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はっぱのきもち

古典から児童書、外国作品までの感想。
あらすじを知りたい方や読む前の参考にしたい方におすすめします。

おしゃれもしたいしお金もほしい・「ミャンマー現代女性短編集」

2008-10-01 09:57:09 | アジアの現代小説
「ミャンマー」というと何を連想するでしょう?
日本人カメラマンの死亡や動乱などでよく耳にします。


思い浮かぶのは
アウンサン・スーチー女史の軟禁問題、仏教国、軍事政権、首都移転・・・
いろいろあるかと思います。でも、大抵の場合は
「遠い遠い、仏教の、貧しい国」というイメージではないかと思います。


その昔、「ビルマの竪琴」という映画がありましたが、
この名の通りもともとは「ビルマ」という名でしたが、
1997年に軍事政権が「ミャンマー」と国名を変更しました。


貧富の差が激しいこの国で、女性達はどういう生活をしているのか、
どんなことを思い考えているのか。
そういったものを代弁している、女性作家の短編を集めた本です。


貧しい家庭のために金持ちの妾となった若い娘が、
その生活に耐えられなくて実家に戻るものの説得され、
魂と現実の間で死ぬ苦しみを味わう話があります。
おそらくこういったものは「イメージ通りの話」と感じるかもしれません。

でも、


赤ん坊が生まれたために、自分の自由時間がなくなったことを
嘆く母親の話や、

実家におかずでも持って親の助けに行きたいと思いつつ、
日々の忙しさとお金のやりくりに追われ、
なかなか実行できない主婦の持つ罪悪感の話、

転職するたびに職場で下っ端扱いされることに対して
ウンザリする女の子の話など、

どれもとても身近に感じるような話ばかりです。


同じ女性としては身につまされるような話も多く、
これらが決して遠い国の異文化の人々とは思えないのです。
少し変わったのもでは、
インチキまがいの宗教家をやりこめる話が面白いです。
これらの作品に登場するのは、おそらく等身大の女性達。


ただ、「なんだ、国の違いなんてないな」と安心して
終わるわけにはいかないと思うのです。


なぜなら、彼女達の立場はとても抑圧されたものだからです。


日常的な夫婦間の暴力、
女性が離婚することへの世間の非難や、頻繁な性的暴行。
性に関する決定権はすべて男性が持ち、中絶は非合法です。
女性の価値は「処女性」「純潔」「貞節」にのみ重きをおかれ、
学歴や社会への貢献などは一切関係ありません。


これ、少し前の日本と同じですね。


でもミャンマーの女性は賢いです。
勇気だってあるし、間違いを間違いと理解する判断力もある。
もちろん自我だって。
でも、敬虔な仏教徒ゆえに
「夫に従う」といった教えに代表される規範に背くことに対し
強い罪悪感がつきまとってしまうようです。
それに、なんの後ろ盾もない女性が世間に対抗していくのはかなり難しい。



「こんなひどい男、なんでさっさと別れないの!」
とじれったく思っても、
ミャンマーでは離婚は夫の承諾がなければできないことや、
ほとんどの夫はそれを承諾してくれないという事実を知れば、
無責任なことも言えません。


これらの小説ほとんどは現実にあった話をもとにしているそうです。
中には実話のものもありました。


そう考えると、
「おいしいものをいっぱい食べておしゃれもしたい」
という願望を持った若い娘が、
地位も金もある男に利用され捨てられ、
危険な闇での中絶で命を落とした話はかわいそうでなりませんでした。
きっとありふれたお話なのでしょう。

こんなささやかな願いを叶えるために
命が犠牲になってしまうなんて・・・



「おいしいものをいっぱい食べておしゃれをしたい」。


女の子なら誰でも持つ願望なのに。


民主化への騒乱は、いまのところ沈静化したように見えます。
でも、その影にたくさんの人々が生活している。私達と
変わりなく、彼らは日常を紡いでいるでしょう。


ニュースでミャンマーを見ると、
いつもこの本を思い出しました。




原題 アジアの現代文芸 ミャンマー現代女性短編集
著者 南田みどり編訳























































「それでは法律は何番目なんだ?」・現代カンボジア短編集

2008-03-03 13:30:25 | アジアの現代小説
今まで、「ミャンマー」「パキスタン」とご紹介してきた
アジア現代短編集ですが、今回は「カンボジア」です。


カンボジアというと、ポル・ポト政権の恐怖政治による
国民の大量虐殺が記憶に新しいかもしれません。
多くの知識人たちが闇に葬られた、このわずか四年ほどの
暗黒の時代から20年以上経ちました。


カンボジアの人々はどうしているのでしょう?



そこに描かれた普通の人々は、日本製のバイクを愛用し、
若者は歓楽街でたむろし、一見平凡な生活を送っているようです。
でも、とても根深い悩みを抱えていました。
それは「ミャンマー」の人々と同じ、国が貧しいということです。


「姉さん」という短編は、幼くして両親をなくした弟妹が、
都会の投資会社で働く姉の援助のおかげで申し分ない教育を
受けることができるお話です。
弟妹は高給とりの姉をこのうえもなく尊敬し、感謝し慕っています。
ところが、ある日弟は夜の街で売春の客引きをしている姉をみつけて
しまう・・・。


貧しさから抜け出す唯一のチャンスは教育。
でも教育を受けるためのお金がない。
姉は自分の人生を捨て、弟妹の将来に自分の果たせなかった夢を
つなごうとしたのです。


この他、お金がすべてと考える人々が多く登場します。
それにはこの国ならではの理由もありました。


かつて成人男性の多くが恐怖政治で殺されたため
ポル・ポトが去った当時、この国では20歳以下の国民が
全体の半分以上を占めるという、異常な「若者の国」に
なってしまいました。

要するに女性と子供だけの国です。


社会のルールや道徳、伝統を教えてくれる父や祖父、教師を
失った子供たちは経済至上主義に変わってゆく世の中で
お金がこの世のすべて、と考えるようになってしまったのです。



何をするにもカネ、カネ、カネ・・・
人間を守るために、長い歴史をかけて作り上げられてきたのが
法律のはず。それがお金の前には何の力も持たない。
手っ取り早く物事を解決してくれるのはお金だという風潮。



今の日本にも当てはまるかもしれません。
私たちは国は違えど同じ苦悩を背負っているのかもしれない。


それにしても・・・
物語の中で成績優秀な生徒に送られるはずの文房具を
教師たちが横領してしまったり、
修学旅行の費用にと国から支給された旅費を使って、
教師たちの家族や有力者たちが旅行してしまう話には驚きました。
おそらく実話なのでしょうね。



最後に、短編の作者たちのプロフィールを読んでいて、
ひとりだけ既に死亡している作家がありました。

クン・スルン。
彼はポル・ポト側について理想郷を夢見たものの、
その後妻子とともに殺されたとありました。


「人生は他人に苦しみをあたえるものではない」と考えた
33歳の若い彼は、大量虐殺の現実を見て何を思ったのでしょう。




原題 アジアの現代文芸 カンボジア①
   「現代カンボジア短編集」
編訳 岡田知子








































パキスタンの「呪われ女」・「ダーダーと呼ばれた女」

2008-01-06 15:12:09 | アジアの現代小説
お正月も過ぎましたが、
2008年あけましておめでとうございます。
いつもこのブログを読んで下さっている方々、いつも
ありがとうございます。
どうぞ今年もよろしくお願いします。


この「ダーダーと呼ばれた女」という本は、
パキスタンの現代文学の短編を集めたものです。
ちなみに「ダーダー」とは「悪い奴」という意味です。


最近はパキスタン情勢も不安定で、よくテレビで映像を見ます。
いつも思うのは、街中に女性の姿を見ないことです。
最初は不思議に思っていたのですが、その後イスラム諸国では
女性が街中を一人歩きするのはタブーとされていることを知りました。

彼女たちは常に家の中にいることになります。
ということは、人間関係も行動範囲もかなり狭いものでしょう。
そんな中で、もしも行き詰ったら?困難なことがおきたら?


八方ふさがりになる彼女たちはいったいどうするのでしょう。


この物語の登場人物は、ほとんどが女性です。
著者が女性なのでその点は鋭く、描写がすぐれています。
兄の病気を治すために、全財産ともいえる妹の持参金が使われ続け、
挙句の果てに兄は死に、自らの婚期を逃してしまった女性の話などは
女性でなくては書けないでしょう。



でも、ほぼすべての話に救いのないのがちょっとつらかったです。
特に表題の「ダーダーと呼ばれた女」などは、その読後感の悪さで
いったら個人的にワースト1といっていいくらいでした。



パキスタンはインドとの分離独立や、難民問題など抱えています。
特に日本人の目から見ると特殊なのが、社会的な階級制度でしょう。
お金持ちのご主人様と召使という、厳密に区分された関係。
その点がかなりなじみの薄い感覚です。


召使の男性は、そのずんぐりとした風貌から「インクびん」という
あだ名で呼ばれる。主人の子供たちも大声でその名を呼んで蔑みます。
本当に憎たらしい子供たちなのですが、召使はそれでも笑みを絶やさない。

しかし、彼の妻がそれを知り「なんてうまいことを言うんだろう」と
笑い転げたとき、温厚な召使は真っ青になって怒り、妻を殴るのです。


自分たちと同じで人間であるはずの召使の気持ちなど、雇い主には
知ったことではないというその傲慢さ。
雇われているからこそ笑顔で我慢していたのに、その夫の気持ちが
理解できなかった妻の笑い声は、どんなに彼の心に突き刺さったでしょう。



ご主人と召使というような特殊なものでなくても、こういうことは
私たちの日常に潜んでいるものです。


最後に、とても悲しかった話は
「連れて行って、あの人の家に」という作品でしょうか。


ビルに不法入居していた少女が、髪を洗ってその泡を外に流したために
隠れているところを見つかってしまうのです。
殺すつもりで探していた男たちは、相手が少女と知るや目をギラつかせ
難民ボランティアの青年の止めるのも聞かずに肩にかついで去っていきます。



青年は「なぜ髪など洗っていたのか」と、少女の無用心さに苛立ち、
助けられなかった罪悪感でいっぱいになるのです。
しかし、彼女が寝ていたらしい場所に手紙を見つけます。


「ぼくが迎えに行くまでまっていておくれ」


おそらく恋人が書いたのでしょう。
彼女は、汚れた顔で恋人に会いたくなかった。せめて髪だけでも
洗って身奇麗にしたかったのでしょう。結果としてそれがあだに
なってしまったのです。


青年はこの手紙を見つけて号泣します。
この少女がひとことも言葉を発しないところが、よりいっそう
哀れで痛ましい気がします。


読んでいて決して愉快な話ではありませんが、人間というものの
残酷さや弱さを強く感じる本です。




原題 「ダーダーと呼ばれた女」
著者 ハディージャ・マストゥール