昨日の社会面のニュースのトップで報じられたのは、
大阪市立桜宮高校バスケット部主将の自殺の記事でした。
アスリートの自殺。
スポーツ好きのワタシにとって、
これほどショックなことはありません。
部内でのいじめがもとで自殺したケースでは、
その時、
なぜ監督、コーチが気付いてやれなかったのか・・・・・
ということを強く思ってしまいました。
しかし、
今回は『顧問(監督)による日常的な暴力』によるものと判明しているようです。
なんともはや、
気持ちが滅入ってしまいます。
監督はたぶん、
『軍隊のように』
チームを鍛えようという思想の持ち主だったようですね。
戦後、日本中でスポーツの振興が声高に叫ばれる中、
私達の頃も含め、
『軍隊あがり』と思われる怖~い顧問の教師が部活動の顧問をやっていた時代が長く続きました。
彼らが『鍛える』と言えば、
それはまさに『軍隊式に鍛える』ということ。
『血へどを吐くまで』練習し、
『殴られながら』それを『ありがとうございます』と受け、
それを持って卒業していく・・・・。
そういう時代でした。(程度の大小はあるにせよ)
その後スポーツの世界は大きく変貌を遂げ、
『スポーツとは楽しむということが根底になければいけない』ことが主流になり、
トレーニングは『科学的なもの』に立脚して合理的に行われるようになってきました。
日本で戦前からあった『〇〇道』というスポーツの考え方から、
世界的な時流に乗る『スポーツクラブ』へ。
こんなところが、
学校とスポーツの大まかな流れといってところでしょうか。
ワタシは本来、
『体罰』(暴力と言い換えてもいいかもしれません)は、
基本的にはあってはならないが、
場合によっては認めてもいいと思っています。
『チームや部活動に影響を及ぼすような行いがあった時』や、
『プレーに気持ちが全く入っていない時』
など、
その要因は多岐にわたるでしょう。
たとえば、
ベタな部分になりますが、
『スクールウオーズ』で、
山口監督(ドラマでは滝沢監督)が大敗した時にチームひとりひとりをロッカールームで殴った場面。
ああいった、
『ここぞ』という時の体罰は、
言下に否定されうるべきものではないと思っています。
しかしながら、
それが『日常化』してしまっていたら、
どうなんでしょうか。
よく一流スポーツ選手が、
『体罰あったればこそ今の自分が・・・・・』
ということがありますが、
その意識こそが『タテにつながっていく』こういった体質を止められない元凶なのではないでしょうか。
ワタシ、
そして兄弟、家族、親族、友人。
学生時代、各競技で『全国レベル』だった選手が何人かいます。
彼らは毎日朝から晩までその競技に打ち込んでいましたが、
『体罰』を日常的に受けていたなんて話は、
聞いたこともありません。
もしかしたらそれはとてもラッキーなこと?
いえいえ、そうじゃないでしょう。
学校スポーツは、
顧問の先生やその部の体質によって、
本当にすべてが左右されてしまう『閉鎖空間』です。
桜宮高校でも、
新聞の記事によるならば、
顧問に反発したり反抗したりすれば、
学校にいられなくなるとのこと。
そういったことが、
そういう土壌を生んでしまったのではないでしょうか。
彼が熱血でその情熱をバスケという競技や部活動に注いでいたことは、
まぎれもない事実でしょう。
しかしその情熱の注ぎ方は、
間違っていたとしか言いようがありません。
そして学校も。
高校入学に際して、
顧問は各親御さんに向かい、
こういったことでしょう。
『息子さんをお預かりします』
『預かる』ということは、
自分が絶対的な権力を持つ≪部活動≫という空間で、
その競技にかけるアスリートである彼らの『生殺与奪』の権利までをも行使することでは、
決してないと思います。
そのことへの『欠けた意識』、
やはり猛省すべきでしょう。
『軍隊』が『軍隊式』に鍛えるということ。
それは、
彼らが行くのが『戦場』だから。
一つのミスが彼らの『生死』を分けてしまうから。
そしてそのミスは、
ミスをした人間だけではなく、
仲間の命をも奪ってしまいかねないから。
そこまでして鍛えない限り、
戦場には送れないということでしょう。
しかし、
本来ならば根底に【明るさ】【楽しさ】を持たなければならない【ゲーム】であるスポーツで、
アスリートをそこまで追いつめること、
誰ができるのでしょうか。
そしてそんなこと、本当に許されることなのでしょうか。
スポーツ好きのオヤジとしてよりも、
同じ年代のスポーツをやる子供を持つ親として、
絶対に『許せない』ニュースでした。
おまけに監督はワタシとは同年代の人間ですしね。
亡くなったキャプテンには、
深く哀悼の意を表します。