宗教について考えることがよくあります。
歴史を見るに、また身近な宗教に関する話を聞くにつけ、宗教とは争いのための道具として利用されてきたのだとつくづく思います。
しかし原初の宗教とはそのようなものではなかったのではないかとも思います。
当初の宗教とは、生きるための知恵だったり、人生を送る上での指針となるべき教えだったのではないかという希望的観測を抱いています。
人間の知らなかった知恵や技術を授けてくれる存在に対する尊崇や畏怖心だったりしたのではないかと。
そしてその存在は目に見える存在だったり見えない存在だったり、多岐にわたるような気がしています。だからこそ様々な神と呼ばれる存在が多数あるのではないかと。
しかしその知恵や技術を授けた対象が必ずしも善良で和平的だったとも限らず‥
中には交戦的だったり支配的だったり、おかしな趣味や嗜好を持つ存在があったりしたのかもしれません。
その崇拝の対象の思想方向性により対立が生まれ、またそれに対抗するために善良でありたい人々は試行錯誤を重ねてきたのかもしれません。
ちなみにこれは多くの一神教において顕著な傾向なのではないかと感じています。
しかし堕落した民主主義は衆愚政治となり得ます。逆に有能な独裁者の方が善政を行うといったこともあったりもするようです。
一神教においても善良な存在はあったのでしょうが、その教義を歪め悪用する人々があるのも事実だと思います。
あるところで、宗教を対立の道具としてきたのはユダヤ人だと話されていましたが、ひとくちにユダヤ人といっても様々な人たちがあったようですし、真実は恐らく巧妙に隠されてしまっているので、なかなか本当のことにたどり着けなくされていそうです。
この対立は恐らく人間が本来持つ超能力的感覚、サイキック能力が封じられた頃からはじまったのではないかという気がしています。封じられたことにより感覚が鈍り、盲目にされてしまったからなのではないかと。
そして超感覚を持つ人々を淘汰してきたという事実もありそうです。
魔女狩りというのもそうかもしれませんが、魔女と呼ばれた対象の繋がる先が必ずしも善良とも限らずまたその魔術を悪用した人たちがいたから善良な人たちまでもが巻き添えになったということもあったのかもしれません。
また中共がチベット人や少数民族らや法輪功の弾圧や民族浄化を行なっているのは超常的なものを否定するためなのかもしれません。
しかし超常的現象を起こすのは必ずしも善良な存在だけではなく、中には悪魔崇拝とも言える人たちもありますし、特定の人たちにだけ利益や便宜を供与する神?もありますし、隠された秘匿技術を悪用して奇跡的現象を起こし、自らを神と名乗る人間どももありますので、その辺りの見極めが困難だったりもします。
現在においても超常現象を起こしたり演出したりして自分たちの勢力下にある人々に対して利益や便宜を与えて信者を獲得しようとする宗教団体もあります。
そして自分たち以外の宗教を邪教だとして排除の対象としていたり。
自分としてはそのような様子は支配の一形態であり、搾取構造の一端に思えてしまいます。この場合の搾取というのは金品のみならずエネルギー的なことも含みます。
「死んだら病気が治った」というような話も聞いたことがありますが、これは死後の魂をその勢力が作る世界の中に閉じ込めようとするものなのではないかと推察しています。なぜなら、そういうことができる存在であれば、死んでからでなくとも、生きている間に同じ現象、病気を治すということができるということを自分は知っているからです。
以前このブログにも書きましたが、前世のカルマというのは嘘です。
われわれに知り得ない見えない攻撃を誤魔化すために作り上げた概念だと自分はかねてより思っています。
治せるものを敢えて治さずに生前苦痛を与え続け、死んでから奇跡を演出して症状を目に見える形で治すということの目的を考えてみた方が良いのではないかと思います。
治す気になればすぐに治せるのです。自分はそんな現象も目の当たりにしたことがあります。
以前からここでもここ以外でも何度も主張していますが、そもそもが病気というもののほとんどが「発明」されたものであり、「作り出された」ものです。
本来人間には外傷しかなく、病気症状というものは様々な外的要素により発症するものです。
エネルギー的なものが関わる場合もあるでしょうが、これも環境により作り出されたものが多くあるのではないかと自分は考えています。例えば組織的に人員を動員して搦手などにより不幸を演出して嫌な感情を誘発するだとか、秘匿技術や霊術的な憑依状態により対象人物の思考や感情に干渉するなどという方法によって。
すでに公表されている技術においても思考や感情などに干渉できることが明らかにされています。
そもそもこれまでの社会が狂っていたのもそんな技術や霊術、組織的な人員動員を行なってきたのが、またそれを行うよう指示してきたのが人格的また精神的に未成熟な存在だったからこそ現在のような惨状を引き起こしたのだと自分は考えます。
現在はこれまでの状況が改善されつつあることを感じてはいますが、まだまだ自分たちの勢力下にある者たちをエコ贔屓する存在が他者を貶め排斥しようとしている現実は目につきます。
集合意識がこの世界に少なからず影響を与えるということを考えれば、少しでも多くの人々を特定の存在に依存させ勢力下や影響下に置くために、敢えて人間の精神を未成熟な状態に保っておこうという意図があるように思えます。
日本人には無宗教と自覚する人たちが多いようですが、その実様々な存在を尊重し敬う気持ちを持つ大らかさと包容力を持つために特定の存在に帰依しないという人々が多いのではないかと思います。
本来の日本人とは宗教は必要がないほどに成熟した人たちだったと聞いたことがあります。
それが全てを受け入れ調和するというanimism的感覚、全ての存在に神を見る、というヤオヨロズノカミという概念なのではないでしょうか。
自分が生まれてたかが数十年の間にこの国の人たちは大きく様変わりしてしまったように感じています。
ここにもここ以外でも何度も書いていることですが、自分が子どもの頃の大人たちには、愛情深く、思慮深く、思いやりがあって親切な、素敵な人たちがたくさんいました。
そんな環境を懐かしむと同時に、優しく成熟した社会を取り戻したいと。そう切に願う毎日です。