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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 パウロ(改)

 「パウロ」、まさに、そんなブログの引っ越し作業の結果、

100を超える記事の画像が表示できなくなり、非公開としました。

記憶を呼び起こしつつ、漸次、復活・再生させるつもりですが、

正直、皆目見当のつかない画像も多々あります。

ダ・ヴィンチの罠 パウロ - 透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 パウロ - 透明人間たちのひとりごと

このページの画像は、故あって表示されませんが、連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、別途、新しく作り直すことにしました。同じ内容ですが、画像はその限...

goo blog

 

 url『ダ・ヴィンチの罠 パウロ』

 上記のように、連続性を維持することは、このシリーズの

重要なファクターですので、時間がかかっても復活・再生を

果たさなければならないのですが、漸くこれで60作目です。

 さてと、それでは、ここからが、

『ダ・ヴィンチの罠 パウロ(改)』

 の記事になります。

 (以下、本文)

 

 偽預言者パウロによる人類史上最大級の
詐欺事件である「イエス・キリスト計画」とは
、如何なる経緯によって齎されたのか!?

 ダ・ヴィンチによる推理はこうでした。

 西暦27年のある時に、

 パウロは二人のメシアの擁立からなる
クーデター(ユダヤ独立解放計画)の存在
を知ることになります。

 それは対立するエッセネ派に忍ばせていた
二重スパイからのインテリジェンスによるもの
でしたが、派内の一宗団クムランが主導する
ローマからの解放を企図した預言的使命の
様相を呈する宗教革命でもありました。

 思えば、マラキ以来、すでに四百年という
長き年月にわたり、預言者の出現を見ない
ユダヤの民衆にとって、待ち焦がれた待望
預言者 = 救世主(メシア)の到来
を意味するものでもあったのですが ・・・


          「ユダのライオン 」www.pxfuel.com

 クムラン宗団にはユダヤの解放に際し、

 車の両輪の如き、「愛」「義」
テーマに、ローマからの解放独立
推進する「二人のメシア」による
ユダヤ解放計画がありました。

 その二人のメシアとして白羽の矢が
立ったのが、洗礼者ヨハネとイエスの
異母兄弟だったというのです。

 ここで「おやっ」と首を傾げられた方は、

 

ダ・ヴィンチの罠 洗礼者(改) - 透明人間たちのひとりごと

「洗礼者」、まさに、そんなブログの引っ越し作業の結果、100を超える記事の画像が表示できなくなり、非公開としました。記憶を呼び起こしつつ、漸次、復活・再生させるつも...

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 url『ダ・ヴィンチの罠 洗礼者(改)』

ダ・ヴィンチの罠 姦通罪 - 透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 姦通罪 - 透明人間たちのひとりごと

現在、世界で最も広く使われている紀年法である西暦はイエスが生まれたとされる年の翌年を元年(紀元)にしていますが、当時のユダヤ社会でのイエスの登場は如何にセンセー...

goo blog

 

 url『ダ・ヴィンチの罠 姦通罪』

 などを参照してみてください。

 洗礼者ヨハネとイエスは、下級祭司で
あったザカリヤを父に、エリサベツと
マリアをそれぞれの母として、この世界
に登場するに至ったとする推理・構想が
レオナルド・ダ・ヴィンチの「罠」
構成する重要なプロットのひとつですが 、
 

『幼児キリストと洗礼者ヨハネ』(貝殻の子供たち)ムリーニョ画

 クムランの共同体のなかで幼少の頃より
一緒だった二人は互いが兄弟であることを
知らされないままに育ちます。

 
  『幼児キリストと洗礼者ヨハネ』(貝殻の子供たち)部分 ムリーニョ画

 大雑把に言えば、

 『旧約聖書』の預言における真の意味で
の「救世主」は兄である「アロンのメシア」

  

(洗礼者ヨハネ)であり、「後継者」として
彼を補佐(サポート)し、 護衛(ガード)
する役目を「イスラエルのメシア」である
の弟イエスが担うという脚本です。

 そして、

 本格的な行動を起こすまでの期間は、
それぞれが独自の宣教を行って、互い
の活動には干渉しないとの約束でした。

 シナリオによれば、

 自動車のスロットル・バルブ(エンジン)
に直結するアクセルとしての「武」
有する「イスラエルのメシア」と



 ドライブを制御するステアリングとしての
「愛」「義」に、裏打ちされた
「アロンのメシア」との相互作用によって、
ローマからの解放と独立を勝ち取るという
『旧約聖書』に準拠した預言的クーデター
の色彩が極めて強い「メシア計画」
だったのです。

 クムラン宗団の企図したクーデターを
実現するための道筋となる精神的支柱
としての狙いは、

  
   イスラエルの三種の神器
  
 失われたアーク(聖櫃)に納められ
ているとされる「三種の神器」の
うちの「マナの壺」が「愛」であり、
「十戒の石板」が「義」に相当し、
「アロンの杖」が「武」を象徴して
いて、主にアクセルとしての「武」を
イエスが担い、ステアリングとして
の「愛」と「義」を洗礼者ヨハネが
コントロールする。


  イスラエルの三種の神器 nazo108.sblo.jp

 そうした宗団の宗教的クーデターから
社会変革(革命)を惹起しようとした
「二人のメシア計画」であったものが
単独の、それも当初の計画とは違う
「贖い(自らが犠牲となること)
によって人々をその罪から救うという
予定外の「イエス・キリスト計画」
が発動されることになるのですが、 

 この欺瞞と偽善に満ち溢れた、決して
誤謬ではない詭弁なる画期的アイデア
の生みの親こそが、超天才的ペテン師
であるパウロであったわけなのです。 

『新約聖書』の『使徒行伝』によれば、

  
  使徒言行録(使徒行伝)Wikipedia 

 パウロの職業はテント職人でしたが、
生まれついてのローマ市民権の保持者
でもありました。

 彼の出自は ベニヤミン族のユダヤ人で
、もともとはファリサイ派に属していて、
エルサレムの高名なラビ(律法学者にして
宗教的指導者)であったガマリエル1世
(ファリサイ派の著名な学者ヒレルの孫)
に師事し 主に律法を学んでいました。

 パウロはそこで原始キリスト教徒たち
(ユダヤ教ナザレ派)とも出会うのですが、

 熱心なるユダヤ教徒としての立場から、
当初はキリスト教徒を迫害する側にあり、
ステファノの殺害(処刑)にも賛成して
いたとされていますが、


       ステファノの殉教 www.lets-bible.com

 ダ・ヴィンチは、そんなに生やさしいもの
ではなかったと考えていました。

 つまり、そこにはパウロによる積極的
な働きかけがあったということです。

 さらに、

 「目から鱗が落ちる」の語源
となったダマスコへ向かう途上における

 「サウロ、サウロ、なぜ、
     わたしを迫害するのか」

 とのイエス・キリストの声とともに
天からの眩い光によって、目が見えなく
なったサウロ(パウロ)に対し、

 アナキアというキリスト教徒が、
お告げによりサウロのために祈ると目から
鱗(うろこ)のようなものが落ちて、目が
見えるようになったとされるAD34年頃の
『サウロの回心』なる話も眉唾で、


 『サウロ(パウロ)の回心』ピエトロ・ダ・コルトーナ

 パウロは もとより名をあげる手段に
キリスト教を利用して、歴史的(宗教的)
大人物にのし上がろうと画策し、

 ものの見事に大願成就したというのが
ダ・ヴィンチの思うパウロ像なのです。

 彼は律法を学ぶ傍らで聖書の預言に
興味を惹かれ 熱心に研究していました。

 その過程で『ダニエル書』9章にある

 「膏そそがれた者(メシア)は
断たれ、彼には何も残らない」

    (ダニエル書9章26節)

 との預言を自らの策謀において成就
させようと考えたのでした。

 多神教があたりまえの同時代において、
一神教を奉じるユダヤは異質であり特殊
であったために支配されていたユダヤの
民衆のローマに対する反感は 日々鬱積
の度合いを増しつつあると直感した彼は、
機を見るに敏にして政治情勢にも極めて
目ざといものを持っていました。

 ここで、

 ローマの支配に不満をつのらせている
民衆を失望のうちに焚きつけられれば、

  
           『その名はパウロ』blog.goo.ne.jp

 彼の思い描く「事の成就」に近づくと
そのようにパウロは判断したのでした。

 「失望のうちに」とは、ダビデ的な
勇者や英雄のごとき救世主(メシア)を
熱望する民衆の期待を裏切る「愛」
よるメシアの創造(登場)です。

 そこで彼はまず初めに洗礼者ヨハネに
近づきましたが、あっさりとあしらわれた
ので、その矛先をイエスに差し向けます。

 この時点での人気や知名度は圧倒的に
ヨハネの方が高く、それを好ましく思って
いなかったイエスは迂闊にもパウロの
謀略話にうっかり乗ってしまうのでした。

 パウロは『旧約聖書』に綴られている
メシア預言をイエスの名において実現
させるというアイデアとその方策をイエス
とその高弟たちに伝授しますが、

 あくまでも、

 表向きはイエスのプロデュースによる
「イエス・キリスト計画」であって、
パウロ自身は「七十週預言」の成就の
成否がわかるまでは、従来通り敵対する
ユダヤ教ファリサイ派としての立場を
そのまま堅持するというものでした。

 おそらくは、

 ディテールを除いた大まかな構図として
は、およそ、そんな経緯であったのだろう
との推測をもとにダ・ヴィンチの独自の
推理は組み立てられていたのですが、



 洗礼者ヨハネから、にべもないまま、
けんもほろろのごとく無視されたパウロ
による「メシア偽装計画」の顛末が、

  
  『サロメ』フランツ・フォン・シュトゥック画 1906年

 むしろ、そのことによって、結果的には、
事態を都合良く好転させる契機となった
ことは、ある意味では 皮肉が作用した
と言うほかはありません。

 つまり、

 すげなく拒絶をされたことで、却って
陰謀の秘密を知る邪魔者としてヨハネを
処分することへの躊躇がなくなり、且つ、
『旧約聖書』の預言に準ずるかたちでの
偽装工作が可能になったということです。

 すなわち、

 『新約聖書』の四福音書のなかで、
最も古く、最初に記されたとみられる
『マルコの福音書』では、冒頭に
こう書かれています。

 
 『マルコの福音書』www.paulus.jp

 神の子イエス・キリストの福音の初め、
    (マルコ 1:1)

 預言者イザヤの書に「見よ、わたしは
 あなたより先に使者を遣わし、あなた
 の道を準備させよう。 (マルコ 1:2)

 荒れ野で叫ぶ者の声がする『主の道
 を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」
 と書いてあるように、 (マルコ 1:3)

 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、
 罪のゆるしを得させる悔い改めの
 バプテスマを宣べ伝えていた。
    (マルコ 1:4)

 要は、イザヤが預言した通りに
洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、


      預言者イザヤ wikipedia

 罪の赦しを得させるために悔い改め
の「洗礼」を宣べ伝えていたとして、

 「主が来られる前に使者を遣わして、
道を整える」とされる預言の実現が

 洗礼者ヨハネにおいて成就した
と言い繕うことができたからです。

 しかしながら、この洗礼者ヨハネの
登場を『マルコの福音書』1:2では
「預言者イザヤの書」としていますが、

   
  火で唇を神聖にする預言者イザヤ
  (ベンジャミン・ウエスト画)

 厳密には、2節は『マラキ書』3:1と
『出エジプト記』23:20の引用で、


   『出エジプト記』message-station.net

 3節だけが『イザヤ書』40:3からの
引用となります。

 要するに、

 マルコは「見よ、わたしは使者を送る。
 彼はわが前に道を備える。 云々 ・・・」

 と続く、『マラキ書』3:1の使者と、

 
       『マラキ書』

 「見よ、わたしは大いなる恐るべき主
 の日が来る前に 預言者エリヤ
 あなたたちに遣わす。 彼は父の心を
 子に、子の心を父に向けさせる。

 わたしが来て、破滅をもって、この地を
 撃つことがないように」 (マラキ 3:23)


         『預言者エリヤ』www.newlifeministries.jp

 という『旧約聖書』による先駆者の
出現預言を巧みに利用したわけです。

 こうして、新たに

   
 『洗礼者聖ヨハネ』部分 1513-1516年

 イエスがプロデュースする単独の
「イエス・キリスト計画」なるものが
始動することになったわけですが、

 その実態は当初より予定されていた
「武」によるダビデ的な解放者として
のユダヤ(イスラエル)の「救世主」
である「イスラエルのメシア」ではなく、
「愛」「義」をもって人々を
から救い出す「アロンのメシア」として
のものでしたが、


    『ルカの福音書』15章7節 joseph-ssps.jp

 前述したように、

 それは、究極のペテンでかたどられた
スポンジケーキに、「まやかし」と「偽り」
の生クリームがコーティング(塗布)され、
「欺瞞」と「偽善」でデコレーション(装飾)
された飾りにカモフラージュされた神」
「愛」がメッセージとして添えられて
いるクリスマスケーキようなものであると、
ダ・ヴィンチには思えたのでした。

 結局のところ
 
 民族の救い主としてのイエスの存在を
ユダヤ人が受け入れられなかったのには、

 「メシア」(救世主)としての概念が
ユダヤの民衆とイエスとでは違っていた
ことにありました。

 民衆の期待するものとイエスの言動
とが大きくかけ離れたものだったからです。

 ユダヤの民衆にとっての「メシア」は
民族の「解放者」にしてユダヤの「王」
を意味したのですが、パウロの献策に
沿ったイエスは人類の「救い主」と
して降臨する「人の子」としての役目を
引き受けたわけで、そのズレを補正し、
確証させることが可能であったはずの
洗礼者ヨハネは、すでに この世には
なく、イエスも弟子たちもユダヤの民衆
のすべてがパウロの手中で踊らされて
いたようなものだったのです。

 
     画像元: www.irasutoya.com

 おそらくは多くのユダヤ人たちにとって、
「律法を破壊する危険人物」
としてのイエスの姿しか、その目には
映らなかったはずで、

 これもまた、パウロの思惑通りに事が
運んだというわけです。

 そして、

 ガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスに
よる洗礼者ヨハネの投獄についても、
その裏にパウロの介在があったという
のが、ダ・ヴィンチの推理で、

 タイミングを見計らっての処刑(謀殺)
によって、イエスの前に「神」の道を
整える「先駆者」としてのヨハネ像
を定着させるというスキーム(謀略)も
彼の用意したシナリオの通りに推移する
ことになるわけです。


  『踊るサロメ』シュトウィック画 newimg.org

 となると マルコやマタイの『福音書』
に見られるヘロディアの娘(サロメ)は
パウロやイエスたちとどのような関係
にあったというのでしょうか

 洗礼者ヨハネの斬首の顛末を再度、
『マルコの福音書』で見てみましょう。
    (マルコ 6:14-29)

 イエスの名が世間に知れ渡り、ヘロデ王
(ヘロデ・アンティパス)の耳にも入った。

 数々の奇跡を行うイエスについて人々は
「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返った
から、彼には奇跡を起こす力がある」とか、
「彼はエリヤだ」とか「昔の預言者のような
預言者だ」と言う人もいたが、

 ヘロデは自分が「首を刎ねたあのヨハネ
が、生き返ったのだ」と言った。

 実は、ヘロデは自分の兄弟フィリポの妻
ヘロディアと結婚しており、そのことで人を
やってヨハネを捕らえ、牢につないでいた。

 ヨハネが「自分の兄弟の妻を娶ることは、
律法で許されていない」とヘロデに言った
からである。


     ジョヴァンニ・ファットーリ画

 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を
殺そうと思っていたが、できないでいた。

 それは ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる
人であることを知って、彼を恐れて 保護し、
その教えを聞いて、非常に当惑しながらも、
なお喜んで耳を傾けていたからである。

 ところが、良い機会が訪れた。

 ヘロデが自分の誕生日の祝いに高官や
将校、ガリラヤの有力者などを招き、宴会
を催すと、ヘロディアの娘がその場に来て
踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。


   『サロメ』フランツ・フォン・シュトゥック 1906年 

 そこで、王は娘に、「欲しいものがあれば
何でも言いなさい。 お前にやろう」と言い、
更に 「お前が願うなら、この国の半分でも
やろう」と固く誓ったのである。

 娘が母親に、「何を願いましょうか」と訊く
と、母親は「洗礼者ヨハネの首」と言った。

 娘は大急ぎで王のところに行き、「今すぐ
洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただき
とうございます」と願った。

 王は非常に心を痛めたが 誓ったことでは
あるし、また客の手前もあって、娘の願いを
退けたくなかった。

 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を
持って来るようにと命じた。


     『洗礼者ヨハネの斬首』 カラヴァッジョ(1608年)

     『洗礼者ヨハネの斬首』部分 カラヴァッジョ

 衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首を
刎ね、盆に載せて持って来て、娘に手渡し、

 娘はそれを母親に渡した。


  ヘロディアとサロメとヨハネの首 www.wikiwand.com

 ヨハネの弟子たちは、このことを聞いて、
遺体を引き取りに来て、墓に納めた。

     (マルコ 6:14-29)

 『マタイの福音書』14章においても、
ほぼ同じ内容の話が書かれていますが、

 「葬ったあとで、イエスのところに行って
報告をした」ことが付け加えられています。

 「殺されたということを伝えた」のではなく、


       画像元: bsoza.com

 「報告をした」とは、いったい何の報告
だったというのでしょうか❓

 そして、

 ヨハネの死を知ったイエスの胸中に
去来したものは何だったのでしょうか


      「イエスの洗礼」マルコの福音書1:1~11 blog.goo.ne.jp 

 さらに、

 『ルカの福音書』では、この件に関し、

 「さて、領主ヘロデはいろいろな出来事を
 耳にして、慌て惑っていた。

  それは、ある人たちは ヨハネが死人の
 中からよみがえったと言い」 (ルカ 9:7)

 また、

 「ある人たちは、エリヤが現れたと言い、
 また他の人たちは、昔の預言者のひとり
 が復活したのだと言っていたからである」

       (ルカ 9:8)

 「そこで、ヘロデが言った『ヨハネは私が
 すでに首を切ったのだが、こうしてうわさ
 されているこの人は一体、誰なのだろう』 

  そして、

  イエスに会ってみようと思っていた」

       (ルカ 9:9)

 とあり、大筋ではマルコの記述内容を
踏襲するかたちを採っていますが、

 ルカは、投獄の経緯も、処刑に及んだ
ヘロディアの娘(サロメ)への言及も
含め、〝洗礼者ヨハネの死〟に関連する
具体的な記述を完全に排除しています。

 ★ この点は実に興味深いことです。

 ルカはパウロの伝道旅行に同伴して
いますし、パウロもその書簡において、


        福音記者ルカ blog.goo.ne.jp

 彼のことを「愛する医者ルカ」であるとか、
「同労者」などと呼んでいて、パウロ
が晩年、囚われの身でローマにいた時も
一緒だったのです。

 ルカはパウロの弟子であると言われる
ほどに深く親しい間柄であって、パウロに
伴われたがゆえに、彼の考え(指示)に従う
内容での『福音書』を書き残したと考える
のが自然です。

 なぜなら、

 『ルカの福音書』は、テオピロなる
人物に宛てて書かれた体裁をとっています
が、あきらかにパウロのシナリオ、つまり、
キリストの救いの教えとイエスによって、
待望するメシア到来の預言が成就した
ことに焦点を置いて語られているのです。

 
  ザカリヤとエリサベツとヨハネ
   出典:39bible.blog.fc2.com

 まず初めに、洗礼者ヨハネの誕生に
おける秘話を綴り、続いて、聖母マリア
の懐妊物語(受胎告知)を経由して、


『ルカの福音書』ヨハネの誕生 www.youtube.com

            『受胎告知』hatenablog.com

 再び、預言者にして イエス・キリストの
先駆者たる《洗礼者ヨハネ》を期待させる
かたちで、第一章を結んでいるからです。

 しかしながら、ダ・ヴィンチは言います。

 御使いガブリエルが携える白百合の花も、   

    
    おしべが花粉を出して、
  
    めしべが花粉を受ける
 
   それが受粉(受精)であり、

   人間においては受胎となる。

          『受胎告知』部分 hatenablog.com

           『受胎告知』hatenablog.com

     
      だ・よ・ね !

 それでは、

 〝洗礼者ヨハネ〟の斬首に関する顛末
(事実関係)はどうだったのかというと、


   パウロ キリスト教最大の伝道者 www.lets-bible.com   

 パウロによるシナリオではこうでした。

 まずは、

 ヘロディアの件で 洗礼者ヨハネ
がヘロデ王を執拗に罵倒し、非難して
いるとの噂を広め、ヘロデがヨハネを
捕縛し投獄させるように仕向けます。

 しかしながら、牢につないではみたもの
のヘロデはヨハネを恐れ、容易には
殺せないままにいました。


       出典:windychaple.com

 「ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが
 民衆を恐れた。 人々がヨハネを預言者
 と思っていたからである」 (マタイ14:5)

   
  『洗礼者ヨハネと子羊』 webchapel.jp

 『マタイの福音書』では、ヨハネを
殺そうとする意思がヘロデにあったにも
かかわらず、ヨハネを慕う民衆の暴動を
恐れていたニュアンスを伝えています。

 おそらくは、

 それが真実に近く ヘロデは暴動を
抑える口実にヘロディア親子(母娘)と
口裏を合わせて一芝居打ったのだろうと
の憶測も十分に成り立ちますが、

 ダ・ヴィンチの推理は違いました。

 端折って言えば、

 ヨハネを殺せずにいたヘロデ王に
願ってもないチャンスを提供するために
彼の誕生日祝いの宴会の場という恰好
の舞台を用意する虚構のストーリーを
パウロは練り上げるわけですが、

   
      パウロの肖像

 その先は、次回以降での話となります。

   
     画像元:eiga.com

 いやあ、今回はやけに長文じゃったな。

 

 そう言えば、アンタには、

  「サロメ役もあったような」

  

  「七変化する役の一人なのよ」

 なら、ちょっとだけ、

 

  「その台本見てもいいかな?」

    

  ・・・ って、おいおい、

  

 こうして、


     『洗礼者ヨハネの斬首』カラヴァッジョ(1608年)
  
     『洗礼者ヨハネの斬首』部分 カラヴァッジョ

 洗礼者ヨハネの首は刎ねられ、



 ペテロ爺さんの無謀なる要求も
ものの見事に撥ねられたのでした

 …  to be continued !!

          
      (なんのこっちゃ)


            獄中のヨハネと弟子たち wol.jw.org

    
     出典:muragon.com

  「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」
     (ヨハネの福音書 1:29)

  
    出典:blog.livedoor.jp

    
『洗礼者ヨハネの頭を持つサロメ』チェザーレ・ダ・セスト


          『聖アンナと聖母子』部分 www.picuki.com

   「良い子ね、ヒツジさんをイジメちゃダメよ!」

  
  画像元:www.mecadraft.com      出典:muragon.com

         Herodias with the Head of St. John the Baptist - Paul Delaroche - Wallraf-Richartz Museum - Cologne - Germany 2017.jpg
     ヘロディアとサロメとヨハネの首(Wikipedia)
   
     スケープゴート? ボク、羊だよ、ヤギじゃないよ! 


            画像元:www.pxfuel.com

           「むぅ・・・」

コメント一覧

小吉
すごく不思議に思っているんだけど、どうして「聖書」ってあんなに回りくどいんだろう。

伝えたいのならもっとわかりやすい言葉にすればいいのに、わざと「わからない文書」にしているのだろうか。

弟子が書いているからだろうか。

不思議である。
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