イデア・メディア境界とイデア界的身体/意識について:イデア知覚とメディア知覚
先の諸考察を整理する必要があるが、ポイントは、イデア界の力を把握した思考をどう捉えるかである。自我、現象自我とは、イデア界→メディア界→現象界の帰結としてあり、これは、歴史的には、近代主義である。(宗教的には、キリスト教の誕生がそうだろう。イデア界が現象界になるのであるから。)しかし、この連続・同一性の志向性は、反転して、イデア界←メディア界←現象界という差異への志向性となる。これが、ポスト・モダニズムである。脱近代主義である。哲学的には、ニーチェとフッサールが巨大な震源である。これは、物理学では、相対性理論、量子力学とパラレルである。文学・芸術では、「モダニズム」がパラレルである。
明確にしなくてはいけないことは、メディア界の意味である。これは、連続・構造界であり、現象界の原型・形相の世界であることである。現象界にとっての直前の超越論的世界である。カントの超越論的形式は、メディア界の一つであると言えよう。先に、身体をメディア界と考えたが、それは正しいだろうか。つまり、身体とは超越論的世界や原型・形相・構造の世界になるのだろうか。メディア界は差異・ゼロ度連結界である。この差異・ゼロ度連結において、ゼロ度的側面において思考・知性が、差異的側面において身体が発現するだろうが、両者は相補性を形成すると考えられる。つまり、
身体ー差異/ゼロ度ー思考
である。だから、メディア界は身心体と呼んでもいいだろう。とまれ、身体をメディア界とするのは、不正確である。身心体をメディア界とするのが正しい。では、身心体において、超越論界があることになる。身心性の四つの知覚、感覚・感情・直観・知性と、超越論性がどう結びつくのだろうか。これは、カント的に考えて、超越論的感覚・感情・直観・知性があるとすればいいだろう。つまり、超越論的身心体性である。これが、原型・形相・構造となる。一種の超越論的主観性である。メディア界的超越論的主観性である。
問題は、この超越論性を知覚できるのかということである。ここでも直観で述べよう。身心体において感じる過剰な知覚は何だろうか。感覚のフレームを超えるような過剰な、何か超越的な知覚とは何だろうか。これは、思うに、一種の超越論的主観性だと思う。ならば、身心体において、超越論性を知覚できるのである。つまり、差異/ゼロ度というメディア界である身心体を知覚できるのである。超越論的知覚を得ているのである。
そして、さらに問題は、このメディア界的知覚は、イデア界的知覚に達するのではないかということである。メディア界はイデア界に接している。だから、理論的に、メディア界的超越論的知覚は、イデア界に触れることができるのである。これは、すぐれた哲学者、芸術家、宗教家等において存していることだろう。
では、この接触したイデア界はどのような知覚をもたらすのか。それは、一言で言えば、カオスモスの知覚である。あるいは、西田哲学の絶対矛盾的自己同一である。これは、力の知覚でもある。ニーチェのディオニュソスとはこの知覚であろう。簡単に言えば、一即多である。実際はもっとはるかに複雑だろうが。とまれ、不連続的差異と不連続的差異とが共立しつつ、連結する状態である。ここには、イデア界の力とメディア界の力とが混交しているだろう。問題は、このイデア界の力がどういう機能をもつのかである。これは、正に、脱構築であろう。メディア界の構造を解体するだろう。正確に言えば、脱構造化であろう。つまり、連結・連続化した差異の構造を、イデア界の力は解体させるのである。つまり、不連続化させるのである。この頂点にニーチェ哲学がある。問題は、このイデア界の力とメディア界の力とをドゥルーズのように混同しやすいことである。不連続性の力と連続性の力とが混同されやすいのである。これをどう識別するのか。これはとても難しいと思う。なぜならば、連続化と同時に、不連続性に触れるからである。ここで、特異性を考えるといいだろう。不連続性とは特異性である。この特異性がメルクマールとなるだろう。イデア界の力とは特異性を形成する。例えば、コギトとは、特異性であるから、イデア界の力である。また、自然との一体感というのは、それを感じる自己は特異性であるが、一体感は連続性であるから、メディア界の力が入っていると言えるだろう。ということで、特異性が区別する契機になるだろう。
では、イデア界の力、特異性はどのような力学をもつのだろうか。いわば、脱構造的「構造」を形成するのではないか。つまり、共立である。不連続的差異の共立構造を形成するのだろう。これは、メディア界的な連続構造とは異質のものである。ドゥルーズ&ガタリが離接(分離的接合)と呼んだものに近いだろう。あるいは、ガタリの用語だと思うが、機械状アジャンスマン(アレンジメント)に似ているだろう。これは、近代の連合、連帯、アソシエーション、コミューン、団結等々とは全く異なるもの、次元の異なるものである。共立、共存、共生であろう。これは、フッサール現象学の志向性の世界である。不連続的差異の他者の不連続的差異への志向性がある世界である。そして、ここは、コナトゥス(自己保存力)が機能している世界である。しかし、また、不連続的差異の境界的調和が作用している「調和」の世界でもあるだろう。おそらく、原調和の世界である。イデア・メディア境界において、ゼロ度の調和があるだろう。
そうなると、イデア界の力、即ち、虚力は、(独特の)創造性をもつだろう。不連続的創造性である。これまでにないものを生み出すと言えるだろう。発見や発明。つまり、イデア界の虚力は、新しいメディアを創出するだろう。あるいは、ポスト・メディアである。つまり、不連続的差異・特異性の共立である脱メディアの創出である。
最後に、イデア界の虚力と想像力についてである。想像力とは何かである。イメージ力とは何か。あるいは、実在感とは何か。夢は実在感がある。何故か。実在感の基礎がはたらいているからだろう。実在感の原基は、イデア界なのかメディア界なのか。これは、夢はメディア界的であり、実在感もほぼメディア界に拠るだろう。そして、想像力は、やはり、メディア界的なものだろう。しかし、夢、実在感、想像力は、メディア界のみを根拠にしているのか。イデア界の力がないのだろうか。今は、指摘だけするが、イデア界の力がやはり作用しているのではないだろうか。例えば、小説を読んで深く作品世界に参入しているとき、それは、メディア界的であると同時に、読者が創り出している虚構世界だから、イデア界的創造力がはたらいているのではないか。虚構は、単にメディア界的構造では形成できないのではないだろうか。メディア界は、構造という固定した世界であるからと考えられるからである。想像力には、やはり、イデア界の創造力が必要のように思える。後で、検討を深めたい。
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【2005/11/20 02:44】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |
不連続的志向性と連続的志向性:イデア界的志向性とメディア界的志向性
先にあげた4つの力・知覚(力知覚)は、メディア界における連続的な力であり、それは、現象界の自我の基本構成(基本構造)となるだろう。しかし、自我においては、メディア界だけではなく、イデア界が作用しているのである。もっとも、これは無意識的にという方がほとんどの場合適切だろう。ここで、身体の問題が発生するだろう。通常、身体は、感覚、感情、欲望の領域であるが、イデア界の作用を問題にするとき、身体性が問題となるのである。これはどうしてなのか。身体とは何かを考える必要があるだろう。実は、身体とは、延長と思惟との接合領域であると考えられる。感覚体であり、同時に、思考体である。つまり、身体とは、差異ゼロ度のメディア界領域総体を指していると見ていいだろう。自我や意識は身体から発すると言ってもいいだろう。(思惟と延長の二元論は、身体が欠落している。スピノザの心身平行論は、精神と身体の二元論で、思惟と延長との二元論とは異なるだろう。)
ということで、身体=メディア界となったのである。そして、イデア界の力は、イデア・メディア境界に存している。これは、換言すれば、メディア界の背後、裏面にあると言えるだろう。通常は、この無意識のイデア界は隠蔽されている。しかし、ある時、これがひらかれるのである。これは、仮説的だが、成長と関係していると思う。成長の前半は、イデア界→メディア界→現象界と進展して心身形成される。しかし、これが、成長の後半になると反転すると思うのである。つまり、現象界→メディア界→イデア界である。何故こうなるのか。
今、二つの考えが浮かぶ。一つは、イデア界のさらなる1/4回転である。他の一つは、メディア界の強度の極性力学である。前者は置いておいて、後者を考えよう。つまり、プラス強度によって連続化が発生したとするならば、当然、力の拮抗性によって、マイナス強度が発生する。
A)差異1+-差異2+-差異3・・・+-差異n
B)差異1-+差異2-+差異3・・・-+差異n
Aを+強度として、Bを-強度としよう。BはAの反転である。そして、A+Bで、再び、ゼロ度の状態を回復するだろう。つまり、イデア・メディア境界回帰となるだろう。この反転が、成長の後半であると作業仮説しよう。そして、これによって、イデア界の差異共存志向性が出現することとなる。ある人にとっては、心機一転の時期だろうし、ある人にとっては、宗教性への開眼だったり、ある人にとっては、精神病や狂気の発生だったりするのではないだろうか。ユングが中年の危機と呼んでいたものがこれと共通するだろう。(思うに、ユング心理学の無意識はイデア界と見れば、明快になるだろう。)
すると、必然的に、メディア界の反転によってイデア界の力が自我に参入するようになるのである。(思うに、天才と呼ばれる人は、イデア界の流入が初期、前期からあるのだろう。また、精神病理も、これと関係しよう。)そして、この流入の場所が、身体であると考えられる。なぜならば、メディア界の反転においてイデア界が流入するのであるから、身体であるメディア界に生起することになるだろう。
このように考えると、メルロ=ポンティの身体現象学やD.H.ロレンスの身体的無意識論が、より明快整合的に説明できるだろう。フッサール現象学も身体現象学と言えるようになるだろう。また、ロレンスの身体的無意識の二元的四元性の知覚とは、イデア界的対極的志向性とメディア界的対極的志向性を総合させたものを表現したいるのかもしれない。
さて、この観点からポスト構造主義を見ると、それは、イデア界的次元の示唆にあると言えるだろう。差異ゼロ度によるメディア界を近代的二元論的世界に説くのであるが、それは、また、イデア界領域を示唆していたのである。思うに、長期の文化期においてもこのような反転が言えるのではないだろうか。不連続性から連続性へ、そして、連続性から不連続性へと移行する。
ここで、気になるのが、映像の問題である。特にテレビの問題である。(私は、テレビをほとんど見ない。)今日の映像は、写実主義であり、連続体である。(ドゥルーズの映画論はベルクソンの持続論を根拠にしているので、連続論で、全く使い物にならないだろう。)これは、人間の視覚を平面・平板化させると思う。つまり、イデア界的心象直観を喪失させるように思うのである。これは、また、都市の問題である。イデア界的建築物や施設の有無の問題である。今日の都市文化において、イデア界的直観が欠落すると思うのである。自然の乏しさも問題である。おそらく、イデア界的心象直観と現代の映像・都市がそぐわないのである。不連続的映像・都市が必要である。テレビの不連続化が必要だろう。ライブドアはどうなっているのだろう。不連続的差異テレビである。
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【2005/11/19 10:07】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |
差異共存志向性とは何か:イデア界の虚力的脱構造性とメディア界の構造性
先に、4つの力・知覚に関して言及したが、では、それまで述べていたイデア界の差異共存志向性はどういうものとなるのだろうか。差異共存志向性とは、イデア界の力である。だから、先の4つの力・知覚の考え方は、補足説明が必要だろう。イデア・メディア境界において、イデア界の虚力が作用する。この虚力が連続化して4つの力となるのであるが、しかし、連続化されない虚力あるのである。これが、差異共存志向性ではないか。4つの力・知覚が、連続・同一性の自我を形成するなら、差異共存志向性の虚力は、脱自我、ポスト自我を形成するだろう。だから、4つの力・知覚+一つの虚力・虚知覚だろう。この虚力・虚知覚が、虚次元知覚であり、イデア界知覚である。この虚力・虚知覚・イデア界知覚を近代主義は排出・隠蔽しているのである。これは、自然科学的に見たらどうなるのだろうか。虚力を自然科学ではどう捉えているだろうか。これは、高次元や虚時間等で、考えられているの事象ではないだろうか。因みに、空海は、五大に響き在りと言った。地水火風空である。だから、空が虚力・虚知覚ではないか。この空は、メディア界の空ではなくて、イデア界の空である。また、思うに、「気」とは、この虚力ではないのか。
思うに、現象界において虚力的創造化することが、差異共創共存主義ではないか。虚力が新たな差異連結を創造するのである。ところで、プラトンのコーラとは、この虚力的形成力を指しているのではないだろうか。これまで、メディア界的形成力がコーラと思っていたが、どんなものも受け入れる容れ物とは、虚力的創造力でしかないだろう。なぜなら、メディア界的形成力とは、構造・原型・形相であるからだ。それは、連続的差異の多様体・位相体である。これは、生成変化するが、連続体の型があるだろう。だから、あらゆる形態をもつというわけにはならないだろう。構造主義としてのメディア界であろう。黄金分割とかフィボナッチ数列とかである。あるいは、有機体の連続性である。脱構造化するには、イデア界の虚力が必要である。そして、コーラとは、融通無碍なものであるのだから、虚力であると見た方がいいだろう。つまり、コーラとは、イデア・メディア境界を超えて、イデア界的虚力であると思う。やはり、プラトンは、決定的にイデア界を捉えていたこととなるだろう。プラトンのイデアは、メディア界的構造とイデア界的脱構造の両方を指しているのである。最初のポスト構造主義者であるし、また、イデア界を明快に指していた点では、デリダやドゥルーズを超えていたと言えるだろう。
p.s. イデア界の虚力の知覚を理性にすれば、カント哲学が解明されるのではないか。純粋理性批判とは、イデア界的知性とメディア界的知性の混同である。これによって、アンチノミーが生じていると考えられるのである。イデア界的知性を不連続的知性、メディア界的知性を連続的知性と区別すれば整合化されるだろう。アンチノミーはないのである。とりあえず、前者をイデア知性、後者をメディア知性と呼べるだろう。近代主義の知性とは現象知性であろう。
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【2005/11/18 22:27】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |
不連続的差異論的資本主義とはどうなるのか:不連続的差異論的共創共存資本主義ゲーム
不連続的差異論の開花した資本主義とはどうなるのだろうか。それは、差異共創共存主義となるだろう。市場原理は尊ばれる。一種、ゲームのように資本主義がなるだろう。つまり、ゲームを楽しむように、資本主義を経営するようになるだろうし、働きが、楽しみとなるだろう。楽働、楽労、楽営となるだろう。
不連続的差異論とは、差異の全面的な開花を意味する。即ち、スーパー・ルネサンスである。このとき、企業において、共創共存原理によって、どんどん新しい製品が開発されるようになるだろう。つまり、個々の才能が開花されて、連結されて、独創的な発想や製品が生まれるのである。これは、次から次へと、自ずから、湧き上がる発想・独創である。いわば、インスピレーションによって企業経営が為されるだろう。そして、この延長で、諸問題も解決されることとなるだろう。病気、戦争、公害、食料、福祉・医療・年金等々の大問題も、解決されるだろう。人類は、新しい黄金時代を迎えるだろう。「水瓶座」の時代である。
これは、空想ではなくて、真理である。根源的差異である不連続的差異を開花させることで、資本主義は、新しい段階に達するだろう。不連続的差異論的共創共存資本主義ゲームである。人類総天才化時代となるだろう。イデア界的資本主義ゲームである。
先の諸考察を整理する必要があるが、ポイントは、イデア界の力を把握した思考をどう捉えるかである。自我、現象自我とは、イデア界→メディア界→現象界の帰結としてあり、これは、歴史的には、近代主義である。(宗教的には、キリスト教の誕生がそうだろう。イデア界が現象界になるのであるから。)しかし、この連続・同一性の志向性は、反転して、イデア界←メディア界←現象界という差異への志向性となる。これが、ポスト・モダニズムである。脱近代主義である。哲学的には、ニーチェとフッサールが巨大な震源である。これは、物理学では、相対性理論、量子力学とパラレルである。文学・芸術では、「モダニズム」がパラレルである。
明確にしなくてはいけないことは、メディア界の意味である。これは、連続・構造界であり、現象界の原型・形相の世界であることである。現象界にとっての直前の超越論的世界である。カントの超越論的形式は、メディア界の一つであると言えよう。先に、身体をメディア界と考えたが、それは正しいだろうか。つまり、身体とは超越論的世界や原型・形相・構造の世界になるのだろうか。メディア界は差異・ゼロ度連結界である。この差異・ゼロ度連結において、ゼロ度的側面において思考・知性が、差異的側面において身体が発現するだろうが、両者は相補性を形成すると考えられる。つまり、
身体ー差異/ゼロ度ー思考
である。だから、メディア界は身心体と呼んでもいいだろう。とまれ、身体をメディア界とするのは、不正確である。身心体をメディア界とするのが正しい。では、身心体において、超越論界があることになる。身心性の四つの知覚、感覚・感情・直観・知性と、超越論性がどう結びつくのだろうか。これは、カント的に考えて、超越論的感覚・感情・直観・知性があるとすればいいだろう。つまり、超越論的身心体性である。これが、原型・形相・構造となる。一種の超越論的主観性である。メディア界的超越論的主観性である。
問題は、この超越論性を知覚できるのかということである。ここでも直観で述べよう。身心体において感じる過剰な知覚は何だろうか。感覚のフレームを超えるような過剰な、何か超越的な知覚とは何だろうか。これは、思うに、一種の超越論的主観性だと思う。ならば、身心体において、超越論性を知覚できるのである。つまり、差異/ゼロ度というメディア界である身心体を知覚できるのである。超越論的知覚を得ているのである。
そして、さらに問題は、このメディア界的知覚は、イデア界的知覚に達するのではないかということである。メディア界はイデア界に接している。だから、理論的に、メディア界的超越論的知覚は、イデア界に触れることができるのである。これは、すぐれた哲学者、芸術家、宗教家等において存していることだろう。
では、この接触したイデア界はどのような知覚をもたらすのか。それは、一言で言えば、カオスモスの知覚である。あるいは、西田哲学の絶対矛盾的自己同一である。これは、力の知覚でもある。ニーチェのディオニュソスとはこの知覚であろう。簡単に言えば、一即多である。実際はもっとはるかに複雑だろうが。とまれ、不連続的差異と不連続的差異とが共立しつつ、連結する状態である。ここには、イデア界の力とメディア界の力とが混交しているだろう。問題は、このイデア界の力がどういう機能をもつのかである。これは、正に、脱構築であろう。メディア界の構造を解体するだろう。正確に言えば、脱構造化であろう。つまり、連結・連続化した差異の構造を、イデア界の力は解体させるのである。つまり、不連続化させるのである。この頂点にニーチェ哲学がある。問題は、このイデア界の力とメディア界の力とをドゥルーズのように混同しやすいことである。不連続性の力と連続性の力とが混同されやすいのである。これをどう識別するのか。これはとても難しいと思う。なぜならば、連続化と同時に、不連続性に触れるからである。ここで、特異性を考えるといいだろう。不連続性とは特異性である。この特異性がメルクマールとなるだろう。イデア界の力とは特異性を形成する。例えば、コギトとは、特異性であるから、イデア界の力である。また、自然との一体感というのは、それを感じる自己は特異性であるが、一体感は連続性であるから、メディア界の力が入っていると言えるだろう。ということで、特異性が区別する契機になるだろう。
では、イデア界の力、特異性はどのような力学をもつのだろうか。いわば、脱構造的「構造」を形成するのではないか。つまり、共立である。不連続的差異の共立構造を形成するのだろう。これは、メディア界的な連続構造とは異質のものである。ドゥルーズ&ガタリが離接(分離的接合)と呼んだものに近いだろう。あるいは、ガタリの用語だと思うが、機械状アジャンスマン(アレンジメント)に似ているだろう。これは、近代の連合、連帯、アソシエーション、コミューン、団結等々とは全く異なるもの、次元の異なるものである。共立、共存、共生であろう。これは、フッサール現象学の志向性の世界である。不連続的差異の他者の不連続的差異への志向性がある世界である。そして、ここは、コナトゥス(自己保存力)が機能している世界である。しかし、また、不連続的差異の境界的調和が作用している「調和」の世界でもあるだろう。おそらく、原調和の世界である。イデア・メディア境界において、ゼロ度の調和があるだろう。
そうなると、イデア界の力、即ち、虚力は、(独特の)創造性をもつだろう。不連続的創造性である。これまでにないものを生み出すと言えるだろう。発見や発明。つまり、イデア界の虚力は、新しいメディアを創出するだろう。あるいは、ポスト・メディアである。つまり、不連続的差異・特異性の共立である脱メディアの創出である。
最後に、イデア界の虚力と想像力についてである。想像力とは何かである。イメージ力とは何か。あるいは、実在感とは何か。夢は実在感がある。何故か。実在感の基礎がはたらいているからだろう。実在感の原基は、イデア界なのかメディア界なのか。これは、夢はメディア界的であり、実在感もほぼメディア界に拠るだろう。そして、想像力は、やはり、メディア界的なものだろう。しかし、夢、実在感、想像力は、メディア界のみを根拠にしているのか。イデア界の力がないのだろうか。今は、指摘だけするが、イデア界の力がやはり作用しているのではないだろうか。例えば、小説を読んで深く作品世界に参入しているとき、それは、メディア界的であると同時に、読者が創り出している虚構世界だから、イデア界的創造力がはたらいているのではないか。虚構は、単にメディア界的構造では形成できないのではないだろうか。メディア界は、構造という固定した世界であるからと考えられるからである。想像力には、やはり、イデア界の創造力が必要のように思える。後で、検討を深めたい。
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不連続的志向性と連続的志向性:イデア界的志向性とメディア界的志向性
先にあげた4つの力・知覚(力知覚)は、メディア界における連続的な力であり、それは、現象界の自我の基本構成(基本構造)となるだろう。しかし、自我においては、メディア界だけではなく、イデア界が作用しているのである。もっとも、これは無意識的にという方がほとんどの場合適切だろう。ここで、身体の問題が発生するだろう。通常、身体は、感覚、感情、欲望の領域であるが、イデア界の作用を問題にするとき、身体性が問題となるのである。これはどうしてなのか。身体とは何かを考える必要があるだろう。実は、身体とは、延長と思惟との接合領域であると考えられる。感覚体であり、同時に、思考体である。つまり、身体とは、差異ゼロ度のメディア界領域総体を指していると見ていいだろう。自我や意識は身体から発すると言ってもいいだろう。(思惟と延長の二元論は、身体が欠落している。スピノザの心身平行論は、精神と身体の二元論で、思惟と延長との二元論とは異なるだろう。)
ということで、身体=メディア界となったのである。そして、イデア界の力は、イデア・メディア境界に存している。これは、換言すれば、メディア界の背後、裏面にあると言えるだろう。通常は、この無意識のイデア界は隠蔽されている。しかし、ある時、これがひらかれるのである。これは、仮説的だが、成長と関係していると思う。成長の前半は、イデア界→メディア界→現象界と進展して心身形成される。しかし、これが、成長の後半になると反転すると思うのである。つまり、現象界→メディア界→イデア界である。何故こうなるのか。
今、二つの考えが浮かぶ。一つは、イデア界のさらなる1/4回転である。他の一つは、メディア界の強度の極性力学である。前者は置いておいて、後者を考えよう。つまり、プラス強度によって連続化が発生したとするならば、当然、力の拮抗性によって、マイナス強度が発生する。
A)差異1+-差異2+-差異3・・・+-差異n
B)差異1-+差異2-+差異3・・・-+差異n
Aを+強度として、Bを-強度としよう。BはAの反転である。そして、A+Bで、再び、ゼロ度の状態を回復するだろう。つまり、イデア・メディア境界回帰となるだろう。この反転が、成長の後半であると作業仮説しよう。そして、これによって、イデア界の差異共存志向性が出現することとなる。ある人にとっては、心機一転の時期だろうし、ある人にとっては、宗教性への開眼だったり、ある人にとっては、精神病や狂気の発生だったりするのではないだろうか。ユングが中年の危機と呼んでいたものがこれと共通するだろう。(思うに、ユング心理学の無意識はイデア界と見れば、明快になるだろう。)
すると、必然的に、メディア界の反転によってイデア界の力が自我に参入するようになるのである。(思うに、天才と呼ばれる人は、イデア界の流入が初期、前期からあるのだろう。また、精神病理も、これと関係しよう。)そして、この流入の場所が、身体であると考えられる。なぜならば、メディア界の反転においてイデア界が流入するのであるから、身体であるメディア界に生起することになるだろう。
このように考えると、メルロ=ポンティの身体現象学やD.H.ロレンスの身体的無意識論が、より明快整合的に説明できるだろう。フッサール現象学も身体現象学と言えるようになるだろう。また、ロレンスの身体的無意識の二元的四元性の知覚とは、イデア界的対極的志向性とメディア界的対極的志向性を総合させたものを表現したいるのかもしれない。
さて、この観点からポスト構造主義を見ると、それは、イデア界的次元の示唆にあると言えるだろう。差異ゼロ度によるメディア界を近代的二元論的世界に説くのであるが、それは、また、イデア界領域を示唆していたのである。思うに、長期の文化期においてもこのような反転が言えるのではないだろうか。不連続性から連続性へ、そして、連続性から不連続性へと移行する。
ここで、気になるのが、映像の問題である。特にテレビの問題である。(私は、テレビをほとんど見ない。)今日の映像は、写実主義であり、連続体である。(ドゥルーズの映画論はベルクソンの持続論を根拠にしているので、連続論で、全く使い物にならないだろう。)これは、人間の視覚を平面・平板化させると思う。つまり、イデア界的心象直観を喪失させるように思うのである。これは、また、都市の問題である。イデア界的建築物や施設の有無の問題である。今日の都市文化において、イデア界的直観が欠落すると思うのである。自然の乏しさも問題である。おそらく、イデア界的心象直観と現代の映像・都市がそぐわないのである。不連続的映像・都市が必要である。テレビの不連続化が必要だろう。ライブドアはどうなっているのだろう。不連続的差異テレビである。
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差異共存志向性とは何か:イデア界の虚力的脱構造性とメディア界の構造性
先に、4つの力・知覚に関して言及したが、では、それまで述べていたイデア界の差異共存志向性はどういうものとなるのだろうか。差異共存志向性とは、イデア界の力である。だから、先の4つの力・知覚の考え方は、補足説明が必要だろう。イデア・メディア境界において、イデア界の虚力が作用する。この虚力が連続化して4つの力となるのであるが、しかし、連続化されない虚力あるのである。これが、差異共存志向性ではないか。4つの力・知覚が、連続・同一性の自我を形成するなら、差異共存志向性の虚力は、脱自我、ポスト自我を形成するだろう。だから、4つの力・知覚+一つの虚力・虚知覚だろう。この虚力・虚知覚が、虚次元知覚であり、イデア界知覚である。この虚力・虚知覚・イデア界知覚を近代主義は排出・隠蔽しているのである。これは、自然科学的に見たらどうなるのだろうか。虚力を自然科学ではどう捉えているだろうか。これは、高次元や虚時間等で、考えられているの事象ではないだろうか。因みに、空海は、五大に響き在りと言った。地水火風空である。だから、空が虚力・虚知覚ではないか。この空は、メディア界の空ではなくて、イデア界の空である。また、思うに、「気」とは、この虚力ではないのか。
思うに、現象界において虚力的創造化することが、差異共創共存主義ではないか。虚力が新たな差異連結を創造するのである。ところで、プラトンのコーラとは、この虚力的形成力を指しているのではないだろうか。これまで、メディア界的形成力がコーラと思っていたが、どんなものも受け入れる容れ物とは、虚力的創造力でしかないだろう。なぜなら、メディア界的形成力とは、構造・原型・形相であるからだ。それは、連続的差異の多様体・位相体である。これは、生成変化するが、連続体の型があるだろう。だから、あらゆる形態をもつというわけにはならないだろう。構造主義としてのメディア界であろう。黄金分割とかフィボナッチ数列とかである。あるいは、有機体の連続性である。脱構造化するには、イデア界の虚力が必要である。そして、コーラとは、融通無碍なものであるのだから、虚力であると見た方がいいだろう。つまり、コーラとは、イデア・メディア境界を超えて、イデア界的虚力であると思う。やはり、プラトンは、決定的にイデア界を捉えていたこととなるだろう。プラトンのイデアは、メディア界的構造とイデア界的脱構造の両方を指しているのである。最初のポスト構造主義者であるし、また、イデア界を明快に指していた点では、デリダやドゥルーズを超えていたと言えるだろう。
p.s. イデア界の虚力の知覚を理性にすれば、カント哲学が解明されるのではないか。純粋理性批判とは、イデア界的知性とメディア界的知性の混同である。これによって、アンチノミーが生じていると考えられるのである。イデア界的知性を不連続的知性、メディア界的知性を連続的知性と区別すれば整合化されるだろう。アンチノミーはないのである。とりあえず、前者をイデア知性、後者をメディア知性と呼べるだろう。近代主義の知性とは現象知性であろう。
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不連続的差異論的資本主義とはどうなるのか:不連続的差異論的共創共存資本主義ゲーム
不連続的差異論の開花した資本主義とはどうなるのだろうか。それは、差異共創共存主義となるだろう。市場原理は尊ばれる。一種、ゲームのように資本主義がなるだろう。つまり、ゲームを楽しむように、資本主義を経営するようになるだろうし、働きが、楽しみとなるだろう。楽働、楽労、楽営となるだろう。
不連続的差異論とは、差異の全面的な開花を意味する。即ち、スーパー・ルネサンスである。このとき、企業において、共創共存原理によって、どんどん新しい製品が開発されるようになるだろう。つまり、個々の才能が開花されて、連結されて、独創的な発想や製品が生まれるのである。これは、次から次へと、自ずから、湧き上がる発想・独創である。いわば、インスピレーションによって企業経営が為されるだろう。そして、この延長で、諸問題も解決されることとなるだろう。病気、戦争、公害、食料、福祉・医療・年金等々の大問題も、解決されるだろう。人類は、新しい黄金時代を迎えるだろう。「水瓶座」の時代である。
これは、空想ではなくて、真理である。根源的差異である不連続的差異を開花させることで、資本主義は、新しい段階に達するだろう。不連続的差異論的共創共存資本主義ゲームである。人類総天才化時代となるだろう。イデア界的資本主義ゲームである。