35年間ずっと応援し続けている埼玉西武ライオンズ。
ふと立ち止まってみると、
『本当に35年間応援し続けているの?』
という疑問が、
自分の中にも湧いてきます。
なんでかなあ・・・・
ちょっと考えてみました。
ライオンズに対する熱は、
90年代の中盤まで、
森監督の時代までと今とでは、
本当にその熱さは違うと自分でも思います。
97,98,02年のリーグ制覇、
04年,08年の日本一。
そこそこの成績を残しても、
なんだか違和感がぬぐえない自分がいますね。
『オレの応援していたライオンズとは違う』
その思い、
年々強くなってきています。
そして特に【チームリーダー】と言われる人間について、
『応援したくもないよ』
というような感じが長く続いています。
松井稼から始まって、
松坂、中島、涌井など。
松井はちょっと違いましたが、
その後のリーダーたちは、
いわゆる”ちゃらお君”ぞろい。
それに比例して、
チームもなんというか、
『軽い』という言葉のチームになってきましたね。
黄金時代も渡辺、工藤らを中心に『新人類』なんて呼ばれていましたが、
それでも『グラウンドではやるぜ』という奴らばかり。
いわゆる『一流選手の矜持』がありました。
しかし上記の選手たちには、
そういったことは感じられません。
ドンドン軽くなっていき、
それに伴いチーム内には『ゆる~い』空気が流れるようになりました。
時代が違うと言ってしまえばそれまでなのですが、
広岡、森時代のあのグラウンド内や試合でのピリピリしたムード。
これ、一切ありません。
そしてチームリーダーがそれですから、
他の選手にも伝染しますわなあ。
一見のファンたちは【明るくていいチーム】なんていいますが、
私達≪見る玄人≫にとっては、
本当に『どうしようもないチーム』に映ってしまいます。
だから、
『何年かに一度、調子のいい時はそこそこの成績を残すけど、ほかの時はからっきし。そして本当の実力とか気概がないから、最後の決戦にはからっきし弱い』
なんていう、
黄金時代には『相手がそうだった』というようなことを【体現してくれている】のですね。
長いファンにとっては、
イライラが募るってもんです。
そんなイライラについて、
ヤクルトを引退した宮本が、
実に的確に表現してくれています。
ライオンズに限ったことではなく、
すべてのプロ野球にはびこっている『軽さ』と『ちゃらさ』。
あ~だから真剣に、
プロ野球を見なくなっちゃったんだなあ。
【Numberコラム】
『僕は野球を楽しむなんてできない』規律の男、宮本慎也が球界に残すもの
ヤクルトの宮本慎也内野手が8月26日、引退を正式に発表した。
宮本と初めてゆっくり話したのは、2003年の12月だったと記憶している。宮本を良く知るスポーツ紙のベテラン記者の紹介で、アテネ五輪日本代表のキャプテンという立場で話を聞かせてもらった。
そのときちょっと驚いたというか、こういう男なんだなと感心した言葉がある。
「僕は巨人をちょっと羨ましいと思うことがあるんです」
宮本がこう切り出して例に挙げたのが、「赤い靴下」の話だった。
ある試合の日。ヤクルトの中堅選手が真っ赤な靴下を履いて球場にやってきたのを見て、それに無性に腹が立ったというのである。
「だって……男が赤い靴下ですよ! どう思います?」
こう問われてちょっと言葉に詰まった。
ただ、次の言葉にはこの男が抱く強いチームのあるべき姿が強烈に込められていて、妙に納得させられた。
「だって強いチームというものには、必ず規律があるじゃないですか」
赤い靴下はダメだと球団が決めなければ。
宮本は言う。
「巨人を見ていると、やっぱりそういう規律を感じるんです。ヒゲはいけないとか、金髪はダメだとか……。傍から見たら小さなことかもしれないけど、野球に全力を注ぎ込むために、全員が守らなければならない決まりが巨人にはある。今のヤクルトはそういうのが薄れてしまって、てんでバラバラなんです。だからちょっと巨人が羨ましい」
ヤクルトが強かった野村克也監督時代には、茶髪、ヒゲはもちろん禁止。その他にもドレスコードや暗黙の決まりがいくつもあった。それらはすべて、野球に集中し、勝つためのものだった。規律を破って少しでもチャラチャラした服装をしているのを見つかると、監督からの厳しい叱責も飛んだ。
強かった頃のヤクルトには確かに規律があったが、それが次第に薄れてきてしまっている。宮本にとって、その象徴が「赤い靴下」だったわけである。
「だから本当は、チームが赤い靴下はダメだって決まりごとを作らなければいけないんです。そういう決まりがないから、あんな靴下を履いて球場に来る選手も出てしまう」
アテネ五輪で敗れても満足感を感じた理由。
アテネ五輪の日本代表は、史上初めてオールプロで結成されたドリームチームだった。長嶋茂雄監督の指揮下で'03年のアジア最終予選を勝ち抜き、金メダル以外は認められないような大きな期待を背負って大会に向けての準備をしている最中だった。
そんなチームだから、選ばれた選手も生半可な気持ちでいてもらっては困る。勝つためには、少し堅苦しいだろうが、そういう細かい規律が必要ではないか。それがチームをまとめていくための一つの指針になる。宮本はそう話していた。
この少し後に、長嶋監督が脳梗塞で倒れ、日本代表チームは大きな柱を失って五輪を戦わなければならなくなってしまう。
しかし、中畑清ヘッドコーチを先頭に、チームは非常によくまとまっていた。宮本はキャプテンとして、ちょっとでも気持ちが抜けたプレーをしたり、約束事を守れなかった選手に厳しい言葉を投げかけ、集まった選手たちもその言葉をきちっと受け止めて戦った。
銅メダルに終わった瞬間、松坂大輔も城島健司も小笠原道大も中村紀洋も、そして宮本も泣いた。だがその涙の一方で、やることをやって敗れたという満足感に満ちた戦いでもあった。
中堅、若手との間にジェネレーションギャップが……。
「(国際大会の中で)一番、印象に残っているのはアテネオリンピックですね。初のオールプロのチームで、もの凄いプレッシャーの中で、本当に一つになれたと思う」
引退会見で宮本は、思い出をこう振り返った。
実は宮本がプロ選手として日の丸を背負ったのは、このときだけではない。第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)、アテネから4年後の北京五輪と計3度の国際舞台の経験があった。
だが、辞退者が続出したWBCは代役としてのメンバー入り。メジャーリーガーのイチローがチームリーダーとなって、あくまで脇からフォローする役目に徹した大会だった。そして星野仙一監督肝いりのチームリーダーとして代表入りした北京五輪では、また違う悩みを抱えることになった。
厳しい規律を求める宮本と、楽しんでプレーをしたいという中堅、若手選手たちとの間に、明らかにジェネレーションギャップが生じていたのだ。
僕は、野球を楽しむなんてできない。
そうしてまとまりを欠いたまま大会は始まり、試合ではミスが続出。宮本にとっても、チームとしても不完全燃焼な戦いが続いた。結果は、準決勝で韓国に敗れ、3位決定戦でも米国に敗れ、ついにメダルには手が届かずに終わってしまった。
「負けた瞬間に携帯電話をいじっている選手がいるのを見てガッカリしました」
準決勝で韓国に敗れて茫然自失となった宮本の横では、若手選手が携帯電話でメールを打っていたのだという。
その姿に宮本の心は無性に荒れた。
赤い靴下は携帯電話に変わっていたが、過去2度の国際大会を経験した自分が求めてきた強いチーム、日の丸を背負うチームの姿はそこにはなかった。
そこに宮本の悔恨があるのだ。
「好きで始めた野球だけど、プロに入った瞬間に野球が仕事になった。最近は『楽しみたい』と言うけど、僕は野球を楽しむなんてできない。仕事として19年間、向き合ってきたことが誇りという思いはあります」
19年間のプロ生活を振り返って、宮本慎也はこう胸を張った。
いつも必死で、上手くなること、勝つこと、強くなることを考え続け、共に戦うチームメイトにも同じ厳しさを求め続けた。
赤い靴下を許さないのは、少し古いのかもしれない。ただ、赤い靴下を許せないほどに、選手としての責任と規律を自らに課してきた。
その徹底した生き様が、この選手の魅力だったと思う。
宮本、いい選手だったなあ。
こういうチームリーダーがいたら、
チームも変わるのに。
西武は現在、
こういうチームリーダーどころじゃない、
監督すらいないんだから、話にならないわなあ、まったく。