前回まででジェームズの9.11.レポートは終了した。明日9年目のその日を迎えるにあたって、私、ハナブサ自身の見解というか、回想を少し述べて締めたい。
私が事件を知ったのは、NHKの夜10時のニュースで第一報として、いきなり画面に映った煙を吹く世界貿易センタービルを見た時だった。その時は、こんな酷い事故もあるのだな、と画面を眺めながら、現地レポーターと当時のニュースキャスター堀尾正明氏のやりとりを聞いていると、なんと2機目が突っ込んで来た。堀尾キャスターは声を上げたが、現地レポーターは気づかず1機目の事故の推移を話し続けていた。あまりに現地レポーターが普通に話し続けていたので、私は1機目突入のビデオの再生かと想ったが、事の異常さに気づいた堀尾キャスターが、「今、2機目が突っ込んで来たように見えたんですが・・・」と現地レポーター氏に問うた。そこで初めて、これは事故ではない、何者かに由る攻撃だと、さすがの私も気づいた。つまりテレビカメラを通してだが、ほぼリアルタイムで事件を目撃したのだ。ジェームズが事件発生を知ったのは、現地時間の朝9時過ぎ、彼が彼の子供達を学校に送った直後、伝聞に由るものだと言うので、多分日本に居る私の方が事実を知るのは早かっただろう。
しかも続報として3機目がペンタゴンに突っ込み、4機目がホワイトハウスに向かっているらしい、と言う情報を得て、何者からの攻撃か判らない、さらに手段の異常さからの得体の知れなさと、(全く心当たりが無い訳ではないが、直には具体的にイメージ出来なかった。)米軍の核による報復攻撃という、最悪のシナリオが容易に予想され、背筋が凍る想いをした。アメリカが史上初めて、他者から本土中枢を攻撃されたのだから、当時のアメリカがどう反応するか、全く予測が出来なかったからだ。
4機目はホワイトハウスに突っ込む前に、勇気ある乗客達の英雄的行動で回避されたが、さらに想像を絶する事態・・・2棟のビルが完全崩壊してしまう・・・当時ビルに居た人々だけではなく、救助に向かった人々も巻き込む空前の惨劇となってしまった。
その後の顛末はご存知の通り、オサマ・ビンラディン率いるアルカイダの犯行断定から、当時のアメリカ政府はアフガン出兵、イラク制圧の口実を引き出したが、さすがに核攻撃までには至らなかった。アフガンでは一旦アルカイダの支持母体タリバンを壊滅寸前まで追い込み、イラクではサダム・フセイン大統領を捕縛、処刑、アメリカが言う民主化に成功した事になっている。
私自身は未だNYには縁が無く、行った事はない。知人に当時NYに滞在していた者がいたが、世界貿易センタービルとは全く無縁な者だったので、幸いにも直接の被害はなかった。数年後帰国した彼に会ったが、既に9.11.を話題にするには時を逸していた。翌年の2002年の夏に私はLAを訪問した。治安の安定と景気の好さを感じたが、特に事件そのものの影響は強く感じなかった。むしろ2004年ボルチモアを訪ねた時の方が、空港の搭乗時検査等は厳しくなっていた。ボルチモアで親しくなった者のなかにNY在住者もいたが、やはり9.11.の話はしなかった。相手の方から切り出してくれなければ、こちらからは向け難い話ではある。
2001年は私自身を含む日本の野球ファンにとって、大きなターニングポイントになった年でもある。言うまでもなくイチロー、新庄剛志の2人が、野手として初めてMLBに移籍し大活躍した事。勿論既に野茂英雄を先駆けに投手は数多くMLB移籍していたが、先発投手は中4日、中継ぎ投手は不規則で、日本のテレビ局が中継するのに日本人選手中心にフォーカスする事が難しく、例えば野茂の登板する日だけ中継、という感じでチームメイトに誰がいるかさえ丁寧にフォロー出来ず、野茂が所属している球団のファンになる程の執着を生む事は難しかった。しかし野手は、ほぼ毎日試合に出る。ほとんど毎日のようにNHKでテレビ中継があり、この年史上最強タイの116勝の偉業を成し遂げたシアトル・マリナーズの快進撃を見続ける事が出来た。多くの日本人野球ファンは、イチロー、佐々木主浩の活躍は勿論、個性豊かなチームメイト達の魅力も十分に感じる事が出来、その結果、マリナーズのファンを日本に大量に生み出した。そして勿論私自身もその内の一人なのだ。
私自身2001年シーズンで特に強く印象に残っているのは、レギュラーシーズン最終戦終了後のセレモニーだ。9.11.直後、人が集まる上、テロの標的にされ易い、という理由でMLBは一旦全て全試合中止された。1週間程の自粛の後、MLBはテロに負けない、との宣言のもと再開された。それで1週間程遅れて終了する事になったシアトルのレギュラーシーズンの最終戦、テキサスに敗戦して117勝の新記録を達成出来なかった悔しさもあったかも知れないが、試合終了後のセレモニーは地区優勝の喜びを爆発させる場では無かった。メンバーはやや慎重な面持ちでグラウンドを一周、観客の声援に応えた後、全員マウンドを中心に平伏し、9.11.の被害者達に黙祷を捧げた。地区優勝を果たしても、素直にその喜びを爆発させる事は出来なかったのだ。その想いは地元NYではさらに強かったのだろう、プレーオフで、ヤンキースは鬼神のような強さで史上最強のシアトルを破り、リーグ制覇を達成し、ワールドシリーズに進んだ。
だから私は、シアトルのメンバーがプレーオフに進出し、誰にも気兼ねせず優勝を喜べる機会を、2001年以来、ずっと待ち続けているのだ。
私自身に9.11.の影響は無かったか?それが全く無かった訳ではない。私は当時、熊本市内の私立の某中高一貫の進学校で外部派遣の英語教師として職を得ていた。私が担当していた中等部2年生は指導するのに難しい時期を迎えていた。この時期体育系クラブから3年生が引退し、いわば2年生がお山の大将に収まる。普通の公立中学でもありがちな事だが、それでも公立であれば、その後に高校受験が控えているので、それに向けてもう一度引き締まる時期があるが、中高一貫校にはそれが無い。そのままズルズルと集中を欠いた状態に落ち込んでしまい、二桁の落ちこぼれを出してしまう可能性が強かった。私自身、その前年に完全に落ちこぼれた3年生の指導に手を焼いた苦い経験もあり、授業中に9.11.の話をして、少し緊張感を持たせようとしたつもりだった。「君達はあの時テレビを見たか?多分今はまだ判らないだろうが、君達が、もうしばらくして、世の中の事が、もう少しよく解るようになった時、あの日、あの瞬間から、世界が変わってしまった事を知るだろう。当たり前の事だが、君達は君等のお父さん、お母さん達の世代とは、全然違う世界を生きて行く事になるのだ。」世の中は必ずしも自分達の好ましい方向に動いて行くとは限らない、という意味を持たせたつもりだった。そのためには日々精進を怠らず、真剣に生きていく事が必要だと・・・しかしこの一言が中学生相手には刺激が強過ぎる発言だと後に問題になったらしく、年明け以後の私の英語教師として契約更新は無くなった。口は災いの元という事だ。10年たった今でも間違った事を言ったつもりは無いし、事実、世の中は何一つ確定的なモノを見いだせ無い、大変難しい時代になってしまった。彼等が今でも私の一言を憶えているなら、今どう感じているだろうか?
どんなに素晴らしい瞬間があろうが、どんな酷い事が起ろうとも、時は次へ次へと進んで行く。多分それらがいつか歴史と呼ばれるようにに成るのだろう。私達は時の奴隷なのだろうか?
最後に、レポートでもう一度、あの事件を再考する機会をくれ、またこのコラムへの転載を許可してくれたジェームズに感謝。
そして2001.9.11.の犠牲になった方々、その後のアメリカによるアフガン派兵、イラク戦争で命を落とした方々に合掌。
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その1 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その2 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その3 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その4 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その5 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その6 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その7 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その8 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その9 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その10 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その11 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その12:最終回 ~
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私が事件を知ったのは、NHKの夜10時のニュースで第一報として、いきなり画面に映った煙を吹く世界貿易センタービルを見た時だった。その時は、こんな酷い事故もあるのだな、と画面を眺めながら、現地レポーターと当時のニュースキャスター堀尾正明氏のやりとりを聞いていると、なんと2機目が突っ込んで来た。堀尾キャスターは声を上げたが、現地レポーターは気づかず1機目の事故の推移を話し続けていた。あまりに現地レポーターが普通に話し続けていたので、私は1機目突入のビデオの再生かと想ったが、事の異常さに気づいた堀尾キャスターが、「今、2機目が突っ込んで来たように見えたんですが・・・」と現地レポーター氏に問うた。そこで初めて、これは事故ではない、何者かに由る攻撃だと、さすがの私も気づいた。つまりテレビカメラを通してだが、ほぼリアルタイムで事件を目撃したのだ。ジェームズが事件発生を知ったのは、現地時間の朝9時過ぎ、彼が彼の子供達を学校に送った直後、伝聞に由るものだと言うので、多分日本に居る私の方が事実を知るのは早かっただろう。
しかも続報として3機目がペンタゴンに突っ込み、4機目がホワイトハウスに向かっているらしい、と言う情報を得て、何者からの攻撃か判らない、さらに手段の異常さからの得体の知れなさと、(全く心当たりが無い訳ではないが、直には具体的にイメージ出来なかった。)米軍の核による報復攻撃という、最悪のシナリオが容易に予想され、背筋が凍る想いをした。アメリカが史上初めて、他者から本土中枢を攻撃されたのだから、当時のアメリカがどう反応するか、全く予測が出来なかったからだ。
4機目はホワイトハウスに突っ込む前に、勇気ある乗客達の英雄的行動で回避されたが、さらに想像を絶する事態・・・2棟のビルが完全崩壊してしまう・・・当時ビルに居た人々だけではなく、救助に向かった人々も巻き込む空前の惨劇となってしまった。
その後の顛末はご存知の通り、オサマ・ビンラディン率いるアルカイダの犯行断定から、当時のアメリカ政府はアフガン出兵、イラク制圧の口実を引き出したが、さすがに核攻撃までには至らなかった。アフガンでは一旦アルカイダの支持母体タリバンを壊滅寸前まで追い込み、イラクではサダム・フセイン大統領を捕縛、処刑、アメリカが言う民主化に成功した事になっている。
私自身は未だNYには縁が無く、行った事はない。知人に当時NYに滞在していた者がいたが、世界貿易センタービルとは全く無縁な者だったので、幸いにも直接の被害はなかった。数年後帰国した彼に会ったが、既に9.11.を話題にするには時を逸していた。翌年の2002年の夏に私はLAを訪問した。治安の安定と景気の好さを感じたが、特に事件そのものの影響は強く感じなかった。むしろ2004年ボルチモアを訪ねた時の方が、空港の搭乗時検査等は厳しくなっていた。ボルチモアで親しくなった者のなかにNY在住者もいたが、やはり9.11.の話はしなかった。相手の方から切り出してくれなければ、こちらからは向け難い話ではある。
2001年は私自身を含む日本の野球ファンにとって、大きなターニングポイントになった年でもある。言うまでもなくイチロー、新庄剛志の2人が、野手として初めてMLBに移籍し大活躍した事。勿論既に野茂英雄を先駆けに投手は数多くMLB移籍していたが、先発投手は中4日、中継ぎ投手は不規則で、日本のテレビ局が中継するのに日本人選手中心にフォーカスする事が難しく、例えば野茂の登板する日だけ中継、という感じでチームメイトに誰がいるかさえ丁寧にフォロー出来ず、野茂が所属している球団のファンになる程の執着を生む事は難しかった。しかし野手は、ほぼ毎日試合に出る。ほとんど毎日のようにNHKでテレビ中継があり、この年史上最強タイの116勝の偉業を成し遂げたシアトル・マリナーズの快進撃を見続ける事が出来た。多くの日本人野球ファンは、イチロー、佐々木主浩の活躍は勿論、個性豊かなチームメイト達の魅力も十分に感じる事が出来、その結果、マリナーズのファンを日本に大量に生み出した。そして勿論私自身もその内の一人なのだ。
私自身2001年シーズンで特に強く印象に残っているのは、レギュラーシーズン最終戦終了後のセレモニーだ。9.11.直後、人が集まる上、テロの標的にされ易い、という理由でMLBは一旦全て全試合中止された。1週間程の自粛の後、MLBはテロに負けない、との宣言のもと再開された。それで1週間程遅れて終了する事になったシアトルのレギュラーシーズンの最終戦、テキサスに敗戦して117勝の新記録を達成出来なかった悔しさもあったかも知れないが、試合終了後のセレモニーは地区優勝の喜びを爆発させる場では無かった。メンバーはやや慎重な面持ちでグラウンドを一周、観客の声援に応えた後、全員マウンドを中心に平伏し、9.11.の被害者達に黙祷を捧げた。地区優勝を果たしても、素直にその喜びを爆発させる事は出来なかったのだ。その想いは地元NYではさらに強かったのだろう、プレーオフで、ヤンキースは鬼神のような強さで史上最強のシアトルを破り、リーグ制覇を達成し、ワールドシリーズに進んだ。
だから私は、シアトルのメンバーがプレーオフに進出し、誰にも気兼ねせず優勝を喜べる機会を、2001年以来、ずっと待ち続けているのだ。
私自身に9.11.の影響は無かったか?それが全く無かった訳ではない。私は当時、熊本市内の私立の某中高一貫の進学校で外部派遣の英語教師として職を得ていた。私が担当していた中等部2年生は指導するのに難しい時期を迎えていた。この時期体育系クラブから3年生が引退し、いわば2年生がお山の大将に収まる。普通の公立中学でもありがちな事だが、それでも公立であれば、その後に高校受験が控えているので、それに向けてもう一度引き締まる時期があるが、中高一貫校にはそれが無い。そのままズルズルと集中を欠いた状態に落ち込んでしまい、二桁の落ちこぼれを出してしまう可能性が強かった。私自身、その前年に完全に落ちこぼれた3年生の指導に手を焼いた苦い経験もあり、授業中に9.11.の話をして、少し緊張感を持たせようとしたつもりだった。「君達はあの時テレビを見たか?多分今はまだ判らないだろうが、君達が、もうしばらくして、世の中の事が、もう少しよく解るようになった時、あの日、あの瞬間から、世界が変わってしまった事を知るだろう。当たり前の事だが、君達は君等のお父さん、お母さん達の世代とは、全然違う世界を生きて行く事になるのだ。」世の中は必ずしも自分達の好ましい方向に動いて行くとは限らない、という意味を持たせたつもりだった。そのためには日々精進を怠らず、真剣に生きていく事が必要だと・・・しかしこの一言が中学生相手には刺激が強過ぎる発言だと後に問題になったらしく、年明け以後の私の英語教師として契約更新は無くなった。口は災いの元という事だ。10年たった今でも間違った事を言ったつもりは無いし、事実、世の中は何一つ確定的なモノを見いだせ無い、大変難しい時代になってしまった。彼等が今でも私の一言を憶えているなら、今どう感じているだろうか?
どんなに素晴らしい瞬間があろうが、どんな酷い事が起ろうとも、時は次へ次へと進んで行く。多分それらがいつか歴史と呼ばれるようにに成るのだろう。私達は時の奴隷なのだろうか?
最後に、レポートでもう一度、あの事件を再考する機会をくれ、またこのコラムへの転載を許可してくれたジェームズに感謝。
そして2001.9.11.の犠牲になった方々、その後のアメリカによるアフガン派兵、イラク戦争で命を落とした方々に合掌。
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その1 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その2 ~
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