わたしんちの医学革命と雑多な情報

「医学革命」とは薬からの解放への「個人の気づき」の事である。雑多な情報も「取捨選択」&「鵜呑み厳禁」はセルフサービスにて

マムシにかまれたときどうしよう、血清は役に立たないと分かったけど

2008年02月16日 | 医学と健康

 マムシにかまれたとき血清療法が役に立たない!!

おお~~、そう来たか~~




野口晴哉先生の特筆するべきひとつに以下引用の記事のごとく「手当療法」ともいう「愉気」がありますね。

で、ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

野口整体式の手当て療法。

呼吸を深く保ちながら相手の悪そうなところに手を当てて、気を出す。

集中して行う。しかし相手を治そうなど邪気を持ってはいけない。

ポカンとしつつ集注する。

子どもの発熱時やら病気の時に行うと、何だか回復が早くなる。また、とんだことにならない。

野口晴哉岡島瑞徳の本に詳しく載っている。

野口の師匠であった松本道別の「輸気」に由来するもの。

気を輸る(送る)を、愉しい気に変えた。

ーーーーーーーーーーー以上ーーーーー

 

で、岡田茂吉先生(ここで先生と呼称するのは私的にはちょっとこだわるところですが、いや、これがやっぱり適正なのでしょうね。個人的な感情移入はいけません)の「浄霊法」とも一致しているとしまして、いわゆる見かけ上どこにもあるような「手かざし療法」は古来から伝わる人間本来誰でももっている能力なんでしょうね。

ここでおもしろい事には、邪気を入れないとありますが、「自我を入れない」ということでしょうね。岡田氏の「浄霊法」も「決して力を入れてはならない。治そうなんて考えてはいけない、力を抜くのは肉体的ばかりでなく想念でもそうである。ただ、自分は電柱のごとく仲介役でしかない。子供の方が効果があるのは邪念が入らないからで、大人はつい治そうなどという自我意識が入るからそれが返ってじゃまになるのである・・」と。

松本道別とは古神道の伝達者の様ですから、古来からこの日本で使われていたカンナガラの道だったのかも知れません。

ただ、それが途中で忘れ去られていたものだったのでしょうね?

で、ここで持ち出した理由は、蝮の毒についての現代の医学の実際から導き出されたものです。

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

医療から命をまもる
2005年12月15日 第一版第一刷発行
著 者〉岡田正彦 より

 「マムシの抗血清に効果なし」
 
 マムシ、ハブなどの毒ヘビに噛まれた際の唯一の治療法は、抗血清と呼ばれるものを注射することといわれてきました。ヘビの毒に対する免疫(抗体)を動物の体内でつけさせ、その成分を注射することで、毒素が中和されるという理屈です。

 ずっと昔からあった治療法で、ご存知の方も多いと思います。最新医学に照らしても、その考え方にまちがいはありません。ところが実際には、使っても使わなくても結果が同じだったというのです。

抗血清の注射よりも、まず応急処置として心臓や肺の機能を回復させることの方がずっと重要だったということです。

ーーーーーーーーーーー以上ーーーーー

まず岡田茂吉論文集には

「蝮にかまれた場合に「浄霊」によればなんでもない・・・と書かれています。

さらに、野口晴哉関連書には 「愉気」 によれば蝮にかまれた場合も特効があったと記されているのをみました。
野口氏自身はそれを試したことはないそうですが、お弟子さん達の報告ではかなりそういう効果が抜群にあったという記述です。

両者がまったく別の「手かざし」と思えるようですが、蝮の毒に「手かざし療法」として同様な効果を上げているという話に共通点があります。それにしてもマムシの毒には「果たして本当にいざというときに手かざしで対処できるのだろうか?」という疑問と不安がありましたけれど、「現代医学ではマムシにかまれた場合に、血清が役に立たない」という新事実を知り、「浄霊法」が効こうが効くまいが、とにかく「抗血清」が役に立たないのだから、「いざというときには、試してみようかな」とも思った次第です。

といっても、その当時の浄霊法の力とは異なっているかも知れませんので、ダメだったらあきらめるしかないですね(苦笑)

とにかく、この日本は古くはこういうカンナガラの道を使って、病を癒すにはまず自らに備わっている治癒力とそれを助ける手かざし法を副として居たのかも知れません。

もちろん、これが日本だけに限るはずもなく、人類共通のカンナガラの癒しの道だったのかも。

 

 

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

愉気」=和式外気功


 

身体と身体の共鳴状態を作り出す伝統のわざ、愉気で未病を防ぐ。
「気を出すというのは、どういうことですか」 という質問をときどき受けます。もっともな疑問です。そして質問した人は、気を出すのに長い修行がいるのだろうか、自分にはそんなことはできないのだろうか、と考えているのでしょう。でも、そんなに難しいことだろうか。

愉気(ゆき)という癒し


野口晴哉(はるちか)さんの書物を読んだ人なら、「愉気」(ゆき)という言葉に親しんだことでしょう。これは野口整体のキーワードの一つといっていい重要な言葉です。簡単にいえば手かざしです。しかし野口学派の人たちは、こういう言い方に抵抗を覚えるでしょうね。あまり 「手かざし」 とは言いません、野口学派の人は。



じゃあ、「手当て」 にしましょうか。

「愉気」 のやり方は、どこか状態の変化 (必ずしもそこが悪いところとは限りません) があるところに手の平をかざしているだけのことです。

これには、手を触れる場合と触れない場合とがあるといっておきましょうか。しかし、こう言ってしまうと野口学派の人たちに批判されそうだ。ともかく野口学派には難しい人が多いから。

私の記憶が正しければ、野口先生の弟子の一人が、これを 「手かざし」 として宗教活動に利用してしまった、という事情もからんでいたと思います。といっても、かすかにそんなことを読んだ記憶があるという程度の知識で、どこに書いてあったのかは覚えていません。その宗教活動がどのような宗派によるものだったかも忘れてしまいました。

要するに、からだのどこか悪いところに手をかざして気を送る。野口さんはもともと、これを、気を輸る(おくる)という意味で 「輸気」 と呼んでいたそうですが、送るのではなく、天然自然にある気を導くだけだと気がついて 「愉気」 という字に改めたそうです。こんな事情は、野口学派の人の本を読めば、たぶんどこかに書いてあるでしょう。

エネルギーがめぐる
中国式の気功をしている人は、気をめぐらすとか、気を送ると表現するでしょうし (気功には二千の派があるそうですから、こんな表現をしない派もあるに違いない)、気は激しく長い修行のすえに操れるものだ、と考えられているふしがあります。でも、それはちょっと違うんじゃないだろうか。気を手のひらから出すと考えると、エネルギーが身体から出て行くわけで、他人に気を送る外気功をすると、たいへん疲れると書いてあったり、現に中国人の気功師がそのように語っているという記事があったりします。


京都・六角堂 (六角烏丸東入る)
でも、愉気をしたことのある人からすると、こんなのは変な考え方だというでしょう。私自身も施術に愉気を使いますけれど、それで疲れたというようなことはない。もちろん、施術をすると身体を使いますから、そういう意味での疲れはあります。しかし、気を送ってエネルギーを出したから激しく疲労した、という感じをもったことはありません。むしろ愉気をした後は、こちらも何かゆったりした充足感を味わうことができます。されている人は、とても気持ちがいい、といって下さるし、私自身も気持ちがいい。共鳴状態が生まれるのでしょうね。こんなに得なことはありません。詳しいやり方については、野口晴哉 『整体入門』(ちくま文庫)をお読みください。

気を導くとは
さて、肝心の 「気を導く」 とか 「気を送る」 とかいうのは、どういうことでしょうか。別の項目に 「活元」 という自律神経のエクササイズについて書いています。「活元」 を大勢でする時、なかなか動かない人がいるので、私はそういう人の後ろから 「愉気」 をして回ります。その人の後頭部と腰のあたりに手の平をかざして、じっと 「愉気」 をしていますと、やがてその人の頭が少し揺れてくる。後ろからやっていますから、その人には私が何をしているか見えません。でも、事実として揺れてきます。

何が起きているのか、私にはうまく説明することができません。ただ、それでは何が何だか分かりませんから、野口先生が使われた言葉を使えば 「気の感応」 が起きているのでしょう。私のからだも相手のからだも、確かに物質であることには違いがありません。そして今ではよく知られているように、物質も波動であることが分かっている。それぞれの原子や分子が固有の波動を持つように、私のからだも、その人のからだもそれぞれ固有の波動を持っています。その波動のあいだに共鳴状態が生じるのでしょう。それを野口先生は 「気の感応」 と呼んだ。一応、いまはそのように説明しておきます。この説明がほんとうに正しいかどうかは、後世、証明されていくことでしょう。


まとめますと、次のようになりますか。愉気をする人とされる人のあいだに気の感応、つまり波動の 協和(音でいえば協和音の状態)、あるいは共鳴が生じる。この状態が生じると気持ちのよい状態になる。逆に 不協和(音なら不協和音)、あるいは干渉が生じた場合は、あるものや人に対して気持ちの悪い、不快な状態になることもある。ある人のことを想像しただけで気分が悪くなるという人がありますけれど、こんな場合は不協和状態が生じているのでしょう。病気というのは、ですから、からだの部分と部分のあいだに生じた不協和、あるいはからだの一部分とからだの外側にあるものとの不協和でしょうね。

愉気は、誰にできて彼にできないというようなものではありません。

ところがこれを誤解している人が多いのではないだろうか。ある時、一人の女性が 「先生は気を通すこともできるのですか」 と質問された。「それは愉気という方法でやればだれでもできますよ」 と答えたのですが、その女性は、たいへん不満だったようで、そのまま来なくなってしまいました。特別な人だけができる技(わざ)だと、その人は思っていたのでしょうし、またそう思いたかったのでしょうね。

でも、だれでもできるような技はつまらないものでしょうか。
http://shugeitei.com/yuki.html


 ーーーーーーーーーーー以上ーーーーー

 

いやいや、つまらない法こそ 本物の様な気がします。

ある特定の宗教とか団体に限られた方法では無いような気がしてきませんか。

世界万民が分け隔て無く、しかも無料で応用できるようになれば、いや、既にそれは有効なものであったのを途中で忘れ去れされていただけの事。それをいま思い出すだけでよいという時節に入ったのかも知れません。

後はその応用の実地をすることによって誰もが出来る時代になったという、実にこれこそが21世紀の医療革命。

それは「思い出す」事でしかないのかも。

ただし、病にはそれなりの意味がありますから、ただ治れば良いというものでなく、病を利用して深い気づきを得るきっかけを主題にすることを忘れては、ただの病気治しでは効果が半減するような気もしてきました。

う~~ん、そこんとこは個人個人が気づくしか無いでしょうけど。

むやみやたらに病気を治されたんでは自分の魂レベルでみると「余計なお節介」になるやも知れませんし。

じつに「病気」というのは不思議なもので、奥の奥が解ったとき日には「ありがとうございます病気様様」と自分に感謝できるかもね。

まあ、頭で解ってもこころではなかなかじゃ! (大笑い)




 

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