが、後のカントの超越論的形式ではないのか。これは、実は、反差異・連続的同一性形式である。そして、これが、時空間形式、物質形式へと展開していったと考えられるように思うのである。
 私の仮説では、デカルトは、この連続的同一性形式iで、他者-iを理性化しようとしたのである。つまり、連続的同一性「理性」ないし「知性」で他者・現象を合理化したのである。(コギト哲学は、i即非-iであると考えられる。)結局、i*-(i)⇒-1の近代的自我・近代合理主義が誕生したのである。では、何故、主体iは、他者-iを否定・排除・隠蔽するのか。それは、純粋にi化したからだろう。純粋同一性化は、他者を否定・排除・隠蔽すると考えられるのである。そして、この他者否定の近代合理主義が、西欧近代を形成していくのである。
 ここで、宗教改革(プロテスタンティズム)を考えると、それは、いわば、キリスト教原理主義である。私は、これをルネサンスに対する反動と見ているが、つまり、i*(-i)という即非エネルゲイアへのキリスト教的反動と見ている。つまり、即非エネルゲイアは、フィチーノのプラトン主義(新プラトン主義)や、ピコ・デラ・ミランドラでわかるように、異教を復活させるのであるから、キリスト教としては、見捨てておけなかったのである。(今日でも、ポスト・モダン的異教ルネサンスに対するキリスト教的反動があるだろう。)つまり、即非エネルゲイアをキリスト教信仰に取り込んだのが、プロテスタンティズムと考えられるのである。ここで、差異への反動が生起して、キリスト教的連続性が生まれたのである。【飛躍するが、後の文学における英米モダニズムにおいて、T.S.エリオットが、ポスト・モダン・コスモスへの反動として、イギリス国教会や古典主義を唱えたと言えよう。エリオットは、ポスト・モダンへの反動的作家と見るべきである。】数式から見ると、宗教改革とは、-(i)*(-i)⇒-1であろう。主体iを否定して、-(i)となっていると考えられるのである。ただし、これは、近代的自我と共通である。そう、近代的自我とプロテスタンティズム、そして、近代資本主義は、等価であると言えよう。
 結局、アポリア(難問)である「何故、陽認識は、差異・他者を否定・排除・隠蔽するのか」という問題への答えは、陽認識・視覚認識は純粋化すると、i中心となり、-iを排除するということとなる。ポスト中世の特異な時代において、《個》が剥き出しとなり、その実存的不安の「カオスモス」において、陽認識・視覚認識が純粋化されることになり、そのために、他者・差異-iが排除されたということである。
 だから、結局、否定・排除された-i、そして、さらには、即非エネルゲイアが復権を《無意識に》求めることになるのである。これが、反近代主義、ロマン主義、象徴主義、等々の文化運動である。これは、一言で言えば、ポスト・モダン運動である。そして、「モダニズム」とは、これに対する反動である。つまり、ルネサンスというプロト・モダン=ポスト・モダンに対する反動として、プロテスタンティズムがあったように、文化的ポスト・モダン運動に対す売る反動として、「モダニズム」があったと考えられるのである。(ここで、ついでに述べると、文学や美術の芸術は、モダニズムの洗礼を受けているので、自身が反動となっているのに気づいていないと思うのである。だから、現代、文学や美術や音楽等々の芸術・文化が地に落ちているのである。トランス・モダニズムであるポスト・モダン=プロト・モダンによって、新ルネサンスを形成しないといけない。)深層心理学や構造主義や神話学は、この復権の表出であると考えられる。ただし、これらは、不十分である。何故なら、哲学的に、哲学・数学的に、不明であるからである。また、フロイト心理学は、他者である身体-iを近親相姦に還元するという、短絡化の誤謬を犯しているのである。他者は、多様であり、多元的である。近親相姦に還元できるはずがないのである。母子関係を言えば、それは、子と母との即非関係があると言わなくてはならない。それを、母子同一性(オイディプス・コンプレックス)として捉えるのは誤謬である。つまり、フロイトの自己投影というナルシシズムは、自我(近代的自我)の様態であり、《個》本来の様態ではないのである。つまり、精神分析は、《個》の心理学ではなくて、自我の心理学であり、それは、倒錯の心理学なのである。
 さて、結局、デカルトの合理主義は、主体iの純粋化としては、正しい意味があるだろう。個の明晰思考のために必要な手続きの第一歩である。しかし、単に第一歩に過ぎないのである。つまり、陽認識・視覚認識は、陰認識・身体認識、並びに、即非認識を形成しなくてはならないのである。これが真正なポスト・モダンである。そして、既述したように、スピノザの『エチカ』がこれを実現したと考えられるのである。スピノザの能動的観念の方法とは、陰認識・身体認識の積極・能動的方法である。平明に言えば、共感的認識方法である。共感性とは、正に、即非エネルゲイアの感情性である。そして、この能動的観念の方法は、後のフッサール現象学に通じると考えられるのである。つまり、これは、志向性の理論なのである。他者への志向性の理論と考えられるのである。逆に言うと、フッサール現象学の志向性理論とは、他者への志向性、即ち、陰認識・身体認識、そして、結局、即非認識の理論であると考えられるのである。デカルトの主体 iの連続的同一性の理論を、他者-iへの志向性の理論、即ち、差異的同一性の理論に変更したと言えるだろう。
 前世紀後半のフランス・ポスト・モダン運動であるが、これも既述済みではあるが、結局、後期デリダを除いて、プロト・モダンの中核にある《個》・差異・単独性・特異性を捉えそこなったのである。とりわけ、ドゥルーズの理論は、特異性という術語を強調しながらも、それを連続的同一性に帰結させていたのである。これでは、詐欺である。Aと言いながら、実際は、Bと言っているのであるから。つまり、真正ポスト・モダンとは、主体の、まったき他者(デリダの言葉)への志向性に存するのである。そして、まったき他者とは、不連続的差異論で言う不連続的差異にほかならない。主体と他者とが、根本的に不連続であること、ここにポスト・モダンの核心があるのであり、それを、不連続的差異論が究明したのである。思うに、厳密に言うと、ルネサンスでさえ、不連続的差異を自覚していたか怪しいのである。フィチーノのネオ・プラトニズムを見てわかるようにそれは、流出論・連続論なのであるからだ。しかし、本質は、不連続論であると言わなくてはならないだろう。だからこそ、デカルト哲学が生まれたのであると考えられるのである。
 以上の考察から、現代の認識論的課題は、陰認識・身体認識、そして、即非認識を創造することであると言えるだろう。そして、これは、個的倫理の形成なのである。現代日本は、没倫理であり、荒廃し切っている。近代主義によって、他者を喪失しているからであらである。自己内外の他者・差異発見にこそ、新倫理が生まれるのである。日本はこのように生まれ変わらなくては、滅亡路線をひた走りに走ることになる。

なにとぞ、近代を乗り越えよ!!!
なにとぞ、自己内外の他者・差異を発見せよ!!!
ここにしか、日本の根源的課題はない。
日本は、はっきり言って、滅びつつある。
日本滅亡を防ぎ、復活させるには、これしかないのである。
また、さらには、人類も滅びつつあるのである。
ポスト人類のエポックが近いのかもしれない。
考えれば、即非認識とは神人認識である。
ある意味で、誰もがイエス・キリストになることである。
つまり、テオーシス(神化)である。
これは、東方キリスト教の教義である。
つまり、東洋の叡知である。
東洋の復活である。
西洋文明のサイクルの終焉である。
日本人よ、寝ぼけていてはいけない。
世界は、激変しているのである。
物理学でいう相転移の時代であろう。
差異へと時代は転換しているのである。
差異共振シナジーへと転換しているのである。
これが理解できなければ、日本滅亡は免れない。
ご臨終日本である。
ご愁傷様、日本である。
南無阿弥御陀仏の日本である。
アディオス、ハポン。
日本よ、さらば。
日本は、確かに、滅びつつあるのである。
この現状認識をもたないといけない。
日本エクソダスである。
出日本である。
何処へ。
永遠回帰である。

ジキル博士/ハイド氏の構造を解明する:光認識の盲目性と仏教という最初期ポスト・モダン哲学

2006-12-03 14:40:47 | プラトニック・シナジー理論
ジキル博士/ハイド氏の構造を解明する:光認識の盲目性と仏教という最初期ポスト・モダン哲学

テーマ:超東西・コスモス・ニューポストモダン文明

以下の記事を参考にして、ジキル博士/ハイド氏の構造をプラトニック・シナジー理論から解明しよう。ジキル博士の内面とは、-(-i)であるが、この意味は何だろうか。つまり、最初の-の意味である。これは、当然、自己投影の-である。しかし、これは、隠蔽であるから、(-i)自体は存在しているのである。つまり、iである自己と(-i)の他者とが、完全に乖離・分裂しているということであろう。つまり、i/(-i)である(ここで、/は乖離・分離・分裂を意味する)。これが、ジキル博士/ハイド氏の数哲理構造であると言えよう。また、流行の自己愛性人格障害もこれで解明できよう。
 では、精緻に見ると、どこにハイド氏が存するのだろうか。それは、自己投影ないし反差異・連続的同一性であるi→(-i)に存するだろう。つまり、陽意識・認識=+エネルゲイアである。しかし、陰意識・認識=-エネルゲイアが存するはずである。即ち、(-i)→iである。結局、陽意識の-1と陰意識の -1の2つの-1が存するだろう。前者は、押しつけ・暴力である。そして、後者は、影・シャドウであろう。だから、ハイド氏は、後者である。ジキル氏の影・シャドウであるから。すると、前者が押しつけ・暴力であると言ったのを修正しないといけないだろう。確かに、前者は、押しつけ・暴力であるが、それは、作用・能動である。後者の力を取り込めば、対極化されて、自己認識+1が形成される端緒となるだろう。問題は、後者をまったく否定した場合である。
 ここで、精密に見ると、+エネルゲイアと-エネルゲイアは同時発生であると言える。連続的同一性化(陽認識)と他者的同一性化(陰認識)が同時発生するのである。思うに、自己投影とは、この同時発生の事象・様態ではないだろうか。自己即他者である。(思うに、愛とはこのことではないか。)思うに、これは、実に不思議な事象・様態であろう。自己と他者が実際は、乖離・分裂しながら、自己即他者と錯誤されるのであるから。
 とまれ、押しつけ・暴力(いじめ)の問題を考えると、それは、この±エネルゲイアの様態ではないだろうか。より正確に言えば、両者の並存様態であろう。+エネルゲイアの連続的同一性と-エネルゲイアの他者的同一性が並立していると思えるのである。さらに正しく言えば、+エネルゲイアが-エネルゲイアを隠蔽しているのだろう。ここで、視覚的認識の問題があるのである。視覚的認識は、+エネルゲイアの認識であり、-エネルゲイアの他者的同一性の認識に対してブラインドになると考えられるのである。つまり、光認識には、闇認識はできないということである。反差異・連続的同一性認識は、言語観念認識を形成するだろう。ある対象は、「リンゴ」と呼ばれる。これは、リンゴという現象個体、視覚的個体による言語観念認識である。つまり、ここでは、唯名論と実念論は同一である。-エネルゲイアの認識は、いわば、身体的認識、身心的認識を必要とすると考えられるのである。視覚的同一性と身体的同一性の相違があるだろう。視覚空間の「リンゴ」と身体空間の「リンゴ」では異なるのである(ついでに言えば、セザンヌの静物画は、後者を表現・描出しているのだろう)。光と闇、光と影である。光と闇、光と影を併せ持って、真如となると考えられるのであるが、光認識・視覚認識は、闇認識・身体認識を隠蔽してしまうのである。なんらかの原因・理由で、光認識・視覚認識が強化されると、闇認識・身体認識が看過され、無視され、さらには、無化・否定化・排除化されるのである。これが、近代合理主義・近代的自我の様態である。これが、また、遠近法空間を形成するのである。つまり、三次元空間を形成するのである(時間を加えて、四次元時空間であるが、時間空間が不可視なのである)。
 この排除された身体認識・陰認識・-エネルゲイアであるが、これは、認識されないので、非合理衝動つまり狂気になると考えられるのである。だから、この否定・排除・隠蔽された身体認識が、暴力を狂気的なものにするのである。陽認識は、単に暴力であろうが、否定された陰認識は、非合理衝動・狂気となり、狂気的暴力を反復強迫させるようになると考えられるのである。これが、ハイド氏であろう。悪魔と言ってもいいのである。私が近代的自我は狂気であると言ったことである。そして、自己愛性人格障害も、これで説明ができるだろう。つまり、近代主義の帰結としての精神病理なのである。
 では、ここで、「なんらかの原因・理由で、光認識・視覚認識が強化されると」と述べたときの、「なんらかの原因・理由」を考えてみよう。これは、既述の事柄であるが、再確認しよう。一つは、私の仮説であるが、男性は、光認識・視覚認識・陽認識に傾斜しているということである。つまり、+エネルゲイアが-エネルゲイアよりも強化されているのが男性であると私は考えるのである。おそらく、これは、奇形と言えるのかもしれない。それに対して、女性は、逆に傾斜しているのではないだろうか。つまり、-エネルゲイアの傾斜が強いということである。一種、性差である。この対極的傾斜のため、男性は、連続的同一性暴力を狂気化するのである。これが、戦争であろう。そして、女性は、他者的同一性暴力を狂気化するのである。これが、ヒステリーやオカルト主義であろう。とまれ、実害としては、当然、前者の方がはるかに巨大である。
 これが一つの原因・理由である。しかし、この性差的傾斜仮説以外を考えると、民族的傾斜仮説が考えられそうである。ここで、想起するのが、ニーチェの有名なアポロ(美術)とディオニュソス(音楽)の区別である。これを借りれば、アポロ的民族とディオニュソス的民族があることになる。そして、古代ギリシア人は、両民族の混淆であると考えられる。そして、これは、文化史的には、インド・ヨーロッパ語族・父権的民族と古ヨーロッパ民族・母権的民族との混淆であると言えるだろう。神話学的には、軍神アレス(マルス)と美神アフロディーテ(ヴィーナス)で代表されるだろう。宗教的には、一神教と多神教であろう。
 ここで、アポロ的とは、古典的芸術を考えるべきである。シンメトリカルな、幾何学的に均整の取れた美学を考えるべきである。古代ギリシアの壺を考えるといいだろう。現象リアリズムである。
 さて、そうすると、アポロ的なもの、即ち、反差異・連続的同一性に傾斜した民族が、光認識・視覚認識を強化したと言えるだろう。これが、二番目に考えられる原因・理由である。
 そして、三つ目は、キリスト教である。光の宗教としてのキリスト教である。本来、この光は、原光としての光であるが、善悪二元論から、闇を激烈に排除する結果、陰認識を排除してしまったのではないだろうか。これは、一神教の問題と言っていいだろう。多神教を否定した一神教は、偶像崇拝、感覚像を否定するのである。これは、身体否定と言っていいだろう。身体と他者と陰認識が結びついているのであるから、当然、陰認識が排除されるのである。つまり、一神教は精神と身体ないし自己と他者という次元において、前者の精神・自己を中心化して、後者を否定・排除するのである。結局、陽認識中心・主導となり、陰認識は否定・排除・隠蔽されるのである。
 ということで、1)性差、2)民族差、3)宗教差の三点を原因・理由としてあげた。さらに考えてみよう。
 思うに、認識の根本問題があると思う。フッサールに倣い、志向性を認識の根源的様相と考えよう。つまり、自己→他者、自己から他者への志向性、これが、根源的認識様相である。問題は、他者である。これは、本来、自己内の他者の認識、つまり、垂直的認識であるが、これが、自己外の他者の認識、つまり、水平的認識に変化するのである。垂直的志向性が初めにあり、次に、水平的志向性があることになる。垂直志向性においては、精神と身体とが一如である。つまり、ここでは、まだ、差異的同一性が保持されているのである。+1があるのである。しかるに、自己外認識、自己外の他者認識、水平認識に移ると、外的他者は、内的他者とは異質なのが認識されるのである。おそらく、最初は、内的他者に対するのと同様に、外的他者にも遇したであろう。つまり、差異共振的関係を投影するだろう。しかるに、外的他者は、それを跳ね返してくるのである。このとき、認識主体は、共感から反感へと転化するのである。このとき、主体の認識は、即非的なものから、主客二元論的なものに変換すると考えられるのである。つまり、主体Aと客体Bにおいて、A≠Bが成立し、A=B且つA≠Bという即非・対極共振関係が消滅するのである。コスモスの消滅である。これが、四つ目の原因・理由であるが、おそらく、これが、いちばん根本・基本的なものであろう。
 さて、では、問題は、外的他者の跳ね返しとそれによる反感化の問題を考えよう。主体は、即非的視線を外的他者に投影するとしよう。しかし、外的他者は、それに対して、反差異・連続的同一性の視線や言動を返すのである。これは、何か。思うに、原始時代、太古、人類は、狩猟採集生活において、動物を狩るが、基本は、差異共振シナジーがあるから、殺した動物を祭るだろう。これが、例えば、アイヌのイオマンテに儀礼に残ったものであろう。人類と動物ないし生物は同類なのである。熊=人である。
 しかし、この差異共振シナジー社会が崩壊するときがくる。それは、反差異・連続的同一性=自我の社会が到来するときである。簡単に言えば、国家社会の誕生であろう。それ以前の部族社会では、部族長中心の「王権社会」であり、国家はないだろう。自我の誕生が国家の誕生と通じるだろう。これは、文化史的には、父権主義の誕生である。神話学的には、父権神話、龍退治をもつ神話である。この点では、ユング心理学が詳しいだろう。龍とは、差異共振シナジー様相と考えられるのである。これを、排除するのが父権神話であり、父権主義・国家であると考えられよう。
 では、これは何を意味するのか。外的他者の乖離的対象化であろう。これは、当然、内的な他者との乖離でもあるだろう。つまり、主体内部には、本来、差異共振シナジー性が存するのであるが、それを否定するようにして、外的対象を自己から乖離するのであるから。つまり、精神と身体との乖離である。心身二元論の形成である。
 さらに突き詰めると、主客分離とは何なのか。ここで、もう一度、原点に返ろう。志向性である。陽の志向性である。自己→他者である。i→(-i)である。これは、光の志向性である。光認識である。視覚認識である。それに対して、(-i)→iは、闇の志向性、闇認識である。身体認識である。光認識とは、自己投影である。つまり、反差異・連続的同一性認識である。これは、内的世界ではなく、外的世界の認識である。そう、内的世界から外的世界へと認識が向かったときが、光認識であろう。このとき当然、闇認識は隠れるのである。排除されるのである。身体認識は排除されるのである。これが、発達すると、自我拡大であり、傲慢・自己盲目である。ヒュブリスである。おそらく、聖書に出て来る悪魔のルシファー(ラテン語では、原義は光を帯びたもの)は、これを意味するように思われるのである。
 すると、問題は、外的認識にあると言えよう。視覚認識である。しかし、私は、二つの視覚認識があると考える。外的視覚認識と内的視覚認識である。私がヴィジョンと呼ぶのは、当然、後者である。また、イマジネーションや直観と言うのも、後者である。だから、ここで、問題になっているのは、外的視覚認識である。陽認識である。おそらく、内から外へと転換するときに、精神位相が変換するのである。垂直から水平変換するときに位相が変化するのである。つまり、思うに、差異共振位相から反差異・連続的同一性位相へと変換するのである。おそらく、初めは、差異共振的に外界認識するはずであるが、これが、反差異的になるのである。何故だろうか。ここに光や現象の意味の問題があるだろう。原光は、差異共振シナジー事象であるが、これが、光現象となるときは、反差異的になると思えるのである。つまり、i→(-i)が光現象だと思えるのである。つまり、連続的同一性化が光現象だと思えるのである。そして、光認識は、当然、反差異・連続的同一性認識であると考えられるのである。闇認識、身体認識がなければ、原光の差異共振シナジー認識は形成されないだろう。(内省・瞑想や禅やヨガ等は、この闇認識、身体認識の形成方法であろう。正確に言えば、陽認識と闇認識の均衡認識形成であろう。)
 ということで、志向性の帰結(エンテレケイア・終局態)として、反差異・連続的同一性認識・現象が生起すると考えられるのである。それに対して、東洋哲学は、これを解体する認識を初期から形成したのである。闇認識・身体認識の形成方法を形成したのである。とりわけ、仏教哲学である。これは、どういうことだろうか。どうして、東洋・アジアは、光認識に対する闇認識を形成できたのだろうか。ここに仏陀の大天才・超天才性があると言えよう。彼は、目を内化したのである。志向性を再び、内的に変えたのである。回帰である。そして、調和を取ったのである。(仏陀は、人類最初のポスト・モダン哲学を説いた人物とも言えるだろう。)どうして、これが可能になったのだろうか。必然的に人間認識は、反差異・連続的同一性認識となり、差異・他者を排除するようになるのである。無明である。どうやって、闇認識に気がつくのか。(-i)→iの-エネルゲイアは常にあるのであるが。悟りはどうやってやってくるのか。そう、仏陀の内面には、おそらく、差異共振シナジーのエネルゲイアが潜在していたはずである。それが、外的現象を見て、苦しんだはずである。苦界の現世を見たのである。病苦する人間界を見て、仏陀は差異共振化したのである。深い、本質的な苦に仏陀は囚われたのである。そして、座禅して、瞑想して、解脱し、開悟・悟達したのである。空認識である。それは、差異共振界の認識である。自我の執着、つまり、連続性からの脱却にこそ、救いがあったのである。
 これはどういうことなのだろうか。瞑想によって、外的視覚認識を断ち、内的認識、身体認識へと仏陀は向かったと言えよう。フッサール的に言えば、現象学的還元によって、志向性という空を発見したのだろう。色即是空・空即是色とは、正に、i*(-i)⇒+1であろう。つまり、仏陀は、外的視覚認識を断ち、それによって闇認識、-エネルゲイアを把捉したのであると考えられる。おそらく、魔境がやってくるのである。闇認識は、過剰になると-1となり、邪道・魔道となるのである。つまり、(-i)→iは、自己を否定して、他者的同一性になるのである。(どうも、イエス・キリストは、このような様相に思えるが。)悪魔の誘惑がこれであろう。(オウム真理教や新興宗教の問題もこれであろう。)つまり、闇認識に没入した場合、自己が喪失されて、他者に帰依するのである。しかし、自己は隠蔽されるのであり、連続的同一性である自我は残るのである。やはり、-1の位相である。
 仏陀の反転によって、自己認識方法が誕生したのである。ここで、簡単に整理すると、光認識は、闇を排除するので、反差異・連続的同一性認識となるということである。つまり、必然的に、人間の認識は、光認識に達するので、闇認識を喪失する必然性があると考えられるということである。光の盲点、光の闇があるのである。つまり、光とはヴェールであり、闇を覆って、闇を見えなくさせているのである。ヴェールされた現象veiled phenomenaなのである。(参照:unveiled Isis。イシスは、やはり、差異共振シナジー事象、即ち、原光・玄光である。)光は人間を盲(めしい)にするのである。正に、無明である。無知である。これは、たいへんなアイロニー、パラドックスである。根源的転倒・倒錯性である。これで、本件の解明が済んだとしよう。
 さて、ここで、人類文明のことを考えると、おそらく、かつては、差異共振シナジー文明が普遍的であったに違いない。しかし、あるとき、陽認識・光認識に傾斜する事態となり、バランスが崩れたのである。しかし、人類は、天才たちが、叡知を形成して、差異共振シナジー位相を保持することを説いてきたのであり、仏陀に至っては、座禅・瞑想という身体的方法を発見したのである。(もっとも、これはヨガの発展と言えるだろう。)しかし、西洋文明は、この叡知を破壊する形で、光認識中心の近代主義を形成したのである。つまり、悪魔的文明を形成したのである。これは、人類史における驚天動地の事態である。人類絶滅の危機である。この原因は以上で述べたことの綜合で説明がつくだろう。大危機・超危機である。そして、東西の偉大な天才たちが、この人類の最大の危機(と言っていいだろう)に対して、「処方箋」を提示してきたのである。そして、20世紀後半にポスト・モダンが生起する。これは、光認識の解体であり、西洋文明の乗り越えを意図したものであるが、連続性の観念が強固であり、きわめて、不十分なものであった。この点は既述済みなのでここでは詳論しない。しかし、この不備を乗り越えて、不連続的差異論が生まれ、そして、それの進展であるプラトニック・シナジー理論が創造されて、ポスト・モダン、つまりポスト・オクシデント(ポスト西洋文明)の理論が真に結実したのである。これは、超東西文明の理論であり、新世界文明の理論となると考えられるのである。新ヘレニズムの理論と言ってもいいだろう。人類文明の、いわば、鬼っ子である西洋文明を乗り越える理論がようやく誕生・創造されたのである。確かに、一つの人類史の終焉である。新たな人類史が始まるのである。新コスモス人類史が始まるのである。
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■今の日本はハイド氏に変身したジキル博士のような世界



かの有名なスティーブンソンの小説『ジキル博士とハイド氏』のハイド氏のように、夜になると抑圧された無意識が悪の化身に変身して、色と欲を楽しみ、結果的に殺人等の邪悪な事件を起こしてしまう。この小説は、人間の「こころ」の仕組みを見事に描いている。社会生活で人格者であっても、潜在意識の奥深くで、「無意識」が奇妙で邪悪な欲望を隠し持っていたりする。屋外を散歩すると、私たちの身体に張り付くように「影」ができているが、日常に於いて私たちはそのことをほとんど意識していない。



私たちは、日の当たる都合のいい自分の姿だけを自分だと思い、当然のごとく自分を良い人間だと信じて疑わない。自分の影の部分、認めたくない欠点やコンプレックスは抑圧されて、「無意識」という影の部分に追いやってしまっている。その結果として、日の当たる意識の部分には上ってこなくなってしまう。もちろんこれらの邪悪なよからぬものが、「無意識」のまま抑圧され続けている限り問題はない。



私たち人間の「こころ」が、いつも健全であり続けるには、邪悪な「無意識」を抑圧し続けるための強い意志が必要となってくる。この意志のパワーが鍛えられていないと、ある日突然、このよからぬものが意識に昇ってきて、私たちの「こころ」を乗っ取ってしまう。「こころ」を乗っ取られてしまった私たちは、突然人が変わったように道徳やルールをどんどん無視して、社会のタブーである犯罪や殺人を犯すようになり、精神的な荒廃化現象が一気に表面化する流れになってしまう。

http://www.chibalab.com/news_otoshiana/documents/060810.htm