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精神性の推移 見聞の範囲ですが

2023-02-23 15:22:00 | 社会
軍歌のCDを買ってしまいました、結構たくさん。
タイトルを眺めていると少し何かが見えてくるような気がします。
視点にオルタナ界隈も含めて。

親が買い与えてくれたレコードやカセットテープは、クラシックや童謡、英語教材、そしてアメリカの映画音楽などでしたので、軍歌はテレビから流れてくるのを聴くくらいだったのですが、子どもの頃から気になってはいました。
軍歌もですが、その時代というものに。

幼い頃は親に連れられてパチンコ屋に行きパチンコを打ったりして遊んでいました。
そこでは軍艦マーチがいつも流れていたことを覚えています。

いわゆる飲み屋というか酒場という場所でバイトした時に、カラオケで軍歌を熱唱するおじさまたちが何人もいて、そこで軍歌を少し覚えました。
数人で肩を組み合唱するお姿は今でも瞼に焼き付いています。

軍歌が流れる時代を生きた人々にとっては様々な思い入れがあるのかもしれません。


以前、尋常小学校の国語と修身の教科書(復刻版)を読んだことがあります。
修身は道徳心を養う内容でした。
戦争礼賛描写について問題とされることがあるようですが、その部分を除けば今の私たちに必要な、今の時代に失われつつある心の在り方を養う内容が多かったように感じました。
国語については高学年の内容が、現在の高校生レベルと言いますか、ともするとそれ以上のレベルなのではないかと思うほどの文章だったことに驚きました。
小学生であの内容であれば、旧制中学や女学校が大学相当と言われるのも納得です。
それも現在の誰でも入れるレベルの大学ではなく。

戦前より教員をされていた方のお話をうかがったことがあります。
とても知性に溢れた、お人柄も立居振る舞いもご立派な方でした。

戦後のこの国の復興を支えてきた方々はあの方のような教員の方によるあのような教育を受けたことにより作られたのだと妙に納得したものです。

自分の周囲を眺めてみても、戦後の教育を受けて育った団塊世代と呼ばれる人たちと、戦前の方々とはその知性や精神性が大きく違うと感じています。
もちろん全ての方ではないでしょう、いつの時代にもいろんな方がいますので。
ですがその子ども世代、団塊ジュニア世代とそれ以前の世代でもやはり精神性が違っているのですね。
集団イジメが蔓延し出したのは団塊ジュニア世代なんです。
自分の知る団塊以前の方々は、弱気を助け強きを挫く、的な精神をお持ちの方が少なくなかったのだと思います。

やはり思うのは、何かの節目ごとに人々の性質が変化してしまうということです。

明治悪が言われますが、悪いばかりではなかったと思うのですね。
教育勅語には現在にこそ必要な内容が書かれていたりもします。
わたしの知る団塊以前の人々は、ご立派な方々が多かったのてす。
社会的地位や財産の有無に関係なく。
周囲に恵まれていたのかもしれませんが。
そんな方々がこの国を支え守ってきてくださったのだと思います。
(平成以前はそれぞれの勢力の人々がわりと自由に活動されていたと聞いたことがあります。日本の良心とも言われることもあるこの国の奥の院が機能していたのかもしれません)

軍歌のCDからそんなことを思い出しました。


天国と地獄

2023-02-23 13:54:00 | 社会
先ほど某宗教団体の方が訪問されて、「地獄の法」なるご本を置いていかれました。
いずれ読ませていただくと思います。

自分としては、天国も地獄もなくていいと思っています。
天国や地獄というのは仏教思想やキリスト教思想の中に見られますね、他にもあるのかもしれませんが。

過去に臨死体験をしたことが数回あります。
その時には三途の川なるものは見かけませんでした。
明るい光に満ちた場所で、そこにあるのは意識、それだけでした。
そこに存在する意識体と会話を交わしたのちにこちらの世界へ戻されたのですが、自分の意識が上昇するうちに周囲がとても暗くなってきてそして密度が高まり、とても重く感じたことを覚えています。
上りきってこちらの世界へ戻った時の感覚は、まるで深海から水面へ浮上したような、そんな感じでした。
この世界はとても暗くて重くて密度が高いんですね。
よく死後の世界を見たと言われる方が三途の川やお花畑を見たといいますが、わたしに関してはそれはありませんでした。
明るくて暖かで柔らかい光に満ちたとても居心地の良い場所でした。

わたしの家はといいますか、片方の親の実家は神道だったのですね。
子どもの頃聞かされたのは、「仏教は死んだら天国や地獄へ行くけど、神道は死んだらみんな神さまになるから良い神さまになるか悪い神さまになるかっていうことなんだよ」ということでした。
少し前に某所で見かけた話ですが、寺とは死んだ人を閉じ込める場所だ、とそこでは語られていましたが、もしかするとそうなのかもしれないと少し思いました。

死生観とは民族や土地柄、宗教などにより様々ですが、あえて恐怖を煽ることにはなんらかの良からぬ目的が隠されているのではないかと考えています。

神道の家で育った親は、いつも祝詞?に囲まれて生活していたそうです。
祖父は様々な場面で祝詞?を唱えていたと聞きました。
食事の前には必ず祝詞を奏上していたそうです。恐らく生命をいただくことに対しての供養と生かしていただくことへの感謝などだったのではないかと思うのですが、敬虔なキリスト教信者の方も食前に祈りを捧げるように記憶しています。
原始景教と古神道は似ていると言われます。
いずれもアニミズム的思想に基づくのかもしれないと勝手に思っています。
人間とは生きものたちのいのちをいただくことにより生命を維持させるように作られたことをキリスト教では原罪と呼ぶのだと、そう理解してます。
そして祝詞や祈りの言葉というものは、ある意味では呪文とも言えるのかもしれません。
しかし自分としては、念というか、思いというか、心というものは、その対象へ向けられた時に瞬時に、時間も距離も空間も超えて届くものだと思っているので、あまり形式的なことにとらわれる必要はないと考えてます。

宗教というのはとかく対立を生みがちですね。そのあたりの事情にもわれわれが知らされていないことが隠されているのでしょう。
そして見えない世界を語ることにより恐怖を生み、それが支配に繋がることもあるように思います。
人間を動かすには、欲を煽り恐怖で縛ることがとても効果的なのだと聞きます。
そして、コレを買えばご利益が得られるだとか、信じれば救われるというのも自分には疑問です。
現生利益を謳うにはそれなりの背景というか、裏の仕組みのようなものが絡んでいるのだと思います。
健康ビジネスの「効果には個人差があります」というのと同じで。
特定の者だけに利益を与える、これは差別というか、えこひいきにあたるのではないかと思います。
ましてやひいき対象者の気に入らない相手を無闇に攻撃するなどというのはもってのほかだと。

宗教がどのように発生したのか、そのあたりのことを知ることができれば対立も解消するのかもしれません。

人間が直感を取り戻し、欲と恐怖から解放されれば、そして行きすぎた依存心から脱却出来れば
自分が自分の主人であることができれば
私たちは支配からの自由を得られるのかもしれません。

頭がさっきからボーッとしてますのでまとまらない文章になりました。
死生観や宗教についてはまたいずれ書きます。