アレクサンドロス大王 (AlexandrosⅢ)

アレクサンドロス大王の生涯と後継者争いについて書いていきます。

アレクサンドロス大王を理解するうえで

2016-06-19 14:46:48 | はじめに

もしも、アレクサンドロス大王が存在しなかったなら、我々の住む世界は今とは大きく異なっていた可能性がある。


なぜなら、アレクサンドロス大王がギリシア世界からアジアに持ち込んだものには、文化的な価値観や感性そして美意識といったものも含まれていたからである。


アレクサンドロス大王は超がつくほど短期間のうちにアケメネス朝ペルシアを打倒し、広大な領土を自らの帝国の支配下に置き、その偉大さがゆえに、アレクサンドロス大王の死後、残された帝国の継承者を巡って有力諸将による勢力争い(ディアドコイ戦争)の影が極端に薄いが、その二転三転する展開は興味深く面白い。





アレクサンドロス大王の時代にはギリシアという一つの国は存在していない。

ギリシア世界という概念の中に、アテナイ、スパルタ、テーバイなどの都市国家がギリシア世界の中に存在していた。

マケドニアはそんなギリシア世界の中に存在する国家であった。



ギリシア世界に住む人々は、ギリシア人としての誇りを強く持っていたが、一方でこの時代の世界の最先端はペルシアであった。


アケメネス朝ペルシア帝国は、現在のイランを中心に、東は現在のトルコやエジプト、西は現在のパキスタンのあたりに及ぶ、広大な地域を支配下においていた。


ギリシアはかつてのように世界の中心ではなく、ペルシアが文明や経済の中心であった。




そして、この時代のギリシア世界にとって、東はペルシア帝国の先にインドがあって、その先はギリシア神話に登場する世界の果てオケアノスであると信じられていた。


コロンブスがアメリカ大陸に上陸する1800年ほど前のこの時代、世界の中心からインドまでが世界の全てであった。


そして、コペルニクスの地動説が唱えられ、人類に地球が丸い可能性が提示されたのは、コロンブスよりもさらに後の時代である。


アレクサンドロス大王は、今から2000年以上前の紀元前336年に、ギリシア世界を代表して、その文化を世界の果てオケアノスまで広げようとしたのである。








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アレクサンドロス大王の生涯をダイジェスト


アレクサンドロス大王の後継者争い(ディアドコイ戦争)ダイジェスト


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10.後継者争いを生き残った者

2016-06-19 14:05:43 | ディアドコイ戦争4

アンティゴノスに対抗するうえで、背後の安定を考えたセレウコスは、かつてアレクサンドロス大王が侵攻したインドへ後継者として遠征すると、その頃インドで成立したばかりのマウリヤ朝の王チャンドラグプタが率いる大軍と遭遇する。


そこでセレウコスは、チャンドラグプタにインドに近いセレウコスの支配地域を譲り、さらにセレウコスの娘をチャンドラグプタの息子に嫁がせた。


その見返りにチャンドラグプタはセレウコスに500頭の象を渡した。



その後、セレウコス、プトレマイオス、カッサンドロス、リュシマコスは、アレクサンドロス帝国の統一を強攻に進めようとする最大勢力アンティゴノスに対抗するために同盟を組んだ。





紀元前301年、セレウコスはリュシマコスと共に、イプソス(現 トルコ中西部)でアンティゴノスとの決戦に挑む。


アレクサンドロス大王の後継者争い(ディアドコイ戦争)最大となったこの戦いで、セレウコスがチャンドラグプタから譲り受けた象が威力を発揮した。



この「イプソスの戦い」で敗れたアンティゴノスは自身も戦死する。





セレウコスは、旧ペルシア支配地域の多くを領土にし、ハッキリと最大勢力となると、ここまでずっと共闘関係にあったプトレマイオスとの対立が色濃くなる。


紀元前282年、セレウコスは「コルぺディオンの戦い」でプトレマイオスに味方するリュシマコスを敗死させ、アレクサンドロス帝国再統一も視野に入る勢力となった。



しかし、セレウコスは、後継者として故国マケドニアへの勢力を拡大を目指すが、プトレマイオスの息子ケラウノスに暗殺される。


ケラウノスは、父プトレマイオスからエジプトを追放され、さらに弟が後継者として目されていたため、自力でマケドニア王になる野心を抱いていた。




紀元前288年にプトレマイオスの後妻ベレニケ1世が産んだ息子プトレマイオス2世が後継者となると、その後プトレマイオス朝エジプトは絶世の美女として知られるあのクレオパトラ7世まで約300年つづくことになる。

ついにアレクサンドロス帝国の再統一を成し遂げる者は現れなかったが、プトレマイオスはディアドコイ戦争を巧みに生き残り、本拠地エジプト繁栄の礎を築いた。








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9.王位を宣言する者達

2016-06-19 14:00:22 | ディアドコイ戦争3

アンティゴノスとバビロン太守セレウコスは、ポリュペルコンとカッサンドロスの対立では共にカッサンドロスの側につきて協力関係にあった。

しかし、エウメネスが死ぬと、アンティゴノスは若く勢いのあるセレウコスを警戒するようになる。



紀元前315年、アンティゴノスはセレウコスの領土を奪う。

セレウコスはアンティゴノスにバビロンを追われるとエジプトのプトレマイオスを頼る。



「ガザの戦い」

今度はセレウコスがプトレマイオスの協力を得て、「ガザの戦い」でアンティゴノスの息子デメトリオスからバビロンを奪還する。



バビロンを奪回したセレウコスは、この時、プトレマイオスから譲り受けた僅かな兵しか率いていなかった。

しかし、セレウコスが以前にバビロン太守として善政をしいていたので、バビロンの住民はセレウコスを歓迎し、セレウコスによるバビロンの再興に協力的であった。





「サラミスの海戦」

プトレマイオスは、アンティゴノスの意識がセレウコスのシリア方面に向いている隙に、エジプトから地中海を経てギリシア世界に勢力を伸ばそうとする。


しかし、アンティゴノスの息子デメトリオスが「サラミスの海戦」でそれを阻止する。







「アンティゴノス朝マケドニア」


アンティゴノスはアナトリア半島全土およびシリアからイラン高原に至る広大な地域を手中にしていた。

その勢力は後継者争いをする有力諸将随一で、アレクサンドロス帝国全体の再統一に対する野心を全面に出した。


紀元前306年、アンティゴノス朝を開き、王位に就く。







「プトレマイオス朝エジプト」


エジプト太守として肥沃なエジプトの地を背景に、プトレマイオスも後継者としての野心を隠さなかった。

エジプトはかつてアレクサンドロス大王が王(ファラオ)として民衆に受け入れられた意義深い土地であった。


アンティゴノスに対抗するかのように、プトレマイオス朝を開き、王位に就く。







「セレウコス朝シリア」

バビロン太守に返り咲いたセレウコスも後継者としての野心を膨らませていた。

この時点ではやや不安定な立場ながらも、セレウコス朝を開き、王位に就く。


アレクサンドロス大王終焉の地であるバビロンを拠点に王位に就くことで後継者としての意味合いをだした。








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8.アンティパトロスの時代

2016-06-19 13:32:06 | ディアドコイ戦争2

ペルディッカスの死により、帝国の領土と地位の再分配がなされ、アンティパトロスが帝国摂政としてトップに座り、アンティゴノスが全軍総司令官となり、ペルディッカスを殺したセレウコスはバビロン太守に出世する。






アンティパトロスはアレクサンドロス3世の父ピリッポス2世のもとでは、ギリシア諸国との外交や行政面で働いていた。

アレクサンドロス大王が王位を継ぎ、東方遠征に乗り出すと、この時すでに60歳を過ぎていた老臣アンティパトロスは、マケドニア本国の統治を任された。




アンティパトロスの持ち前のバランス感覚と政治力により、後継者争いはここでしばしの落ち着きをみせるが、すでに老齢だったアンティパトロスが死去すると、再び後継者争いは激化する。



アンティパトロスが遺言で、後継者にポリュペルコンを指名する。

見事な国家管理運営の能力と老獪な政治力を持ったアンティパトロスであったが、最後の最後に人事を誤ってしまった。




アンティパトロスの息子カッサンドロスは、この人事に納得せず、アンティゴノスと組んでポリュペルコンと対立することになる。






紀元前316年「ガビエネの戦い」でアンティゴノスは、ポリュペルコンに味方したエウメネスを捕えた。

アンティゴノスは捕えたかつての友人エウメネスを味方にしようと思ったが、部下の猛烈な反対により断念せざるを得なかった。

アンティゴノスがかつての友人をいつまでも処刑できずにいたため、アンティゴノスの部下は業を煮やしてエウメネスを殺害した。


アンティゴノスはエウメネスの死を心から悲しみ、盛大な葬儀を挙げた。




アンティゴノスはここまで、ペルディッカスやポリュペルコンの側についた諸将を次々に倒しては、その勢力を吸収し続けたため、その勢力は残った有力諸将の中でも頭一つ抜けたものになっていた。


勢力の拡大とともに、アンティゴノスは自らがアレクサンドロス帝国を掌握する野心を強めていく。





アレクサンドロス大王(劇団Camelot)






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7.ペルディッカスの時代

2016-06-19 12:34:52 | ディアドコイ戦争1

紀元前323年6月10日 アレクサンドロス大王死去


昏睡状態のアレクサンドロス大王は印綬の指輪をペルディッカスに託した。




ペルディッカスは、まだ生まれぬロクサネの子(アレクサンドロス4世)の暫定的な後見人となり、帝国の実質的なトップの座に就く。



アレクサンドロス大王の死後、当初はこのようにその一族を担ぐ動きがあったが、担がれた者や担がれる可能性のある者はことごとく殺され、徐々に後継者争いは純粋な勢力争いとなっていく。



その後、ペルディッカスはアレクサンドロス3世の異母兄弟アリダイオスを推すメレアグロスを殺害し、エウメネスと共にカッパトギアの王アリアラテス1世を倒し、自らの発言力と存在感を高めていった。




ペルディッカスは有能かつ豪胆で、アレクサンドロス3世の信頼が特に厚い人物であった。

ペルディッカスの豪胆さを表す逸話として、ペルディッカスがライオンの巣になってる洞窟に入っていくと、驚いたライオンが仔を連れて出ていったというものがある。

ペルディッカスには猛獣ですら危険を感じるオーラが漂っていた。





一方で、東方遠征の際に、マケドニアの留守を任されていた老臣アンティパトロスが、アテナイ、アイトリア、テッサリアの反乱を鎮圧してギリシア世界での存在感を示す。



ペルディッカスは自らの立場を安定させるため、アンティパトロスの娘ニカイアと婚約をする。


しかし、アレクサンドロス3世の妹クレオパトラ(念のために有名なクレオパトラではない)との縁談を、ペルディッカスに取り入ろうとするアレクサンドロス3世の母オリュンピアスが持ちかける。


ペルディッカスは、アンティパトロスの娘ニカイアとの婚約を破棄して、アレクサンドロス3世の妹クレオパトラと結婚しようとした。



激怒したアンティパトロスは、プトレマイオスやアンティゴノスといった有力諸将を味方につけ、ペルディッカスへの対立姿勢を明確にした。



そうした折に、ペルディッカスがバビロンからマケドニア本国へ移送中だったアレクサンドロス大王の遺体をプトレマイオスが奪い、そのままエジプトのアレクサンドリアに埋葬する(ただ、現在にいたるまで遺体は発見されていない)。


アレクサンドロス大王の遺体を埋葬するという行為は後継者をアピールする行為であり、埋葬された場所は神聖化する。

後継者を主張する者にとって、プトレマイオスの行為は看過できるものではなかった。



ペルディッカスは局地戦の指揮をエウメネスに一任し、自らはプトレマイオスを倒すべくエジプトへと向かった。



しかし、紀元前321年、ペルディッカスが、ナイル川渡河に失敗するとセレウコスらの部下に暗殺される。








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6.大王の最期

2016-06-19 12:25:59 | 東方遠征6

スーサでの合同結婚式と同時に、アレクサンドロス3世は親友ヘファイスティオンを帝国宰相に任命する。



ギリシア神話の英雄アキレウスは、親友パトロクロスをトロイヤ戦争で殺したヘクトルを生きたまま馬車で引きまわして全身ズタボロにして殺した。

自身をアキレウスの生まれかわりと信じていたアレクサンドロス3世は、幼い頃から、ヘファイスティオンに「オマエはパトロクロスだ。」と言っては、互いの友情をかみしめあっていた。






しかし、それから間もなくして、ヘファイスティオンが病死する。


唯一の友人ともいえるヘファイスティオンを失ったアレクサンドロス3世の悲しみは深く、これを機にその行動は精彩さと冷静さを欠いたものが増えていく。





バビロンに帰還したアレクサンドロス3世は、さらにギリシアとペルシアの融合を進めるため、ペルシア風礼式や行政制度を取り入れ、代官に現地有力者を任命した。


このアレクサンドロス3世の行動は、マケドニア人達の目には、ギリシアをないがしろにしたペルシア化と映り、多くの反感を買う。







アレクサンドロス3世は、バビロンからアラビア遠征を計画していたが、10日間高熱にうなされた末(マラリアだったという説が有力)、紀元前323年6月10日、死去する。





そして、アレクサンドロス大王の死後、その後継者争い(ディアドコイ戦争)が大きな歴史を生むことになる。









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5.インド侵攻

2016-06-19 11:55:31 | 東方遠征5

紀元前326年、ペルシア帝国を滅ぼしたアレクサンドロス3世はインダス川を渡ってインドに侵攻する。


ヘファイスティオン、ペルディッカスを別働隊として先回りさせながら諸部族をくまなく平定しインド中央部に侵攻しようとした。





「ヒュダスペス河畔の戦い(大王にとって最大にして最後の試練)」


マケドニア軍約40000はヒュダスペス川(現 ジェーラム川)にて、現代のパンジャーブ地方一帯の領主パウラヴァ族の首長であったポロス率いる約34000と衝突。


両軍合わせて2万人ほどの戦死者をうむ厳しい戦闘をマケドニア軍は勝利する。




オケアノスを目指すアレクサンドロス3世は、さらなる進軍を目指ししていたが、その先に待ち構えるインド軍が20万を超える大軍と6千頭もの象を用意しているという情報が入る。

さらに「ヒュダスペス河畔の戦い」の損害が大きく、兵士達の望郷の念が強くなったため、アレクサンドロス3世は引き返すことを決断する。



アレクサンドロス3世は夢半ばでインドを後にし、ゲドロシア砂漠(現在のパキスタン・バローチスターン州)を通って、紀元前324年、スーサに帰還した。





「スーサでの合同結婚式」


紀元前324年、ペルシアの文明の高さに敬意を抱いていたアレクサンドロス3世は、ペルシアをギリシア世界の色で支配するのではなく、ギリシアとペルシアの融合を考えるようになっていた。


その一環として、スーサに帰還すると、マケドニアの兵士と現地ペルシア人女性との合同結婚式が行われる。


この時、アレクサンドロス3世は、ダイレイオス3世の娘スタテイラ2世を二人目の妃に迎えた。








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4.ペルシア帝国滅亡

2016-06-19 11:32:59 | 東方遠征4


ペルシアの中枢に侵入したマケドニア軍は、バビロン(現 イラク・バグダッド)やスーサ(現 イラン南西部フーゼスターン)やペルセポリス(現 イラン・ファールス)といった大都市で略奪の限りを尽くす。


こうした行為は、ペルシア戦争(この時代の100年ほど前)時に、ペルシアがギリシア世界の誇りであるアテナイのアクロポリスを焼き払ったことへの怨念からであった。


栄光あるギリシア世界に傷をつけた野蛮なペルシアに神の鉄槌を振り落とす。

それは、ヘーラクレースの血を引くアレクサンドロス3世にとって悲願であった。




しかしながら、アレクサンドロス3世は、ペルシアの文明の高さを目の当たりにして心境に変化が出始める。


そして、これだけの大帝国を治め、民衆からも慕われていたダレイオス3世という人物に尊敬の念を抱くようになった。

偉大な人物を失墜させてペルシアを支配下におこうとする自身の重責さを噛みしめた。




そんな折に、逃亡中のダレイオス3世が配下のベッソスに暗殺されたという情報が入る。。

ダレイオス3世に尊敬の念を抱き始めていたアレクサンドロス3世は、ベッソスを捕えると残酷に処刑し、ダレイオス3世を丁重に埋葬した。





その後、アレクサンドロス3世は、広大なペルシア帝国を完全制覇すべく、紀元前329年から紀元前327年までに、バクトリア(ヒンドゥークシュ山脈とアムダリヤ川の間に位置)やソグディアナ(現 ウズベキスタン領内)を平定する。

しかし、過酷なゲリラ戦であったため、マケドニア兵士の士気はこの頃から低下していくようになる。




アレクサンドロス3世は最後に征服したペルシア帝国の地バクトリアの有力者オクシュアルテスの娘ロクサネを妃にした。
ロクサネは後に、アレクサンドロス3世の子アレクサンドロス4世を産む。






ペルシア帝国を制覇したアレクサンドロス3世は次にインドを目指した。

そして、その先には世界の果てオケアノスがある。

当時は、ギリシア神話に登場する世界の果てオケアノスがインドの先にあると信じられていた。



オケアノスに到着することはアレクサンドロス3世の夢であった。








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3.天下分け目「ガウガメラの戦い 」

2016-06-19 11:08:18 | 東方遠征3

アレクサンドロス3世は、軍事の天才ぶりをいかんなく発揮しながら、さらにペルシアの支配下にあったエジプトを征服する。


紀元前332年、エジプトの人々に王の称号ファラオとして認められ、アメン神殿に像を造られ祭られた。

その後ナイルデルタの西端に都市を建設し、これが現在のアレキサンドリアの起源となる。


エジプトで将兵達に充分な休養を与えると、アレクサンドロス3世はペルシアの奥深くを目指して遠征を再開する。






「ガウガメラの戦い(ペルシア滅亡の始まり)」


紀元前331年、「イッソスの戦い」でマケドニア軍の脅威を身を持って知ったダレイオス3世は、諸説あるが15万ともいわれる大軍を準備した(100万を超えるという伝承もあるが、それは現実的ではなく、むしろそれだけ総力を挙げたという解釈が妥当である)。


マケドニア軍47000は、チグリス川上流のガウガメラで、このダレイオス3世率いるペルシアの大軍と衝突する。




アレクサンドロス3世のカリスマ性に、ペルシア軍兵士は恐れおののき、マケドニア軍兵士の士気は高かった。しかし、勝敗を分けたのは、そういった精神的な勢いだけではなく、実際にマケドニア軍はとても強かった。



マケドニア軍兵士は当時では珍しい職業軍人が主軸になっていた。



軍人というのは非生産な存在であるため、生産性が低い時代において生活を保障して日々訓練をさせるというのは困難であった。



そのため、職業軍人を主軸においたマケドニア軍は、命令系統が安定し、戦術遂行速度が格段に速かった。


戦いは重臣ヘファイスティオンやペルディッカスが負傷をするなど激しいものでもあったが、マケドニア軍は圧倒的な戦力差を跳ね返し結果的には圧勝に等しかった。





一方で、総力を駆使した「ガウガメラの戦い」に大敗したペルシア帝国は風前の灯火となった。








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2.ペルシアへの侵入

2016-06-19 10:46:54 | 東方遠征2


ギリシア世界の覇権を握ったアレクサンドロス3世は、マケドニア本国の留守を重臣アンティパトロスに任せると、ギリシア人の威信をかけて東方遠征へと乗り出す。

こうしてアレクサンドロス3世はギリシア世界の威厳を脅かす、当時世界最先端の文明と圧倒的な国力を誇るペルシアへと侵入する。






「グラニコス川の戦い(ペルシアとの最初の戦い)」


紀元前334年、ペルシアに侵入したマケドニア軍38000が、ペルシア連合軍40000とアナトリア地方(現 トルコ領内)のグラニコス川(現 ビガ川)で対峙する。

この戦闘では、マケドニア軍の主力である長さ5.5m重さ6kgにもなる槍を抱えた長槍部隊が川に阻まれ機能しなかった。


アレクサンドロス3世は、意を決して自らが先頭になって突撃する。


人目をひく派手な装飾の鎧をまとうアレクサンドロス3世は先頭になって突撃し、敵将ミトリダテスを自らの投げ槍で仕留める。

この時のアレクサンドロス3世の闘神のごとく鮮やかかつ勇猛な姿は、味方将兵からの尊敬と憧憬を集めた。



「グラニコス川の戦い」でアナトリア地方(現トルコ領)を征服したアレクサンドロス3世は、アンティゴノスをフリュギア太守に任命してアナトリア地方を任せ、さらに東へと進軍する。







「イッソスの戦い(宿敵ダレイオス3世との対決)」


紀元前333年、イッソス(現 トルコ・イスケンデルン)で、アケメネス朝ペルシア帝国の王ダレイオス3世自らが率いるペルシア軍12万と衝突する。

マケドニア軍は4万足らずと数で劣りながらも、強いカリスマ性をおびたアレクサンドロス3世に率いられ、ペルシア軍は5万人ともいわれる戦死者を出す大敗を喫した。



マケドニア軍を完全に侮っていたダレイオス3世は、ピクニック気分で雄姿を観戦させるために婦女子を「イッソスの戦い」に引き連れていた。

そのため、勝利したマケドニア軍は婦女子を含む3万人ともいわれる捕虜を得る。

その捕虜の中にいた絶世の美女バルシネがアレクサンドロス3世の愛人となる。

バルシネは後にアレクサンドロス3世の子へーラクレースを産む。



この時のダレイオス3世の戦争に臨む姿勢はそう非難できるものではない。


地図の広さで戦うわけではないが、マケドニアとペルシアでは、その国力と文明の発展度があまりにも違った。いくら勢いがあるとはいえ、ダレイオス3世が「所詮マケドニア」と思っていたことは不自然ではなく、広大な領土に侵入してくる敵にいちいち王自らが出向くこともない、この戦闘の場にダレイオス3世がいた事が意味合いとしては大きい。








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1.東方遠征まで

2016-06-19 10:14:36 | 東方遠征1
最初に、当時はギリシアという一つの国は存在していない。

ギリシア世界という概念の中に、アテナイ、スパルタ、テーバイなどの都市国家がギリシア世界の中に存在していた。
マケドニアはそんなギリシア世界の中に存在する国家であった。



紀元前356年7月20日、アルゲアス朝マケドニアの王ピリッポス2世と母オリュンピアスの子として、後に後世の人類が畏敬の念を込めたアレクサンドロス大王と呼ぶアレクサンドロス3世が生まれる。

ピリッポス2世はギリシア神話の英雄へーラークレースを祖とする家系とされていて、アレクサンドロス3世自身もそことを強く意識した生涯を送っていく。




現在の感覚で考えるならば、ギリシア神話と自身の血筋を混同することに違和感を感じるかもしれない。

しかし、当時のギリシア世界を生きる人々にとって、ギリシア神話は歴史そのものなのである。そして、この感覚は人類にとって不自然なことではない。日本においてもかつては古事記を歴史として踏まえていた。



少年時代のアレクサンドロス3世は、同世代の仲間達と共に教師として招かれたアリストテレスから、ギリシア世界の偉大さとギリシア人としての誇りを叩きこまれる。

そして、この頃に共に学んだ仲間には親友ヘファイスティオンなど、王になってからのアレクサンドロス3世を支える者達がいた。






「 カイロネイアの戦い(マケドニアがギリシア世界の盟主となる) 」  

ピリッポス2世のもとで急速に影響力を強めたマケドニアを脅威に感じたアテナイとテーバイが同盟を組む、そして紀元前338年、カイロネイア(現 ギリシャ共和国中央ギリシャ地方リヴァディア市)でマケドニア軍とアテナイ・テーバイ軍が戦う。


アレクサンドロス3世は一軍の将として父ピリッポス2世に従い、初陣でありながらもマケドニアの勝利に大きく貢献する。






しかし、父ピリッポス2世が暗殺されると、アレクサンドロス3世は弱冠20歳でマケドニア王を継承することとなった。


ピリッポス2世の死の混乱に乗じてテーバイが反乱を起こすが、アレクサンドロス3世は、それを制圧して再びギリシア世界の覇権を握ると、次は世界の覇権を握るべくペルシアを目指す。





ペルシアは当時の世界最大にして最先端の帝国である。
アケメネス朝ペルシア帝国は、現在のイランを中心に、東は現在のトルコやエジプト、西は現在のパキスタンのあたりに及ぶ、広大な地域を支配下においていた。



この世界を、野蛮なペルシアの支配から解き放ち、栄光あるギリシア文明を広めるのだと、アレクサンドロス3世は強い意志を持っていた。


ギリシア世界こそが唯一絶対に素晴らしい。
ペルシアの圧倒的な繁栄と拡大は人類的な間違いである。

アレクサンドロス3世はそう信じていた。








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