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ハナブサアキラの不定期連載コラム(OCN過去ログ保存版)

音楽、スポーツ、旅、普段の生活、その他、見聞きした事、感じた事を不定期かつ無責任に綴っていく適当日記

グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その3 ~

2010-05-25 12:53:17 | 国際・政治
チァンバー・ストリートに出た。信号を待っていると、女子高生がおずおずと訊ねてきた。
「みんな、どうかしたの?」
「貿易センタービルが攻撃されたのよ。」そばにいる女性が答えた。
「それって、何処にあるの?」
まさにその目の前に居ながら女子高生が聞く。
まるで「未知との遭遇」のように5本の手がいっせいに燃えているビルを指差す。
「あっ・・・」恥ずかしそうに彼女は答えた。
「なんでこんな事故がおこるの、いったいどうなっているの?」年配の女性が聞いた。非常に年老いた女性だ。この言葉が私の怒りにさらに油を注いだ。事故ではない。明らかに攻撃だ。なのに、彼女は受け入れたくないのだ。真実を聞くよりも耳を覆っていたほうがましだと言うのだろう。

私はブロードウェイの方向に急いだ。そこはすでに交通が遮断され、非常灯とサイレンと混乱の渦だった。警官の姿はほとんど見えない。道路交通局の人間が人々の整理に当たっている。その場をうろうるしている人々。八方へ逃げ惑う人々。

あらゆる種類の、制服、バッジ、身分証明書を身につけた人間がサイレンと共に現場に押し寄せて行く。私もその中にいた。歩きながら私はどうやってシャツに警察の身分証明書を固定しようかと考えていた。その日に限ってなぜかカードホルダーを家に忘れてきてしまったのだ。毎日仕事に行く為に身につけていたのだが、後になって思うと、この日カードホルダーを忘れた事が私の命を救う事になったのかもしれない。

貿易センタービルから2ブロック離れたパーク・プレイスの角を曲がりチャーチ・ストリートへ向かった。この通りは貿易センターの東側に沿っている。何かをしたい、役に立ちたいと思う一心だった。私は、週に3、4回武術の訓練のために通っている護身術の道場の前を通り過ぎる時、心の中で先生に頭を下げたが、すぐに通行人を遮断しようとしている係員に行く手を止められた。彼らの背後に、ブロードウェイより更に喧騒に満ちているチャーチ・ストリートが見えた。非常灯を持った集団が現場へ進行している。

群集を押し戻そうとしている何かのバッジをつけた人間たち、警官、その他並みいる係員にもまれ、私はポケットから身分証明書をを取り出す間も無かった。もし身分証明書をきちんと胸につけていたら通過できていたかもしれないが、あまりに多くの人間が身分証明書を掲げて叫んでいるので、私はあきらめて別の通りを試す事にした。
ダウンタウン方向は封鎖されていたので、歩けるのはアップタウン方向へのみだ。すでにブロードウェイには、FBIのウインドブレーカーを着た人間が出ており、通行人をアップタウン方向へ誘導している。どの通りも封鎖され、通行人は全てブロードウェイへと誘導されている。

地下鉄とバスが停まっていると誰かが言うのが聞こえた。どうやってブルックリンへ帰れというのだ? 私の中でするべき事の優先順位が変わった。子供と妻だ。妻はミッドタウンで働いている。携帯電話がつながらない。妻の無事を祈るばかりだ。

ブルックリン・ブリッジは閉鎖されているらしい。私は先ずマンハッタン・ブリッジへ向かう事にした。そこがだめなら次はウイリアムズバーグ・ブリッジだ。

私は再び貿易センタービルに思いを馳せた。どうしたらこれほど多くの罪のない人間の命を奪うほど残忍になれるのか?何故、何のために?

機内にいた乗客は?私は飛行機が嫌いだ。衝突すると知りながら機内に座っていることの恐怖がどのようなものかとても想像できない。例えほんの数秒間だとしても・・・。 自分があの飛行機の乗客だったらと考え戦慄する。

頭の中からいやな考えを振り払おうとしながら、アップタウンに向かって歩いていた時、別の考えに思い当たった。今度は恐怖ではない。ある真実が夢から私を現実に引き戻した。この真実は茫然としている私の横面を張り倒した。これは戦争だ。敵は軍服を着ている集団ではない。彼らは何千キロも離れた壕に潜んでいるわけではなく、ジープの後ろで機関銃を前に戦闘の瞬間を狙っているのでもない。敵はここ、アメリカ合衆国、ニューヨークで私の隣に立っているのだ。それは地下鉄のプラットフォームかもしれないし、キャッシュマシーンの後ろで順番を待っている人間かもしれない。カウンターの向こうから私にコーヒーとベーグルを渡してくれる店の人間かもしれないのだ。

考えながら歩いている私を、さまざまな困惑の思いを顔に浮かべた人々が足早に追い越して行く。だが一人、道路脇に佇みこれらの成り行きを冷静に見守っている30代の中近東風の男は違った。

その男は気が転倒しているようにも、少なくとも心配しているようにも見えない。茫然自失という風でもない。感情というものが見えないのだ。ひたすら、脳みそに全てを記録しておこうとでもいうようにこれらの光景を凝視している。

混乱している人々の中にあって、彼の印象がひときわ私の心に引っかかっり、私はとたんに周囲の人間に対して警戒心を抱き始めた。この異常な喧燥と理屈では計れない状況において、今なら何が起こっても不思議ではない。次第に不安がひろがる。

しばらくそのまま進んだが群集の中にいる事にとうとう我慢ができなくなり、レオナード・ストリートを東に折れマンハッタン・ブリッジに向かった。と、角を曲がってすぐに轟くような喧燥と悲鳴がおこった。振返ると、ブロードウエイの方向から群集がもみ合い、ひしめき合い、雪崩のようにこちらに押し寄せてくる。
ニューヨークに住んで学んだ事が一つある。恐怖にかられて逃げてくる人々に遭遇したらぼんやり立ち止まって、何が起こったのか訊ねようとするな。撃たれたり、殺されたり、踏みつけられたりするだけだ。先ず一緒に逃げろ。質問は後でいい。

私は走った。不安は的中したのだ。地上への攻撃が始まったのだ。敵は街中を狙い始めたのだ。何故この事を予想できなかったのか? 警官たちは先ず現場へと駆けつける。それが警察や消防隊の仕事だ。街には交通係りのみが残されることになる。では誰が防御に当たる?敵は空からビルを二つとも破壊するほどの組織だ。地上戦に出る事など簡単にやってのけるはずだ。

私はラファイエット・ストリートにぶつかるまで走り続けた後、センター・ストリートを曲がりさらに歩き続けた。逃げ惑う人々より更に興奮した様子で人々を誘導している裁判所の係員に何が起こったのか訊ねた。ツインタワーの一つが倒壊したという。・・・これだ、なんてこった。パニックにつきものの噂。私は振返って確かめる気もせず、そのままキャナル・ストリートに向かって歩き続けた。

「墓地」と呼ばれている、新しくできた留置所の横を通り過ぎた。裁判を待つ犯罪者が監禁されている近代的な建物だ。こちらからは中の様子は解らないが、囚人達がこちらを見つめているような気がする。彼らは何を考えているのだろう?もし街で暴動が起きたり、看守が全て細菌攻撃で死んでしまったら?檻の中で彼らはどうなるのだろう?囚人達の事が頭によぎったが、そのまま進み続けた。(その4に続く)

グラウンド・ゼロに生きる ~ その1 ~
グラウンド・ゼロに生きる ~ その2 ~


グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その2 ~

2010-05-11 11:56:43 | 国際・政治
現場から6ブロックしか離れていないセンター・ストリート駅の地上に出ると、貿易センターのツインタワーがいつものように聳え立っている。隣人の建築家は間違っていなかった。ビルは衝撃に耐え得たのだ。しかし双方のビルには大きな黒い穴が口を開けている。紙片が木の葉のように辺り一面に舞っている。黒煙が吹き出し、穴を取り巻くように炎の輪が見える。

あまりにも多くの感情が一度に溢れ出て私は我を失いかけた。周囲にパニックを感じる。ー 無力感、恐怖 そして混乱。自分が真っ直ぐ立っているのかどうかも解らない。集中できない。涙が溢れそうになり、次の瞬間、地下鉄に駆け戻りブルックリンへ逃げたくなった。

妊娠している女性が、燃え上がるビルを見上げて泣き叫んでいた。顔の回りには紐のように絡まった黒髪がまとわりついている。化粧が崩れ涙が黒く染まっている。彼女は貿易センタービルの上層階で働いているが、今朝は時間通りに仕事に出る事ができなかったと言った。職場が心配で、このまま上に上がって行くべきかどうか迷っていると言いいながら、携帯電話で病欠の連絡をしようとしている。

女性は明らかに混乱していたが、私にはその気持ちが手に取るようによく解った。

何年か前、ウォール街で金融企業のデータベースデザインの会議に出席していた時のことだ。突然火災警報が鳴り響いたが会議室にいるものは誰も気に留めなかった。会議室を隔てているガラス窓の向こうでは、社員達がデスクを離れるのが見えた。走っている者もいた。しかし依然として会議室の人間は、報告書を手に私の上司の話を熱心に聞いている。会議室の向こうの部屋に煙が充満し始めたのを見て、ついに私は席を立ちドアへ向かった。上司をはじめ、その部屋の人間は、変人でも見るような視線を私に向けたが、私をは肩をすくめ、頭を振ってそこを離れたのだ。10分後会議室にいた人間たちは、咳をし、充血した目に涙をため、恥ずかしそうに顔を赤らめロビーに現れた。

今はもうこの妊婦は遅刻の事は頭にない。上層階に居る同僚に逃げ道はないのだと気がついたのだ。彼女は興奮し泣き続けている。私は彼女の手を握り締め、お腹の子の為にも気をしっかり持つようにと言った。母親が今しっかりしていないと母親の感情をすべて感じ取るお腹の子に悪影響がでる。私の言っている事が正しいと頭では理解しても、この母親にはそれを実行する術がないことは明らかだった。ひたすら、何事が起こったのか訳が解らないと泣きながら私に訴え続けるだけだ。

何事が起こったのか?私には解る。彼女から離れながら私は確信を強めた。怒りが込み上げ、体中が冷たくなる。私は武術の師である先生の事、そして彼の教えである「備え」の思想を考えていた。自分の人生や家族を脅かすものから身を守らねばならない時に備えて常に精進を怠らないという事。

「守れるチャンスはたった一度しかないかもしれない。」先生はいつもそう言っていた。

私は引ったくりや、カージャックの事を漠然と想像していたが、まさかこんな事に遭遇するとは・・・

私は貿易センターへ向かう事にした。何かできるかもしれない。(その3に続く)

グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その1 ~


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現在はNYPD(ニューヨーク市警)で犯罪データベースのシステム開発をしているジェームスだが、それ以前にはNYで様々なデータベースデザインの仕事を行っていた。後述されるが、当時貿易センターに仕事を得る機会もあり、もしその仕事を選んでいたらジェームス自身が直接の被害者になっていた可能性もあったとの事。彼にとって9.11は、一介のNY市民、NYPDの職員という意味以上、全く他人事では無かった訳だ。


グラウンド・ゼロに生きる:2001.09.11.@NY ~ その1 ~

2010-05-04 12:01:18 | 国際・政治
先日私のNY在住のメル友の一人、ジェームズとひょんな事から'01年9.11.のテロの話しになった。NYPD(ニューヨーク市警)で犯罪データベースのシステム開発をしているジェームズは、あの時正に現場で事件の中心にいた人々の内の一人で、事件の顛末を纏めた物があるので目を通して欲しい、とリポートを送って来た。ジェームズの文才もあって、あの時現場にいた者でなければ書けない迫真のリポートになっている。

今年は早いもので9.11.から9年目に当たる。未だマスコミでも折を見て検証が行われている。私は少しでも多くの日本の人々にこのリポートをお読みいただいて、あの事件の一つの側面をご理解いただきたいと想い、ジェームズ本人の許可を得て、当コラムで公開する事にした。

日本語訳はジェームズが英文原文とともに送って来た物だが、ジェームズ自身は日本語が全く分らないし、他に日本人の友人もいないと言う。幾つかタイプミスと思われる文字化けが散見されるが、日本語訳に不自然なところが殆どないので、多分自動翻訳などではなく、NYPDの組織の中で日本語が堪能な者に翻訳させた物だと想われる。文字化け部分だけを修正し、また非常に長いので数回に分けて掲載する予定。はっきり言って読んでいて気分が重くなる内容だが、非常に価値あるリポートなので是非お読みいただきたい。

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グラウンド・ゼロに生きる-追想
ジェームズ・ペルトン・ジュニア

~ その1 ~

その翌日、ポリス・プラザ1番地にあるニューヨーク市警司令部は非常体制に入った。勤務体制は通常の8時間シフトからから12時間シフトに移行する。12時間の労働、12時間の休息。

12時間の労働― 栄光も、名声も、感謝の言葉もない。回線を保持し、システムを常に作動させ、情報を監視し、要請があれば直ちに救援、助言を提供する。

私達は皆「その場」にいて、何かをしたかった。 職場の日常は全く失われた。人々は、オフィスに途切れる事なく流れるラジオのニュースを聞き、何処を向いても目に入るテレビの映像を凝視している。そして毎日自然に視界にはいり、この目で眺めていながら特に気に留めていなかった存在の、信じ難く不可解な消失のあとに立上る煙と埃を見据えている。

私は自分のデスクから、年に5千回は、ー ということは10年間にすると50万回か? ー それを目にしていたはずである。なのに、たった一日過ぎただけで、私はもうそれが正確にどこに建っていたかさえ思い出せないのだ。その事実が不安を掻き立てる。

12時間の休息 ー 家に戻り、食事をし、夜中に目を覚ます。浅い眠りと、音を消したテレビから流れる、不断の恐怖に満ちた亡霊のような映像が交互に私を襲う。何処にあるのか実感も関心もわかない遠い国で起こっている事ではない。毎日仕事へ行くときに通りすぎる場所。銀行に寄ったり、昼食をとったり、買い物をしたり、たまにぶらぶらと時間をつぶしたりした場所の映像なのだ。それは我が家同様になじんだ場所、あまりに身近な風景。

私達の世界、私達の現実。ずっと続くはずだった日常は今失われた。もう元には戻らない。


9月11日、火曜日、朝9時5分 ー 私はブルックリンの ジェラルメン・ストリートにある学校に子どもを送っていった。遅刻しそうだった。まだ学校が始まって2週間目だというのにもう悪い癖が出てきている。

学校に近づくと、人々が空を見上げているのに気がついた。何事だろう。猫が木にでも引っかかっているのだろうか?ロビーで携帯電話を耳にあて、どこかの母親が目を見開いて泣いている。全くどいつもこいつも。この旦那は自分の妻に面と向かっていやな事も言えないほど思いやりが無い男なのか。

子供たちを教室に送り外に出ると、空を見上げているいる女性に何かあったのかと訊ねた。世界貿易センタービルに飛行機が衝突したと言う。建物が視界を遮り貿易センタービルはみえないが、異様に立上る煙が視界に飛び込んできた。

私はポリス・プラザ1番地に向かうため地下鉄へ急いだ。頭のなかで思考が交錯する。一体どうして?管制塔のミスか?何処の空港からの飛行機だ?ラ・ガーディアかニューアークか?何故コースを外れたのか?視界が悪かった?自動操縦から手動に切り替えることができなかったのだろうか?いや、操縦管が壊れたのかもしれない。

映画「ダイ・ハード」のシーンがちらつく。ジェット機の操舵システムの計算が何らかの理由で狂い、パイロットが判断を誤り地上に激突した場面があった。まさか、そんなことはあるまい。最悪のことばかり頭に浮かぶ。

予想に反して地下鉄の4番と5番ラインはちゃんと動いていた。大惨事という訳ではないのだろう。プラットフォームで、やはり子供を学校へ送ってきたばかりだという建築家の隣人とばったり出会う。彼はなかなか貿易センタービルに飛行機が衝突したと言う事を信じてくれなかった。

「そういや、1945年にエンパイヤ・ステートビルにB-25が衝突して、機体がビルの横っ腹に突き刺さったままだった事があったなあ。」 彼はいった。

私達は貿易センタービルの構造を考え、今回のような事故の衝撃にもビルは充分耐えうるはずだというようなことを話し合っていた。事故・・・私達はその前提で話していた。だが、ボーリング・ストリート駅から乗ってきた女性が、震える声で新しい情報を教えてくれた。その女性は、スタッテン島からマンハッタンに渡るフェリーの上で、二つ目のビルに別の飛行機が衝突するのを目撃したというのだ。航空事故・・・ではもはやありえない。

私達の乗った地下鉄は、世界貿易センタービルのあるフルトン・ストリート駅には停車せずそのまま通過した。間違いない。事態は急速に悪化している。次の停車駅であるブルックリン・ブリッジ/センター・ストリート駅で降りる時に、隣人とどう別れたかも覚えていない。さし迫る緊迫を周囲に感じつつ、私はとにかく司令部へ向かうことにする・・・何が起こっているのか確かめなければ。人々が地下鉄の駅へと雪崩れ込んで来ている。いつもの朝の風景とは逆だ。職場の同僚二人が顔に恐怖を浮かべ足早にやって来るのを見つけた。一般市民は帰宅するよう指示されたという。しかし私はこの目で確認したかった。(その2に続く)


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ジェームズは文中、度々映画の名前を出して読者に自分のイメージを伝えようとしている。そういうジェームズの手法を借りるなら、「クローバー・フィールド」という映画があって、それは結局怪獣映画なのだが、徹底して災難に遇った市民の目線で描かれる事が、それまでの物語の語り手 ー 神 ー の目線で作られた怪獣映画と大きく違っていた。日本の報道での9.11.のテロの描写は、ある意味昔の怪獣映画的な視点の物が殆どだったが、NYPDの一員でNYの一市民でもあるジェームズの語り口は、「クローバー・フィールド」と同質のリアルさを読者に追体験させる。私が日本の方々に一読の価値があるとお勧めする理由の一つはそこにある。

今後シアトルが移動日休みの日に続きを掲載する予定。


Ain't no mountain high enough

2008-11-06 04:13:31 | 国際・政治
私が初めて訪米した1993年はロサンゼルスで所謂ロス暴動が起きた翌年だった。日本はバブル円高で海外旅行には良い時期だったが、アメリカの景気は最低に落ち込んでいて街にホームレスが溢れていた。

訪米時、定宿にしているロサンゼルス郊外、サウスベイ地区からレンタカーでウェスタン・アヴェニューを北上、ロサンゼルス中心街に向かうと嫌でも黒人居住地区を通る。ロサンゼルス郊外の電柱は杉の木に腐り止めの黒いタールを塗った物だが、それが通りの両端にずっと並んでいる。郊外から黒人居住地区に入るとその電柱に変化がある事に気づく。何か白い斑点のようなものが付いていて、それが黒人居住地区中心に近着けば近着く程多くなっていき、やがて人の手が届く範囲は真っ白になる。信号停車で止まったところで白い物の正体を確認するとそれはガムのカスだった。何十年もガムのカスを貼り続けられてそういう風になってしまったのだ。何と言う公共心の欠如だろう。日本では考えられない事だ。でもそれは実はそこに住む人々が、政府から、社会からそういう仕打ちを受けてきた事の裏返しなのだ。

そして焼けただれた暴動の残骸の街を見た。その時既にロス暴動が起きてから1年以上過ぎていたが、車上から通りを眺めただけでもまだ焼け跡が多数残っていた。世界最高の経済大国は実はほんの少しの間違いも許されない非常に繊細なバランスの上に成り立っている事を思い知らされた。

私はアメリカ黒人の友人から一晩中訥々と彼の生立ちとルーツを説明された事がある。アメリカ人は自身のルーツを語る事が好きだ。否、好き嫌いではなく多民族国家のアメリカでは自身のアイデンティティの根拠として、それは日本人には想像もつかないくらい大事な事なのだ。私はジャズやR&B、ブルーズのようなアメリカの黒人音楽が好きだ。そしてそれを自分の根拠のように愛していた。そういう態度を示せば彼らもそれを受け入れてくれるだろうと思っていた。しかし彼の言葉には「お前達には絶対解るはずがない」という意図が節々に見え隠れしていた。

アメリカの大統領になると言う事は、三軍の最高司令官になるという事だ。かつて太平洋戦争でもベトナム戦争でも白人大統領の元で最前線に立つのは黒人だった。だからといって今度はイラクで、アフガンで白人が矢面に立たされるという事はないだろう。昨日栄冠を勝ち取った君は言うだろう。「黒人でも白人でもヒスパニックでもアジア系でもなく・・・」と、でもそれでもそれが保守的な人達には我慢のならない事になるかもしれない。

おめでとう、バラク・オバマ、私達の世代は君のおかげで生きている間に絶対あり得ないと思っていた瞬間に立ち会えた。きっと今のアメリカでは Ain't no mountain high enough と言う事なのだろう。