philosophical chaosmos

八百万のものを哲学する
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ヴィジョンとは何か:2:差異共立・即非のスピリットとはマイナス1=霊的大地の「波動」である

2010-06-28 22:25:52 | プラトニック・シナジー理論
本題は興趣があるので、さらに随想風に述べたい。
 例えば、山や山麓を眺めていて、一如差異共立(即非)感覚を感じるとしよう。「わたし」と「山」ないしは「山麓」とは一如である。
 この一如感覚において、「山」ないしは「山麓」にスピリットがあると言えないことはない。これは、D. H. ロレンス風に言えば、地霊spirit of placeである。(因みに、私は、奈良県桜井市の三輪山のふもとの山の辺の道に、地霊を感じる。身体に浸透する「気」がある。)
 とまれ、このスピリットは、大地、身体と関係している。では、この大地、身体とは何か。物質的大地、物質的身体のことだろうか。つまり、プラス1だろうか。
 プラス1はプラス1であり、それには、スピリットや気はないのではないだろうか。
 プラス1の物質とは端的に死せるものであり、いわば、墓場である。
 ならば、三輪山の麓とは何か。その気やスピリットとは何か。
 結局、現象とは何か、ということになろう。
 直感で言えば、「天」と「地」の共立(即非)と共振があり、共振は三輪山の麓を形成している物質作用であり、共立即非は、スピリット、気を形成しているのである。
 後者において、ダーク・マターが関係していると言えよう。それが、三輪山の麓の不可視の大地、ダーク・アースDark Earthではないのか。つまり、マイナス1の不可視の大地である。
 これまで、マイナス1と差異共立・一如性の連携性、相互性については述べた。マイナス1から差異共立への転移は、再帰・回帰性をもち、つまり、反転性をもつと述べた。
 だから、差異共立・即非には、マイナス1の要素・エレメントが浸透していると見られる。端的に言えば、マイナス1=ダーク・マターと一如としての差異共立・即非様態である。
 故に、差異共立・即非のスピリット・気(霊気)とは、ダーク・マター=霊的大地のそれと言うことができよう。
 結局、三輪山の麓は単に、物質的大地だけでなく、マイナス1のダーク・マターの霊的大地でもあるということである。
 つまり、自然界はダーク・マター=霊的大地=霊的身体=Spiritual Beingに貫かれた、浸透された現象界であるということになる。
 このように見ると、一神教の錯誤が明確になる。それは、神から霊的大地、霊的自然である「母」(折口信夫の「妣が国」)を否定していることである。それは、凸iに傾斜して、差異共立を否定して、差異共振性に傾いていることである。それは、自然の逸脱である。
 シュタイナーの説くルシファーは、おそらく、父権的一神教に作用しているのである。それは、悪魔的宗教なのである。
 鈴木大拙や折口信夫やD. H. ロレンスの霊的大地の霊性こそ、本道・正道・正統である。

父権的同一性主義の発生について:絶対的トランス・モダン相転移時代:すべての父権文明の絶対的解体へ

2009-06-04 00:17:01 | プラトニック・シナジー理論
本件の問題は、これまで、数多く検討してきたが、やはり、まだ完全には解明されていない、有り体に言えば、すっきりしていない、腑に落ちていないので、再考したい。
 文化史・人類史的には、「太陽神」の問題である。母権制ないしは女神文化においては、「太陽神」は、女神の子・夫・恋人である。エジプト「神話」ならば、イシスとオシリスのオシリスである。
 これまで、(+i)*(-i)⇒+1において、左辺をイシス、右辺をオシリスとした。即ち、イシス⇒オシリスである。しかしながら、⇒がイシスであり、 +iがオシリスであろうが、本来、両者は不可分・非分離である。また、⇒+1は「光」である。つまり、イシスの「光」と「オシリス」の「光」が
あるが、両者不可分一体ということになる。
 日本「神話」ならば、イザナミとイザナギの関係やその他であろう。
 父権「神話」とは、ジョゼフ・キャンベルの「神話学」に拠れば、女神・大女神・太母神の殺戮をともなう。これは、Media Pointの否定と考えられる。その究極的様態は、ヤハウェ神と考えられる。女神(大女神、太母神)殺しが父権主義(父権文化・文明)の前提にあるのである。
 そして、この父権主義の帰結として西洋文明、とりわけ、近代西洋文明が生起したと考えられる。近代合理主義(近代的自我、唯物論)が生まれたのである。それは、言い換えると、魂殺し、精神殺しである。(もっとも、単純化して述べている。民主主義とは、本来は、魂・精神から生起した政治志向である。また、イタリア・ルネサンスは、Media Pointから発動していると考えられる。ただし、遠近法のように、同一性志向性に傾斜していよう。)
 問題は、父権主義・同一性主義の意義である。これによって、物質的合理主義=近代科学・技術が生まれ、近代資本主義の支えとなった。
 この父権的同一性合理性であるが、これが意識において果たした役割は何かと言えば、意識の唯物論化であり、魂・精神の排除である。意識の悪魔化である。意識の邪悪化である。(官僚の意識もここから生じていると言える。シュタイナー的に言えば、ルシファー/アーリマン化である。そして、既述済みであるが、シュタイナーのイエス・キリストとは、Media Pointである。シュタイナイーの精神科学は、東洋的である。)
 主観性における、父権的同一性主義の積極的役割は何だろうか。それは、思うに、一般観念形式を形成したことではないだろうか。カント、ヘーゲルで言えば、悟性を形成したことではないだろうか。
 どうやら、この悟性形成が主観性における父権的同一性主義ないしは近代合理主義の積極的意味のように思える。カントの超越論形式が起源と思われる構造主義も悟性の末裔と言えよう。
 すると、トランス・モダンとは、当然、トランス悟性であり、トランス・モダン「知性」を意味する。この「知性」とは何か。
 結局、悟性とは同一性知性であり、それを超えた絶対的差異知性、絶対的差異共振知性がトランス・モダン「知性」と考えられる。
 しかしながら、このトランス・モダン「知性」(以下、TM知性)とは、実は、精神的知性である。だから、理性的知性なのである。精神的感性や身体的感性を包摂しているものでもある。
 これまで既述したように、カントやヘーゲル、さらには、ポスト・モダンは、悟性と「理性」を連続化させて考察しているのである。(カント哲学は、思うに、悟性と「理性」の連続性において、「批判」を行っていて、明確には、不連続性に達していないと思われる。)
 結局、悟性=同一性知性と不連続である精神知性、絶対的知性の確立がトランス・モダンの絶対的前提である。
 そう、悟性=同一性知性とは、自我知性であり、利己主義(エゴイズム)である。これが支配的になり、精神を抑圧・排除してしまっているのである。
 悟性と精神を不連続的に切断することで、トランス・モダン・チェンジが為されるのである。これは、悟性・近代知性を保持した差異知性(差異理性)である。否、そうだろうか。ここは微妙である。
 悟性と精神を不連続化させたとき、悟性はそのまま留まるのだろうか。おそらく、このとき、いわば、霊妙な作用がはたらくのではないだろうか。不連続化・絶対的差異化以前は、悟性と精神が混淆・混合・混成しているのである。
 しかし、不連続的切断が為されると、悟性と精神がいわば、共鳴・共振するようになるのではないだろうか。調和と言ってもいいだろう。
 例えば、「山」がある。これは、近代的悟性では、辞書で定義されているようなものである。しかるに、不連続的に切断されると、精神と「山」が差異共振するようになるのではないだろうか。即ち、「わたし」という精神があり、「山」という他者が存する。(そう、対象は他者となるのである。)
 「山」は悟性として、「山」であるが、同時に、「わたし」と共振する「山」である。精神的な「山」となるのである。言い換えると、物質的な「山」であり、且つ、精神的な「山」であり、両者は、即非的である。つまり、不連続化されると、即非化が生起すると考えられる。
 だから、近代的悟性は、トランス・モダン的悟性になるのである。言い換えると、即非「知性」となるのである。結局、即非「知性」に包括・包摂された悟性となると言えよう。差異共振悟性とも言えるし、即非悟性とも言えよう。
 そうすると、近代的悟性、同一性知性は「ゆらぐ」と言えよう。つまり、同一性の解体がそこにはあるのではないか。同一性の脱構築である。もはや、同一性は、仮象としか成立しないだろう。物質は仮象として存することになると考えられる。
 同一性、同一性主義の完全な解体がここに生起していると言えよう。絶対的なトランス近代である。アブソリュート・トランス・モダン(絶対的トランス・モダン)である。
 また、当然、自我、近代的自我(近代的「わたし」)の解体・崩壊である。同一性としての自我は絶対的に崩壊したのである。
 超越差異共振的な自己が誕生するのである。他者と共振する自己が生起するのである。そう、トランス・モダン的自己の生起である。(思うに、自他者・自他己という用語を造語してもいいだろう。)
 全ては、差異共振化される。差異共振的相転移を行う。絶対的トランス・モダン相転移現象である。科学・技術も、トランス・モダン・サイエンス/テクノロジーとなるし、経済もトランス・モダン・エコノミーとなる。トランス・モダン・キャピタリズムになる。一切合切がそうである。
 ということで、所期の問題は解明されたと考えられる。父権的同一性主義とは、近代的悟性=同一性知性の形成(近代合理主義、近代的自我、唯物論=悪魔性)に帰結したのであり、今や、父権的同一性主義=父権文明の解体・崩壊のトランス・モダン文明へと転換する「新時代」になっているということである。
 父権文明、主に西洋文明であるが、東洋、その他の世界における一切合切の父権文化・文明の崩壊・解体を意味するのである。トランス父権文明である。新母権文明である。

参照:
悟性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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悟性(ごせい)とは英語 のUnderstanding、ドイツ語 のVerstandに対する西周 による訳語である。日本においては本来禅 の用語であった。英和辞典や独和辞典を参照しても分かるように、この語はもともと「知性」や「理解力」などと同意義であるが、西洋哲学 においては様々な哲学者 がそれぞれの定義 の下で用いる。

一般論としては、対象を理解する能力が悟性であり、その理解をもとに推論を行うのが理性 である。

ごく一般的な用法に近い「悟性」 [編集 ]

「思考の能力」などの意味で用いられる。この意味で用いる場合が最も多い。


カントの悟性論 [編集 ]

イマヌエル・カント の悟性論は『純粋理性批判 』で展開される。悟性は感性 と共同して認識を行う人間の認識能力のひとつであり、概念把握の能力である。詳述すれば、物自体に触発されて直観による表象 を行う下級認識能力である感性に対して、悟性は理性 や判断力 とともに上級認識能力のひとつであるとされる。人間の悟性には固有の形式があり、すべての可能な人間的認識に際してはこの形式が適用され、悟性による表象が可能になる。この固有の形式が、純粋悟性概念(カテゴリー)であって、量・質・関係・様態にそれぞれ3つ、合計12の純粋悟性概念が指摘される。カント以前に、懐疑論 は人間の認識の確実性を問うたが、カントにおいては人間が外界の物を認識する際に発見する因果性は、純粋悟性概念によって保証されており、人間の認識の諸法則に沿うために確実なものである。これによってエウクレイデス の幾何学やニュートン の力学は、確実な認識である事が保証される。

一方、カテゴリーは悟性の対象となるもののみに当てはまる。すなわち感性的認識の対象とならず、単に思惟のみが可能な理性概念には当てはまらない。このためカントは従来の哲学が扱ってきた神 や存在 についての命題を否定する。しかし人間理性には形而上学への素質があり、本来当てはめることが出来ない対象へも悟性概念を適用しようとする。これは哲学を推進する主要な動機であり人間の本性として否定する事が出来ないが、しかしあくまでも悟性の誤用であって、人間は正しい悟性の使用を知らなければならないとされる。

ヘーゲルの悟性論 [編集 ]

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル は『精神現象学』『大論理学』『小論理学』『精神哲学』において悟性論を展開している。ヘーゲルによれば、悟性は事物をばらばらに捉え、しかもそれらを固定化し、事物が運動 や矛盾 を含むものとして捉えられていない思考の能力とされる。その基盤となるのが、同一律 (AはAである)・矛盾律 (Aは非Aではない)・排中律 (AはAでも非Aでもないものはない)などを持つ形式論理学 である。

悟性の限界 [編集 ]

形式論理学的思考に基づく悟性的思考は雑多な諸現象の本質を捉えようとして、法則 を見出し、現象を引力と斥力 、時間 と空間 などといった単純なものに還元する。しかし、これらの対立は固定化され、悟性的思考が捉えたものは単なるデータの寄せ集めでしかなくなる。『精神現象学 』ではその後、悟性的意識は自己意識 へと進むが、『小論理学』などでは悟性から理性 への転換が示される。

補・長谷川宏訳『精神現象学』(作品社)におけるVerstand [編集 ]

長谷川宏 はVerstandを従来の「悟性」ではなく「科学的思考」もしくは「知性」などと訳している。『精神現象学』(A)意識「3力と悟性」(岩波他)はヘーゲルが悟性的思考の典型としてニュートン力学 を想定していることから、内容とタイトルとの整合性を持つものとして評価される一方、Verstandと科学 を混同していることやカント的悟性論をはじめとした従来の「悟性論」を無視していることなどに対して批判もされている。

関連項目 [編集 ]

* 理解

外部リンク [編集 ]

* 悟性の語について

Media Pointからの同一性主義狂気分析:MP実軸面とMP虚軸面の不連続性:超次元の出現

2009-02-09 16:16:11 | プラトニック・シナジー理論
Media Pointからの同一性主義狂気分析:MP実軸面とMP虚軸面の不連続性:超次元の出現

テーマ:メディア・ポイントMedia Point

先に、ドゥルーズ哲学批判において、感情主義による差異と同一性の連続化=癒着を見たが、この視点を同一性主義狂気に適用したい。
 端的に言えば、同一性主義狂気におけるMedia Pointの様相が核心である。
 Media Point(以下、MP)の実軸面(実軸相)から同一性が発生し、同一性自己意識(自我)が生まれる。だから、同一性自己意識の基点は、MPの実軸面(以下、実面)にあると言える。これは、また、言語構造と言えよう。(思うに、ラカンの有名な「無意識は言語のように構造化されている」という言葉は、ここから理解されるべきである。MP実面が精神分析の無意識であり、また、さらには、ハイデガーの存在なのである。これは、きわめて、重要な事柄である。)
 MP実面は、差異と同一性との境界であり、端的に言えば、壁である。ここにおいて、差異が抑圧・排除・隠蔽されているのである。
 しかしながら、必然(自然じねん)的に、MP虚軸面(以下、MP虚面)が開かれて、差異共鳴エネルギー=超越エネルギー=イデア・エネルギーが流入する事態が発生する。この力学の様相ないしは仕組みを精緻化する必要がある。
 初めに、つまり、第一1/4回転においては、MPは実面だけが賦活されいて、虚面は潜在化していると言えよう。言い換えると、実面が表面化して、虚面が裏面化していると言えよう。
 しかし、第二1/4回転においては、虚面が賦活されて、実面には、新たな賦活は行なわれないと考えられる。つまり、実面はただ維持のみのエネルギーが放出されると思われる。いわば、現状維持である。
 いったい、虚面の賦活化とは、様相的に、システム的にどういうことなのだろうか。
 同一性自己意識を光・昼とすれば、それは、闇・夜の領域となるだろう。未知の領域である。「不可解な」領域である。そう、アポロに対するディオニュソスである。これは比喩に過ぎない。
 いったい、MP実面に対して、MP虚面が開かれるというのは、「空間」的にどういうことなのか。理知的には、四次元ないしは五次元の開化であるが、より「具体的に」に捉えたいのである。
 端的に、MP実面はどうなるのか。MP実面とは別にMP虚面が開化するのか。つまり、MP実面の周囲(周縁)にMP虚面が発生するのか。
 直観で言えば、端的に、MP実面とはまったく異質な、不連続なMP虚面が発生するのであり、同一性自己意識は、まったくそれを理解不可能なのである。同一性合理主義(近代合理主義)からは、非合理主義に見えるものなのである。
 そう、正に、即非空間がそこに出現すると言えるのではないのか。高次元・超次元の出現でもある。そう、三次元的同一性自己意識にとって、四次元的「意識」の出現は未知以外のなにものでもないだろう。怪しむだろう。「異世界」、「異界」、異次元である。しかし、それは、正確に、精神・霊的次元と言えるのである。PS理論的には、イデア次元である。
 とまれ、不連続な次元の出現であるから、単に、MP実面の周縁に生じるということではないのである。
 やはり、MP実面を超越した領域にMP虚面が出現すると考えることができる。例えば、二次元(平面)世界の住人が三次元(立体)世界の住人(「宇宙人」)に出会ったようなものであり、三次元世界の住人を二次元的にスライスした様態で観察することになろう。それは、連続化である。
 そう、端的に、同一性自己意識(物質主義者)にとって、これは、恐ろしいものであり、それを隠蔽するに越したことはないだろう。ここに抑圧・排除が発生すると言えよう。
 MP虚面は影ではないのである。影は、同一性の対称性によって生じる対峙的存在に過ぎないのである。
 わかりやすく言えば、意識空間に穴が出現するのである。そして、同一性主義にこだわる限り、穴は空虚のまま、虚無のままである。つまり、ニヒリズムを形成すると言えよう。(ニーチェ、ハイデガー、三島由紀夫のニヒリズムを参照。)思うに、イデオロギーはこの穴を満たそうとする同一性主義からの一種信仰的行為と言えよう。
 とまれ、MP虚面の出現に対して、同一性自己意識は抑圧・排除・隠蔽行為を行うと考えられる。同一性主義が発生するのである。つまり、同一性自己を自己目的化するのである。そのため、MP虚面=「差異」への否定が生起するのである。これが反動性・暴力性である(アーリマン暴力だろう。)
 これは、実は他者への否定そのものなのであり、同一性自己中心主義(自我主義)を形成するのである。
 では、狂気はどういうことなのだろうか。それは端的に他者否定(精神・霊性否定)に存すると言える。意識空間において生起する真正な他者という事象を否定するであるから、当然、狂気なのである。正当に「存する」ものを認めず、否定するというのは、非科学的であり、非理性的であり、当然、狂気なのである。【これで、持論の「近代的自我(近代合理主義)は狂気である」というテーゼが証明されたと言えよう。言い換えると、唯物的意識や唯物科学主義は狂気であるということになる。これは悪魔論から言うと、アーリマン暴力と言えよう。】
 さらに展開すると、高次元の他者を否定・抑圧・排除・隠蔽する同一性主義自己意識であるが、これは反動様式であり、高次元の他者からの逆襲を被るのである。これが、狂気衝動、狂気暴発なのである。
 何故なら、先に述べたように、高次元の他者のエネルギー、差異共鳴エネルギーが主導・能動的であるからであり、それに逆らうことは、反作用を受けるからであり、この反作用=反動が衝動・暴発・発作となるからである。言い換えると、狂気・暴力衝動が発生するのである。
 また、うつ病等の心病(語弊があるので、精神病という用語は使用せず、心病という造語を使用する)は、この点から、解明される。それは、高次元的他者、差異共鳴エネルギー、精神・霊性エネルギーを拒絶しているので、端的に、生命・生産・創造エネルギーが枯渇するということを意味すると考えられるので、心病、とりわけ、うつ病を発症すると考えられるのである。
 だから、心病を治癒するには、高次元エネルギーを受容する意識の「改造」が必要なのである。伝統的には、禅等がこのようなものであったが、戦後近代合理主義で伝統が稀薄になってしまっている。
 端的に、どうやって、超越エネルギーを受容する意識を形成するのだろうか。基本的には、トランス・モダンの発想が必要である。モダンの成果を乗り越える形の超越化なのである。この点を間違えると、オウム真理教のようなカルトになるのである。
 私見では、ルドルフ・シュタイナーの霊的修行は、いちおう、トランス・モダン的様式ではあるが、あまりに、超越性に傾斜しているので、現実的ではないと思うし、根本的に、問題があると思うが、その点はいつか明示したい。
 諸方法があるが、仏典を読むのもいいし、良質な哲学書を読むことがいいと思う。何故なら、知性・理性から、超越エネルギーを形成する鍛練になるからである。
 しかし、思うに、是と言って、良質な哲学書とは何だろうか。フッサールの『デカルト的省察』がいいのかもしれない。あるいは、プラトンの書がいいかもしれない。あるいは、ドゥルーズの『差異と反復』も、連続性批判の視点から読めば、いいだろう。
 エクセントリックではあるが、以下のシュタイナーの書は超越的自己の形成のためのマニュアルとなるだろう。ただし、薔薇十字瞑想法は薦めないが。

いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫)
ルドルフ シュタイナー (著), Rudolf Steiner (原著), 高橋 巌
(翻訳)  
 
 また、小説家であったD. H. ロレンスの『黙示録論』も薦めたい。これは、西欧人が書いたユダヤ・キリスト教批判の大傑作であり、東洋文化への回帰を説いているものである。
黙示録論 (ちくま学芸文庫) (文庫)
D・H ロレンス (著), 福田 恆存 (翻訳)

また、未読であるが、以下が経済にも関係するのでいいかもしれない。
P.R.サーカーのことば (単行本)
シュリ・プラバート・ランジャン サーカー (著), Shrii Prabhat Ranjan Sarkar (原著), 石戸谷 滋 (翻訳)

マイクロヴァイタ論とPS理論:マイクロヴァイタとMedia Point

2009-02-08 20:36:03 | プラトニック・シナジー理論
以下の、P. S. サーカーのマイクロヴァイタ論(直訳すれば、ミクロ生命論)は、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)と通じるものがあると直感される。
 興味深いのは、マイクロヴァイタには、霊妙な部分と粗雑な部分があり、物質も同様であるという点である。
 直感では、マイクロヴァイタとPS理論のイデアは通じるものがあるのである。思うに、マイクロヴァイタは、Media Pointと考えるといいかもしれない。何故なら、次のように述べているからである。

Microvita are a happy blending of matter and idea. There is a silver lining made of the initial stage of matter and the final stage of microvita. Or in other words, between the final stage of microvita and the initial stage of matter there lies a silver lining.

a silver lining made of the initial stage of matter and the final stage of microvitaの「銀の裏」が核心である。Media Pointの形成する即非性において、確かに、「銀の裏」が生じよう。つまり、イデア(差異)と物質(同一性)の境界、いわば、転換境界がサーカーの説く「銀の裏」となるだろう。ここで、D. H. ロレンスが、真の太陽は後ろ向きであると述べた言葉を想起する。真の太陽の背中が「銀の裏」である。
 不連続的差異論の時期に展開した考察から言えば、イデア(差異)と物質(同一性)の境界には、イデア面と物質面があるということになる。そして、「銀の裏」とは、的確に言えば、境界のイデア面となると考えられる。
 また興味深いのは、マクロヴァイタと物質には、霊妙な部分と粗雑な部分の二重性があるとサーカーが述べている点である。
 これをPS理論的に説明するなら、イデア自体、つまり、虚軸事象は霊妙な部分であり、Media Pointにおいては、粗雑な部分であり、また、物質においては、Media Pointは霊妙であり、その帰結は粗雑な部分である。
 この問題は不連続的差異論の展開の時期に行った諸検討に通じるものであるが、今、哲学の問題に関連して述べたい。
 問題は、ハイデガーを含めてポスト・モダン哲学(主に、ドゥルーズとデリダ)をどう明確化するかである。この点については、かなりブレているのである。
 先に、ハイデガーの「存在」を同一性における無意識のMedia Pointの情態と言ったが、それではまだ、理論的には、不明瞭な部分があるのである。これを、マイクロヴァイタ論の視点を援用すると明確になるように思えるのである。
 結局、Media Point の虚軸面と実軸面に見ると、この問題がクリアになるのではないだろうか。即ち、端的に言えば、ハイデガーの存在論は、Media Pointの実軸面を存在としているのであり、世界内存在とは、同一性意識であると考えられる。つまり、Media Point実軸面=「存在」から同一性志向性によって同一性意識=世界内存在(ないしいは、現存在)が形成されるということと考えられる。
 また、ドゥルーズの場合であるが、Media Pointの特異性・特異点の不連続性をまったく無視する誤謬に囚われていると考えられるのである。つまり、イデアと物質が連続化してしまい、ヘーゲル哲学のようになっているのである。同一性は普遍性となるのである。これは、政治的には、全体主義である。結局、ドゥルーズの思想には、Media Pointが不在なのであり、だから、内在性(同一性)の思想を説くことになったと考えられる。そう、唯物論である。
 次に、デリダの場合であるが、以前述べたが、やはり、ハイデガーの思想を踏襲していると考えられるのである。即ち、Media Pointの実軸面=「存在」と同一性(物質)との「差異」を差延として捉えて、脱構築主義を唱えたと考えられるのである。
 その「差異」=差延は、一種の不連続性があるのである。(しかしながら、十全なMedia Point自体の不連続性ではない。)即ち、Media Pointの実軸面がもつ不連続性があるということである。(つまり、非決定性である。)
 そして、後期デリダは、このMedia Pointの実軸面を撮り出したと言えよう。しかしながら、デリダは、フッサール現象学の超越性を彼の哲学の出発点において否定しているので、十全な Media Point、まったきMedia Point、純粋なMedia Pointには到達できなかったと考えれる。これで、ブレが解消され、斉合的に説明できたと考えられる。
 さて、最後に、やや飛躍的であるがプラトンの『ティマイオス』の有名な「コーラ」について、ここでの検討を踏まえて、端的に述べたい。
 「コーラ」とは、結局、十全なMedia Pointのことと考えられる。プラトンは、同一性志向性としての「イデア」を述べてはいるが、それの母体として、やや謎めいて、十全、まったき、純粋な Media Pointを説いたと考えられるのである。これで、西洋哲学の謎が解明されたと言っても過言ではないだろう。
 
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Microvita exist in the world of ideas as well as in the crude world. That which exists purely in the world of ideas is beyond laboratory research, but in the latter case research can be done in physical, chemical and biological laboratories. Though this microvita research is to be done within the inner mind, inside idea, inside spirit, tests are to be started in physical laboratories.

Microvita are a happy blending of matter and idea. There is a silver lining made of the initial stage of matter and the final stage of microvita. Or in other words, between the final stage of microvita and the initial stage of matter there lies a silver lining.
21 May 1989, Calcutta

The initial stage of matter is beyond perception. It falls into the category of the subtle realm of science. Most of the atomic research done until now has been done on the basis of the guessing method, because different stages of the atom, and different constituent parts of the atom, do not come under direct perception―they come within the arena of human concept. That is why microvita research is to be done first in the mental laboratory.

Both atoms and microvita have subtler and cruder portions. The portion which is closer to idea is subtler and the portion which is closer to matter is cruder. For studying the cruder portions of both atoms and microvita, physical laboratories are necessary. For studying the subtler aspects of both, spiritual practices are necessary. The portion of atoms which have a close proximity to idea―that is, the subtler portion of atoms―is understood by spiritual practices. This part cannot be understood in physical laboratories only.
http://www.ru.org/10-2Sarkar.htm
Renaissance Universal

Media Pointと同一性自己の関係:拠り所のなさと同一性への没入:1976年ロッキード事件

2009-02-06 17:57:50 | プラトニック・シナジー理論
先に、Media Pointから発する同一性志向性は同一性を形成し、その時点で、差異を否定していると言った。言い換えると、Media Pointを否定しているということになる。ここは意外に微妙な点である。
 これまでの考え方では、Media Pointが同一性に転化するのである。即ち、⇒+1である。結果としての+1には、もはや、Media Pointであり⇒が消失しているのである。だから、その点では、Media Pointの否定であると言えるかもしれない。しかしながら、積極的な否定ではない。
 問題は、Media Pointが自己回帰するときである。そのとき、差異が発動するのである。それは、どこに「発現」するのだろうか。
 否、その問題に答える前に、同一性形成のときのMedia Pointの位置や同一性の意識について考察しよう。
 同一性、あるいは、同一性意識において、消失したMedia Pointないしは差異はどこに潜在するのだろうか。思うに、意識という点にMedia Pointが潜在しているのではないだろうか。そう、フッサールのノエシスとしての同一性意識があるのではないだろうか。そして、同一性自体は、ノエマではないか。
 それを作業仮説とすると、同一性意識(ノエシス)にMedia Pointが潜在していると言えよう。しかし、意識自身は、その潜在に気がつかない。正に、無意識ないしは潜在意識である。
 そして、先の問い、即ち、Media Pointが差異共振性に自己回帰したとき、それはどこに「発現」するのか、考えてみよう。
 直観で言えば、同一性自己意識内部にMedia Pointないしは差異が発生するのである。それは蠢きのようなもの、そう、不安のようなもの、未知のもの、等々である。(端的に言えば、他者であるが、初めは他者とは気づかない。)
 言い換えると、エネルギーであり、情動的なものである。そう、ニーチェの用語で言えば、ディオニュソスである。(だから、同一性意識はアポロとなる。)深層心理学は本来これの探究であると考えられる。これは、正に、精神身体的なものと考えられる。
 近代合理主義はMedia Pointの自己回帰エネルギーを抑圧するのである。そして、同一性自己意識を中心化するのである。即ち、近代的自我・同一性主義の発生である。
 つまり、Media Pointの自己回帰エネルギー(以下、再帰エネルギー、等)は、同一性意識にとって不可解なものなので、否定・抑圧・排除・隠蔽するのが、同一性を保持するために必要となると考えられるのである。これは、父権的な発想であり、母権的な発想は、本来、再帰エネルギーが中心化しているので、それを抑圧せずに、保持すると考えられる。つまり、同一性と差異との共生が母権的意識にはあると考えられる。
 つまり、父権的意識とは、同一性に傾斜しているので、再帰エネルギーを正当に認識できずに、それを支配しようとするのである。それが、抑圧・排除である。
 しかしながら、これまで述べてきたように、再帰エネルギーは正当なものであり、これを取り入れなければ、それは、狂気化して逆襲するのである。そう、うつ病、その他の心の病(以下、心病と造語する)、また、さらには、暴力、犯罪行為を発現すると考えられるのである。
 近代的自我・近代合理性とは正に、このような様態なのであり、危険な様態であると言えよう(私は狂気と呼んでいる)。これは、デカルト哲学に問題があると言えよう。デカルトは、自己意識を積極的に肯定したものの、再帰エネルギーをあいまいなものとして排除したと考えられるのである。(フッサール現象学は、この再帰エネルギーの探究にあったと言えるのではないだろうか。)
 コギト(「我思う」)において、本来、再帰エネルギーが入るのである。それにどう対処するのかが、自己認識のいちばんの問題である。
 しかし、デカルトはそれを排除したため、硬直したコギトを形成してしまったと言えよう。そして、デカルトを継いだスピノザやライプニッツは、再帰エネルギーをコギトに取り込むことに着手して、それなりの成果をあげたと言えよう。(これらは、いつか詳述したい。)
 文化史・思想史で言えば、啓蒙思想とロマン主義の関係となるだろう。極言すれば、前者はデカルトを継いでいるものであり、後者はそれへの反動性を含み再帰エネルギーのみを肯定しようとしたのである。
 そして、19世紀後半から20世紀初期ないしは前半にかけて、この二項対立が煮詰まり、脱近代を志向する創造が文理両界において為されたと言えるだろう。即ち、哲学・思想(ニーチェ、ベルクソン、フッサール、鈴木大拙、西田幾多郎)や神秘学(ウスペンスキー、シュタイナー)や文学・芸術(「モダニズム」文学、「モダン・アート」、漱石や賢治)や自然科学(相対性理論、量子力学)や数学(ゲーデル)等において。そして、この脱近代の思潮は、20世紀後半においては、ポスト・モダンとなったのである。
 さて、本題にもどると、同一性意識において、再帰エネルギーが発動し、同一性意識は、一種落ち着きのなさを感じると言えよう。それは、正に、アイデンティティ(同一性)の危機なのである。再帰エネルギーの初期様態をとりあえず、頼りなさ、乃至は、拠り所のなさと言おう。
 これは、確かに落ち着きがなく、きわめて不安である。自己の基盤がないからである。(この視点からデカルト哲学を見ると、それは、以前述べたように、Media Pointから発しているというは正しいだろう。今言えば、デカルトは同一性意識と再帰エネルギーの葛藤に悩み、後者を否定して、前者を選択したと言えよう。)
 結局、ポスト・モダン哲学は不十分であり、いわば、頓挫してしまい、ハイパーな、反動的な近代的自我・近代合理主義が回帰したと言えよう(参照:大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」)。もっとも、ポスト・リーマンとなり、時代精神に各自に変化が起きていて、基本的にはトランス・モダン思潮となっていると言えよう。
 とまれ、まだ強く残る反動的近代的自我・近代合理主義に焦点を絞ろう。結局、哲学がきわめて不十分なために、再帰エネルギーを認識するという課題が知的フィールドにおいて欠落しているのである。(ただ、深層心理学で、不十分ながら、捉えようとはしたとは言える。)
 結局、再帰エネルギーを知的に認識できない知的蒙昧の状態が今日起きているのである。そして、近代合理主義・近代的自我に即して、それを無意識に抑圧・排除・隠蔽する心的事態が社会的に蔓延していると考えられるのである。
 そのために、無意識の再帰エネルギーが反動的に狂気として発動するようになっていると考えられるのである。そして、うつ病を初め「心病」、無知蒙昧、暴力・犯罪等が蔓延しているのである。
 そう、再帰エネルギーに対して、無意識・無知であることが蔓延して、無知・狂気・暴力・犯罪等を生んでいると考えられる。つまり、近代合理主義・近代的自我に染まっているので、再帰エネルギーを無意識のうちに抑圧・排除するという暴力を行っているのである。自動・機械的抑圧・排除である。ロボット的抑圧・排除である。メカニズム的抑圧・排除である。
 いったい、この「自動制御」はどこで「埋め込まれた」、即ち、洗脳されたのか、である。
 巨視的には、戦後の占領政策によってであるが、「直近」では何か。印象・直感では、なにか、再帰エネルギーの探究である思想・知の教養がまったく欠落していることが心因であると思える。そう、それこそ、正に、近代合理主義・近代的自我イデオロギーに拠ると言える。
 そのイデオロギーが日本社会に浸透してしまって、それ以外の思想・知をほとんど考えられなくなっているのではないだろうか。やはり、戦後のGHQの占領政策の帰結としての近代合理主義・近代的自我のイデオロギー蔓延ではないだろうか。それは、言い換えると、まったく他者を喪失しているのである。
 それは、また、端的に、日本社会の衰退を意味しよう。エネルギーの枯渇でもある。
 「東海」氏の考えを借りれば、官僚のもつヒエラルキー志向(貧富差別)が日本人に蔓延したと言うことになる。(官僚はルシファー的暴力が主導的であり、アーリマン暴力を帯びている。いわば、封建的唯物論である。)
 この問題は言い換えると、日本的個の喪失の問題なのである。個であることを忌避する無意識の強制の内的メカニズムが形成されているのである。(日本の世間、即ち、同一性主義疑似共同体の問題もここにはあるが。)
 私見では、日本は70年代半ばに劇的に変化したのである。年号を言えば、1976年頃である。ここにおいて、戦後の左翼変革社会運動が終焉して、企業パラダイムが中心化し出したと思われるのである。つまり、同一性主義的資本主義パラダイムの主導化である。
 当時の私の気持ちを言えば、個的感情を失い、企業パラダイムに合わせた画一的な発想が浸透したのである。平俗に言えば、リクルート主義の発生である。そう、そこに、端的に、同一性主義の発生を見ることができる。同一性的フレームの発生である。(その頃、日本の歌謡曲も変化した。象徴的なのは、ピンクレディーである。それは、個的叙情を無くしたのである。もっとも、ピンクレディーは歌謡曲の構造主義である。クラシック音楽では、カラヤンが構造主義と考えられる。)
 とまれ、1976年前後が、日本の近代合理主義・近代的自我の形成期と言えるのではないだろうか。
 思うに、その形成の裏には、なにか意図的なもの、洗脳的なものがあるように感じられるのである。思うに、田中角栄氏のロッキード問題もその頃である。否、正に、1976年である。そうすると、米国の覇権の意志がそこにはたらいているということになる。高度成長を達成した日本経済を衰退させる意志がそこにははたらいているということだろう。言い換えると、究極的には、米国の同一性主義金融資本主義の意志がそこにはたらいたということだろう。それは、「ロスチャイルド」路線と「ロックフェラー」路線である。支配の意志がそこにはあり、それが、日本経済を解体させるべく画策したのではないのか。
 そう、同一性主義金融資本主義の強制がそこにあったと考えられる。それで、日本社会に個の否定とリクルート主義的画一主義が蔓延したのであり、結果、今日のハイパー近代合理主義・近代的自我の狂気・暴力が帰結したと考えられるのである。
 どうやら、これが、正解であるようだ。単に、戦後の「連合国」による洗脳だけでなく、1976年前後の米国の同一性主義金融資本主義による洗脳が、今日のハイパー近代合理主義・近代的自我をもたらしたと考えられるのである。
 恐ろしき米国の意志である。それは、ユダヤ・キリスト教的同一性主義金融資本主義の支配意志・覇権主義なのである。
 解答が出たので、ここで留める。

参考:
2:金脈問題とロッキード事件の真相

はじめに
1:田中政治と田中の慧眼
2:金脈問題とロッキード事件の真相
3:新田中政治への期待

4:ロッキード事件とマスコミ
4-1:マスコミの専制主義
4-2:調査報道と私刑
4-3:田中元首相とマスコミ

5:ロッキード事件判決と世論
5-1:10・12判決の意義
5-2:真実に背を向ける世論の偽善
5-3:田中元首相の実像と虚像

6:第二次田中時代の展望
6-1:判決以後の政治と国民の期待
6-2:田中政治への期待
あとがき

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 金脈問題とロッキード事件は、決して無縁な事件ではなくその底流に流れるのは、三木元首相を首魁とする反田中政治勢力の田中追い落し謀略である。

 彼らは金脈問題で田中内閣を潰し、ロッキード事件で田中角栄個人を血祭りにあげるべく画策し、作戦を押し進めた。

 どこまでも卑劣な彼らは、金脈問題でマスコミを味方に引き入れ、反田中、田中壊滅の一大キャンペーンを張り、田中内閣を潰した。

 金脈問題で予想を上回る成功を納めた彼らは、続いてロッキード問題をデッチあげ、反田中の攻勢を一段と強化した。

 金脈問題での反田中活動は、反田中政治勢力とマスコミ勢力の連合戦線であったが、ロッキード事件は、彼らに検察と裁判所が参加して大連合戦線を形成。田中攻勢に一段の拍車がかかった。彼らの謀略を分析すると次のようになる。

 主流の反田中政治勢力は、自民党内の反田中勢力、野党勢力と結託する一方で、米国謀略機関とも情を通 じて、政治的な田中打倒作戦を展開した。

http://www.gyouseinews.com/reference/tanaka_lockheed/tanaka_lockheed2.html

行政調査新聞

父権的同一性主義と父権宗教:父権主義と母権主義の対極性と進化

2008-10-30 12:18:06 | プラトニック・シナジー理論
父権的同一性主義と父権宗教:父権主義と母権主義の対極性と進化

テーマ:一神教/多神教

先に、古代ローマに父権的同一性主義の根源があるのではないかと言ったが、問題は、父権宗教と父権的同一性主義の関係である。思うに、ギリシア神話が重要になると思う。何故なら、ギリシア神話は父権神話と母権神話が衝突していて、その屈折が描かれていると考えられるからである。
 先に言ったが、ギリシア神話は、両方の調和を探究していると考えられる。PS理論的に言えば、トランス・モダンの探究である。
 父権文化と母権文化の調和ということは、思うに、父権知性と母権感性の調和となる。父権知性ないしは知性性が重要である。母権文化は知性というよりも、感性であったと思う。もっとも、感性に包摂された知性は存しただろう。それに対して、父権文化は、知性主義になるのである。知性主義と感性/知性主義の調和を目指していた。
 父権神話ないし父権宗教は、偶像の禁止に及ぶ。感覚ではなく、知性、それも抽象的知性である。(イデア論もこの文脈で見るべきであろう。)
 この点では、父権宗教と父権的同一性主義は同質である。そうすると、単に古代ローマだけに父権的同一性主義の根源を見るのは、誤りである。
 やはり、父権宗教=父権的同一性主義として見るべきであろう。そうすると、ユダヤ教がやはり、象徴的であるが、それがすべてではない。
 思うに、Media Pointの+iへの傾斜があり、それが、父権的知性主義を生んだのだろう。(-iへの傾斜としても同じである。)
 トランス・モダンとは、この知性主義を土台にして、新たに感覚性、差異共振感覚を形成することを意味しよう。知性が支点になっていることに注意である。単に感覚・感性ではないのである。
 ということで、父権宗教=父権的同一性主義ということであり、古代ローマだけに根源を求めることはできないということになる。
 ただし、古代ローマにおいて、父権宗教=父権的同一性主義がきわめて強力にはたらいたと考えられるのである。だから、帝国主義になったと考えられるのである。古代ギリシアにあった父権主義と母権主義の両極性が破綻して、父権主義が中心化されたと考えられるのである。
 キリスト教とは、このような背景が生まれた宗教である。
 とは言え、実際は、父権主義の潮流と母権主義の潮流の衝突が続いていたと見るのが正しいのではないだろうか。そして、父権主義の方が主導的であったために、キリスト教といういわば折衷宗教が誕生したのではないだろうか。それがカトリック教会ということになるのである。
 飛躍するが、今日、この父権主義の主導性が崩壊したと考えられるのである。だから、新母権主義が主導的になると考えられる。ただし、父権主義の形成した知性、例えば、科学・技術は基盤となるのである。

検討問題:1)現象界について:-1と+1の即非様相:物質と差異共鳴精神身体現象

2008-07-27 13:44:43 | プラトニック・シナジー理論
1)現象界について
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-19.html

以上の迷惑コメントがあった記事(「メディア界の連結力学・構造について」)は、不連続的差異論を説いていた頃のもので、約三年前のもの(2005年10月07日付け)であったが、それを読み返して、現象界についての発想が浮かんだので、ここで検討したい。
 問題は、以前にも検討したが、-1と+1との関係である。この問題は実に興味深い、いわば、不思議な問題である。
 -1は同一性主義である。それは、自己同一性主義であり、自我主義であり、物質主義である。フッサールが『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』)で述べたことと関係する。フッサールが批判する自然的態度は、-1の自我主義的見方であるのではないだろうか。
 +1の見方とは、差異共振・差異共鳴の精神身体認識(精神身体はMedia Point的であるが、思うに、精身を造語したい)であるが、通常は、ないしは、ポスト・モダンは、-1と+1とが混淆して、連続化しているのである。【p.s.  -1と+1との混淆は、ドゥルーズの場合に的確にあてはまる。デリダの場合は、そうではないので、陳謝し、訂正したい。デリダの脱構築主義は、微妙なところがあって、不連続的差異論に近いのであるが、超越性の否定を前提にもって、諸哲学において、-1と+1が共存している様相・様態を確認して、-1の同一性システムに対して、+1の差異が並存している事態を提示して、同一性システムを脱構築するものと考えられるのであり、混淆というよりは、同一性と差異との併存と言わなくてはならない。】
 ここで端的に、構想を言うならば、物質現象とは-1であり、精神身体現象は+1である。しかしながら、現代の見方は、前者中心であり、後者は否定・抑圧・排除・隠蔽されていると考えられる。
 ここで、やや迂回して、量子論について言うと、それは、物質同一性-1の近代科学に対して、+1のトランス・モダン・サイエンスを提起しているのではないだろうか。ただし、量子を物質主義的に捉え、イデアとして捉えていないので、不十分と考えられるのである。イデア(対極イデア:正確に言うと、双極イデアか?。四元的イデアということになるし、Media Pointを加えると、五元的イデアとなるのではないだろうか)の共鳴である量子という考えには達していないのである。【電磁波は、結局、イデアでいいのではないだろうか。一般的には、まだ、物質主義的視点で捉えているだろう。イデアとしての電磁波であろう。】
 ということで、現象とは、一般には、-1の物質現象として考えられている。しかし、心的現象・精神現象があり、これがうまく捉えられていないのである。例えば、「気」をどう捉えるのか、ということもあるし、どのように宗教現象、神秘現象を理解するのかということもある。それらを脳生理学的に捉える傾向があるが、それはやはり、物質主義である。 
 心的現象は、+1と捉える必要があるだろう。フッサールは『危機』で、-1という自然的態度を還元(解体)して、(⇒)+1の超越論的主観性を説いたと考えられる。ただし、既述のように、フッサールは主観的同一性に囚われていたので、差異共鳴(太極イデア)という考えには達しなかったのである。
 端的に言えば、現象の表層は-1の物質現象であり、現象の深層・実相は+1の精神現象(精神身体現象)であるということになる。そして、-1と+1とは即非様相にあるということになろう。先にバッハ音楽について述べたが、バッハ音楽は、-1の聴覚を介して、+1の精神現象(差異共鳴現象)が奇跡的に豊饒に表現されていると言えよう。そして、芸術の感動とは、+1の表現を介して、Media Pointが開いて、イデアに接することにあるのではないだろうか。崇高さとは正にそのように考えられるのである。そう、正に、プラトンの説いた美や善はそのようなものであろう。また、根源的真理はそのようなものだろう。
 さて、ここで、再度、ポスト・モダンについて触れると、超越性(虚軸、イデア性)を否定して、Media Pointを実軸に留めているので、その差異(差延)とは、ゼロに閉塞した+1を意味するのであり、それで、袋小路になっているのである。つまり、虚軸・超越性のもつ開放性がないのである。閉塞された差異と言えるのである。だから、ポスト・モダンは、モダンとトランス・モダンの境界にあると言えるだろう。モダンの縁と言えよう。
 では、構造主義はどう把握できるだろうか。直感では、ほとんど、ポスト・モダンに近いのである。二元対立構造は、言わば、-1の視点から見た+1で説明ができそうである。つまり、物質的二元論(二項対立)の視点から、精神身体現象+1を見ると、二元対立構造が現われると考えられるのである。つまり、即非性のない対立構造である。せいぜい、両義性の構想に留まるのである。【デリダのファルマコンの考えも、これに近いだろう。】
 整理するなら、構造主義は、物質主義-1から差異現象+1を見たものであり、ポスト・モダンはゼロ・ポイント⇒+1の理論と言えようか。そして、不連続的差異論はMedia Pointを捉えた一つのブレークスルーと考えられよう。そして、PS理論は、さらに差異をイデア的共鳴現象と捉えたのである。【p.s. デリダの脱構築理論は、上述したが、不連続的差異論に接近している。ただし、水平軸的特異性としての差異を捉えているので、垂直性が欠落しているために、いわば、三次元にとどまっているのである。】
 

2)日本人に個はあるか。昨日の雑踏を見て、また、公的空間でべたべたする男女を見て、日本人は、個として独立しているのかと思う。
 官僚支配唯物社会主義体制下にあって、日本社会において、日本人は個としての営為をもたないように、抑圧されているのではないだろうか。官僚封建主義にあって、官僚中央集権によって、政治、経済、メディア、教育、文化等々が支配されているのであり、個としての自由な営為をもてないように、巧妙に抑圧・拘束されているのではないだろうか。
 一般の日本人は、その被束縛が、もう気がつかなくなっているのではないのか。いつの間にか、差異を抑圧する同一性主義に染まっているのに気づいていないように思えるのである。つまり、日本人は、同一性主義という「精神病」に罹っているのではないか。
 


3)「精神分裂症」について:同一性主義は、「精神分裂症」を生む。
 同一性資本主義は、パラノイアと同時に、「精神分裂症」を生むのではないだろうか。【p.s.  これは、理解しやすい。何故なら、同一性主義は、自己同一性完結主義=パラノイアとなるのであり、同時に、否定・排除・隠蔽した差異他者-iが、他者の人格として、発現すると考えられるからである。これでは、二重人格であるが、Media Pointの多様・多元性を考えれば、多重人格が考えられよう。】


4)言語空間について:言語とMedia Point精神身体現象

ナルシシズムと同一性の関係:陽化による自己同一性主義=二項対立の発生と一神教的西洋形而上学

2008-07-24 18:18:08 | プラトニック・シナジー理論
ナルシシズムと同一性の関係:陽化による自己同一性主義=二項対立の発生と一神教的西洋形而上学

テーマ:差異と同一性

今は簡単に考察するだけであるが(p.s. 詳述となった)、今日の多くの日本人の陥っている自我意識であるが、これは、ナルシシズムが基盤にあると思われるのであり、この力学を明確する必要があると思いついたのである。
 これまで、何度も考察してきたが、今一つ決定力の欠ける考察と言わざるを得ない。そういうことで、精緻に考察を試みたい。
 同一性主義の自我にある自己中心主義エネルギーはどこから来るのか。そこには、尊大な興奮があり、侮蔑・軽蔑・嘲笑・愚弄・見下し・嫌悪・憎悪等があり、高圧・慢心・高慢・傲慢さ等々がある。また、怒りや憤激がある。衝動的であり、独断・専断・独善的である。いわば、病的な同一性心性なのである。
 当然、理論的には、二項対立がある。自我が優越し、他者が劣等である。この自我優位/他者劣位の二項対立性とは、これまで、検討してきたように、同一性による差異(他者)の否定に存すると言えよう。
 端的に、自我による他者の「見下し」の原因は何か。根本から考えると、優越感以前には、劣等感があると考えられるのである。自我は、同一性主義となる以前は、差異に対して、劣等感を感じていたはずである。劣等感ではなくても、少なくとも、「自信喪失」である。
 ここで少し迂回してみよう。女神の神話においては、当然、中心・支配者は女神である。その脇侍のように、女神の子の男性(双子)がいる。【参照:釈迦三尊仏の様式】
 そして、父権神話とは、その補佐であった女神の子が独立することに存する。英雄神話の半面はこれと重なる。
 この女神の子・男性の独立が、同一性形成を導くと考えられる。問題は、何故、女神の支配から独立する必要があるのかである。
 女神の支配とは、原始的な差異共振様相を意味すると私は考えている。だから、原始的差異共振様相から独立する女神の子=「英雄」が存するということである。
 何故、独立するのかと言えば、それは、差異・他者である差異共振様相から分離する要請があるからだろう。つまり、自己同一性(=自我)を形成する要請である。
 そして、いったい、この要請とは何なのかということである。この問題については、既に繰り返し繰り返し検討した。しかし、そこでは、否定的な評価があった。差異共振性における悲・苦が存するので、それを否定・抑圧・排除して、自己同一性(自我)の優位を構築するということことであった。
 しかし、Media Pointにおける太極を考えると、そこには、自然の転変する力学が考えられる。陽極へと志向する力学が生ずるときが考えられる。このときは、当然、陰極を否定する力学となると考えられる。
 PS理論から言えば、陰極-iを否定して、陽極+iへと志向する力学である。暫定的に、陽化と呼んでおこう。当然、同一性化である。理論的には、(+i)*〔-(-i)〕⇒-1と考えられる。平明に言えば、+iの自乗、(+i)^2=-1である。
 しかし、このように考えると、構造主義的である。主観が入らないのである。思うに、自然力学の一環として、構造的に陽化があることは認める必要があるのではないだろうか。
 問題は、陽化が発生して、同一性意識(自我意識、自己同一性意識)が形成されても、否定されたとは言え、陰極-i自体は現存しているのであるから、陰極のもつ「力」ないしは「エネルギー」は隠然として存していると言わなくてはならない。つまり、陽化によって、同一性自己(自我)が形成されても、いわば、無意識においては、陰極-i、差異、他者が存しているのであり、それが、同一性自己(自我)と対立していると考えられるのである。
 即ち、精神現象(正確に言えば、精神身体現象である)において、同一性自己と差異他者の対立が厳然として存在しているということであり、矛盾・葛藤・齟齬の様態にあるということになる。永遠の対立である。
 しかしながら、陽化においては、同一性志向性が優位にあるので、当然、陰極である差異他者は劣位におかれると端的明快に言えるのではないだろうか。これが二項対立の根因・起因であると考えられるのである。だから、同一性自己は他者差異の否定に傾斜する力学をもつのである。ここに、上記の否定感情が入ると言えるだろう。これで、一つの問題、即ち、二項対立の発生原因は解明できたとしよう。【p.s. 一点注意すべきことは、本来、+iと-iは共振様相ないしは極性・対極性様相にあるのであり、他者差異-iの否定は、単に、陰極の否定だけではなく、差異共振(共鳴)性の否定でもあるということである。】
 次は、ナルシシズムである。しかし、この問題はもう以上の考察から自明的であると考えられる。即ち、陽化=同一性化とは、陽極が陽極自体を映すことと言い換えられるのではないだろうか。つまり、「自己」が「自己」を映すということである。そう、鏡像である。つまり、陽極+iが鏡面となり、陽極自体+iを鏡像として映し、それと結合するということである。換言すると、自己鏡像化である。自己が自己を映すのである。自己完結主義である。
 これで、ナルシシズムの説明はつくのではないだろうか。そして、悪の発生もこれで説明できるであろう。同一性自己主義、ここに、ナルシシズムがあり、他者差異否定、つまり、反倫理があるのである。
 さて、最後に、敷衍的に、一神教(ヤハウェ的一神教)について、この視点から見てみよう。
 一神教、つまり、ヤハウェ的一神教であるが、それは、端的に、同一性自己の形而上学と言うことができよう。陽化の形而上学である。多神教・異教・自然宗教を排除するのは、陽化の徹底化と見ることができよう。【イエス教は、本来は多神教、女神教であると考えられる。だから、キリスト教は絶対矛盾的自己同一と言えないことはない。】
 しかし、重要な点は、超越神性ないしは超越性である。それは、多神教にはない点である。差異他者を否定したとき、それは、抽象化を意味するのである(抽象芸術と一神教との関係があるだろう)。偶像の禁止である。
 そして、超越性の根源は、イデア界(虚軸)にあると考えられるのである。PS理論から見ると、Media Point が、消失・喪失して、超越性と現象性の絶対的二元論が発生したと考えられるのである。神の世界と現象世界を結ぶものは、何もなくなったのである。ただ、信仰があるだけとなったのである。あるいは、キリスト教で言えば、キリストと聖霊を介すしか、神とのコミュニケーション(語呂合わせすれば、カミュニケーションである)はなくなったのである。
 ここでは、Media Pointの喪失がいちばんのポイントである。【これが、精神文化的に、西洋と東洋を分離するポイントである。】とまれ、ヤハウェ的一神教によって、いわば、超越的同一性自己主義が発生したのである。あるいは、形而上学的自己同一性主義の形成である。そして、これが、西洋文明の支配・主導的精神であり、これが、西洋資本主義を駆動させている精神であると考えることができよう。単に、同一性自己主義ではなくて、超越的ないし形而上学的同一性自己主義であるということである。その帰結が、今日のサブプライムローン問題である。
 根本的に差異共振精神を否定しているので、このような惨禍となるのである。ただし、イエスの精神には、本来、差異共振性があるのであるが、それが、ヤハウェ的一神教性によって、阻害されてしまっていると考えられるのである。

覚書:デリダの脱構築主義とMedia Point:MPゼロ度とトランス・ポスト・モダン

2008-07-23 09:53:00 | プラトニック・シナジー理論
覚書:デリダの脱構築主義とMedia Point:MPゼロ度とトランス・ポスト・モダン

テーマ:哲学
かつて、デリダの脱構築主義が独り歩きしていたと言えよう。しかし、今思うに、デリダの哲学は、そのようなキャッチ・コピーでは捉えられないのではないだろうか。
 今、思うところを言えば、問題は、特異性の哲学をどう打ち立てるのかにあったように思える。同一性主義が中心化している西洋文明において、特異性の哲学をどう構築するのかが、哲学者、とりわけ、現代の哲学者に要請されていたことと考えられる。
 私自身について言えば、特異性と同一性の問題が、生きる問題であったのである。私自身は、正に、他の何ものでもない個であるが、日本はオイル・ショック以後、70年代半ば以降、どんどん同一性が流通する社会となり、私は強烈な違和感をもっていたのであるからである。
 とまれ、今簡単にデリダ哲学について言うと、特異性という差異に対して、西洋哲学はこれまで、同一性の哲学を構築してきたのであるが、同一性のシステムを立てても、そこには、特異性という差異が付き纏っているのであるから、同一性のシステムは決定不能性に陥るというものではなかったであろうか。
 それは、不連続的差異論/PS理論から見ると、正しい考え方である。PS理論が明らかにしたように、特異性は実は超越性と現象性との交叉するMedia Pointに存するのであるが、デリダはフッサール批判そしてハイデガー哲学の擁護によって、超越性を排除していたので、差異からMedia Pointへと進展することができなかったと考えられるのである。
 思うに、ハイデガーの存在そしてデリダの特異性とは、PS理論で言えば、これまでの検討の結論を否定して、最初の考察に戻ることになるが、Media Pointの実軸点であると思われるのである。いわば、ゼロ・ポイントである。
 とまれ、デリダ的ポスト・モダンには、トランス・モダンへの契機があったことは確かである。結局、トランス・ポスト・モダンである。

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デリダのジョイス論とトランス・モダン

テーマ:メディア・ポイントMedia Point

デリダの『ユリシーズ グラモフォン』の訳者の一人の合田正人氏の解説が知的に刺激的である。できれば、後で、検討したいが、そこで、問題になっている哲学的事象は、端的に、Media Pointであると考えられる。デリダは、ドゥルーズ以上にMedia Pointに接近していたのである。しかし、既述したように、ハイデガー哲学の影響によって、デリダは超越性を排除してしまっていたので、明確に Media Pointを捉えることができなかったと考えられるのである。
 思うに、ドゥルーズの差異イデア論とデリダの超越論的差異論ないしは決定不能性論を統合すると、不連続的差異論になる。しかしながら、プラトニック・シナジー理論は出てこない。何故なら、ポスト・モダンは超越性を排除してしまっているからである。
 だから、未読であるが、レヴィナスをそこに加えるといいのかもしれない。ライプニッツ、スピノザを加えてもいいだろう。また、未読であるが『神的な様々の場』のジャン・リュック・ナンシーを加えてもいいのではないだろうか。
 しかしながら、一番の寄与は、ウスペンスキーの第三の論理学(正しくは、ターシャム・オルガヌム)や、鈴木大拙の即非の論理学、他からもたらされるだろう。矛盾が共鳴・共振する論理が決定的なのである。それが、トランス・モダンであり、トランス西洋文明なのである。
 自然科学では、量子論がその論理をもっている。即ち、粒子と波動の相補性である。

p.s. 因みに以下の翻訳が出版されている。デリダの修論だそうだ。

フッサール哲学における発生の問題 ジャック・デリダ、合田 正人、 荒金 直人 (単行本 - 2007/11/22)
http://www.amazon.co.jp/gp/search?field-keywords=%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%99%BA%E7%94%9F%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C&index=blended&tag=mozillajapan-fx-22&sourceid=Mozilla-search&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&linkCode=qs


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ユリシーズ グラモフォン―ジョイスに寄せるふたこと (叢書・ウニベルシタス) (単行本)
ジャック デリダ (著), Jacques Derrida (原著), 合田 正人 (翻訳), 中 真生 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BA-%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E2%80%95%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%AB%E5%AF%84%E3%81%9B%E3%82%8B%E3%81%B5%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8-%E5%8F%A2%E6%9B%B8%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%8B%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%82%B9-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF-%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%80/dp/4588007238

[思想]
2004.6.18 中井 悠
蓄音機の効果 (1/2)
ジャック・デリダ 「ユリシーズ・グラモフォン」
 およそあらゆるマーク(≒記号)たるもの、それが意味をもち、理解され、使用されうるかぎりは、たとえどんな私的なものであろうと、その担い手たる主体の不在においても反復可能でなければならない。というジャック・デリダが1968年の「署名・出来事・コンテクスト」以来口酸っぱく主張してきた反復可能性の議論は、だがいつもながらこの哲学者の語り口の曖昧さからしていらぬ誤解を招きやすい。
http://www.ream.ais.ne.jp/~fralippo/daily/content/200406180001/index.html

[思想]
2004.6.24 中井 悠
蓄音機の効果 (2/2)
ジャック・デリダ 「ユリシーズ・グラモフォン」
 もしボルヘスが物語ったような絶対的な記憶を持つ神のごとき存在、あるいはその逆に、ニーチェが嫉妬したような記憶という重荷と縁のない動物たちが相手であったならば、余計な言葉を費やさずともよかっただろう。だがあいにく語りかけられるべきは、その狭間にいる中途半端に頭の良い/悪い人間たちであり、その多くが対処すべく直面しているのは、忘却の不安(?)を抱えつつも反復はとりあえず成立しているという、いささか厄介な事態である。
http://www.ream.ais.ne.jp/~fralippo/daily/content/200406240001/index.html

DAILY COMMENTARY ||| JOURNAL SITE

(無意識的な)怒りや憤激とは何か:今日における短絡する精神の病理とトランス・モダン精神への進展

2008-07-20 11:28:30 | プラトニック・シナジー理論
今、フェミニズムの古典の本(『自分だけの部屋』)を読んでいて、そこに、女性の劣等性を論ずる男性の精神を分析して、そこに怒り、憤激があると指摘してあった。
 天才的な作家であるから、鋭敏な洞察力をもっている。私は、この怒りや憤激というものが、今日、日本(に限らないが)社会の精神病理を説く鍵ではないかと感じた。
 思えば、オウム真理教の信者たちの中にも、社会への憤激があったと思う。これが、反社会的破壊行動へと駆り立てたと言えるのではないだろうか。ニーチェ哲学で言えば、ルサンチマン(怨恨)である。【p.s. 私見では、中沢新一がグノーシス主義を説いていたが、オウム真理教に肩入れした彼の精神には、ルサンチマンが深く根差していると思う。】
 さらに思えば、小泉構造改革「ファシズム」も、社会にあるルサンチマンにつけ込んだ現象であったのであり、今日でもルサンチマンは重低音として蔓延していると言えよう。これが、短絡的な暴力行為・凶悪な犯罪の根因ではないかと思われるのである。
 ルサンチマンについては、これまで、同一性に傾斜している人間の精神から発生すると述べてきた。差異における反感が発生し、差異自体を肯定的に知性化できずに、暴力的情動であるルサンチマンが発生するというように考えた。
 ここに、怒り・憤激の要素を見ることができるし、そう捉えることで、今日の精神病理やそれに基づく犯罪を説明できるように思えるのである。
 では、怒り・憤激とは何か。つまり、短絡的な怒り・憤激とは何かということである。端的に言えば、ここには、他者の欠落・欠損した、自己同一性中心主義があると言えよう。
 だから、近代的自我・近代合理主義の病理ということができるし、父権主義の病理ということができると思う。それらは、端的に、同一性主義であり、差異・他者を否定・排除するのである。
 つまり、自己同一性主義の欲望中心であり、それに反する・否定する他者・差異を暴力的に否定・排除するといいうことである。
 これは、端的に、近代主義の帰結であると言える。差異を否定・抑圧・排除・隠蔽する近代同一性主義の帰結であると考えられるのである。
 (この無意識的な)怒り・憤激について、明確に述べよう。それは、自己同一性欲望主義がもつ差異への怒り・憤激ということだろう。それは、我が侭の極致である。独善・独断・専断的な自我主義・利己主義の極致であろう。
 一見、怒りや憤激には一見、倫理性・道徳性があるように見えるかもしれない。しかし、それは、いわば、偽装された倫理・道徳に過ぎず、本体は、究極の自己同一性欲望主義・利己主義であると考えられるのである。
 そう、ハイパー・モダンがここにあるのである。差異の究極的な否定がここに、怒り・憤激として出現していると考えられるのである。
 ポスト・モダンは、差異と同一性との混淆に帰結したが、今日、純粋差異・絶対的差異・特異性を肯定し、共振・共鳴するトランス・モダンの知性へと転換する時点に達していると考えられるのである。

p.s. 付け加えると、今日、差異が賦活されているので、自己同一性欲望中心主義は、反動的に、あるいは、狂気的に、衝動化していると考えられるのである。そう、差異のエネルギーの反動(狂気)がそこには入っていると考えられる。【p.s.  この点は精緻に考察する必要がある。同一性ルサンチマンは、差異エネルギーを排除するので、エネルギーが枯渇するのである。そして、心に真空状態が生じるのである。ここには、余裕、遊び、空間がないために、ショート(短絡)ないしは没入が生起すると考えられるのである。この真空的ショートと反動化された差異エネルギーが結びつくのではないだろうか。】

p.p.s. ルサンチマンによる怒り・憤激は、ファナティシズム(狂信主義)に通じていると考えられる。ブッシュ/ネオコンの発生の根因もここにあるのではないだろうか。(ルサンチマン・ファナチシズム、又は、同一性ルサンチマン・ファナティシズムという言葉を造語していいのではないだろうか。
 後で、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」の概念と比較検討してみたい。

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「勉強しろと言われ反感」 埼玉・父刺殺の長女

2008年7月20日 朝刊

 埼玉県川口市のマンションで19日、男性会社員(46)が刺されて死亡した事件で、殺人未遂の現行犯で逮捕された長女(15)が、武南署の調べに「両親から『勉強しろ』と言われることに反感があった」と供述していることが分かった。司法解剖の結果、男性の死因は包丁が肺まで達したことによる出血性ショックと判明した。

 長女は当初、取り乱して意味不明のことを話していたが、次第に落ち着きを取り戻し「父親とは普段からあまり会話はなかった」とも供述、武南署は長女に刑事責任能力があるとみて、さらに詳しい動機を調べる。

 長女が通うさいたま市内の私立中学校では校長らが19日午後、記者会見。長女の成績は3年生で中位で、期末テストで成績が下がった英会話の追試を18日に受ける予定だったが無断で欠席。担任が自宅に電話すると、小学6年の長男(12)が「風邪で寝ている」と答えたという。

 長女は3年生になり6月に1日欠席しただけ。校長は「いじめなどのトラブルはなかった」と戸惑いがちに話した。

http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2008072002000059.html?ref=rank

長女「父親とはあまり会話なかった」 刺殺事件

2008年7月19日23時43分


 埼玉県川口市のマンションに住む製薬会社員の男性(46)が、中学3年生の長女(15)に包丁で刺され、死亡した事件で、殺人未遂容疑で逮捕された長女が「父親とはあまり会話がなかった」と話していることが分かった。逮捕直後には「お父さんが家族を殺す夢を見た」などと話していたといい、県警は、長女の父親に対する思いと事件との関連を慎重に調べている。

 県警は19日午後、父親を司法解剖し、死因は肺を刺されたことによる出血性ショックと発表した。調べに対し、長女は「寝ているお父さんの上半身を2回刺した。その後のことは、気が動転していて覚えていない」と話したという。父親については「『勉強しろ』と言われて『はい』という、やりとり以外の会話はあまりなかった」といい、「大変なことをしてしまった」と反省している様子だという。動機につながるような話はしていないという。

 一方、長女の母親(49)は「2人は大きなけんかもなく普通の父娘で、動機に思い当たることはない」と話しているという。

 これまでの調べでは、同日午前3時ごろ、別の寝室にいた母親が、長女の「ギャー」という叫び声と父親のうめき声を聞いたため、父親と長男(12)の寝室に駆けつけて部屋の電気をつけると、長女はベッドの上でぼうぜんとし、台所にあったはずの文化包丁(刃渡り20センチ)がベッドに置かれていた。父親は吐血し、母親に「警察と救急車を呼んでくれ」と話し、警察官が駆けつけた時は床でうずくまっていた。長男は二段ベッドの上で寝ていて、母親が部屋の電気をつけるまで気がつかなかったという。

 県警によると、長女と父親は事件前日の18日昼、長男と3人で、自宅近くのファストフード店で昼食をとり、その後、「夕食はカレーにしよう」という話になり、スーパーに立ち寄った。午後5時ごろから、自宅で父親と長女でチキンカレーを作ったという。

 長女が通っていた私立中学校によると、長女は同日、英会話の追試を受ける予定だったが、学校に来なかった。担任が自宅に電話すると、弟が「風邪で寝ている」と答えたという。

http://www.asahi.com/national/update/0719/TKY200807190222.html


川口・父刺殺:前日一緒に買い物 母親「仲よかった」

 埼玉県川口市の私立中学3年の長女(15)が父親(46)を刺殺したとされる事件で、母親(49)は県警武南署の調べに「父親と長女は仲がよかった」と話している。長女と父親は事件前日に一緒に買い物にでかけ、カレーを作っていた。一方で、長女は「両親に勉強しろと言われると、やる気がなくなった」と供述している。学校によると最近は成績が下がり気味だったが、他にトラブルがなかったかを含め動機の解明を慎重に進める。

 調べでは、長女は両親と小6の弟(12)の4人家族。長女は19日午前3時ごろ、寝室で寝ていた父親の胸などを、台所にあった文化包丁で刺して殺害した疑い。3部屋に分かれて寝ていて、父親と弟が同じ寝室だった。司法解剖の結果、傷は胸と額の2カ所。死因は肺を刺されたことによる出血性ショックだった。

 調べに対し、長女は当初、「お父さんが家族を殺す夢を見た」という趣旨の話をしたが、その後は「上半身を2回ぐらい刺したが、後のことは気が動転してよくわからない。大変なことをした」。父親については「普段から会話はあまりなかった」と話している。勉強するよう注意されても言い争ったことはないという。落ち着いた様子で取り調べに応じているが、動機については話していない。

 母親の警察への説明によると、長女と父親の仲はよかった。18日は父親は仕事が休み。昼間に父親と長女、弟で買い物に行き、夜は、父親と長女が作ったカレーライスを家族で食べた。その後、両親と長女はビデオを観賞。弟は勉強していた。【浅野翔太郎、小泉大士、山崎征克】
 ◇将来の夢は薬剤師

 長女が通っていた埼玉県内の私立中学は事件を受けて19日午後2時から校長らが会見した。

 それによると、ほとんど学校を休んだことはなかったが、18日の英会話の追試験を無断欠席したため、担任が自宅に電話すると、弟が「姉は風邪で寝ている」と説明したという。終業式は22日の予定。

 成績は中ぐらい。2年の初めまでバスケット部だった。聞かれたことにははっきり答えるが、自己主張するタイプではない。将来の夢について、入学時や1月にあった担任らとの面談では「薬剤師」と伝えていた。教頭は「製薬会社に勤める父親を尊敬していると思った。かなり勉強しないと難しいぞと言うと、『頑張ります』と答えた」と話した。

 担任は「転校する生徒へのメッセージレター作りを進んで引き受け、優しい心の持ち主」と述べた。

 現場のマンションは川口市北部の住宅街にある。7階建てで約70世帯が入居。小学校が同じで別の中学に通う女子生徒(13)は「先週もマンション内で長女とすれ違うと、笑顔であいさつしてくれた。優しくて頭がよかった」と驚いた様子だった。家族の知人は「18日午後に父親と長女、長男が外出先から帰宅する姿を見かけた。仲がよさそうだったのに」と話した。【稲田佳代、弘田恭子】

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080720k0000m040113000c.html

夕食後にトラブルか=衝動的に父親刺す?-中3少女、供述に揺れ・埼玉県警

7月19日20時30分配信 時事通信

 埼玉県川口市のマンションで、男性会社員(46)が中学3年の長女(15)に殺害された事件で、長女が衝動的に父親を刺した可能性が高いことが19日、埼玉県警の調べで分かった。県警は家族での夕食後に、父娘の間に何らかのトラブルが生じたとみて調べている。
 調べなどによると、長女は18日、学校を休み、父親と長男(12)の3人で買い物に出掛けていた。夕方には父親と長女が仲良く一緒にチキンカレーを作り、午後11時ごろまでは特に変わった様子はなかったという。
 事件後も長女は放心状態で逃走する様子はなく、凶器の文化包丁も自宅の台所にあったものだった。
 このため、県警は18日深夜以降、2人の間にトラブルが起き、長女が衝動的に包丁を持ち出して父親を殺害したとみている。司法解剖の結果、父親の死因は出血性ショック死だった。 

【関連ニュース】
・ 「あきらめないでよかった」=小学卒業文集で中3少女-少女父殺害
・ 中3少女「夢は薬剤師」=3者面談で教諭に-父殺害事件
・ 中3少女、父を殺害=就寝中に刺す?顔と胸-マンション自宅で・埼玉
・ 散歩の親子刺され負傷=殺人未遂で男逮捕-茨城県警
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080719-00000094-jij-soci

次元について:三次元空間、四次元時空間、五次元超時空間

2008-07-13 16:26:26 | プラトニック・シナジー理論
次元については、これまでの検討では、+1が四次元時空間であり、虚軸が高次元、即ち、五次元であると考えた。しかし、先の簡単な応用では、実軸を空間、虚軸を時間としたが、そうすると、齟齬が生じるので、ここで、さらに検討をしたい。
 問題は、時間とは何か、ということになる。アインシュタインのエネルギー公式、E=mc^2から言うと、光速に時間が含まれている。つまり、PS理論で言うと、実軸の1に、時間が含まれていると考えられる。だから、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の右辺に時間が表現されていると考えられるだろう。
 イデア・エネルギー(トランス・エネルギー)を考えるならば、

Trans-Energy=m(+ic)*(-ic)⇒E=mc^2

である。
 そう考えると、虚軸(イデア界)において、いわば、超光があると考えられる。それが、±icで表現されちると考えられる。
 だから、虚軸は、思うに、超時間・超空間、即ち、超時空間のように思われるのである。つまり、高次元=五次元とは、五次元時空間にように思えるのである。
 虚軸に想定される超時空間(イデア界)であるが、それは、超光が形成する世界であり、いわば、超光界である。これは、諸宗教で表現された天国・極楽・浄土等々であると考えられる。
 では、想定された超時空間とは何か。思うに、超時間、超空間と分けられるだろうか。直感では分けられるのである。この問題はおいておこう。
 とまれ、結局、今の時点では、実軸において、-1が三次元空間であり、+1が四次元時空間であり、虚軸が五次元超時空間ということになる。
 因みに、Media Pointがエネルギー・ポイント(エネルギー変換点、エネルギー・トランスフォーマー)であり、推測するに、重力の中心ではないだろうか。ここで思考実験であるが、-1の方向が重力とするなら、+1が反重力の方向ではないだろうか。ダークエネルギーの方向ではないのか。
 +1とは、イデア・エネルギーがもたらすものであるから、ダーク・エネルギーの真相とは、イデア・エネルギー=トランス・エネルギーということになるのではないだろうか。
 では、問題は、-1と+1の関係である。思うに、表現の仕方に問題があるのではないだろうか。
 考えるに、+1とは、実質的に、⇒+1のことであり、Media Pointが開かれて、イデア界が浸透しているのであるのに対して、-1とは、実質的に、+1のことであり、Media Pointが閉じられて、イデア界が浸透していないのである。つまり、単純に物質世界である。
 この視点から考えると、ダークエネルギーとは、イデア・エネルギー=トランス・エネルギーということになるだろう。だから、現代の宇宙科学は、ダークエネルギーを、唯物科学の延長で捉えようとしているのであり、それは、結局、不毛な作業になると思われるのである。ダークエネルギーは、Media Pointを介したイデア界=高次元に求めるべきであると考えられるのである。今は、ここで留める。

p.s. もう少し、整理してみよう。よりシンプルな言い方をすると、自己認識方程式は、差異(+i)/同一性(+1)/差異(-i)という形式(この形式を差異・同一性形式と仮に呼びたい)を意味しよう。
 この差異・同一性形式(簡略して、差同形式)から、差異を否定すると、同一性主義(-1)が出現する。これが、物質主義となるのである。そして、これが、今日の唯物科学を生み出しているのである。
 問題は、差同形式と同一性主義の関係である。物質主義は差異を否定しているので、同一性は+1から-1に転換すると思われるのである。
 つまり、同一性の+1とは、極性差異±iがあって、形成されるものと考えられのであり、極性差異が否定された同一性は、-1となると考えられるのである。
 物質科学は、差異(イデア)を否定しているので、同一性は-1であると考えられるのである。しかしながら、現象とは、差同形式をもつので、+1である。これが、現象の真相である。つまり、いわば、差同現象が真相であると考えられるのである。
 だから、物質エネルギーは-1の同一性(マイナス同一性)であり、差同エネルギーは+1の同一性(プラス同一性)と考えられる。そして、今日の宇宙科学は、前者中心なので、後者を看過しているということではないだろうか。そして、後者が、ダークエネルギーの本体ではないだろうか。マイナスとプラスで正反対となる。
 そうすると、またまた考えが変化して、ダークエネルギーは+1であるが、それは、イデア・エネルギー=トランス・エネルギーとは、異なるものであるということになる。
 ということで、今の段階での暫定的考えは、-1が物質エネルギーであり、+1がダークエネルギーであり、(+i)*(-i)がイデア・エネルギー=トランス・エネルギーであるということになる。
 さらに検討を続けたい。

同一性価値中心主義の資本主義の終焉とトランス・モダン資本主義

2008-07-13 13:02:19 | プラトニック・シナジー理論
以下、田中宇(さかい)氏は、現在の「世界恐慌」は、多極化による新しい大均衡をもたらすだろうと予想している。
 私見・管見では、というか、プラトニック・シナジー理論のトランス・モダン理論から見ると、同一性価値主義(同一性中心主義)=西洋文明が終焉したということだと考えられる。サブプライムローン等のレベリッジは、同一性価値主義の極北であると考えられるからである。同一性価値資本主義(正しくは、金融資本主義)は行くところまで行ったということだと思う。
 結局、資本主義に内在している他面である差異共振主義を今日、従前に解放する必然性があるということだと私は考える。言い換えると、同一性価値主義が、差異共振価値を阻害しているのが、現代の資本主義なのである。だから、内在している積極的要素である差異共振価値を引き出す必要があるのである。その点では、トランス資本主義である。
 これまで述べているように、同一性価値資本から差異共振価値資本へと転換するのが必然であると考えられるのである。それは、言い換えると、自由共同体資本主義である。自由共同体資本が主導化する必要があるのではないだろうか。それは、自由共同体主義という理念が中核になると考えられる。そして、そのためには、利子をゼロにするかマイナスにすべきではないかと考えているのである。
 そのためには、政治が自由共同体主義という政策を取る必要があると今の段階では思われるのである。つまり、市場原理主義ではない。もっとも、市場制度は肯定する。
 市場制度と自由共同体政治理念が結合が必要なのではないだろうか。また、自由共同体政治を形成するには、今日の大衆民主主義では、無理ではないかと考えている。差異共振精神に関わる資格試験を設けて、それに合格した者に選挙権・被選挙権を付与すべきと考えられるのである。だから、トランス民主主義である。
 一言でいえば、トランス・モダン・エヴォリューションである。

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▼世界恐慌の後、国際政治の拡大均衡

 信用格付けの信頼が失墜し、ジャンク債のリスクを下げていたはずのCDSがねずみ講とみなされ、レバレッジ型金融の終焉が宣言された。大儲けしていたアメリカの投資銀行は、消えていく可能性が増している。

 異様に巨額の給料をもらい、豪邸に住んでいた欧米銀行の幹部社員が失業するのは、市民感覚で見ると「ざまあみろ」だろう。しかし、喜ぶのは早い。レバレッジ型金融の消失は、世界のあらゆる企業の全体にとって、安い資金調達の手法が失われ、資金調達コストが上がり、減収減益の要因である。世の中の金回りが悪くなり、失業増や消費市場の不振になる。今後、3-5年ぐらいは、世界的な不況感が続くだろう。

 しかし同時に、国際金融界で激変があるときは、世界的な政治体制の変動も起きる。政治変動の前兆として金融変動が起こる。1929年の金融恐慌は、1945年のアメリカ覇権の始まりへの地平を開いたし(日本は敗戦で破綻したが)、1980年代の米英金融革命の始まりは、1989年の冷戦終結の準備だった。

 2007年からの米英金融危機は、おそらく国際政治の多極的な新しい大均衡状態を作る。世界の政治体制は、従来の欧米中心の「小均衡」から、BRICなど非欧米諸国を加えた「大均衡」に発展する。今回の金融危機は、日本が対米従属という戦後の拘束から解放される転機にもなる。金融破綻や世界不況やインフレが何年か続いても、それは「終わりへの道」ではなく「構造転換」であり、新たなことを始める好機と考えることができる。

【注:赤色文字等の強調はrenshiによる】

http://tanakanews.com/080712bank.htm
アメリカ型金融の破綻
2008年7月12日  田中 宇

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トランス日本大崩壊と新たな建国へ向けて:多元差異共鳴社会としてのトランス・モダン共同体の創造

2008-07-12 22:55:12 | プラトニック・シナジー理論
トランス日本大崩壊と新たな建国へ向けて:多元差異共鳴社会としてのトランス・モダン共同体の創造

テーマ:日本再生・東洋ルネサンス計画

世界経済の落ち込みとともに、日本経済も鋭く落ち込み、また、財政上の大借金もあり、さらにその他諸々の問題があり、日本大崩壊は避けられないようである。私は、70年代初期から憂国の思いが強かったので、その意味でも、大手術は必要であると考えている。
 言葉で言って通じない場合は荒療治が必要なのである。有無を言わさずに、身体に直截に響く打開方法が必要なのである。
 というわけで、ポスト日本大崩壊を考えたい。おそらく、もうこれまで享受した物質的豊かさは望めなくなるだろう。もっとも、常温核融合等のエネルギー革新が起れば、話しは別であるが。
 小さな政府ならぬ、小さな生活になるだろう。つまり、旧に復すことになるのではないだろうか。身の丈にあった生活になるのではないだろうか。
 とまれ、一言で言えば、トランス・モダン化が必須であるということである。哲学では、プラトニック・シナジー理論が、その方向を提示しているが、それは、近代合理主義=唯物科学・技術の超克である。イデア界=高次元界を認める必要があるということになる。これは、精神革新である。
 次に、経済であるが、モダン経済とは、同一性価値=貨幣価値の拡大を主導的であった。これが、今日では、諸バブルを引き起こし、世界経済を混乱させているのである。
 私は、無利子経済ないしはマイナス利子経済の導入が必要であると感じている。これは、同一性価値=貨幣価値の増殖(利殖)を否定して、経済の差異価値を肯定評価するものである。実質経済になるのである。量的経済から質的経済になりうると考えられる。
 そう、端的に、物質主義的経済から、差異共振経済になるということである。だから、基本的な物質的インフラの整備の充実が必要くらいで、後は、精神的価値の進展が主導的になると考えられるのである。
 次に、食料の保持のことである。これは、自然・宇宙との関係が重要になる。私は、以前、何度も述べたが、自然へと経済価値を還流させることが必要であると考えている。今日の都市文明は明らかに、自然を破壊して、自滅するのが目に見えている。
 思うに、ここに、共同体の働きが重要になると考えられる。産業と共同体が連携して、富を食料・自然保持のために消費する必要があると思う。食料自然共同体資本消費である。
 つまり、食料自然共同体のための資本、簡単に言えば、自然共同体資本とその銀行が必要であると思われるのである。差異共振銀行である。
 ということで、簡単であるが、以上の三つのことが必須である。三大革新である。「三位一体」である。繰り返すと、

1)トランス・モダン精神進化(神道ルネサンス)
2)物質主義経済から差異価値経済への転移
3)食料自然共同体資本=差異共振資本の創造

となる。


参考:

★ 2008年7月12日 土曜日 、15時半更新

・・・

 余談 国家破綻

 筆者は2008年8月頃、日本国家が明確に破綻すると予測してきた。今のところ、それを補強する材料はあっても否定する材料はない。
 どうなるかといえば、小渕償還130兆円の借り換え債問題、新規国債手当が不能になり、予算確保のメドが立たず、国政運営の基礎的な資金が欠乏するわけだ。そこで、年金支払い削減・停止、公務員給与減額・停止、あらゆる社会保障の停止などが俎上に登り、てんやわんやの大騒ぎになると予想している。

 もちろん、これまでも予測通りにスムーズにことが運んだことはなく、昨年11月に予測したアメリカ経済崩壊は、すでに9ヶ月経て、おおむね、その方向に動き、新年早々シティ銀行などが破綻倒産するとの予想も、死に体ではあるものの、まだ延命していることから、全般に数ヶ月程度、時期がずれることはありうるが、基本的な必然性、方向性がピント外れということはないと思う。
 これは、社会・経済の物理的必然性に、人の大きな意志が加わって、未来を変動させる力として働くからだろうと思う。
 
 しかし、現段階にあっても、日米欧、資本主義、先進諸国の経済破綻は間違いのない現実であり、いかなる救済方法も存在しない。ただ延命手段がいくつか残されているだけだ。それは、粉飾決算であったり、意図的な情報捏造であったり、戦争による強引な問題のすり替え、隠蔽だったりするわけだが、カネという潤滑剤が回らなくなって、世界経済が停滞し、あらゆる社会機能が破滅するという事態を回避することにはならない。

 経済問題は、一般大衆に問題の本質を隠蔽する目的で、なかなか分かりやすい解説がなく、専門用語が飛び交って、経済専門家アナリストでさえ、事態を正しく見極めている者はごく少数にすぎない。
 筆者は、この半年あまり情報収集してきて、比較的信頼性の高いサイトとして、藤原直哉・副島隆彦・株式日記・田中宇・ネバダなどを挙げておく。ブルームバーグやバフェット・ソロスなどの当事者情報は、操作情報が多分に含まれていて信用しかねる。ブッシュやバーナンキの演説を聴いているようなものだ。
 上に引用したサイトでは、すでに昨年後半から、今日の事態、ドル崩壊を正確に予測しており、これが一過性のものではなく、近代資本主義体制の全面崩壊に進展せざるをえないほどの根源的な革命としての「時代破滅」であることを指摘している。

 さて、来月にも日本国家の経済基盤が破綻すると予想しているわけだが、具体的な進展については、まだ分からないことが多い。最初にやることは、官僚たちが自分たちの権益を保全するために弱者を踏み台にし、切り捨てるだろうということだ。現代日本の宦官だち、霞ヶ関の特権階級どもは、まず生活保護や医療補助など、あらゆる社会保障を切り捨て、年金を減額し、弱い立場の人たちを狙い撃ちにして、自分たちの給与水準や特権を守ろうとするだろう。
 これで国民が怒って国家を完全に見放し、救いのない大混乱に陥るというシナリオくらいしか、まだ見えていない。

 具体的なシナリオは見えないが、破滅に至る必然性を作り出した原因は、隠しようもないほどはっきりしている。
 それは組織共同体の崩壊である。それは数名の家族から数百名の会社組織、数千万人の国家組織に至るまで、すべての組織共同体に共通する根元法則であり、「人間の法則」である。 人が集団になれば必ず発生する法則である。

 一つの組織体、例えば最小単位である「家族」を考えてみればよい。家族という組織は、基本的に互助組織である。互いに弱点をフォローし合い、連帯し、支え合って生き抜いてゆく組織体である。それを膠着成立させるのは信頼・愛情という糊に他ならない。
 信頼・愛情が存在しなければ、それは親子であっても、もはや家族ではない。組織は膠着されずバラバラになってしまう。
 逆に、愛と信頼に結ばれた家族があるということは、構成員の人生を素晴らしく豊かに充実させ、それは、ますます強固になる。だが、そうした家族の強い絆を示すものは、決して恵まれた豪邸や学歴、社会的地位ではなく、むしろ逆なのだ。
 抜きんでた豪邸・美邸を建設し、美貌の妻を得て、高級車に乗る一見、恵まれた家族には、その膠着が妬まれ、破壊してやろうとする周囲の意志が働くことになり、やがて内部から崩壊し、ついにはバラバラにされてしまう。
 逆に、みすぼらしい家、豊かでない生活で、苦しい生活を思いやり支え合う貧しい家族は一致団結し、その愛を強め、ますます絆を深め、すばらしい家族生活を享受することになるだろう。

 会社や国家も同じであって、オンボロ、プレハブの社屋、安月給で、恵まれない会社であっても、互いに思いやりがあり、連帯感のある会社は、ますます団結し、素晴らしい会社に成長してゆくだろう。
 国家も、戦後、貧しい時代、公務員が安月給で奮闘していた時代、みんなが互いに暖かい思いやりをもち、連帯感を見いだし、一致団結して困難に立ち向かっていった時代、強力な愛国心が醸成されていった。
 ところが見せかけの豊かさを手中にし、役所の見せかけばかりが立派になり、役人が親切を失い、自分の利権、権益だけにしか関心を示さなくなり、他人を妬み、思いやりをなくしてしまった時代、人々の国家に対する希望は失われ、国家を愛さなくなった。だから破綻するのである。

 組織が破綻する理由、国家が崩壊する理由は、上に述べた事情がすべてであって、それ以外でも、それ以上でもない。
 みんなが所属する組織に連帯感を抱き、愛し、自分の故郷のように思えるとき、組織は最大の機能、威力を発揮するのであって、構成員すべての人たちに思いやりと連帯感を抱いて、自分が、この組織を支えようとするモチベーションを作りだし、これのみによって組織は命の息吹を獲得するのである。
 だが、強力な組織は、やがて組織内に格差・差別を産み出す。妬み、怨嗟が組織を覆うようになり、連帯感や思いやりは失われ、特権を享受する幹部以外、誰も組織を支えたいと思わなくなり、そうして崩壊するのである。
 今では、もっと極端で、組織を底辺で支え続けてくれた、本当の功労者を追放し、会社という形式だけに頼り、ある日気付いてみれば、利権大好き、利己主義だけの幹部しかおらず、カラッポの形骸だけが音を立てて崩壊するという有様だ。

 まずは、戦争で崩壊した日本国家が再建されて60余年、今、再び音を立てて日本国が瓦解しようとする場面に遭遇しているわけだが、倒れる事情は、上のように、日本国の利権を食い物にする輩がのさばり、大衆がそれを見て、まじめに国家を支えるのがバカバカしくなり、腐敗した役人に倣って、利己主義、蓄財、見栄張り競争を謳歌するようになり、支える者のいなくなった巨大な形骸、虚構が瓦解するのである。

 どうして、こうなってしまったのか? 何が間違っていたのか? については、いろいろ言うべきこともある。まずは基本は、日本国を支える人たちが連帯感を失い、思いやりを見失い、利己主義に走って、支える人たちが逃げてしまったのである。
 筆者は、こうした利己主義を作り出した最大の原因は、先の戦争における大崩壊のとき、壊すべきものをキチンと壊さなかったためだと考えている。天皇をはじめ、特権階級の差別思想を残したことが、国民に差別階層社会の幻想を与え、上昇志向の誤った出し抜き主義を与え、人間にとって一番大切な、守るべき指標が、他人に対する思いやり、連帯を作り出すことだという真実を見失わせたのである。
 だからオチコボレを作って救済しようとせず、道を誤った人を立ち直らせようとせず制裁排除してきた結果、自分たち自身が排除される時代がやってきたのである。
http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/yoti01.htm

東海アマチュア無線  地震予知研究会

PS理論的ガウス平面の応用:垂直性(虚軸)と水平性(実軸)の即非交差性とトランス・モダン

2008-07-08 22:23:57 | プラトニック・シナジー理論
           |+i
           |
           |
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           |
           |
__________個・MP__________
-1          |          +1
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           |
           |
           |
           |
           |
           |
           |-i

(尚、MPはMedia Pointである。)

プラトニック・シナジー理論におけるガウス平面の簡単な応用を述べたい。
 例えば、美術では言えば、垂直軸(虚軸)を抽象、水平軸(実軸)を具象と考えることができよう。あるいは、シュルレアリスムも同様に、垂直軸は、「超現実」と見ることができよう。
 あるいは、哲学では、垂直軸は差異であり、水平軸は同一性である。物理学では、垂直軸は時間であるし、水平軸は空間であろう。
 また、 原点(Media Point)を個と考えることもできよう。そして、経済では、垂直軸が共同体志向であり、水平軸が市場志向であろう。だから、政治的には、民主主義は、垂直軸であり、自由主義は、水平軸である。もっとも、肝腎要は、両者が即非相であるということである。
 また、現代日本にかけているのは、垂直軸である。戦後は、垂直性を否定したのである。宗教は当然、垂直軸であり、神道が否定されたために、戦後はそうなったのである。これは、連合国と官僚の覇権主義によると言えよう。戦後、同一性自己(自我)はあるが、差異自己はないのである。
 最後に、現代芸術について述べておきたい。今日、芸術が不調なのは、モダニズム期において、発現したトランス・モダン志向を、つまり、Media Point様相を否定して、もっぱら、水平志向・水平主義に堕している点にあると考えられる。
 この元凶は哲学ではハイデガー哲学にあると考えられる。そして、それが、ポスト・モダン哲学に影響を及ぼしているのである。垂直性の否定である。
 そう、結局、構造主義的限界に留まっていること、ここに問題があるのである。垂直的対立が水平的対立に還元されると考えられる。
 この垂直性の否定は、ドゥルーズやデリダに顕著に見られることである。そして、この根因はハイデガー哲学にあると考える。ハイデガー哲学の闇、これは何なのだろうか。
 垂直性を水平性にねじ伏せることの哲学は、何なのか。これは、端的に、近代合理主義の発想と同根と思われるのである。トランス・ハイデガー哲学を明確にしないといけない。

唯物教育の終焉とトランス・モダン教育:イデア・エネルギーとPS理論

2008-07-03 02:20:04 | プラトニック・シナジー理論
私自身のことを考えると、戦後の唯物教育を受けて、精神を疎外することになったと思う。それは、生のエネルギーの枯渇を意味するのである。それは、また、ニヒリズムを生じさせるのである。
 今日の日本人の学力低下や日本総体の劣化は、確実に、戦後唯物論の帰結であると考えられるのである。唯物論は、精神を滅ぼす考え方であり、端的に、悪魔的な思想である。これは、自滅・自壊的な思想であり、これを乗り越える必要があるのである。
 私は神道の復活を唱えているが、結局は、イデア・エネルギーを心身に取り込むことを意味するのである。あるいは、Media Pointを知的に開放することを意味する。即ち、Media Pointを心身において開くことにより、差異共振エネルギーであるイデア・エネルギー(コスモス・エネルギー)が流入し、心身が賦活すると考えられるのである。
 学力は、この流入したイデア・エネルギーによって、向上すると考えられるのである。このイデア・エネルギーを取り込む技法に関しては、東洋は豊饒である。そう、「気」とは正に、イデア・エネルギーであると考えられる。(電磁波の本体もこれであると考えられる。これについては、後で検討したい。)
 また、今日蔓延する心の病であるが、これも、私見では、戦後唯物論の帰結である。イデア・エネルギー(生エネルギー)が枯渇しているので、心身が衰退していると考えられるのである。日本人は、疾く、戦後唯物論から脱出すべきである。
 イデア・エネルギーは、いわば、宗教エネルギーと言えるが、しかしながら、知的に捉えるならば、イデア・エネルギーと言うのが正しい。
 おそらく、イデア・エネルギーを取り込むための問題点は、そのエネルギーがあまりにも強力であるため、あるいは、物質的知性にとって、あまりにも異質であるために、一般に、知性が混乱させられる点ではないだろうか。
 そう、宗教、信仰へと救いを求めるのはいいとしても、問題は、知性を麻痺させて盲信、狂信する点が問題なのである。そう、今日、必要なのは、いうならば、知的宗教、知的信仰であろう。知性なき宗教、信仰は邪道である。
 思うに、知性の鍛練が、イデア・エネルギーを取り込むための大前提となるだろう。そのためには、哲学が必須である。哲学は本来、感性を包摂する形式の知性を探求する学、プロト学知である。そこには、論理学や数学的知性も関係する。
 とまれ、哲学は、学・知性の根本である。ここを鍛えないと、イデア・エネルギーを知的に取り込むことはできず、返って、大変危険であると言わなくてはいけない。そう、ここには、スキュラとカリュブデスの危険があると言えよう。一方では、新興宗教的盲信であり、他方では、オカルティズムである。(ただし、宗教やオカルティズムは、批判的に見れば、叡知が隠されていると考えられる。)
 思うに、19世紀後半から20世紀全体にかけての、哲学的問題の核心は、イデア・エネルギー(認識存在エネルギー)にあったと思われるのである。それは、プラトニック・シナジー理論から見ると、トランス・モダンを志向していたと考えられるのである。
 ポスト・モダン哲学は、トランス・モダンの志向の一つの試論であったと考えられる。しかしながら、フッサールの捉えた超越性(超越論的主観性)を否定してしまったために、ポスト・モダンは行き詰まってしまったと考えられるのである。
 これを打破したと自負するのが、不連続的差異論であり、また、そこから深化したプラトニック・シナジー理論である。この理論により、イデア・エネルギーと物質との関係が解明されたと考えられるのである。これによって、唯物論が乗り越えられたと考えられるのである。Kaisetsu氏による数学化によって、イデア論的科学が生まれたと言えるのである。これは、トランス唯物論である。(これによって、量子論は、イデア論的量子論となったと考えられるのである。)
 結局、プラトニック・シナジー理論は、知的な、合理的な、イデア・エネルギーの取り込みを可能した理論と考えられるのである。このトランス知性によって、安心して、イデア・エネルギーを心身に取りこめることができるのである。とりわけ、本理論は、日本人にとって、福音となるはずである。
 神道的源流を忘れた亡国日本人は、これによって、自身を再発見するだろうし、現代の大危機的状況を乗り越える知を得ることになろう。聞く耳を持つ者は聞くがいい。