渡辺省三 北朝鮮時代関連ブログ

日朝政府間協議に係る北朝鮮墓参関連記事

北朝鮮・遺骨返還問題ー龍山墓地に眠る「敏子」

2012-08-14 13:27:52 | 政治
北朝鮮の遺骨返還問題が大きく動き出した。

昨日の報道によると、政府が、北朝鮮に残る日本人の遺骨の返還や遺族の墓参りの早期実現に向けて、北朝鮮との政府間協議を今月末にも開始する方向で最終調整に入っているという。

私の叔母にあたる「渡辺敏子」も、この問題の該当者だ。北朝鮮の龍山墓地に67年間、眠っている。

叔母「渡辺敏子」の生涯をまとめてみた。


「渡辺敏子」(渡辺省三の妹)は、昭和18年8月3日、父義信、母浪代の4女として、平壌市内で生まれた。



2歳になる直前の昭和20年6月、大東亜戦争が激しくなり、日本が負けるのではないかと察知した義信は、

家族を日本に引き揚げさせようと考えた。

日本への引き揚げ船は、釜山から出ていたが、このころ、沖縄からのアメリカ機襲来のため、運航不能になっていた。

船便は、清津から敦賀間の日本海横断の便しかない。

家族は、平壌から清津まで、高原で一泊してたどり着いた。

ちょうど、たどり着いた日、船が出る予定になっていたが、敦賀に空襲を受け、鉄道が破壊されたとかで、

敦賀から清津に来る船が、到着せず、足止めを食った形になった。

1週間、清津で待機し、船が来るのを待ったが、船は出なかった。

一家は、仕方なく、平壌に引き返した。当時、母浪代は、7か月の身重で、平壌に戻った翌日、早産した。

長旅の疲れか、日本へ帰れると思ったのに、船が出ず帰れなかったという気落ちのせいか、産後のひだちが悪かった。

掛かりつけの医師に来てもらい、一本の注射をしてもらったところ、その後、意識が戻らず、そのまま不帰の人となった。

昭和20年7月25日朝のことである。


2歳になる1週間前に、母を亡くした敏子。

2歳の誕生日(8月3日)を迎えてすぐに、終戦を迎えた。

終戦から10日程過ぎたころ、平壌にソ連兵が入城してきた。

住んでいる官舎にもやってきて、「3時間以内に立退け」と命令され、家族は大慌てで、立退きの準備をした。

とりあえず、近くの風呂屋に30家族で避難した。

当面は、持ち出した食料を飢えを凌いだ。だが、日に日に食料が底をつき、全員、死を待つばかりの状態になった。


このころ、無政府状態のところに、日本人会が創設された。

義信は、30家族を代表として、日本人会に1週間連続で、嘆願書を送った。

嘆願書を送ったことで、やっと、風呂屋に30家族が避難し、食料がないということを、日本人会に知ってもらうことができた。

日本人会から5人の役員が実地調査に来てくれ、飢えの状況を認めてくれ、早速救援の手を差し伸べてくれた。


避難の最中、「朝鮮銀行横の寺に集合せよ」と成人男性への命令があった。

義信は、13歳の長男、省三を頭に、3人の子供を避難所に置き、集合場所に行った。

集合した者全員を、ソ連兵に引き渡されようとする直前に、

「渡辺君が来ていたら、ちょっと本部まで来るように」という連絡があり、義信は、何事かと思いながら日本人会の事務所へ行った。

すると、日本人会の会長が待ち受けており、「お前だけはここを黙って帰れ」と言われ、一目散に子供がいる避難所に帰った。

集合した者は、全員、三合里収容所に送られ、シベリアに連行された。

義信は、あの時に、三合里収容所に送られ、シベリアに連行されていれば、あの時点で、親子別々になり、

自分は、あの寒いシベリアに送られ、到底、生きて帰ることはできなかっただろう。

そうであれば、両親なきあと、避難所の子供たちはどうなっていたか。北朝鮮で残留孤児になっていたのではないだろうか。

現在の家族構成、現在の生活はなかっただろうと、戦後38年経過した時に書いた「渡辺義信 我が人生の回顧録」で述べている。


義信は、避難家族を代表して、日本人会に嘆願書を出すなど、同志のために尽力した。

終戦後、184名の生命を預かり、日本人団長として、帰国の途に導いた。

帰国の途に就くまでには、飢えや栄養失調などで亡くなる子供たちも多くいた。

この時、亡くなった人を埋葬したのが、「龍山墓地」ということなのだろう。

義信は、埋葬に関しても、日本人会との折衝を繰り返したのかもしれない。


義信は、日本人団長として、忙しい。

2歳になったばかりの「敏子」は、必然的に、省三が面倒を見ることになったのだろう。

当時のことについて、省三は、チームメートの吉田義男さん(阪神タイガース元監督)に、つぎのように語っている。



「牛若丸の履歴書」(吉田義男著)【渡辺省三】の項より、抜粋

「寡黙だったから、チームメートの談笑の輪の中では、常に聞き役だった。

一度だけ、問わず語りに身の上話をしたのが印象に残っている。

軍属だった父親の赴任先、現在の北朝鮮・ピョンヤン(平壌)で育ち、平壌工に通学した。

終戦後、長男だった省さんは、幼い妹を背負って飲まず食わずの状態で、愛媛の西条に引き揚げてきた。

大変な苦労だったらしく、我慢強いのはこんなつらい体験をしたからではないかと推察した」




義信の孫として、省三の娘として、敏子の姪として、
今、私は、遺骨返還問題の進展を祈念するばかりだ。


















































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