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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 告発者

 このページの画像は、故あって表示されませんが、

連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、

別途、新しく作り直すことにしました。

 同じ内容ですが、画像はその限りではありません。

  新たなページは、

 『ダ・ヴィンチの罠 告発者(改)』です。

 (以下、本文)

 

 「容姿良し、頭脳良し、人格良し」
の三拍子そろった完璧なる人間をひとり
だけ挙げろ、と問われたならば、

       
      (完璧な人間ねえ・・・)

 アナタには誰の顔や名前が浮かびますか

       

 歴史上に偉人や英雄の名多しと言えども、
完璧なる人間となると ・・・

 おいそれとは出てきませんよね。

 つまるところ、

 仏陀(ブッダ)とか、イエス・キリストだとか、
ムハンマドというように、それぞれの宗教観
や信仰の拠りどころとされている人物たちに
白羽の矢を立てるより仕様がアリマセン。

 「顔良し、頭良し、性格悪し」
の人間ならば、レオナルド・ダ・ヴィンチの名
パッ脳裏に閃くのですがねえ ・・・

   

 いえいえ、誤解のなきように言っておくと

 この場合の「悪」とは悪源太(源義平)
に代表される強さや猛々しさを表現している
わけで、強くて頑固な性格や挑戦的な気質、

 すなわち、

 気質から作られる行動や意欲の傾向などを
性格と称しておりますが、それに社会的な面、
もしくは論理的・倫理的な側面や内容を加味
したものを総称して人格と申します。

 従いまして、「人格良し」となる人物と
なると容易ならざるわけで、


     『復活』を果たしたイエス

 畢竟するに、聖人君子に言うところの
「聖人」に行き着くことになるわけです。

 ところで、

 悪源太(源義平)は平安末期の宮廷社会で
軍事貴族として頭角を現しつつあった源義朝
の長男でしたが、次弟(朝長)や三男であった
源頼朝(鎌倉幕府初代将軍)などとは違い
官位を授かったという記録は残っていません。

 これには生母出自、いわゆる身分
が大きく関与していたと見られ、庶子であった
ダ・ヴィンチと相通じるものがあるようですが、

 源義平は、平清盛の命令により1160年京都
六条河原で斬首(享年20)されています。

     

 こちらは、何だか洗礼者聖ヨハネのようでも
ありますが ・・・




 ダ・ヴィンチはイエスが、メシアとして
存在に知らしめるためにユダ
いう名のひとりの弟子を見込んで悪役
仕立て上げ、裏切者汚名を着せて、
生贄として捧げたものと考えていました。


 出典:www.lets-bible.com 出典:shanti-phuia.net

 そして、それより以前にも同様に生贄
された人物がいたのですが、

 それが洗礼者聖ヨハネです

  
『洗礼者ヨハネ』 ボッチチェッリ 『キリストの洗礼』部分 ヴェロッキオ

 これって、完全に、
     
       
      (印象操作でしょ)

 さて、

 『最後の晩餐』(ヤコポ・バッサーノ)
における大皿に乗った丸焼きにされた

   
      『最後の晩餐』中央部

 子羊片足ですが ・・・

   

 キリストの最後の晩餐での場面を題材に
選んだにしては、大皿に盛られた料理
子羊の頭と片方の足先だけとは、如何にも
奇妙グロテスクです。

 この挑むには大胆仮説
基づく推理飛躍必要でしょう。

 ヤコポ・バッサーノは1510年頃の生まれで
1592年まで長生きしていますが、彼の生涯
において 故郷のバッサーノ・デル・グラッパ
を出たのはわずかに2回とされています。

 1回目は 1533年のヴェネツィアの高名な
ボニファーツィオ・デ・ピターティの工房での
短期滞在と2回目が 1577年のヴェネツィア
の元首であるセバスティアーノ・ヴェニエル
の肖像画制作のための滞在のみで、後は
故郷から一歩も外に出なかった引きこもり
の画家であったようですが、


    ヤコポ・バッサーノの肖像

 この1回目のヴェネツィア短期滞在の折
に足を延ばしてミラノにあるダ・ヴィンチの
『最後の晩餐』を見に行ったのでは
ないかと推理したわけです。

 symbol2 ヴェネツィアを出てミラノに赴いた際に、

 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院を
訪れたヤコポ・バッサーノが、ダ・ヴィンチの
『最後の晩餐』を鑑賞したとします。

 彼はユダとされる人物が他の使徒たち
と同列に配置(遇)されていることにきを
覚えたのと同時に、この銭袋を握る人物が



 本当にユダなのであろうかという疑念
に駆られたのではないかと考えました。

 ひょっとして、このユダなるモデル
ダ・ヴィンチ自身の姿ではなかろうかと ・・・



 その疑念が『エマオの晩餐』
での座った姿勢で身じろぎひとつしない猫

  
       『エマオの晩餐』Ⓑ
  up
 の姿にも見える曖昧な子犬の描写の中に
暗示されていると思えてならないのですが、

   
      『エマオの晩餐』Ⓑ 犬

 それと言うのも、

 ダ・ヴィンチが、アンボワーズ城(フランス)
で息を引き取る際に、猫のように生きようと
したが、実は犬でしかなかった自分の一生
を振り返り心から自戒と後悔の念を込めて

 「ああ、神よ、お許しください」

 とばかりに自らの教会への態度を懺悔
したというような話も伝わっていますが、


 『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』メナジョ画1781年

 ダ・ヴィンチが死の床にあったのは、確か
クルーの館であったはずですので ・・・

 確証は持てませんが、それは、あたかも、

 ダ・ヴィンチが、フランソワ1世の腕のなか
で息を引き取ったかのような伝説に尾ひれ
がついての話だったのではないでしょうか。



 ちなみに、



 19世紀のフランスの画家アングルによる
『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』
(1818年制作 パリ、プティ・パレ美術館蔵)
が、その時の場面を描写していますが、



 ヴァザーリらの伝説どおりに白いヒゲを
たくわえたダ・ヴィンチがフランソワ1世の
腕に抱かれて永遠の眠りにつくシーンが
舞台劇のように展開されています。



 要するに、

 こうしたにインスパイアされた結果、
構想されたヤコポ・バッサーノの作品が、


  『エマオの晩餐』Ⓐ ヤコポ・バッサーノ画

 2種類の『エマオの晩餐』ⒶⒷと


  『エマオの晩餐』Ⓑ ヤコポ・バッサーノ画

 その後に制作した『最後の晩餐』
での無礼講のような情景(構図)であって、


  『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画

 そこに忠実なる僕(しもべ)としての犬と
邪悪なる悪魔(サタン)の使いとしての猫
を紛らわしいポジションチェンジにおいて
対比させるが如くに登場させた理由が
あるではないかと考えた次第なのです。

    
      『エマオの晩餐』Ⓐ 猫
   
      『エマオの晩餐』Ⓑ 犬

 ヤコポ・バッサーノはダ・ヴィンチが描いた
『最後の晩餐』を見て、顔と手だけの
登場のトマスに一計を案じます。

      

 ヘロデ・アンティパスによって斬首された
洗礼者ヨハネメタファ(暗喩)が


 『洗礼者ヨハネの斬首』 カラヴァッジョ 1608年

 そこに隠されていたとするならば、

 

 「あなたがたのうちの一人
   わたしを裏切るでしょう」


        

 つまり、それは、トマス暗示される
洗礼者聖ヨハネ告白 ・・・

   
   『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年

 もっと言ってしまえば、

 ユダ仮託されたダ・ヴィンチ自身の
苦悩とトマスおよび大ヤコブに暗示
される聖ヨハネ告発 ・・・

 この壁画は

 虚構に彩られたイエス・キリスト
聖母マリアの大罪(カトリックの陰謀)
糾弾するものではなかろうかと 

 そのように想像(解釈)したと仮定すると、

  

 大皿に盛られた子羊の頭に片っ方の足の
意味とダ・ヴィンチの『最後の晩餐』
での首から上だけの付け足しの如き登場と
なったトマスの人差し指の氷解
することになるわけです。

 尤も、

 ヤコポ・バッサーノがイエスや聖母マリアを
そのように見ていたかどうかは別の問題で、



 おそらく彼はイエスにも聖母マリアにも帰依
していたものと推察されます。

 ヤコポ・バッサーノには聖書のエピソードを
テーマにした作品が多く、


     『マギの礼拝』 1555年
    
   『マギの礼拝』 1567-1569年
    
   『マギの礼拝』 1575-1580年

 地元(バッサーノ・デル・グラッパ)の風物が
お得意の動物たちとともに描かれていて、

    
 『ノアの箱舟に入る動物たち』 1570年
(The Entry of the Animals into Noah's Ark)

 その構図の美しさゆえに当時から定評が
あったようですが、それにしては彼の描いた
『最後の晩餐』は他の聖書の物語の
なかでも異質で構図的にも煩雑です。

 この中には、ヤコポ・バッサーノにとっての
ユダが確実に存在しているのと同時に
複数のユダ存在も臭わせています。




 ダ・ヴィンチにとってのユダ「罠」
告発者であり、同志でもありましたが、




 ヤコポ・バッサーノにとっての「ユダ」
めた存在であったというわけで、

 そこには、ある種の同系とも言える意思が
働いていたということです。

 どういうことかと言えば、

 ヤコポ・バッサーノもダ・ヴィンチと類似する
シンパシーユダに抱いていたようで
、好意的ではないとしても悪意のある感情は
持ち合わせていなかったものと思われます。

 ユダに対して、ダ・ヴィンチのみならずに
ヤコポ・バッサーノも何らかの共感を胸に
抱いていたことは、裏切りを強調し非難する
描き方をしていないことからもわかりますが、

 そうした意味からも彼の

 『最後の晩餐』におけるユダは、


   『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画

 一般的にはテーブルの手前右側に座る男
であるとされ、その根拠となっているのが、

  

 褐色の肌に黒髪・黒髭で、左手に銭袋を
隠し持っている点と足もとからジッとこちら
を覗き見る猫の存在です。

    

 この当時(中世からルネサンス期には)、
猫は悪魔の使いであるとされ、人間の罪
や悪徳の象徴として、カトリック教会から
は忌み嫌われていた存在であり、

    

 15世紀~18世紀のヨーロッパで盛んに
行われていた魔女狩りにおいても、猫は
悪魔の手先で魔女が変身した動物として
殺戮の対象にされていました。

 そこで、

 裏切者を表現する方法としてユダ
の近くに配置することがユダ
特定する根拠のひとつだったわけですが、



 それにしても、ヤコポ・バッサーノの描く
『エマオの晩餐』ⒶⒷでの犬と猫
を逆転させる配置の関係や思惑 ・・・

    
      『エマオの晩餐』Ⓐ 猫
   
      『エマオの晩餐』Ⓑ 犬

 そして、

 『最後の晩餐』における犬と猫の
位置関係は何を意図しているのでしょう

     

 彼は動物好きで当時の画家には珍しく
動物が登場する絵を数多く制作していて、


 『最後の晩餐』の猫と『エマオの晩餐』Ⓑの猫

 動物画の先駆者的とも言える存在なの
ですが、猫が主役の絵を知りません。

  
  『ノアの箱舟に入る動物たち』 1570年
 (The Entry of the Animals into Noah's Ark)

  
  『ノアの箱舟に入る動物たち』(部分)

 それに引き換え、犬はと言うと、


 『二匹の猟犬(Two Hunting Dogs)』 1548年

 『二匹の猟犬』をはじめ、ポインター系の
犬が至るところに登場していることからも
犬好き(犬派)の画家であると思われます。

 『ダ・ヴインチの罠 犬と猫』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/525.html

 でも触れたように、

 そこにが登場してくる意味
複数ユダ存在示唆する
意図カギがありそうですが、

 ヤコポ・バッサーノの息子レアンドロの
同名の作品にそのヒント(答え)らしき
ものが潜んでいます。

 また、その他にもヤコポ・バッサーノは、

  

 『エマオの晩餐』Ⓑ において、


  『エマオの晩餐』Ⓑ ヤコポ・バッサーノ画

 猫としてのダ・ヴィンチにして告発者
たる子犬の側にいる弟子の頭上で光る
光輪を細く薄く背景に溶け込むような金色
で描いているのですが、

 果たして、光輪があるのか ないのか

 光輪を表わすのであれば白系(銀色)の
絵の具を使えばそんな紛らわしいことには
ならないわけで、

 ここにも

 その意図に大きなはてなマークが、

  

 つまり、

 疑問符が付いてしまうのですが ・・・

 紙面の都合上、それらの解説について
は次回とさせていただきます。

   
      『エマオの晩餐』Ⓑ 犬

 こいつが

 「猫にしてユダにして、告発者たる
     ダ・ヴィンチなのか

  

 こりゃあ、

 「The Pinch(ザ・ピンチ)だわん
     あれれっ、にゃんかな

     
      (しょうもな ・・・)



 
   エマオに向かうイエスと弟子たち





  【洗礼者聖ヨハネの首とサロメの物語】 


 「解剖して分かったことだが、
 人間は死ぬように出来ている」


     (レオナルド・ダ・ヴィンチ) 

ここ大事ですよ

   ・・・ って、おいおい ase2



   
   『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年

 … to be continue !!

コメント一覧

むらさき納言
意図はともかく、罠の構造までは理解できないと思うけど。
おじゃま虫
バッサーノ親子は、「ダ・ヴィンチの意図や罠の構造を理解して、彼らなりの『最後の晩餐』をそれぞれに描いた」ってことですか!?
やぶにらみ
今にして思えば、結局、「猫にしてユダにして、告発者たるダ・ヴィンチ」とは、ヨハネ・キリスト説の伏線だったわけですな!

大皿に乗った子羊の頭と片方の手足は「最後の晩餐」でのトマスに仮託した暗喩であり、斬首となった洗礼者ヨハネのメタファということですかな!?
ゴスペル999
まあまあ、そうイキリ立たんでも・・・

はやし浩司はんは、はやし浩司はんや、そういう考え方があってもええやろ!

それよか、やけに更新されんけど、てこずってはるんかな?

もう大晦日やでぇ・・・
むらさき納言
少々、異議ありです! 納得できません。

確かに、はやし浩司さんの動画には驚かされましたし、初期の考察には目を見張るものが沢山ありましたが、ダ・ヴィンチやミケランジェロを操り芸術家とか1500年後のイエスキリストと言いだしてからは、何をかいわんやです。
自説を精査したとか証明したとか、連呼していますが、自分勝手に「私、はやし浩司がそう判断した」というだけのことで、まったくもって精査も証明もされていません。

独断による我田引水や牽強付会の塊ですが、その発想のユニークさと逞しい想像力には敬服しています。

デッキブラシさんが静岡の人なら、富士山も駿河湾も静岡県の東部にあるのはご存知でしょう。

西部にあるのは遠州灘か浜名湖ですよ!
デッキブラシ
いやあ、バレちまったか!

てか、以前に静岡人だってコメントしたような・・・

それにしても、西(浜松)には、はやし浩司が、東(沼津)には透明人間2号さんがいるなんて、やっぱ、だもんで、静岡県に日本一高い富士山と日本一深い駿河湾があるわけだわ。

なっとく、なっとく・・・
透明人間2号
バッチですか! 懐かしい響きですね。

小生、35歳から15年程、清水市(現静岡市清水区)に住んでいましたので、バッチの意味が手をつけるとかリザーブするという意味であることはわかりますが、静岡の東部(沼津市周辺)では使いません。

デッキブラシさんは静岡の中部在住(清水周辺)の方なのでしょうね!?
ゴスペル999
ドイル君、デッキブラシはんは後光をハローだとは認識してないとちゃうかな?

それと「バッチ」やけど、「バッチ来い」やなんや、いろいろ調べてみたんやけど、静岡辺りの方言にあるらしいんや!

何でも、「唾をつける」「予約する」みたいな意味らしいで!
江戸川ドイル
ユニークな発想とは思うが、中央の人物の頭に後光がある以上、その説は成立しないと思うよ!

それより、「バッチ」ってどういう意味だろう?

バッチ処理のバッチですか? 束ねて収束して処理しておきますみたいな感じかな?
デッキブラシ
これだよ。これっ! これをずっと待ってたんだよ。

誰かが俺の推理の穴を埋めてくれるのを・・・

形勢が不利っぽかったから、ここ1か月ほど沈黙してたけど、手前右の男を指さすような緑の服の白髭の男の左手を、「鑑賞者はどう思うだろうか?」と一蹴した江戸川ケイシ氏の慧眼に脱帽しつつ、それを言われたのが痛いとする2号さんの言葉に勇気づけれれる思いで、バッチしときます。

ユダは中央のイエスらしき男で、本当のイエスは緑の服の白髭の男、手前右の男はユダから会計係を代わったフィリポかマタイということでバッチ完了。
透明人間2号
最新の『ピエタ』が、何とか間に合いました。

ココナンさんの質問に誰かが答えてしまうと、またまた変更なんてことになりはしないかと思うと、ヒヤヒヤして、焦るは端折るはで、ツギハギだらけですが、ココナンさんへの答えもありますので、是非読んでください。

他の皆さんもスルーしないでくださいね。
ココナン
なんだか、みんなでスルーし始めちゃった感じですが、

ドイルさんがわかったとして、「貪欲と邪悪VS忠誠と信仰」とコメントしたら、それはルーベンスの犬の場合で、『エマオの晩餐』での犬と猫は別だとする、むらさき納言さんの件と、

もうひとつのルーベンスの犬って『エマオの晩餐』での左下でうずくまって、こちらを見ているオオカミのような顔をした犬のことですか?

あと、ルーベンスの犬とフランダースの犬との関連性では、最終回でネロがルーベンスの絵を見るのは知ってるけど、

いまいちピンと来ないんですが・・・
透明人間2号
ごめんなさい🙇

更新が大幅に遅れていることを、まずはお詫びいたします。

野暮用や雑務に追われていることも事実ですが、それ以上にコメント欄での展開に困惑しています。

本来ならば、『エマオの晩餐』での犬と猫と『最後の晩餐』との関わりなどからの解説が本筋なのですが、

フランチェスコ・バッサーノやルーベンスの『最後の晩餐』をはじめ、『フランダースの犬』までも見抜かれているようで、何とも書きづらいので、内容を変更して切り口を変えてみようと思っています。

『疑似餌』での聖アンナの指にも興味が尽きないわけですが、ヤコポ・バッサーノの『最後の晩餐』でのユダ探しに絡んで、「鑑賞者はこの指を見て、どう思うか?」を言われてしまったのは痛いですね。

なお、ティツィアーノの『三世代の寓意』は、このシリーズの内容とは無関係で、洗礼者聖ヨハネとも裏切りとも関連がありませんが、
それにしても面白いものがあるものです。

決して、スルーしているわけではないので、更新については、今しばらくお待ちください。
江戸川ドイル
スルースルーって、めっちゃスルーが流行ってるけど、

まさか、2号さんもスルーしてんじゃないでしょうね!
むらさき納言
満を持しての登場でしょうか。

スルーされ 嗚呼スルーされ スルーされ
     スルーさせても スルーせしまじ

不明不詳さん、こんな返歌はいかがでしょう!?
不明不詳
スルーする シースルーは スケルトン
    見えたと思えば 骨ばかりかな

(詠み人知れず)
江戸川ドイル
フランチェスコの犬と猫って、ゴスペル氏まで謎かけですか?

それとも、〇〇〇の戦い?

ココナン君、黙って、ポヨヨンちゃんの指にとまろうぜ!

多分、これもポヨヨンちゃんからのメッセージだと思うよ。

「この指とまれ」って、スルーの反対だからね(^_-)
ココナン
何かと気に掛けてくださっているようで、😂
むらさき納言さんもポヨヨンさんもありがとうございます。

どんな意図かは知りませんが、ずっとスルーしてたんですね。

でも、何でそんなことを言うのですか?

スルーしてたとしても、わざわざバラす必要なんてないはずだし、
「ポヨヨンさんじゃありませんよ」って、それだけでよかったのに・・・

それとも、みのるさんには無視しなければならない特別な理由でもあるのですか?

もし、むらさき納言さんが進言してくれなかったら、今でも、まだスルーしてたのですか?

これもまた、スルーされちゃうのかな?
ポヨヨン
どっちが犬で、どっちが猫でも
「この指と~まれ」・・・ ネッ。

ココナン!( ^ω^)
ゴスペル999
誰とは言わんし、なんとなくやけど、険悪なムードやな。

「夫婦喧嘩は犬も食わん」が、こりゃ、猫も食わんわ!

フランチェスコの犬と猫かいな!?
むらさき納言
ココナンくんからのコメントがないのが気になりますが、返答には感謝します。

この記事関連ではないので、後日、『疑似餌』の方でコメントしますが、「犬、オオカミ、ライオン」のアレゴリーは聖ヨハネとは、まったくの無関係だと思います。
みのる
むらさき納言さんの誠意には答えたいと思います。

最初のココナンさんの質問は想定内。
ポヨヨンさんが、否定するかとみてましたが、次のコメントでスルーされてたのは、ちょっと驚きです。その後は単に訪問していなかっただけか、何か意図があってスルーしてたかはポヨヨンさんのみぞ知るです。

自分は、ずっと見てて、スルーしていました。
その意図は「内緒」です。

ココナンくん、ドイルさん、
ポヨヨンさんと自分は、全く別人です。
ポヨヨンというハンドルネームにも心当たりはありません。

ポヨヨンさんのミステリアスなイメージと、これまでの数々のコメントに乗じて真似ただけです。

あと「犬 オオカミ ライオン アレゴリー」とまとめて検索してみてください。動物の順番はちがってるけど、これを応用したものだと思いますよ。
洗礼者ヨハネとの裏切りの繋がりはまだ判ってません。

こちらのブログは、いつも見てますよ~♪
アスタ・ラ・ビスタ!
むらさき納言
ドイルさんの言う「貪欲と邪悪VS忠誠と信仰」という部分ですが、それはルーベンスの犬の場合で、バッサーノ親子の犬と猫の場合には「嫉妬と怠惰&傲慢と強欲」を婉曲に、かつ、決して、悪い意味ではなく暗示させているように感じます。

みのるさん、2号さんのOKが出ていますので、自己判断で続けますが・・・

もちろん、『最後の晩餐』では猫が犬を誘惑しようとしているわけで、それはエデンの園での出来事のリメイクであって、究極のオマージュなのです。

つまり、犬が人間(アダムとイヴ以降の人類)で、猫がサタン(蛇)という図式です。

『エマオの晩餐』ⒶⒷでの配置の転換は肝の部分に抵触すると思われますので、ここまでで了承してください。

なお、私は別人だと思いますが、『疑似餌』でのココナンくんの質問に答えてやってください。
江戸川ドイル
「ポヨヨン=みのる」説が出ているけど違うよね!

ポヨヨンちゃんがパトラッシュをイメージしてつぶやきを寄せたとすれば、2号さんの言うもい1枚のルーベンスの絵に出てくる犬とのギャップの意味がわかったよ。

つまり、貪欲と邪悪VS忠誠と信仰だよね。
ポヨヨン
元気だよー( ^ω^)
江戸川ドイル
謝られる理由がよくわからないんだけど、何かありましたっけ?

それはそれとして、ポヨヨンちゃん、ずっと音沙汰ないけど、どうしたんだろう?
みのる
確かにケイシさんのおっしゃる通りです。
やっぱ、ムキになってたよね。

むらさき納言さん、ドイルさんも
ごめんなさいね。
これからも、遠慮無く応対していただければありがたいです。

これまでのコメントは、まあこういった見方もあるという参考程度ってことで、流しちゃってください。

もっと、まったりと楽しみたいと思います。
ポヨヨンちゃんを見習って、かわいくやってみようかな・・・。
江戸川ケイシ
余計なお世話ですが、みのるさんは一定の「解」を求めすぎるきらいが強すぎる気がします。

ゴスペルさんの言うように、ここにコメントを寄せる皆さんは、異端的でもあり、マイノリティだし、固定概念に縛られないような自由な発想が持ち味の人々が多いように思うのです。

言ってみれば、ユダは誰か?ではなく、ユダは何処?に反応するタイプの人々です。

ですから、場合によっては学業成績は必ずしも優秀ではないかもしれませんが、独創的でユニークな頭脳の持ち主たちだと思われます。

たとえば、ユダは何処?にしても、おそらくは正解を求めているのではなく、自分が想定したユダの位置が、なるほど・・・ そうとも言えるねって認めてもらえれば満足なのだと思うし、それが2号さんの想定と一緒だと、ラッキーと言った程度の、トランプゲームの神経衰弱や和歌の貝合わせみたいな乗りだと思うのです。

ユダなる人物を指し示すとされる指の件ですが、「あいつ、銭袋を隠し持っているぜ」とか、「この指を見たら鑑賞者はアイツがユダだと思うだろうな」とか・・・
いろいろと違う切り口も考えられます。

みのるさんも、もっと肩の力を抜いて、推理を楽しみましょうよ!
透明人間2号
むらさき納言さん、お気遣いはありがたいですが、無用ですよ。
忖度とか斟酌とか、流行語大賞のノミネートではないので、あまり気にしないでください。

皆さんの判断にお任せします。

止めて欲しいと感じた時にはこちらから思いっきりストップをかけますので ・・・

誰かが言っていたように、皆さんのコメントにインスパイアされたり、新しいイマジネーションやアイデアが生まれたりすることもありますので遠慮のない意見交換をどうぞ!
みのる
これまでの記事の伏線、布石からみて、むらさき納言さんの推理とかなり近いってことですね。
それは今後の展開があるのでまだ控えたいとい
うのでしたら了解です。

むらさき納言さんの推理の土台には、2号さんのこれまでの伏線、布石があるわけで、それはおそらく最近のバッサーノに関する記事だけでなく、ゴスペルさんが言う、「このシリーズ」が始まった当初からここまでに至る布石の積み重ねもあるんだろうな~って思いました。
むらさき納言さん、ありがとうございました。

今後のためにも言っておきますが、自分の解釈に対しての皆さんのご意見は、とても貴重です。反論されたからといって逆ギレなんてすることはありません。

これからも何か質問があれば、気軽に聞いていただいて大丈夫です。画像を探したり、知ってること、解釈といったものも、質問されればできる範囲でお答えします。

ただ解釈に関しては、「自分(みのる)の解釈」でしかありませんので、そこはご理解ください。2号さんとの違いを突かれても、ちょっと困ります。
むらさき納言
『エマオの晩餐』については、この記事でもそうですが、以前より2号さんはいくつもの伏線を張り、布石を打っています。

この記事で言えば、「ユダなるモデルはダ・ヴィンチ自身の姿ではなかろうかと・・・」
そして、「その疑念が『エマオの晩餐』Ⓑでの猫にも見える曖昧な子犬の描写の中に暗示されている」という箇所です。

おそらくは、まったく同じではないけれど、かなり近い推理というか、考え方が出来ていると自負しているのですが、それは言ってはいけないことだと思っています。

たとえば、少し的外れな見解を述べたとしても、それが内容次第では今後の展開に悪影響を及ぼさないとも限りません。

2号さんは2枚の絵にある犬のギャップに着目したというだけで、まだルーベンスの絵の中の犬については、一言も語っていません。

なのに、前回の返答ではルーベンスの犬について触れてしまいました。

そのことについては何のコメントもありませんが、苦々しく感じているのかもしれませんよね。

今後の皆さんのコメント次第では更新に遅れが出る可能性がありますので、お含みおきください。

という言葉に「忖度してよね」という気持ちがあらわれていると思えるのですが・・・
みのる
むらさき納言さん、
お返事ありがとうございます。

簡略しますが、バッサーノ兄弟の猫は、悪魔(サタン)の側、犬を誘惑しようと試みる者の象徴ということで、
犬は貪欲で誘惑に左右されやすい不完全な生き物だけど、忠実で忠誠心(信仰心)のある動物として人間の危うさのメタファということですね。

できれば、その前のコメントの
「親子で逆になることにも、『エマオの晩餐』での犬と猫の配置の違いも、私の中ではつながる」といった点も教えていただけるとありがたいです。お時間のある時に、いつでも構いません。

ゴスペルさん、
犬と猫が、ケンカしてるのかじゃれてるのか、どっちにでも見ようによって見えます。他の犬猫もそう。ドイルさんや、むらさき納言さんのように見ることもできます。また、ルーベンスの足が犬を踏んでるのか踏んでないのかというのもそう。

「無礼講」の記事の、ユダは誰か?という中で、右後方の緑の服を着た人の指がユダを指してると指摘した時に、ケイシさんが別の解釈はないかとして「指を痛めちゃったよ」と、違った見方をコメントされましたが、このように違う見方を考えられたことは良いことで、あとはその見方を納得させるだけの根拠や説明ができればいいのです。

今回の自分の解釈は、まだまだ皆さんを納得させるだけの根拠がなかっただけです。
ゴスペル999
う~ん。 そう来たか! ひょっとすると、今頃、2号氏は頭を抱えているかもしれんな?

みのる氏の主張が翻ることはないし、むらさきはんたちの考えも変わる気配なしや。

みのる氏に肩入れしたいところやけど、いらんお世話やろし・・・

でもまあ、ちょっとだけ言うと、カラッチの「最後の晩餐」での犬は猫に咬みつかんばかりやし、猫も牙をむいているようにも見える。

せやけど、じゃれ合う場合でも見られる光景やから何とも言えへんな。

犬の傍に大きな骨があって、猫がそれを狙うから威嚇・牽制して組み付いたのかも知れんし、余計な先入観なしに見ても、ケンカにもじゃれ合う姿にも見えるから厄介や。
むらさき納言
あくまでも、私の中では、それらがつながっているというだけのことですが、

まず、「この犬が邪悪なる象徴なら」とは、犬が骨を咥えているからで、それはルーベンスの犬のことです。

この絵で中央のイエスが持つパンが肉であり、ワインが血であり、食卓の下で犬が咥えているのが犠牲の証としての骨です。

次に、その前提でバッサーノ兄弟の犬を見た時に、レアンドロの犬は、おすわりをして「待て」の状態で、ご褒美の骨はもらえていません。
猫はそのことが気になっているのかもしれませんね。

ところが、フランチェスコの犬は、それをもらって食べています。
但し、この骨はルーベンスの犬が咥える骨とは根本的に違います。
猫にはそれが気に入らないようで口をつけていません・・・

つまり、犬は貪欲で誘惑に左右されやすい不完全な生き物だけど、忠実で忠誠心(信仰心)のある動物として人間の危うさのメタファなのです。

猫は生来の自由さから聖書の神に縛られないという意味でも悪魔(サタン)の側であり、ダ・ヴィンチの言うように「最高傑作」なのです。

ですから、バッサーノ兄弟の猫は犬を誘惑しようと試みる者の象徴で、それはヤコポ・バッサーノからの伝統的な考え方だと思っています。

こんなところでよろしいですか?
みのる
ココナンさん、
言葉足らずで勘違いさせたようですみません。
PPRを見つけたかもという喜びで興奮しておりました。

むらさき納言さん、
犬と猫も、人によっていろんな見方があるのですから、気にしないでください。

自分も質問したいのですが、バッサーノ兄弟の「最後の晩餐」でのユダの側にいる犬が邪悪の象徴とした場合、猫は何になるのでしょうか?
むらさき納言
ココナンくんと同じで、この犬が邪悪なる象徴なら、バッサーノ兄弟の『最後の晩餐』でのユダとされる男の方に犬がいる意味も理解できるし、それが親子で逆になることにも、『エマオの晩餐』での犬と猫の配置の違いも、私の中ではつながるのですが・・・

ごめんなさい。 みのるさんの労作コメントに報いることはとても出来そうにありません。

ご案内の絵に登場する犬と猫の様子には特筆すべきものはなく、犬が猫を押さえつけているさまも口をあけて咬みついているわけでもなんでもなく、2匹や3匹でじゃれ合っているようにしか見えません。

大体において、猫が犬を下にして押さえ込んでいたら事件でしょう。

でも、色々と知らない絵画を見せていただき、「最後の晩餐」の絵に犬と猫がこんなに登場しているのには驚きましたし、とても参考になりました。

ありがとうございました。
ココナン
なあ~んだ! ワンワンと吠えられないということですか。

「ワンワンと(なるように)出来ない」のか?
どばかり思っていたので、意味不明ですごく気になっていました。

むらさき納言さんも間違って読んでいたようですし、

「ワンワンと吠えないのですか?」だったら誰も勘違いしなかったのにね!

句読点を打つとかでもよかったかもしれませんが・・・

でも。やっぱ僕は、この犬が咥えている骨は邪悪なる者にとってのご褒美だと思います。
透明人間2号
いつもながら、みのるさんの解説には舌を巻きます。
ただ、その解釈においてはゴスペル999さんのご指摘のように、正反対に近いのかもしれません。
数々の画像まで添付(提供)していただき恐縮です。

ルーベンスの件も方向性が違いますし、着目点にも相違がありますので気にしないでください。
ただ、今後の皆さんのコメントの内容次第では更新に遅れが出る可能性がありますので、お含みおきください。
みのる
ここからルーベンスです。

ルーベンス 最後の晩餐(1631-32年) 
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4d/Peter_Paul_Rubens_-_Last_Supper_-_WGA20255.jpg

ルーベンスの「最後の晩餐」は、裏切り者のユダの足の間に、骨を加えた犬の顔がみえています。骨を口でくわえているので、バウワウと威嚇することは出来ません。

だから、「PPRってワンワンと出来ないのですか?」と2号さんに伺ったのです。

他の画家の作品では見ない表現だったので面白いと思いました。

あとでウィキペディアをみたら、「ユダの足元の犬は、おそらく単なるペットである」とか「ユダの飼い犬でヨハネ13:27にあるように、貪欲ないし邪悪を表象しているのではないかという」などと記載されていたので、なおさらです。
一般的にはウィキペディアの説なのでしょうが、それを鵜呑みにはしたくない。聖書には、ユダに犬がいたなどといった記述もどこにもありませんし。

自分の解釈はこうです。

ルーベンスの「最後の晩餐」の犬は、ユダの飼い犬ではなく、他の絵と同じ神側の犬ですが、この犬は骨の誘惑に負けたのです。猫は描かれていませんが、魔が入ったユダは犬を押さえつける。これは「犬(神側)が悪魔側に負ける」具体的な表現とみえるのです。

教会対策として、ルーベンスはヴェネローゼのように、何かしらの言い訳は考えていたでしょう。ユダが足を組み、踏んでるのか、踏んでないのかどちらにも見える微妙な感じなのも、「犬は踏んでませんよ!足、あがってるでしょう?」と言えるからかと。

ルーベンスの「最後の晩餐」に関しては以上です。

自分に質問があったので、自分の解釈、知っていることをできるだけ判りやすいようにと長々と書いてしまいましたが、それをここで推し通したいのではありません。

それより自分とは違った発想や解釈が聞きたい方です。
此度の皆さんのご感想はありがたく頂戴していきます。

ゴスペルさんのお気遣いも嬉しかったです。
ありがとうございます。

ドイルさん、ケイシさん、
バッサーノ親子の「最後の晩餐」は、他の画家の描き方にあてはまらない、一連の秘密があるという2号さんの解説は自分も早く知りたくてたまりません。

2号さん、
ルーベンスまで出してしまい、記事の展開に水を差すようなことしちゃってすみません。

みのる
画像とか下書きに時間がかかって遅くなりました。

むらさき納言さん、ココナンさん、
以前に言ったのは、「ワンワンと出来る」ではなく、「ワンワンと出来ないの」です。

ルーベンスの前に、犬と猫の描かれた作品はまだあるので、まず見ていただけますか。

パオロ・ヴェロネーゼ シモン家の饗宴(1570年)
2匹の犬が猫をおさえつけています。最後の晩餐ではありませんが参考までに。
http://blog.livedoor.jp/sue20-momo/archives/1053708595.html

パオロ・ヴェロネーゼ 最後の晩餐(1581年)
パンをくれようとしている男性を見上げる犬と、柱の影から犬をみつめる猫。
https://4travel.jp/travelogue/11213589?page=2

パオロ・ヴェロネーゼと助手によるとされる最後の晩餐(?年)
ユダの側にいる猫。猫がカゴの影に隠れてるので、犬は猫が見えてないようです。
https://alcom.alc.co.jp/users/104224/diary/show/411532

アゴスティーノ・カラッチ 最後の晩餐(1593-94年)
犬が猫をおさえつけています。
http://www.allposters.co.jp/-sp/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%99%A9%E9%A4%90-Posters_i13350300_.htm

猫が犬の様子を伺うものは、コジモと同様の解釈です。
さらに犬が猫を押さえつけるといった、接触した表現も出てきました。

ユダは裏切るわけですから、最後は猫が勝つわけです。なのに犬が猫を押さえつけているのは何故か?

教会としては「犬(神側)が猫(悪魔側)に負ける」という具体的な表現は容認したくなかったのではないかと推理します。

ヴェネローゼの「レヴィ家の饗宴」という絵があります。元は「最後の晩餐」として描いたのですが、絵の内容に教会からクレームが入り、異端審問会に呼ばれます。ヴェネローゼは「これはレヴィ家の饗宴です。」とタイトルを変えたことによって切り抜けました。自分の思うように表現したい画家にとっては、教会の干渉は鬱陶しいものだったことでしょう。
江戸川ケイシ
ゴスペルさんの「やぶにらみ」は、さておきまして、

先人の画家の影響を受けるのは、もっともですが、先生(師匠)から絵を習う段階で、すでにモノマネです。
問題はそこからで画家としてひとり立ち出来るか否かは、アレンジとオリジナリティで、創造的独創性の有無がそのカギを握るわけです。

みのるさんによれば、バッサーノ兄弟は父ヤコポの影響力は大きいものの「最後の晩餐」には他の画家からのアレンジが見られる趣旨の見解を示唆していますが、まったく見当違いだと思います。

兄弟が最も影響を受けたのは、他ならぬヤコポで、彼らの絵を見れば至極当然の帰結です。

構図やモチーフはもちろん、暗い色づかいなどは特筆もので、「ノアの箱舟に入る動物たち」や「最後の晩餐」にもその影響が見られます。

というよりも、それらの作品の制作時には、まだヤコポは現役バリバリでしたから、さぞや恐い師匠だったと思いますよ!

なにしろ当時にしては、ヤコポ・バッサーノはとても長生きでしたからね・・・

つまり、バッサーノ親子が描いた「最後の晩餐」には一連の秘密があって、だからこそ2号さんは、まな板の上にのせたのだと思うのですが・・・
ゴスペル999
このシリーズは、って言うか、2号氏の設定するダヴィンチは、以前から指摘しているようにグノーシス的やし、ユダに肩入れしている。

そこに集いし連中も類は友を呼ぶわけや!

正統派に属するみのる氏の言を借りれば、みのる氏は「犬」のみということになるが、他の連中が「猫」ってことじゃない。 言わば、客観的に見て、みのる氏に分がなく、旗色が悪そうなんは正統派すぎる解釈にあるのかもしれんな!

つまり、ここの連中はどっちかと言えば異端的やから、孤軍奮闘せにゃならんわけや。

応援しとるで、アンタのウンチクも聞きたいし・・・
江戸川ドイル
犬をユダの傍におき、猫がその位置を狙うという状況を設定した画家がいたと仮定しても、バッサーノ親子の「最後の晩餐」にはあてはまらないと思うな。

ヤコポの猫は鑑賞者を見ているし、レアンドロの猫はつまらなそうにうつむいているし、フランチェスコの猫は骨は好みじゃない他のものをよこせと不満そうで、犬に取って代わろうという気配は感じない。

一方でヤコポの犬は丸く寝そべってこちらに視線を送っているし、レアンドロの犬は「待て!」と命令されて、おこぼれに与かるのを必死に我慢しているようだし、フランチェスコの犬はエサにがっついていて、どこにも対決ムードは見られない。

したがって、猫のなかに悪魔や悪徳を見いだすとすれば、物陰からこっそりとか、不満そうだとか、そういうところであって、それがユダなる人物に対してバッサーノ親子で逆転しているところに、むらさき納言さんたちは疑問を感じているんだと思う。

兄貴は、おそらく、その違いに着目したからこそ2号さんはバッサーノ親子・兄弟を紹介したと言っているし、ルーベンスの犬はユダにべったりで、そこにもきっと、何かがあるはずなんだよ!
ココナン
この場合での犬と猫がどちらの側かの論点よりも、僕はユダの足もとから覗く犬を描いたルーベンスが「ワンワン」と出来るという、みのるさんの、しかもそれが面白いとする発想と言うか、発見というか、アイデアと言うか、それを知りたいのですが・・・

2号さんも「どうぞ」と言っていますのでお願いします。

あと、ユダに対する犬と猫のポジショニングについては、猫がユダを特定する決定打ではなく、犬である場合もあると考えた方がスッキリすると思うのですが・・・
むらさき納言
みのるさんとは、少なくとも、この犬と猫に対する認識と見解の違いを痛感しています。

ピエトロ・ロレンツィティの場合には、犬と猫は厨房にいて、ユダとは壁で仕切られていますし、犬はエサに夢中でユダの方向にオシリを向けています。
猫にいたっては眠っているやら、何処を見ているやら・・・
とても、みのるさんの言うような犬と猫の攻防戦や犬の位置を狙う猫と言った雰囲気ではありません。

「信じる者」と「信じない者」という観点は
犬と猫の特徴や性質から見ても妥当と思われますが、それだけではなく、ご自身もおっしゃっているように犬も猫も聖と邪、信仰心や裏切りといった行為のどちらをも象徴する動物です。

忠誠と裏切りは紙一重で、犬と猫はそのどちらも代弁しているのです。

そう考えると犬と猫の配置転換も不思議ではありません。
みのる
フランチェスコBの、ティントレットの件は訂正します。ティントレットの絵を見なくても、ヤコポの絵からも描けます。
みのる
コジモ・ロッセリの左二人と右二人は、最後の晩餐の給仕役ではなく、絵の注文主かパトロンだと思います。丈も短くタイツはいたりして服装が違うでしょ。
最後の晩餐の世界とは、切り離して見たほうがいいですよ。

フランチェスコの犬と猫ですが、犬の方のが頭がさがってるので、食べてるのか、食べようとしているかってとこかな。
猫は食べてないよね。
犬がえさに食いついて油断する瞬間を待ってるってのはどうでしょう?

むらさき納言
ワンワンと出来ることで面白いとする、みのるさんの解説がどんなものか、それとルーベンスの『最後の晩餐』がどう結びつくのか?

楽しみにしていましたが、これはまた後日なのですね!

そして、ドイルさんが代弁(質問)するかたちになったバッサーノ兄弟の『最後の晩餐』でのユダ、若しくは裏切り者の証やユダにまつわる否定的な含意を強調するはずの猫が一般的にユダとされる人物ではない男の方にいて、犬がユダなる男にまとわりつくことの理由を知りたかったわけですが、猫が犬のポジションを狙っているからということですか?

その前提として、最初に信じていた者が後で信じなくなる経緯を犬と猫が入れ替わる、つまり、犬のポジションを猫が狙うというシチュエーションで表現しているというロジックなのですね。

確かにそうした見方もできないわけではありませんが、それにしてはコジモ・ロッセリの場合での左で控える男たちにじゃれつく犬はどう説明するのでしょうか?

レアンドロの場合はともかくも、フランチェスコでは二匹が仲良くおこぼれにかぶりついていますよね。

少し無理があるのでは・・・

バッサーノ親子の『最後の晩餐』については別の意見がありますが、きょうのところは止めておきます。

それにしても、詳しい解説をありがとうございました。
みのる
(これがラスト)

兄弟の絵を見ると、ペテロ-イエス-ヨハネという標準的な並び順で、料理も羊の首だけではありません。父ヤコポのように、怪しい人物が複数いるように見えます?

猫は、ユダの近くにいる犬の位置を狙おうとしているだけじゃないですか?

フランチェスコBの方は、テーブルが斜めになっています。

ティントレットの「最後の晩餐」はテーブルが斜めなのが有名で、最初に描いたものは1579-81年ですから、フランチェスコはティントレットの影響を受けているとみえます。

父ヤコポの「最後の晩餐」は、ダヴィンチ又はダヴィンチの弟子が描いた「最後の晩餐」を思わせるものが取り入れられていますが、兄弟の「最後の晩餐」からは、ダヴィンチを思わせるものが見られないんですよね。

あとPPRは、ピーテル・パウル・ルーベンス。
皆さんが探したのと同じ「最後の晩餐」をみているはずです。ユダの足元に犬の顔があるものです。

同じものを見てても、人によって違う解釈があるわけで、だから面白いし、皆さんの発想に刺激も受けます。

ルーベンスの絵については、また次に。
みのる
(先ほどの続き)

ヤコポの「最後の晩餐」の、ペテロ-ヨハネ-イエスの並び順は、ダヴィンチとダヴィンチの弟子の絵を見た可能性がかなり高いのです。もちらん他の画家の作品もいろいろ見たことでしょう。

ヤコポは、「最後の晩餐」を1546年に描きました。猫はユダの側という、よくある表現ですが、他の弟子もユダのように怪しく見えるという、何か意味のある、アレンジが加わった作品になりました。

さて時は流れ、ヤコポの息子達は、何を参考に「最後の晩餐」を描いたのか?

ドイルさんがおっしゃるように、父ヤコポの「最後の晩餐」の構図を踏襲しているかどうかです。

レアンドロの「最後の晩餐」は1578年、フランチェスコのは、1586年です。

父ヤコポの影響は大きいかもしれませんが、ヤコポの「最後の晩餐」から32~40年たっており、その間にもいろんな画家が「最後の晩餐」を描き、兄弟がそれらの絵を見る機会もあったはずです。
みのる
コジモ・ロッセリの「最後の晩餐1482年」より古いもので、ピエトロ・ロレンテッティの「最後の晩餐1320年」も、ユダの後ろに犬がいて、猫が犬の様子を伺っている絵があります。犬と猫との攻防戦。猫は犬を退けユダに近づくチャンスをうかがっているようです。

洗礼者ヨハネが、はじめは「信じる者」であったのが後に「信じない者」になったようにユダも同じで、はじめは「信じる者」であったはずです。どこかで魔が入ったのでしょう。(※聖書の「ユダの裏切り」の解釈も見方が分かれ、裏切ったのではなくイエスの指示に従ったという説もあります。)

猫だけをユダのそばに描く画家もいれば、コジモやピエトロのように犬をユダ側におき、猫がその位置を狙うとして描いた画家もます。
バッサーノ兄弟の犬と猫は、この描き方で、だからユダの側に犬がいて、猫が別の場所で犬の位置を狙っているのだと思います。


何かの絵を描く時に、先人の画家、同時代の画家たちの描き方をみて、完コピするのでは芸がなく、良いところは取り入れ、さらに自分のアレンジを加えて新しい作品をつくることが多く、表現方法も変わっていきます。

ヤコポも「最後の晩餐」を描くにあたり、他の「最後の晩餐」を見ているはずです。

2号さんは1533年の1回目のヴェネツィア滞在の時に、ミラノに行ったのではと推理されましたが、自分もそう思います。
江戸川ドイル
アレだけヒントをおねだりしてたのに、PとPがペトロとパウロだと教えてくれた割に、あっさりスルーしたのは、ココナン君にはPPRが誰かわかったのかね!?

ヤフーでPとPを英語名に直して、画家P・P検索したら、
何と、イの一番に出たあああああああ!

遂にゲットしたぜ! なるほど、ダヴィンチ作品の有名な模写もあるし、外交官もしてたんだね。

もしも、みのる氏が違っていたらマズイので、いまは内緒にしときます。

調べていたら、ポヨヨンちゃんの言う犬の名前が出て来てビックリ、やっぱ、わかってたんだね!
ポヨヨンちゃんには・・・
ココナン
ダ・ヴィンチの『サルバトール・ムンディ』が510億円で落札されたというニュースが流れてたけど、この絵にも「罠」や秘密が隠されているのでしょうね?

『モナ・リザ』の男版という噂もあるし・・・

みのるさん、僕の疑問をドイルさんが代弁してくれましたが、その点をスッキリさせてください。

ポヨヨンさんのつぶやき、間違い探しなら、ラスカルで決まりなんだけど、PPRが誰かわかってるのかな!?
透明人間2号
PPRのふたつのPが、ペテロとパウロなら正解です。

ただ、正解だとしても、「BOW WOW」が琴線にふれることがなかったことから、つながりは希薄だと判断したのであって、PPRのどの絵が対象か不明ですし、仮に同じ絵であったとしたならば、180度近い解釈の違いがあるということになるわけですが、ここはゴスペル999さんの指摘のように見方の違いが犬と猫の解釈上の相違を大きくしているのかもしれません。

基本的には彼の二つの絵に登場する犬のギャップに注目したわけですが、みのるさんが面白いと思ったのなら、どうぞ発表してください。

記事は差し替えれば済むことですから。

ところで、

ポヨヨンさんはわかっていて、つぶやいているのでしょうか?
ポヨヨン
スヌーピー、プルート、ラスカル、ヨーゼフ、パトラッシュ、ラッシー、ポチのどれか一匹だよ!
みのる
威嚇のバウワウの方です。
ダヴィンチの模写している画家であれば、ビンゴだと思います。言っても構いませんか?

実は仕事中で時間もとれず、ドイルさんへの返事は夜になります。
透明人間2号
ずっと考え込んでいたのですが、「ワンワン」の意味がわかりません。
「バウワウ(BOW WOW)」と吠えて威嚇する行為や行動と同義でしょうか?

それとも「ここ掘れワンワン」でしょうか?

いずれにしても、PPRとのつながりは希薄だと思われますので、面白いものなら是非にも公開してください。

ちなみに、PPRはダ・ヴィンチの絵の模写もしていますし、かなりメジャーな画家ですよ!

ヒント出し過ぎかもしれませんね。
江戸川ドイル
今日はOFFなので、朝一からコジモ・ロッセリの「最後の晩餐」をじっくりチェックしました。
ユダの後ろ(手前)で犬と猫が争っているのが見えますが、これを聖と邪の戦いだと、みのる氏は言いたいわけだよね。

犬がイエス側で猫が悪魔の使いであると・・・

だからこそ、むらさき納言さんもココナン君も、バッサーノ兄弟が描く「最後の晩餐」で、その犬がユダ(銭袋を持った人物)の方にいるのはなぜ? 猫がユダなる人物と対称的な位置にいる人物の方にいるのはなぜ?

だからこっちの方(手前左の人物)がユダじゃないか?って主張しているわけだよね。

「醍醐味」のコメントでも言ったように、ユダを誰かひとりに絞るっとしたら手前右の男だけど、バッサーノ兄弟はヤコポ・バッサーノの「最後の晩餐」での構図を踏襲しているうえに手前左側に猫がいる以上、ヤコポの場合でも手前左の男がユダだという暗示としての可能性は十分に考えられると思う。

だから、みのる氏が意見を通すには、その点を論破しなくちゃダメでしょうね。
みのる
「隠し絵」の記事にあった、ビンに入った男女の絵。子どもはイルカに見えるのは、男女の愛し合うイメージ(概念)がないから、というのは、見たことも聞いたこともなければ想像しようがないわけで、経験の違いが影響してきます。

だからダヴィンチの「最後の晩餐」を知ろうとすれば、ダヴィンチが他にどんな絵を描いてきたか、また他の画家の「最後の晩餐」の描き方はどうだったか?を見るのは必要なわけです。

今は特に、バッサーノ家の犬と猫に関してですので、犬と猫が描かれた他の「最後の晩餐」を見ると、見え方に幅が出来ると思います。

コジモ・ロッセリの「最後の晩餐」の犬と猫は見ました?ウィキペディアの大きな画像で見てください。まずはそこからです。

PPRに関しては、2号さんの返事もないので、違う可能性もあるし、今後の展開もあるでしょうし、自分からはちょっと。

ココナン
急に人が変わったみたいなゴスペルさんですが、ムリしてたんですかね? 標準語的な言い回しに・・。

それにしても、お手上げです。

意見の応酬をしたくても、PPRとワンワンで止まっちゃって、何も浮かんできません。

2号さん、みのるさん、ヒントでなくても取っ掛かりでいいんで、何かください!
ゴスペル999
言い方がアカンかったか。

みのる氏の見解を確認しただけで、自分(アンタ)そうやろ、了解(ファイナルアンサー)やねって、そういう意味や! むらさきはん。

みのる氏の解釈に同意したわけやないで、せやけど、こういう間違いや見方の違いが、この犬と猫の場合にも当てはまるかもしれへんな!

ちなみに、へんてこな関西弁に聞こえてるかも知らんけど、こういう言い方の方が楽なんや。

気にせえへんでな! 関西出身やないんで・・・

それにしても、「PPR」も「わんわん」もなんやねん!
むらさき納言
ゴスペルさんにしては、随分と安易な妥協ですね。
いくら善悪二元論などがグノーシス的だからといっても、それは短絡でしょう。

バッサーノ親子が描く『最後の晩餐』での犬と猫の位置関係は、ほぼ逆転していて、親(ヤコポ・バッサーノ)と子(兄弟)とでも兄弟同士でも微妙に違うと思うのです。

仮に、犬と猫がそれぞれに聖と邪を象徴しているとしたならば、近くにいる人物(ユダ)が聖にも邪にもなるわけで、逆に言えば、その人物はユダでもあり、ユダではないとも受け取れます。

ココナンくんと一緒でヤコポ・バッサーノの『最後の晩餐』でのユダを手前左の人物としたのは、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』での使徒たちの配置を模していると感じたからで、

二人の作品を上下に並べて掲載するのが、ケイシさんの言う2号さんの常套的な誤誘導かもしれませんが、

だとしたら、手前左の人物の前にパンとワインとナプキンの上に刃先がイエスに向かうナイフが置かれているのは何故なのでしょうか?

偶然では片づけられないと思うのですが ・・・


江戸川ドイル
『ノアの箱舟に入る動物たち』と『最後の晩餐』が有力候補とまでは読めてたけど、PPRが誰かとか、それがワンワンと出来ないかとか、意味不明???

2号さん、ヒントください!(汗)
みのる氏にもお願いします。(涙)
みのる
2号さん、PPRって、 
ワンワンと出来ないのですか?

これは面白いので、2号さんが記事にするまで黙っておきます。
みのる
2号さん、
PPRが何か判らず、つまりまだそこに行き着いてません。
今回、ヒントとして見つけてほしかったのはコジモ・ロッセリの方です。
PPRって誰だろう?今後の展開が楽しみです。

あと、バッサーノ一家の犬と猫の見解ですが、これまで紹介されてきた「エマオの晩餐」「最後の晩餐」「ノアの箱船」に関しては、先回のコメント通り、共通した「悪魔の使い」という認識ですが、他の絵に関しては見て確認して
からの判断となります。

というのは、「猫」は「最後の晩餐」では悪魔の使いですが、イエスの生誕、受胎告知、聖母マリアの絵でも「猫」を描くことがあるからです。生誕の時に雌猫も子猫を産んだから、という説がネットでありますが、元の根拠が確認できず、中世で嫌われていた猫を、なぜそれらの絵に描いているのか、その理由は判りません。

イエスの生誕、受胎告知に、「悪魔の使い」という意味での猫を、当時の画家らが描けたとは思えず、やはり何かネットで言われてるような何らかの逸話があって、猫が描かれていると思います。
だから一律すべて「猫=魔」ではなく、その絵のテーマや描き方を見ないといけないわけです。

ケイシさん、
洗礼者ヨハネのことですが、獄中での言葉は決定打で、獄中に入る前から「信じられない者」に変化していったと思います。2号さんの推理するところの、自分の弟子だったものがイエスについて行ってしまったことも、変化していった要因の一つでしょう。
ただ「イエスが聖ヨハネを裏切った」という部分は、ちょっとピンときません。
ゴスペル999
返答のお礼が遅くなって申し訳ない。

『エマオの晩餐』『最後の晩餐』ともにバッサーノ親子・兄弟の描く犬と猫は、すべからく同じ意味合い、つまり、勧善懲悪の二元論的仕分けで、正邪・善悪を犬と猫で表現しているという解釈で了解(ファイナルアンサー)やね!

ところで、PPRは誰やねん!?
江戸川ケイシ
みのるさんの言う洗礼者聖ヨハネのことですが、はじめは「信じる者」だったけど最後には「信じない者」になってしまったとは、獄中で「来るべき方はあなたでしょうか。それとも他の方を待たねばなりませんか」とイエスについて訊ねるよう弟子に言ったことを指していると思いますが、そのことですか?

それ以前に聖ヨハネの弟子であったシモン、アンデレ兄弟に大ヤコブ、ヨハネ兄弟という聖ヨハネの教団の中核をなす弟子たちがこぞってイエスのもとへと離れて行ったわけですが、おそらくはイエスも元々は聖ヨハネ教団の一員で、剣術の道場で言えば、師範代のような立場にあって、目ぼしい連中を引き連れて独立したというのが2号さんが想定するダ・ヴィンチの考えだと推理するのですが、どうでしょう?

それでイエスが聖ヨハネを裏切ったという仮説が成立します。
ココナン
悪魔の使いとしての猫がユダではない方にいて、犬がユダの方にいる理由がその絵からわかるのですか?
透明人間2号
ご丁寧な解説、痛み入りますが、みのるさんの仰っているヒントになる絵とは、PPRの絵でしょうか?

皆さんがどう料理するのか、黙って拝見するつもりでしたが、PPRの絵だとすれば、またしても記事の変更を検討することになりそうです。

でも、こうなったら仕方ありません。

これから解説に使うつもりでいた絵はティツィアーノやコジモ・ロッセリなどですが、これらも含めて、犬と猫について皆さんで大いに意見の交換(応酬)をしてみてください。

そのうえで、、次の展開を考えようと思います。

ちなみに、みのるさんの見解としては、バッサーノ家の画家たちが描く犬と猫はすべて同じ認であって、
犬=聖=イエスの側、猫=邪=悪魔の使いということでよろしいのですね。

探せよ、さらば見つからん。 ということで、
PPRはイニシャルのままにしておきます。
みのる
まずは「無礼講」の記事でのコメントで、エマオの晩餐での犬を猫と解釈していましたが、あらためまして猫ではなく犬に訂正いたします。
***

イエスの周りの人物は極端に言えば、イエスを「信じる者」か「信じない者」の二種類に分けられます。
復活したイエスがトマスに「信じない者とならないで、信じる者になりなさい」と語っています。ダヴィンチがトマスに洗礼者ヨハネを仮託させたのは、聖句からみても適役でした。洗礼者ヨハネは、はじめは「信じる者」でしたが、最期は「信じない者」になってしまいましたし。
十字架についた時も、左右に「信じる者」と「信じない者」がいて、復活して弟子たちの前に現れた時にも、それを「信じる者」と「信じない者」に分かれます。また「信じない者」であっても、イエスを見て「信じる者」に変わることもあります。

ゴスペルさん、
自分はヤコポの2枚の「エマオの晩餐」と「最後の晩餐」の犬猫も、兄弟の「ノアの箱船」「最後の晩餐」の犬猫も共通の認識です。
犬は「信じる者」又は神・イエス側で、猫は「信じない者」又は悪魔側です。

ココナンさん、
他の意味があるかは判りませんが、ノアの箱船で猫を一匹しか描かなかった点からみて、レアンドロは猫をただの動物ではなく、悪魔の使いとして描いたと取れるわけです。なのでレアンドロの「最後の晩餐」の猫も同様に、悪魔の使いとして描いたはずです。

では何故バッサーノ兄弟の「最後の晩餐」では、ユダの近くに悪魔の使いの猫ではなく犬がいるのか?ですが、この描き方をした画家が他にもいます。その絵がヒントになるかと思います。

探せよ、さらば見つからん。

ココナン
レアンドロのノアの箱舟には猫が一匹で、つがいじゃないから箱舟に乗れないというみのるさんの解説は面白いです。

でも、悪魔の使いの象徴として描いたとしても、実際にはすべての動物の種がつがいで乗ったことになっているわけで、この一匹しか描かなかった猫に他の意味はないのかな?
ポヨヨン
黄門様と助さん格さんみたい!
ゴスペル999
ここのところの数回において、決まってあるのが丸焼きにされた羊の頭のような首から上だけが描かれたベクシンスキーの絵と、ROAD TO EMMAUSの絵と、そこに天を指さす洗礼者聖ヨハネか、指を立てるトマスがからんでエンドロール化しているが、その中で『エマオへの道』だけが関連性がうすいといえる。

しかるに、それが載っているということは、そこに何かがあるということだな!

ところで、「ノアの箱舟」に関するヤコポとレアンドロ親子の猫の描写の違いに対するみのる氏の見解は興味深いが、バッサーノ兄弟の「最後の晩餐」については共通の認識であると受け取っているのか?
意見を伺いたいと存じます。
江戸川ケイシ
やっぱり妙な違和感を覚えたというココナンさんの勘は正しくて、記事の変更・修正があったんですね?
冒頭部では洗礼者聖ヨハネのイメージがあって、
悪源太の話はヤコポ・バッサーノが源義朝で、その長男フランチェスコが悪源太義平、三男レアンドロが源頼朝で、バッサーノ家三代の名声を引き継ぎます。
もっとも、鎌倉幕府三代は源頼朝から始まるわけで、ここに違いがあるのですが、

長男フランチェスコが比較的若くして亡くなる(自殺する)ことやその作品が重要なファクターであって、そこに聖ヨハネが重なるとなれば、犬と猫との関係も思っているものとは違う対立を意識したものかもしれません。

今回の記事を読む限りでは、それがイエスと聖ヨハネではないかと思われるのですが・・・

誤誘導が常套の2号さんのことですから、うっかりは禁物です。
透明人間2号
さすが、絵画にも聖書にも詳しいみのるさんです。
フランチェスコ・バッサーノの『最後の晩餐』は内緒にしておきたかったのですが、突き止められてしまったようです。

次回以降の解説での重要なファクターだったのですが、こればかりは内容を変更して別の記事に差し替えるわけにもまいりません。

皆さんがどう料理するのかを拝見しながら、次の展開を考えることにします。
むらさき納言
残念だけどココナン君(もう、「さん」じゃなくてもいいですよね)!
それだけでは、単なる傍証にすぎないので、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』とヤコポ・バッサーノの『最後の晩餐』、あるいは息子たちの『最後の晩餐』につながりがあることが必要です。

それが答えに直結するヒントになるのではないでしょうか?
ココナン
レアンドロが「ノアの箱舟」で清くない獣以下の悪魔の使いとして描いた猫ではなく、犬が銭袋を持ったユダと思われる人物の方にいて、別の左の人物の方に猫がいるわけですよね。

これって、ヤコポ・バッサーノの「最後の晩餐」で僕とむらさき納言さんの推す手前左の男がユダかもしれないという根拠のひとつにならないですかね?
みのる
今回の記事で2号さんが紹介してくれたヤコポのノアの箱船の方には、猫もつがいにしています。創世記7章の「清くない獣」として猫をいれたのでしょう。

しかし、レアンドロのノアの箱船は、猫は1匹で、つがいではないところから、箱船には乗れない。
レアンドロは、猫を「清くない獣」よりも酷い「悪魔の使い」として描いたようです。

レアンドロの最後の晩餐には犬と猫が描かれています。
ユダはどこかというと、金袋を持ったものです。側にいるのは猫ではなく犬でした。

この描き方をしているのは、もう一人のヤコポの息子でフランチェスコ・バッサーノの「最後の晩餐」です。
レアンドロと同じくユダの側に犬がいて、別の人物の側に猫がいますね。

以下のサイトの青いバーのLのとこにある「The Last Supper」です。参考までに。

https://www.the-athenaeum.org/art/list.php?m=a&s=tu&aid=6028


ココナンさん、ヒントは内緒です♪
ゴスペル999
そういう意味ですよ。 むらさき納言さん。
それは2号氏が推理するダヴィンチの創作上のプロットで、そう考えることでトマスに聖ヨハネが投影されている理由と手の甲をイエスに向けて人差し指を立てるポーズの意味も裏切りに対する聖ヨハネの抗議や告白だとすれば辻褄が合うわけです。

ただ、常識的にはイエスが聖ヨハネを裏切るという発想自体が奇抜すぎるわけで、この段階で同意することは無理だけど・・・

それとレアンドロについては、みのる氏とドイル君の言う作品をみると「逆転」や「反対」といった言葉がキーワードのようで『エマオの晩餐』と同じスタイルのようだけど、まだ答えが見つからない。
もう少し、吟味・検討する時間が必要かな!
江戸川ドイル
ヒント(答え)らしきものが潜んでいるというレアンドロの作品ですが、みのる氏の指摘する『最後の晩餐』もそうだけど、もう一つ可能性を秘めた作品がある。

みのる氏がココナン君に紹介した絵画サイトで言えば、
青いバーのAにある「Animals Entering Noah's Ark」

この『ノアの箱舟に入る動物たち』と『最後の晩餐』の2作品が有力な候補だと思うよ!
不明不詳
今回の記事を鑑みたうえで、むらさき納言さんへの返歌として一首献上つかまつります。

犬に猫 ヤコポ ダビンチ 比ぶれば
    ユダにもすぐる 罠の行く末

(詠み人知れず)
ココナン
みのるさん。 ありがとうございました。
なるほど、同名ってそういうことですね。
これからじっくり見てみます。

取り急ぎお礼まで。

追伸、答えがわかったらヒントをお願いします。
みのる
誤「The Las Super」
正「The Last Supper」

みのる
ココナンさん
自分も探してたところです。

レアンドロ・バッサーノの最後の晩餐じゃないかと思います。

以下のサイトの青いバーのLのところ、
「The Las Super」

https://www.the-athenaeum.org/art/list.php?m=a&s=tu&aid=6027

ココナン
誰もレアンドロに言及しないけど、彼の作品に複数のユダの存在のヒント(答え)があると言っていますが、同名の作品とその答えってなんですか?
分かる人がいたら教えてください。
むらさき納言
それって、つまり、ユダに仮託されたダ・ヴィンチが、そこに暗示されているとすれば、自動的に投影される人物はイエスキリストということになりますが、そういう意味ですか?
ゴスペル999さん。

ここで一首、かたむけます。

落とし穴 猫にマタタビ 女郎(サロメ)舞い
  ユダに小判(銀貨)と マグダラのマリア

(むらさき納言)
ゴスペル999
『疑似餌』の記事における洗礼者聖ヨハネに対する音楽家、数学者、芸術家のなかにいる裏切者の存在については、一種のお遊びでフェイクだと思っていたが、一定の論拠たるものがあったということか?

想像の域を超えられない仮説の中の仮説ではあるが、聖ヨハネを裏切った人物は『最後の晩餐』でのユダに仮託された人物に投影される人物かもしれないということだろうがどうであろうか!?
江戸川ケイシ
「豚に真珠」には何の意図もないのだとドイルは思い込もうとしていますが、仮にポヨヨンさんのつぶやきにそんな気はなかったとしても、その言葉はかなり重要なポイントを突いてしまったようです。

たとえば、こういう見方が出来ると思います。

オスカーワイルドの「サロメ」のストーリーにあるような狂気があったのならともかくも、サロメにとって聖ヨハネの首などは「豚に真珠」で、何の値打ちもなく、彼女には意味のないものであったはずです。
つまり、聖ヨハネの首は猫にとっては価値のない小判に過ぎないわけですが、犬にとっては与えてはいけない聖なるものであるのかもしれません。
もっとも、逆説的見れば「猫に木天蓼」なのかもしれませんが・・・
ココナン
なんとなく、今回の記事はパッチワーク的でツギハギのような印象を受けます。

どこかでポヨヨンさんの「豚に真珠」にからむゴスペルさんの指摘や、むらさき納言さんの解釈があって、それで内容をカットしたり、変更・修正したような気がして・・・

冒頭部が何処とつながり、何を言いたかったのか?
源義平の話は、単に洗礼者ヨハネに対する印象操作だけだったのか?

プツンとした断絶感が漂います。

ただ、後半からのユダ複数説のなかに、僕の推すユダの復活の目が見れて、次回に期待が膨らみます。
デッキブラシ
結局、キーパーソンは洗礼者ヨハネってことか!
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