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ハナブサアキラの不定期連載コラム(OCN過去ログ保存版)

音楽、スポーツ、旅、普段の生活、その他、見聞きした事、感じた事を不定期かつ無責任に綴っていく適当日記

私にとっての2001.09.11.

2010-09-10 17:14:43 | 国際・政治
前回まででジェームズの9.11.レポートは終了した。明日9年目のその日を迎えるにあたって、私、ハナブサ自身の見解というか、回想を少し述べて締めたい。

私が事件を知ったのは、NHKの夜10時のニュースで第一報として、いきなり画面に映った煙を吹く世界貿易センタービルを見た時だった。その時は、こんな酷い事故もあるのだな、と画面を眺めながら、現地レポーターと当時のニュースキャスター堀尾正明氏のやりとりを聞いていると、なんと2機目が突っ込んで来た。堀尾キャスターは声を上げたが、現地レポーターは気づかず1機目の事故の推移を話し続けていた。あまりに現地レポーターが普通に話し続けていたので、私は1機目突入のビデオの再生かと想ったが、事の異常さに気づいた堀尾キャスターが、「今、2機目が突っ込んで来たように見えたんですが・・・」と現地レポーター氏に問うた。そこで初めて、これは事故ではない、何者かに由る攻撃だと、さすがの私も気づいた。つまりテレビカメラを通してだが、ほぼリアルタイムで事件を目撃したのだ。ジェームズが事件発生を知ったのは、現地時間の朝9時過ぎ、彼が彼の子供達を学校に送った直後、伝聞に由るものだと言うので、多分日本に居る私の方が事実を知るのは早かっただろう。

しかも続報として3機目がペンタゴンに突っ込み、4機目がホワイトハウスに向かっているらしい、と言う情報を得て、何者からの攻撃か判らない、さらに手段の異常さからの得体の知れなさと、(全く心当たりが無い訳ではないが、直には具体的にイメージ出来なかった。)米軍の核による報復攻撃という、最悪のシナリオが容易に予想され、背筋が凍る想いをした。アメリカが史上初めて、他者から本土中枢を攻撃されたのだから、当時のアメリカがどう反応するか、全く予測が出来なかったからだ。

4機目はホワイトハウスに突っ込む前に、勇気ある乗客達の英雄的行動で回避されたが、さらに想像を絶する事態・・・2棟のビルが完全崩壊してしまう・・・当時ビルに居た人々だけではなく、救助に向かった人々も巻き込む空前の惨劇となってしまった。

その後の顛末はご存知の通り、オサマ・ビンラディン率いるアルカイダの犯行断定から、当時のアメリカ政府はアフガン出兵、イラク制圧の口実を引き出したが、さすがに核攻撃までには至らなかった。アフガンでは一旦アルカイダの支持母体タリバンを壊滅寸前まで追い込み、イラクではサダム・フセイン大統領を捕縛、処刑、アメリカが言う民主化に成功した事になっている。

私自身は未だNYには縁が無く、行った事はない。知人に当時NYに滞在していた者がいたが、世界貿易センタービルとは全く無縁な者だったので、幸いにも直接の被害はなかった。数年後帰国した彼に会ったが、既に9.11.を話題にするには時を逸していた。翌年の2002年の夏に私はLAを訪問した。治安の安定と景気の好さを感じたが、特に事件そのものの影響は強く感じなかった。むしろ2004年ボルチモアを訪ねた時の方が、空港の搭乗時検査等は厳しくなっていた。ボルチモアで親しくなった者のなかにNY在住者もいたが、やはり9.11.の話はしなかった。相手の方から切り出してくれなければ、こちらからは向け難い話ではある。

2001年は私自身を含む日本の野球ファンにとって、大きなターニングポイントになった年でもある。言うまでもなくイチロー新庄剛志の2人が、野手として初めてMLBに移籍し大活躍した事。勿論既に野茂英雄を先駆けに投手は数多くMLB移籍していたが、先発投手は中4日、中継ぎ投手は不規則で、日本のテレビ局が中継するのに日本人選手中心にフォーカスする事が難しく、例えば野茂の登板する日だけ中継、という感じでチームメイトに誰がいるかさえ丁寧にフォロー出来ず、野茂が所属している球団のファンになる程の執着を生む事は難しかった。しかし野手は、ほぼ毎日試合に出る。ほとんど毎日のようにNHKでテレビ中継があり、この年史上最強タイの116勝の偉業を成し遂げたシアトル・マリナーズの快進撃を見続ける事が出来た。多くの日本人野球ファンは、イチロー、佐々木主浩の活躍は勿論、個性豊かなチームメイト達の魅力も十分に感じる事が出来、その結果、マリナーズのファンを日本に大量に生み出した。そして勿論私自身もその内の一人なのだ。

私自身2001年シーズンで特に強く印象に残っているのは、レギュラーシーズン最終戦終了後のセレモニーだ。9.11.直後、人が集まる上、テロの標的にされ易い、という理由でMLBは一旦全て全試合中止された。1週間程の自粛の後、MLBはテロに負けない、との宣言のもと再開された。それで1週間程遅れて終了する事になったシアトルのレギュラーシーズンの最終戦、テキサスに敗戦して117勝の新記録を達成出来なかった悔しさもあったかも知れないが、試合終了後のセレモニーは地区優勝の喜びを爆発させる場では無かった。メンバーはやや慎重な面持ちでグラウンドを一周、観客の声援に応えた後、全員マウンドを中心に平伏し、9.11.の被害者達に黙祷を捧げた。地区優勝を果たしても、素直にその喜びを爆発させる事は出来なかったのだ。その想いは地元NYではさらに強かったのだろう、プレーオフで、ヤンキースは鬼神のような強さで史上最強のシアトルを破り、リーグ制覇を達成し、ワールドシリーズに進んだ。

だから私は、シアトルのメンバーがプレーオフに進出し、誰にも気兼ねせず優勝を喜べる機会を、2001年以来、ずっと待ち続けているのだ。

私自身に9.11.の影響は無かったか?それが全く無かった訳ではない。私は当時、熊本市内の私立の某中高一貫の進学校で外部派遣の英語教師として職を得ていた。私が担当していた中等部2年生は指導するのに難しい時期を迎えていた。この時期体育系クラブから3年生が引退し、いわば2年生がお山の大将に収まる。普通の公立中学でもありがちな事だが、それでも公立であれば、その後に高校受験が控えているので、それに向けてもう一度引き締まる時期があるが、中高一貫校にはそれが無い。そのままズルズルと集中を欠いた状態に落ち込んでしまい、二桁の落ちこぼれを出してしまう可能性が強かった。私自身、その前年に完全に落ちこぼれた3年生の指導に手を焼いた苦い経験もあり、授業中に9.11.の話をして、少し緊張感を持たせようとしたつもりだった。「君達はあの時テレビを見たか?多分今はまだ判らないだろうが、君達が、もうしばらくして、世の中の事が、もう少しよく解るようになった時、あの日、あの瞬間から、世界が変わってしまった事を知るだろう。当たり前の事だが、君達は君等のお父さん、お母さん達の世代とは、全然違う世界を生きて行く事になるのだ。」世の中は必ずしも自分達の好ましい方向に動いて行くとは限らない、という意味を持たせたつもりだった。そのためには日々精進を怠らず、真剣に生きていく事が必要だと・・・しかしこの一言が中学生相手には刺激が強過ぎる発言だと後に問題になったらしく、年明け以後の私の英語教師として契約更新は無くなった。口は災いの元という事だ。10年たった今でも間違った事を言ったつもりは無いし、事実、世の中は何一つ確定的なモノを見いだせ無い、大変難しい時代になってしまった。彼等が今でも私の一言を憶えているなら、今どう感じているだろうか?

どんなに素晴らしい瞬間があろうが、どんな酷い事が起ろうとも、時は次へ次へと進んで行く。多分それらがいつか歴史と呼ばれるようにに成るのだろう。私達は時の奴隷なのだろうか?

最後に、レポートでもう一度、あの事件を再考する機会をくれ、またこのコラムへの転載を許可してくれたジェームズに感謝。

そして2001.9.11.の犠牲になった方々、その後のアメリカによるアフガン派兵、イラク戦争で命を落とした方々に合掌。




グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その1 ~
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グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その12:最終回~

2010-08-27 10:06:19 | 国際・政治
どんなに「普通の生活を続けよう」と叫び、何事も無かったかのように振る舞っても、変化は隠せない。人々はサイレンを鳴らし走り去る車に敏感になった。ジェット機の音に立ち止まって空を見上げる。職場に行くまでに3個所の検問所を通過しなければならない事を除けば、私の生活も普通にもどったといえるだろう。

人間に与えられた偉大な能力の一つは適応することだと、「彼ら」は言う。そして「彼ら」は正しい。今私はかって世界貿易センタービルのあった所にファイナンシャルセンタービルを見ている。

あれ以来何度も、そこに建っていたはずの貿易センタービルを想像してみた。ダウンタウンの摩天楼のなかで何よりも高く、慈悲深い微笑みでウォール街を包み込んでいる高層ビル。だが、ジェット機が激突し、煙が吹き出し、それに続く倒壊の様子が再び心に蘇ってくる。私は実際に起こったことが信じられず、それを打ち消すように頭を振る。この繰り返しから逃れられない。そうして再び私はグラウンド・ゼロに立っている。

この惨事を通して、行方不明者のリストが掲載されているウェブサイトを訪れて、知り合いを見つけるのではないかと、暗澹と写真に目を通す事だけは絶対にするまいと誓った。私がこの決心をしたのは、ある日曜日の夜14丁目にあるユニオン・スクエア・パークを訪れ、そこで悪い魔法に翻弄されたような思いをしてからだった。

惨劇の後、この公園はあっというまに弔いの地になった。ウッドストックさながらのフラワーガールのギター演奏、チベット僧の読経の輪、頭をクルーカットに揃えた、いかにもアメリカ青年のカルテットが歌う「ゴッド・ブレス・アメリカ」、何メートルもあろうかと思えるカードに哀悼の辞を書き留める人、犬の散歩、相変わらずベンチでうな垂れている麻薬中毒のホームレス・・・これらがコラージュのように集まり、消防署の祭壇の何倍もある巨大な社(やしろ)と化していた。

目の眩むような思いで徘徊しながら、辺り一面のフェンス、木、プラカードに張り出されている行方不明者の写真を目で追ったが、知人は見当たらなかった。私はイーゼルに立てかけられたハート型の大きなプラカードの前で立ち止まった。そこにも何百人もの顔写真が貼られている。改めて驚愕した。皆死んでしまったのか?自分に問いかけた時再び涙が堰を切って溢れ出した。自分ではコントロールできないと解っていたので、他人にどう思われるかと言う事は気にならなかった。この頃の私は理由もなく涙がでることが珍しいことでは無くなっていた。

虐殺の真の意味が私を打ちのめしたのはこの瞬間だった。この時まで私は5千と言う数を数字としてだけ捉えていたのだ。過去2週間、私はあえて死んだ人間の事を心の角にしまい考えないようにしていた。事実を直視するのが恐ろしかったのだ。かわりにビルそのものを考える事に神経を集中していた。まるでそれが人間の犠牲者であるかのように・・・

他人の邪魔になる事も省みず、写真を良く見ようと身体をかがめて顔を近づけた。涙はまた、私を大胆にもした。男性、女性、若者、年寄り、子供たち・・・。この子供たちはあの火曜日の朝、何故あのビルにいたのだろうか?学校の行事だったのだろうか?という事は110階の展望台にいたのか?なんてことだ、どんなに恐しかったろう。涙が吹き出して視界を遮る。私は手の甲で涙をぬぐい再び写真に意識を集中した。写真は続く。牧師、仏教僧、ハレ・クリシュナの集団・・・待てよ。ビルが倒壊した時にハレ・クリシュナの人間がビルの中にいた?信じられない。普通は屋外で布教活動をするハレ・クリシュナと世界貿易センタービルの組み合わせに違和感をおぼえた。

私はハートのプラカードの上方にかかっているたタイトルを見た。
「私達は世界貿易センタービルで亡くなられた方に哀悼の意を表します」
それで解った。・・・この写真の人間は犠牲者ではなかったのだ。

冒涜されたと感じる以上に・・・自分の馬鹿さかげん。プラカードに自分の写真を貼り付けた事は純粋な善意からだと言う事は解る。だが、私にとっては、それ以来私は行方不明者の掲示写真を見る事を止めた。かってその人たちが住んでいた地域の建物や、その人たちが頻繁に訪れていただろう場所の掲示板に掲げられている物・・・慎ましいが真の誠意に満ちた哀悼以外は。


**


ある日私は武術用具の店に行く為にペン・ステーション駅で降りた。7番街へ出るエスカレーターに向かうために駅のロビーを歩いて、写真が一面に貼られた壁の前を通りすぎた。立ち止まりたいと思ったが前回の事を思い出しそのまま歩き続けた。

エスカレータを上がると、マディソン・スクエア・ガーデン前の柱も写真で一杯だった。今度は私も立ち止まり、最初に目にはいった写真を見ると・・・それは私の知人だった。ハーベイ・ガードナー。私と同じ道場に通っっていた人間。私と一緒に進級した人間。私と一緒に稽古をした・・・そうだあれは前日の9月10日だった!なんてことだ、またあの記憶が蘇ってくる。・・・クモの巣のように私に覆い被さる記憶。

そしてその時私にはっきりと自覚したのだ。この記憶がどんなに私に恐怖をもたらそうとも、私はこの出来事を人生の一部として引き受けなければならないのだという事を。この出来事がこれからの私の人生の通過点とはなり得ても、方向を迷わせる標識になってはならないのだという事を。

グラウンド・ゼロには留まらない・・・たまに立ち寄ることがあろうとも。




ハーベイと、そして語られる事のなかった人々へ。
ニューヨーク市
2001年11月9日



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グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その11~

2010-08-20 10:26:04 | 国際・政治
9月11日から2週間が過ぎ、通常の8時間勤務に戻る者も出てきた。私もやっとバイク・エクササイズのクラスに戻る事が出来た。私はこのクラスが本当に好きで、週に4日間で教えたいくらいだが、仕事のスケジュールのせいでそこまではできない。

エクササイズ用のバイクにまたがり、生徒を指導していると、昔からやっていた事なのに初めてのような不思議な気持ちになった。クラスの途中でほとばしる汗を飛び散らせながら、声を嗄らして生徒に叫び、音楽に埋没していた時、 不意に本来の自分を感じた。まるで悪い酔いから覚めたような瞬間だった。なぜならばその瞬間、対照的にそれまでいかに長い間胸が悪くなるような場所に自分がいたのかという事をはっきり自覚したからだ。もしこれが本当の自分ならば、この2週間生きていた人間は一体誰だったのだろう?心理的な罠に落ち込んだような恐怖を一瞬感じた。私はその気分を振り払い、クラスを終えた。

食料の買い出しに出掛けるのも2週間ぶりだった。日曜日の日課の再開だ。途中で多くの隊員が犠牲になった消防署の前を通りかかった。消防車も失い車庫は空っぽだった。私は再びショックに襲われ道端に立ちすくんでしまった。涙が自然に出てくる。どうしようもなかった。悲劇はここまで身近に迫っていたのだと言う事実に改めて打ちのめされた。署員達とは日曜日にここを通るたびに手を振って挨拶し、店の駐車場が一杯の時には、買い物をしている間便宜を図って車を止めさせてくれたりもした。

誰かが私の腕をやさしく取って慰めようとしてくれたが、それを乱暴に振りほどき、わき目も振らず道路の反対側に停めてある私の車へ向かって飛び出した。クラクションとタイヤの軋む音はさらに私の神経を逆なでしただけで、自分が何をしでかしたのか気付かなかった。震える手で車のドアを開け、キーを地面に落とした時、誰かが私を怒鳴っているのが聞こえた。視界の角で、私を睨み付けている男が見えたが、その男は次に消防署に目をやると怒鳴るのをやめ、車に乗り走り去った。

私はタイヤの後ろに座り込み、サングラスをかけて消防署を見つめた。表に備えられた祭壇は、花、キャンドル、国旗、ポスター、カード、手紙、十字架、写真、お守りのような物、等身大の木彫りの像で埋め尽くされていた。どれほど洗練され、テクノロジーに熟練しても私達はいまだ食料を得るためにこん棒を振り回し、月に向かって吠える原始人となんら変わるところはないのだと気付く。いまだに死を理解できず恐れている。祭壇は畏怖に満ちた神への捧げ物だ。

頭では理解できるつもりでいても、喪失感、人間の脆さ、簡単に物事は変化し得るという事実と、それに対していかに自分達が無力であるかという思いに、私は座りこんだまま涙が止まらなかった。

たぶん、息子達の態度が正解なのかもしれない。妻が息子達に近所の消防署で行われた、キャンドルを灯す集会に行くかどうか聞いた時、子供たちはそれが貿易センタービルのこととどういう関係があるのか訊ねた。妻が死んだ消防士たちの魂を称えるために集まるのだと説明すると、子供たちははっきりと行きたくないと言った。妻は押し付けなかった。もしかしたら、理解できないことは避けて通りなんとか切り抜けるほうが、無理な事を始めて後になってそれ以上の混乱に陥るよりも賢明なのかもしれない。(その12、最終回に続く)


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2010-08-13 09:21:53 | 国際・政治
戻る時間だ。私達はチャーチ・ストリートを歩きパークプレイスの角を曲がった。パーク・プレイスの25番地にある私の道場の様子を確かめたかった。外見の破損はないが窓が開いている。たぶん中は大変な事になっているだろう。

途中で、ひしゃげたパトロールカーが数台、路肩に横付けにされているのを見た。車体にはまるで吹雪に閉じ込められたかのように、灰色の塵が積もっている。おそらくグラウンド・ゼロから牽引されてきたのだろう。中に誰も乗っていなかった事を祈るばかりだ。

塵の他は、まるでこれだけが惨劇の名残りかのように、白い紙が辺り一面に散っている。物書きとして、またオフィスワーカーとして生活してきた私にとって、紙は大切なものだ。紙は私の聖域だ。私はいまだに手書きをする。 そして物置の何処かに鍵をかけてしまい込む。物書きだと自認するずっと昔から、もう35年以上も私は物を書き続けている。

紙に対する敬意を感じ、私はチリにまみれくしゃくしゃになった紙片を数枚拾い上げオフィスに持ちかえった。ジェット機が衝突した瞬間に、書類棚にあったものだろうか、それとも机の上にあったのか、誰かの手の中にあったものかもしれない。例えどんな状況であったとしても、持ち主の魂と願いの片鱗が紙の上に遺されているような気がした。紙のように頼りなく、炎に対して最も脆弱と思われる物が、他の全ての物を奪った惨劇から生き延びている事実が私には不思議に思えた。

皆私の行動を奇妙に思ったようだが、あえて説明はしなかった。すでに少し変な奴だと思われているのだ。それで構わない。

司令部に戻るあいだ、私は同僚達の神経質な会話に耳を澄ませ、彼らの様子・・・今見てきた事への反応、拒否の度合いを見守っていたが、私を会話に引き込ませるような、事態に対しての解析や疑問は話題に上らなかった。

これはプロセスなのだということは私にも解っている。誰でも先ず自分の気持ちを吐き出すことが先決だ。異常な事態に対処するために、気持ちをしっかり保つために、そして夜眠りにつけるように。だが、誰も一連の出来事の意味に気付いていない。これはほんの二日前に自分達の身に簡単に起こり得た事なのだ。こうして道を歩いている時にでも、いや明日司令部に出勤した時にも起こりうる事なのだ。

司令部から2ブロック離れた所で、熱心に食料、飲み物、衣類を薦めてくれるボランティアに出会った。彼らは教会の人間で、私達に神の恵みをと声をかけてくれる。彼らは私達が救助作業員の一員と思い、純粋に私達に感謝の気持ちを述べてくる。私達は丁寧に微笑みを返し通り過ぎた。

ボランティアが私達の写真を撮るのを見て、私は現場に留まり遺体安置所を訪れるべきだったのではと後ろめたい気持ちになった。ボランティアには彼らが賛辞を贈っている人々の多くが、私達のように現場を見るためだけに訪れていることは知る由もないだろう。解ってはいても、後ろめたい気持ちはぬぐえなかった。

オフィスに戻り、拾ってきた紙をデスクの前の壁にホッチキスで留めた。所々蛍光ペンでハイライトがが施されその横にメモ書きがある。何が書いてあるのかは問題ではなかった。私にとって重要なのは、誰かがこの紙に触れ、書き込み、もう生きてはいないだろうその人の思考の軌跡がこの紙片の上に残っていると言う事だった。

その晩私は夢を見た。夢の中で私は双子で、倒壊の現場にいる。双子の妹が下敷きになっており、私は必死に救助員に妹の話し掛ける声が聞こえると訴えている。その声は「私は生きている、私はここに居るの。」と繰り返す。

救助員が私を通してくれ、私は石の塊を一つずつ取り除き始める。「希望を捨てないで。」という妹の声が聞こえる。瓦礫の破片を取り上げ後ろに投げる為に振り向くと消防士がこっちだと合図をしている、その後ろでは女性が同じ様に手を振り、その列は延々と後方に続いている。

妹を見つけられないままに金曜日の朝目覚めた。ラジオをつけると、今日で攻撃からから3日目だという言葉が聞こえた。信じられない。もう何箇月も、いや何年も昔の事のように思える。

ベッドに横たわったまま、火曜日以前の生活がどんな風だったか考えてみたが、うまく思い出せない。この出来事は私の日常を引き裂いた。全てが変わった。全てが異常だ。無茶苦茶な勤務体制。 道場にもいっていない。バイク・エクササイズのインストラクターの仕事も休んだままだ。ひたすらストレスを溜め込んでいる。夢のおかげで、今朝は休息を取ったというよりも徹夜で働いたあとのような気分だ。

例え肉体はそこになくても、実際はグラウンド・ゼロでずっと暮らしているような気分だ。この気分を抱えたままでは、家を出る事はおろかベッドから起き上がる事もできないだろう。

子供たちの存在に心から感謝した。息子達にいつまでも怯えた様子を見せるわけには行かない。この子達は毎朝一日の始まりに、今日はどんな楽しい事があるのだろうかという期待に胸を膨らませて目を覚ます。そんな子供たちに微笑みかけずにはいられない。朝のわずかな時間を子供たちと過ごし学校へ送り届ける。暗い気持ちをしばし忘れすことができる。

子供達はこの一週間の異常な変化になんとか折り合いをつけたようだった。私も見習わなければいけない。仮にこの出来事にさいなまされる日々が後にやってくるとしても、今ここで立ち止まるわけにはいかない。最愛の人間の死と似ているのかもしれない。初めは耐えられない悲痛に襲われる。そして時と共にその思いも薄らぐのだ。(その11に続く)


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グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その9~

2010-08-03 10:52:30 | 国際・政治
あわせて220階分の建物が崩壊したのだから少なくても5階から10階分の高さはある瓦礫の山ができているものと思っていた。だが現場を歩いていても、山と言うよりは砂丘のようで所々大きな石の塊が、せいぜい2階から3階程の高さに盛り上がっている程度なのだ。まるで訳が分からない。何処へ消えたのだ?220階分のビルの残骸は何処へ消えたというのだ?

カメラを持参していたが、目の当たりにしている出来事を捕らえる役に立つとは思えない。警官も消防士も救急隊員も皆カメラを携帯している。誰もが信じられない思いでいる。作業をしている者以外は、首を横に振り立ちすくんでいるだけだった。
「一体何処へいったんだ?」誰にと言う事もなく発した声を同僚が聞きつけた。
「何の事を言ってるんだ?」
「行方不明になっている5千人の事だよ。」同じ疑問を持たないのかという怒りを覚え私は答えた。
「見ろよこの瓦礫の少なさ。本当に5千もの死体がこの中に埋まっていると思うのか?」
彼は私を見つめ、私の言葉の意味を考えているようだ。彼は瓦礫を眺めつつも、私の疑問がさして重大なことでは無いように答えた。
「さあ、地下に埋まったんだろう。ここは地下6階だか、7階建だったからな。」
私は黙った。これ以上誰かが、220階分の建物が、家具も、陶器類も、器材も含め、おまけにジェット機2機が、7、8階分の深さしかない地下に押し込まれたんだと断定するのを聞いたらきっと吐き気をもよおしただろう。

皆2つのビルがいかに巨大だったか忘れている。貿易センターの正面に建っている黒いリバティープラザビルは54階建だ。貿易センタービルの高さはその2倍で、しかもビルは2棟だ。それが倒壊して残った残骸がたったこれだけの量であるはずがない。リバティープラザビルを見上げながら私は自問自答を繰り返していた。

私は完全に混乱していた。昔みたSF映画に未来社会で絶滅の危機にある人類を存続させる為に、過去に戻り飛行機事故などの災害で死ぬ運命にある人間を誘拐し、未来社会での人間を補充する、つまり過去の世界では人間が消えても誰も不審に思わない、というストーリーがあった。ブラックホールに飲み込まれたというのでなければ、220階のビルが地下7階に圧縮されたのを信じろと言うのと同じくらい荒唐無稽な話しだった。

いずれ論理的に説明される事は解っていても、その時は只不可解だった。 否定の思い。これ以上この場に居たくない。この光景から、雰囲気から、場所から、現実から逃れたい。銃撃戦が終わった戦場で、硝煙が収まり視界が開けた時に膨大な数の無残な死体を目にした時の気持ちとはこのようなものなのだろうか。

私は重い足取りで、センチュリー21や、メイシーズ、ブルーミングデールス、Kマートなどの破壊された窓の写真を撮りながら歩いたが、麻痺したような私の目にはどれも同じようにしか見えなかった。かっては買い物客で賑わってい場所だった。

貿易センタープラザビルに背を向けるようにして、リバティープラザを見上げて立ち止まった。20年以上も昔、私のウォール街での初仕事でメリルリンチ社に雇われ、このビルで働いた事がある。同僚が、今ここは現場から発見された遺体の安置所として使われていると教えてくれた。(完璧じゃないか!)私は口の中でつぶやきながら、リバティープラザビルの残骸の上にあるブルックス・ブラザーズの看板を見つけた。跡形もなく消えた店舗の跡地にまるでその看板が矢面にたって攻撃に立ち向かったかのように残されていた。

私はこの死体安置所で、遺体の身元調査のために私の開発したシステムを設置しようとしている事を知っていたので、必要であれば顔を出して作業の補助を申し出る事もできたし、そうすれば見物の言い訳も立つ。だが、できなかった・・・。 今はとても無理だ。このような不測の事態に対応するためのシステムを設計した自分であるが、引きさかれた肉体とバラバラになった身体を観てしまったら、そのイメージから一生逃れられないのではと怖じけづいてしまった。

現場を振返り、私はここでも働いていた事があったのだと思い出した。破片を一つ一つ丁寧に除去している消防士や警察官の長い列を見つめたが、心の何処かで生きている人間は見つからないだろうと言う事を感じていた。彼らもそう思っているのだろう。だがそれを認めたくないのだ。私達全てがそうだった。認めたくない。ここで起こった事も、そしてその現場にこうして立っているという事実も!(その10に続く)


グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その1 ~
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グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その7 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その8 ~


グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その8~

2010-07-15 12:14:33 | 国際・政治
全部で7人。全員マスクをつけID カードを胸につけて司令部を出た。パーク・ロウ通りを歩いている間も誰一人口をきかない。 全ての商店、建物の入り口は閉まっている。至る所に検問所が置かれている。ボランティアが私達に微笑みかけてサンドイッチと水を差し出したが、私達は丁寧にそれを辞退した。私達はただの見物人なのだ。

ブロードウエイを渡り、貿易センタービルの北側にあたるベシー・ストリートをチャーチ・ストリートの交差点に向かって歩く。チャーチ・ストリートは貿易センタービルの東側に沿う通りで、ビルの正面にあたるコートランド通りに繋がる。

倒壊前は、チャーチストリートとビルの西側を走るウエスト・サイド・ハイウエィに挟まれたベシー・ストリートの北側に立って貿易センタービルの方向を眺めると、連邦ビルとその背後の貿易センター第7ビルと電話会社のべライゾンビルを見ることができた。この第7ビルと、貿易センタープラザビルは陸橋で繋がっていた。私の知る限り、地下道はなかったはずだ。貿易センター第5ビルはベシー・ストリートの南側にあり、1階にはボーダーズ書店があった。

今から7年前、貿易センタービルがテロリストによって爆破された時、私はブロードウエイ通りからベシー・ストリート方向を見ていたが、目に入ったのは海原のように広がるパトカー、消防車、救急車の放つ警報燈のフラッシュだけだった。あれほど多くの緊急車両が一個所に集中したのを私は見た事が無かった。その光景は今でも胸に焼き付いている。たぶんその記憶が、一昨日私を現場へ向かう事をためらわせたのかもしれない。

そうして今現場に向かいつつある私は、先ず陸橋が無くなっているのに気付いた。第7ビルの一部がベシー・ストリートに崩れ落ちている。しかし、1930年に建てられコンクリート20階建ての郵便局の入っている灰色の連邦ビルは、窓ガラスは吹き飛ばされていたがそのまま建っている。第7ビルの影に隠れ目立たなかった50年代に建てられた20階建てのベライゾンビルも同じように無事だ。第7ビルが崩れ落ちてきた時のものだろう、ビルには大きな亀裂が入っていたがそれ以外は動じる様子もなくしっかりと建っている。

隣接したこれらのビルは無事なのに、何故47階建ての第7ビルが崩れたのか? 疑問が浮かぶ。衝撃波に耐えらないお粗末な設計だったために7、8時間もたってから倒壊したのだろうか? 私には解らなかった。一緒に歩いている仲間たちは何も言わない。不思議に思わないのだろうか?

私達はベシー・ストリートにあるニューヨークで最古の-多分できてから2半世紀は経つだろうセント・ポール礼拝堂と墓地の横を通り過ぎた。礼拝堂も、墓地が墓標の消えかけた墓石に積もる紙片と灰色の塵で覆われている他は、目立ったダメージは受けていない。

突然、テレビで繰り返し流された崩壊場面と、人々が巨大な噴煙に追われて逃げる様子の映像はこの次の角で撮影された物だと気付いてはっとした。映像の右に写っていたのはこの礼拝堂と墓地だったからだ。

燃え尽きた第5ビルの残骸の下からボーダーズ書店が見える。まるで奇蹟のように書店は通常の姿を留めていた。本も雑誌そのままの状態で陳列されている。自分がここで、べべ・ムーア・キャンベルと マイケル・パルマーがそれぞれの著書からの抜粋を読むのを聞いたのが先週の事だとは信じられない。事実、ここで先週の木曜日に従兄弟と昼食をとったが、それが何世紀も昔の事のようだ。あの時に倒壊が起こったかもしれないのだ・・・。

私達はコートランド通りを生命の危機感を感じつつ、最新の注意を払いながら進んだ。皆朝のニュースでまだいくつかのビルディング-正確には今私達が通り過ぎようとしているミレニアムホテルや、2ブロック先のリバティープラザビルの倒壊の恐れを報じているのを聞いていた。

恐怖を打ち消そうとしている時、貿易センタービルの廃虚が視界を捕らえた。ビルの外壁が崩れ落ちた後に残った3、4階分の高さの鉄骨のほかには何も無い。まるで歯が抜けた口の中か、寂寥とした荒野に立つ標識のようだ。

前進する仲間をよそに、私の足はいつも野外広場コンサートを聴く時に立っていた場所に釘付けになった。ここで貿易センタービルの間に設置されたステージから流れる音楽に身を委ねていたのだ。この位置からだと音響効果は抜群で、ステージで演奏される全ての楽器の音をもらさず聴くことができた。

聴衆に混じりたければ、そこにはいつも暖かく親近感にあふれた群集がいる。広場の御影石のベンチに座り、ステージの音楽に聞き入りながら聳えるビルを見つめ、その威容を身体に感じていた。

日曜日にはセサミストリートやディズニーのショーに息子達を連れてきた。下の息子がまだ乳母車で、上の息子はやっと歩き始めた頃だった。どんなに早く到着しても客席はいつも一杯だったので、舞台を観るために、私は兄の方を肩車し弟を腕に抱きかかえていた。
「見て、パパ。ぼーえきびるに みっちーまーす がいるよ!」
上の息子は私の耳を引っ張り、額をたたきながら歓喜の声を上げてはしゃいでいた。

私は御影石の残骸に蘇る過去をみつめていた。この光景は何か間違っている。辺りは相変わらず静かだ。いや、トラックは行き交い話し声も聞こえる。だが、笑い声が無い…喜びも…ざわめきも。不信と疑惑のオーラが空気を包み込んでいる。それが何なのかうまく説明できる言葉は見つからない。現場の作業員はその不可解な空気の重さを振りはらおうとするかのようにー心不乱に働いている。

一緒に来た仲間を見失ってしまった。私はゆっくりと前に進む。5千人の犠牲者はいったいどうなったのか? 5千人を埋めてしまうほどの瓦礫の山は何処にも見当たらないのだ!まだ二日目だ。瓦礫の残骸を取り除く時間などあるはずが無い。(その9に続く)


グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その1 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その2 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その3 ~
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グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その6 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その7 ~


グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その7 ~

2010-06-29 12:24:49 | 国際・政治
9月13日、木曜日、7時45分 - 仕事には車で行く事にした。地下鉄のことは考えるだけ無駄だった。昨日妻がブルックリンからマンハッタンへ行く地下鉄が、Qライン一本しか動いていないと教えてくれた。最も住居率の高い地区であるブルックリンの住民がすべてこの一本の地下鉄に殺到する事になる。

平常は車で20分から25分はかかるところを、驚くべき事に今朝は7分足らずで子供を学校に送る事ができた。

ブルックリン・ブリッジの入り口でIDカードを見せ、問題なく検問所を通過する。同様の異質さは感じるが、昨日の経験から多少は落ちついている事ができるはずだった。ただ一つ違う事があった。それはブルックリン・ブリッジを車で走っているのが自分一人だという事だった。

再び恐怖感が込み上げきた。一体何だって私はあんな所に出掛けようとしてるんだ?私はただの一般市民だ。雇われる時に忠誠など誓った覚えはない。何に対しても誓いなど立てていない。あのままウォール街で働く事もできたのに、何故転職などしたんだ?そうだ、俺は貿易センタービルの中で働いていたかもしれないのだ。あそこにある会社で雇われるところだったのに、どういう理由だったか成立しなかった。

ジェット機が突っ込んだ時、その上階である80階にいたのが自分だったとしたらどうしたろうか。修羅場、煙、混乱、そして至る所でのパニック・・・阿鼻叫喚・・・階段へ押し寄せる半狂乱の人々、だか、燃え上がるジェット機の燃料から出る窒息しそうな黒い煙が下から充満してきて行く手を塞ぐ。自分が死ぬと知った時、私ははどうするのだろうか?妻に電話をして愛していると告げ自分のかわりに子供を抱きしめてくれと言ったのだろうか?たぶん、生命保険の事を伝え、妻は私がいなくなったら辛すぎて私の物を何一つ手元に残しておかないだろうから、私の原稿と作曲した楽譜をどうして欲しいか告げただろう。息子のどちらかがやがて音楽家か作家になるかもしれない。それだけが彼らに遺してやれる物なのか?妻は泣き、私も嘆願し泣いている。

車のクラクションで私は自分が車線上をふらふらと運転している事に気がついた。クラクションを鳴らした相手は私の横に自分の車をつけ、私の目が涙にあふれているのに気付いた。私は窓から手を出し大丈夫だというサインを送る。彼はうなずき走り去った。私は彼の目に理解しあうものの気持ちを認めた。多分同じ思いに彼も昨日、いやたった5分前に襲われたのかもしれない。

私はサングラスを取り出すのに散々苦労したあげく、検問所をどうにか通過し、やっと駐車場に車を止める事ができた。気持ちを立て直すためにしばらく車の中に座り、立ち昇る煙を見据えてそれを喉の奥でも感じていた。

オフィスに着くと、すでに第一陣が現場へと向かった後だった。私は仕事をすることで、先刻私を襲った暗澹とした考えを頭から払いのけようと務めたが、ラジオやテレビが火曜日の様子をまるで今起きた事のように繰り返し報道しているため、それも簡単ではなかった。

私が10年前に開発した市中の各部署をつなぐ情報網システムが、貿易センタービルの被害者調査報告にも利用できる事が解り、午前中はこの仕事に懸かりきりになった。現場に出掛けて行く理由ができたわけだ。

最初のグループが戻ってきたが、異様に口数がすくない。何を見てきたのかを訊ねても誰もが答えるのを避け、ただ私達が現場を見てきてから話そうと言うだけだ。それでも一人が私に寄ってきた。「現場を見ても、まだ奴等の国をぺしゃんこに潰してやるってのに反対かどうか聞かせてくれよ。」現場の様子は想像を超えているようだ。

第二陣が神経を尖らせながら集合する。私は器材のセクションに走り降り、勤務中である者が、それを対外的に示す際に着用する非公式の制服である、濃いブルーのNYPDのバイクシャツを購入した。(その8に続く)



グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その1 ~
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グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その6 ~


グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その6 ~

2010-06-22 14:07:57 | 国際・政治
9月12日、水曜日、朝7時45分 - 翌日、グラウンド・ゼロの職場に行くのは並大抵の事ではなかった。気狂い沙汰だった。2番と3番の地下鉄は動いていない。4番か5番の地下鉄でマンハッタンのダウンタウンまで一番近づける駅は二つだけだ。一つはブルックリンにあるボロウ・ホール駅だが、これだとマンハッタン入るために、ブルックリン・ブリッジまで8ブロック歩き、橋を渡るのにさらに20ブロックぶん歩かねばならない。その次の14丁目ユニオン・スクエア駅でおりても、警視庁まで30ブロック歩かねばならない。

私はティラリー・ストリートにあるブルックリン・ブリッジの入り口まで歩き、そこで橋の周りに一台の車も見当たらない光景に唖然とした。異様と言うほかはない。こんな事は20世紀後半始まって以来の事に違いない。

警戒は厳重だった。しかるべき許可の無い者は通行が許されず、多くの人間が引き返してきている。私は通過できるだろうか?私は、質問された時の準備に、職場と仕事を説明する口上を心の中で繰り返した。しかし、私のID カードを見ると、警察は私をすんなり通してくれたばかりか、マンハッタンに向かうために用意された車に案内してくれた。

私は他の乗客が乗り込むまで中に座って待っていた。運転手は無言だ。あまりの静寂、二日前とのあまりの違いに私はぞっとした。グラウンド・ゼロに仕事に出かけるなんて、私は一体何をやってるんだ?そう、電話だ・・・私は呼び出されたのだ。各部署の責任者は全員事態の報告の義務があるのだ。

緑色の清潔な医療ガウンとマスクをつけた三人の男性が乗り込んできた。運転手はマスクをしていない。私は店で買ったマスクをつけた。グランド・ゼロに向かう車の中では、誰一人言葉をかわすこともなく、ただ自分のバックパックを握り締めている。私達の車以外、橋には一台の車も走っていない。別の場所では有り得る事だろうが、ブルックリンに住んでいる者にとってはそれだけで充分不気味だった。

かって貿易センタービルのあった地点から、濃く、灰色がかった黒い煙が立ち昇っているのが見え、異臭が漂ってき来た。皆メディアで刻みつけられた映像を頭にちらつかせながらその光景を見上げていた。


              ***


ロウアー・マンハッタンは閉鎖され普段の街の気配はなかった。警察と非常体制要員以外、通りには誰もいない。全ての通りには検問所が置かれている。私はこの地区がこれほどまでにひっそりとし、人気が無いのを見るのは始めてだった。 核戦争後に潜水艦が浮上すると、都市はすでに廃虚と化していたという映画、「渚にて」の場面を思い出す。

ニューヨーク市警のビルに入るまでに4つの検問所を通る。オフィスは一昨日までの影も形も無く騒然としている。テレビとラジオが鳴り響き、人々は、窓から見える噴煙を見つめている。煙ともやの向こうにかすかにワールド・ファイナンシャル・センタービルが見えるが、それは遥か彼方、別の時空に存在しているような気がする。

簡単な用事にも集中できない。周りの者も同じようだ。人々は、そうせずにはいられぬように、昨日の出来事について語り合っている。 それは物理的にあまりにも身近に起こり、私達は今その渦中に居るのだ。

友人の警官が、繰り返し見るのだという夢の話をしてくれた。高速道路を運転中、彼の頭上を走る高架にジェット機が墜落してくると言う夢だ。昨日の火曜日、彼は警視庁に向かう車の中で一機目の飛行機がビルに激突するのを見た。目撃した時の戦慄が夢の時のそれと同じでだったので、一瞬、これは夢の続きか?と思ったと言う。

左の車を見たが、運転中の男性はあくびをして何も気がついていないようだった。反対側を走る車では、運転席の女性がコーヒーを飲むのに気を取られているようだ。彼は煙を見据えながら実感を得られずにいた。その時警察の無線が貿易センタービルの惨事を告げ、彼は瞬く間に警報機を車上にセットしサイレンを鳴らしたという。

オフィスに居るほとんどの人間は、怒りをあらわにし、報復攻撃をするべきだと言う意見に同調していた。そのなかで私は理性を取り戻すよう懸命に声を上げた。別に私が慈悲深い人間だと言うつもりはない。しかし当事者でない者に攻撃を仕掛ける意味はない。第一、相手が誰なのかまだ何も解っていないのだ。

「だが、奴等は貿易センタービルにいた罪の無い人間を攻撃したんだ。こっちも同じ事をやるべきだ。」誰かが言い返す。この論議は一日の話題の集中だった。

私は自分と同僚との間に横たわるこのずれは、相手が警察官だからと言うのではない。これはそもそもアメリカ合衆国の問題なのだ。我々は、敵とは憎しみと抗議を訴える対象である国家を母体とした戦闘服の軍隊であるという、戦争の古臭い規範に捕らわれいる。だがベトナムとベトコンはこの範疇には当てはまらなかった。(おまけに敗戦。)今こうしてビルを破壊したテロリストもこの規範ではもう語れない。

新しい形の敵は、忠誠を誓い、命を懸けて戦うための国家を持たない。敵はあらゆる所に潜んでいる。サウジアラビア、パレスチナ、フランス、ドイツ、ブロンクス いや、ニュージャージー、何処でもよい。彼らが忠誠を誓うのは国家に対してではなく、主義と理念に対してなのだから。 彼らが望めば何処でも戦場になる。供給源は?私達と同じルートだ。キャッシュマシーン、携帯電話、スーパーマーケット、ホームセンターもある。

情報源?CNNニュース、新聞、インターネットがある。財政源?ハーバード大学出で50億ドルを簡単にドカン落とせる金持ちが組織のスポンサーにいるだろう。

私達の大部分は、このことがどうしてもピンとこないのだ。アメリカ人にとってのテロリストとは、スパイ小説かB級映画で植え付けられたイメージしかない。髭をたくわえた男達が外国たばこをくわえ、天井から裸電球がぶら下がりゴキブリがはい這い回るアパートの一室で、テーブルの周りで火炎ビンを作っているイメージだ。つまり狂気と敗者の図式だ。

だが今は違う。洗練されたテロリスト達、洗練されたネットワーク、そして自爆テロもいとわず目的を遂行させる実行力。私達には考えも及ばないレベルでの信念と行動ゆえに、甘く見ていた結果が・・・ノー・モア・WTC、二度と貿易センタービルの惨事を繰り返してはいけない。

何人かとランチに出たが、現場を避けるようにして歩いた。ウォール街のコンクリートの谷間を歩きながら、全員ショックで声もない。ただ静寂のみ。人も車も電気も全ての気配は消え、辺り一面灰色の塵で覆われている。警官がパトロールをしているが、それでも威圧されるようなこの静寂は、単純に「恐怖」だとしか言い表せない。他に言葉が見つからない。

帰り道、明日皆で現場へ行くことに決めた。もはや誰一人机に向かって想像しているだけではいられなくなっていた。この目で見なければ、この48時間の狂気の体験を理解する術がない。この戦場において、日常の名残を留めている人間の存在はダウンタウン病院のスタッフを除けば私達だけなのだ。そう、まさにここ戦場だ。(その7に続く)


グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その1 ~
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グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その5 ~

2010-06-18 13:19:18 | 国際・政治
子供たち!

私は水とマスクを手に入れるために店に立ち寄った他は、橋から学校までの長い距離を走り続けた。教師達は憔悴と緊張の面持ちでいたが・・・もし親が子供を引き取りに現われなければと心配していたのだろう、私を見て心からほっとしたようだった。

5歳の息子は私の顔を見ると無邪気な顔を見せたが、7歳の息子は異様な事態を感じているようだった。自分の親を待って不安気にしている他の子供たちを後にして、教室から自分の息子を連れ出したときは、後ろめたさを感じた。

交通手段は途切れているので、4キロ以上の道のりをフラットブッシュ・アヴェニューまで歩く。いつもと違う出来事に加え私の険しい表情に、子供たちは明らかに不安を感じているようだった。
「パパ、ぼーえきびるで、なにがあったの?」
「パパ、誰かけがしたの?」
「パパ、せんそうってなに?」
「それはね、座ってお話をしたくないっていうことだよ。けんかしたほうがいいって思うことなんだよ。」私は言った。
「どうして?」
「どっちも自分達が本当の事を言っているって言いたいんだ。」
「でもなんで、パパ?」7歳の息子には理解できたようだが、5歳のほうはまだ訳が分からないようだった。いつものように兄が弟に説明を始める。
「僕たちの部屋のランプがこわれた時、パパが、誰がやったんだって聞いたろう?お前はお兄ちゃんがやったていって、僕はお前がやったって言ったんだ。」
「うん・・・」
「でもさ、どっちかしか本当のことを言ってないんだ。どっちも本当のはずないし、僕はお前がやったって知ってるんだから。」
「違うよ、パパ、お兄ちゃんだよ!」
「ほら、二人ともやめるんだ!一年も前のことだし、あの時は二人とも叱られたんだ。それにそうやって戦争って始まるんだぞ。始めにどっちかが罵る。するともう片一方が殴る。で、すぐに爆弾を落し合う… それもこれもどっちも自分が正しいって言いたいからなんだぞ。」いつもの躾に厳しい父親の顔に戻って私は言った。
「爆弾って、パパがトイレに座って、ぼとんって、やるやつ?」5歳の息子が歯をむきだして大声で言った。
普通なら決まり悪くなるところだが、7歳の方が下品なこの冗談に吹き出して、げらげら笑うのにつられ、私も微笑んだ。私は日常生活を思い出させてくれた二人の息子に心の中で感謝をした。日常生活、そう、二時間前までの。学校を出てからつなぎっぱなしの私の手をさらにぎゅっと握り締め、5歳の息子が囁いた。
「パパ、もしどっちも本当の事を言って、どっちもランプを壊してたらどうなるの? やっぱり戦争になるの?」
「さあ、どうなるのかな・・」私は正直答えに詰まった。背筋を伸ばして黙って歩きながら息子の質問を考えていたが、どう答えようか考えついた時には、二人ともすでに別のお喋りに夢中だった。二人の会話を聞いていても、周囲のただならぬ様子や、20回以上かけてもまだ携帯電話で連絡が取れない妻の事などを考え、 再び不安な気持ちに沈んでいった。


              **


家に戻り、子供たちが昼食に夢中になっている間に、市内はもちろん、アメリカ中の親戚や友人に電話をかけ無事を知らせた。携帯もダウンタウンの電話回線も繋がらなくなっていたため、この三時間誰にも連絡できないでいたのだ。

テレビのニュースを見ながら同じ話を繰り返して10回目の電話のダイヤルを回す頃には、私もすっかり落ち込んだ気分になり、惨事に巻き込まれた可能性があるかもしれない友人や知人の事を考えていた。

幸いな事に、同じ建物に住む、やはり子供のいる友人が、ビデオショップから「オズの魔法使い」を借りてきて、私達を彼の部屋に誘ってくれた。

大人達が今朝の出来事について話している間ニュースを見ていた子供たちは、見た目には少し落ち着いてきたように見える。子供たちを見ていて、この子達はきっと、ケネディー大統領の暗殺を当時7歳だった私が子供心に記憶しているように、今回の事を記憶するのだろうなと思った。当時子供だった私には事の全容は理解できずにいたが、どのチャンネルを回してもその事しかやっていなかったので、重大な事が起こっていると言う実感はあった。もっとも今の子にはケーブルテレビがあるが・・・

私は、いまだに葬列を歩く馬を覚えている。その馬のあぶみには空っぽのブーツが後ろ向きに備え付けられていた。子供心にそれは奇妙な光景だった。この子達はきっと、高いタワーのフロアを一つでも多く破壊しようとして、ジェット機が旋回しながらビルに衝突した事と、ビルが崩れるイメージをきっと忘れないだろう。少なくとも私は忘れない。

子供たちが「オズの魔法使いを」見ている間、私はロッキングチェアに座って身体をゆすっていた。ビデオが終わりニュースに戻った時、今日の出来事よりも映画の方がずっと現実の世界に近い事のように思えた。(その6に続く)


グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その1 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その2 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その3 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その4 ~


グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その4 ~

2010-05-28 12:46:50 | 国際・政治
キャナル・ストリートも同様に混乱していた。交通は停滞し、聞こえるのはサイレンと自動車のクラクションばかりだ。狭い歩道はチャイナタウンの出店と何とかマンハッタン・ブリッジへ抜けようとしている人々でごった返している。ここに住んでいる人達はどうなるのだろう?何処へ逃げるのだろう?人々はマンハッタンから逃げ出す事に必死だが、自分のたちの家のあるダウンタウンに戻ろうとしている者もまたいるのだ。

車からラジオのニュースが聞こえてくる。 飛行機が国防総省にも激突した。あたりに絶望感が漂い始めた。悲痛に打ちのめされ動く事のできない年老いた母親を娘は厳しく叱咤しながら引っ張ってゆく。

マンハッタン・ブリッジへの入り口になるバワリー・ストリートに出た。警察官は橋を渡ろうとする通行人を制止するよりも、車両のダウンタウン方向への進入や橋への進入を規制するのに必死だった。

高さ1.5メートルはあるコンクリートの壁が車道への入り口に立ちはだかっている。これでは人が、特にスカートやハイヒールの女性が、この壁をよじ登るのに助けが要るだろう。私はもみくちゃになりながらも、なんとか壁の前に駆け寄り手を差し伸べようと振返った。が、泣き叫んでいる母親も含め誰にもその必要はなかった。恐怖が今や不可能を可能にしている。

その時だった。ツインタワーが一棟だけでそびえ立っているのを見たのは。

自分の目が信じられず、身体が固まった。あまりに不自然・・・不均衡・・・非現実。私は立ちすくんでいた。人々が私の横を駆け抜け、ぶつかり、罵るのを感じたが動く事ができない。一棟しかないビルを見ている事が信じられない。

ビルが倒壊した? ほんの30分ほど前にこの目で見たばかりなのに。確かにビルには大きな穴があき、そこから煙と炎が噴き出していた。だが少なくともぐらついたり、揺れたりはしていなかった。110階建てのダウンタウン一の超高層ビルは、まるで双子の姉妹のように寄り添い、常に周りの景色を小気味よく見下ろしていた。その片割れが消えた?まさか・・・信じられない。

目の前で怒鳴る「動け!」と言う声で私は我に返った。私は自分の目で見ている現実とそれを受入れられない気持のずれを何とか繕おうとしながら、とにかく橋へむかって後ずさりを始めた。

間違っている。ビルは二つあるべきだ。私には残されたビルが、切断された足がまだ存在していると錯覚している患者のように見える。「俺だって、信じられないよ。」誰かが言った。何故かは解らないが、私は、私意外の第三者の口からこの言葉を聞く必要があった。その声にようやく私は、現実を受け止めるように肩をすくめた。ビルは一つになり、私は前に進まなければならない。

車両通行止めになったイーストリバー・ドライブをウォール街から脱出してきた何千人もの人間が歩ているのに気づいたのはその時だった。象徴的な光景…聖書に描かれている神話の一場面を見ているようだ。

突然、橋の上の人々がどよめき、空を指差した。まるで次の攻撃を恐れているかのようだった。しかし上空に見えたのは、ニューヨークを、アメリカ合衆国の空を守るために飛来してきたF15戦闘機だった。

私は一体何を見ているのだろう。あまりに多くの事が一時に起こり、何もなかった日常から私は一気にこのカオスへと引きずりだされた。

考えをまとめようと、周囲の会話に耳を澄ませながら私は一人で橋を渡りはじめた。ビルの70階から逃げて来たと言う人がいた。それを聞いて少し気持ちが楽になる。思ったより多くの人間が脱出できたかもしれない。

怒り狂った男性が「なんで俺達がこんな目に合わなきゃならないんだ?」と何度も繰り返しながらわめいている。世界状勢に対するこの無知丸出しの彼の言葉に私はかっとなったが、彼には知る由もない。

私はその男に言った。我々は外国で何が起きているか、外国人がアメリカ人の事をどう思っているのかに無関心で、いつも自分達の事ばかり考えている。だからこういう事がおきたのだと。その男はまるで私が彼の業績か、妻か、母親を侮辱したかのように、もしくは他にも何か言う事があるのかといわんばかりに、今にも殴り掛からんばかりの様子で私を振り向いた。私は、すべての物事は影響し合っているのだから、もっと自分以外の者にも関心を持つべきなのだと続けて言った。観念的すぎるか・・・

ではこれではどうだ。彼がテレビのスーパーボウルで、ジャイアンツとラムズの試合を観ているとする。フォースダウンで残り20秒、同点。タイムアウトは残されておらず、ジャイアンツが6ヤードラインでボールを持っている。(一瞬、彼の眼に戦闘機もテロもビルの倒壊もない、心地よい場所にいきなり引き戻されたような戸惑いが走った。)そこに、試合中継を中断しイスラエル軍がデモで発砲し3千人のパレスチナ人が撃ち殺されたとか、サッカー場でアラブの自爆テロが起こり3千のイスラエル人が殺されたと言うニュース速報が流れたとする。一瞬暗澹となり淡い感傷を抱くだろうが次の瞬間には「試合に戻れ。」「スコアはどうなった?」と思うだろう。

彼は顔を背けた。

「もう他人事ではない。」私は言った。「もっと周りを見るんだ。目を覚まさなけりゃいけない。」

自分の口から出た言葉を噛み締めながら私達は無言で歩いた。私はデンゼル・ワシントンが、アメリカ国内に潜む過激派テロリストを追跡するFBIエージェントを演じた映画、「マーシャル・ロウ」の事を考えていた。

同じ事が実際に起こらないとはいえない。バス、地下鉄、レストランの爆破、それから何だ? どうやって自分の家族を守ればいい?子供たち、妻、そして私自身を? 奴等の次の標的は?

悲鳴が聞こえた。私は振返った肩越しに、二つ目のビルがぐらっと揺れたかと思うと、そのまま黒煙と、塵灰を吐き出して後に続く大音響と共に崩れ落ちるのを見た。涙が溢れてきた、と同時に必死で支えてきた私の現実がゆっくりと溶けだしてゆくようだった。

世界貿易センタービル。私の日常生活のなかで、不変の象徴だったものが消えた。どれだけの命が奪われたのか想像もつかない。 ただ解るのは、事態はもう二度と元に戻る事はないということだった。(その5に続く)


グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その1 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その2 ~
グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その3 ~