紀元前326年、ペルシア帝国を滅ぼしたアレクサンドロス3世はインダス川を渡ってインドに侵攻する。
ヘファイスティオン、ペルディッカスを別働隊として先回りさせながら諸部族をくまなく平定しインド中央部に侵攻しようとした。
「ヒュダスペス河畔の戦い(大王にとって最大にして最後の試練)」
マケドニア軍約40000はヒュダスペス川(現 ジェーラム川)にて、現代のパンジャーブ地方一帯の領主パウラヴァ族の首長であったポロス率いる約34000と衝突。
両軍合わせて2万人ほどの戦死者をうむ厳しい戦闘をマケドニア軍は勝利する。
オケアノスを目指すアレクサンドロス3世は、さらなる進軍を目指ししていたが、その先に待ち構えるインド軍が20万を超える大軍と6千頭もの象を用意しているという情報が入る。
さらに「ヒュダスペス河畔の戦い」の損害が大きく、兵士達の望郷の念が強くなったため、アレクサンドロス3世は引き返すことを決断する。
アレクサンドロス3世は夢半ばでインドを後にし、ゲドロシア砂漠(現在のパキスタン・バローチスターン州)を通って、紀元前324年、スーサに帰還した。
「スーサでの合同結婚式」
紀元前324年、ペルシアの文明の高さに敬意を抱いていたアレクサンドロス3世は、ペルシアをギリシア世界の色で支配するのではなく、ギリシアとペルシアの融合を考えるようになっていた。
その一環として、スーサに帰還すると、マケドニアの兵士と現地ペルシア人女性との合同結婚式が行われる。
この時、アレクサンドロス3世は、ダイレイオス3世の娘スタテイラ2世を二人目の妃に迎えた。
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