「騎士道」か「騎士団」、あるいは「唯名論」などの
テーマに照準を合わせて、『ダ・ヴィンチの罠』風味で
の解説にチャレンジしてみたいと、前回の記事において
申し上げましたが、
まずは、その手始めとして、
「騎士道」若しくは「騎士団」からスタートしてみる
ことにしましょう。
第一回十字軍の遠征 history-maps.com
いわゆる「世俗」の(戦うことだけが仕事の)騎士団
というものは中世ヨーロッパには存在しませんでした。
それはどういうことかと言うと、封建社会においては
領主や国王の力は限られており、「騎士団」を養うだけ
の財力がなかったからです。
世俗の騎士たちは、戦争が始まったときだけに君主の
もとに馳せ参じ、「騎士」として戦ったというわけです。
十字軍の遠征 shikaoichurch.com
それでは、
「騎士団」とは何かというと、大抵の場合、それらは
聖俗の資格を併せ持つ「宗教騎士団」を指します。
そんななかでも、「三大宗教騎士団」と言われるのが、
ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)、ドイツ騎士団、そして、
陰謀論界隈で有名なテンプル騎士団です。
ヨハネ騎士団員たちとシスター medival.seesaa.net
ヨハネ騎士団(マルタ騎士団) maltatou.com
彼らは別名では、ホスピタル騎士団(Knights Hospitaller)
とも呼ばれていました。
ホスピタル騎士団(Knights Hospitaller) history-maps.com
ヨハネ騎士団は、第1回十字軍の際、傷病兵の救護に
あたったことに始まり、ロードス島を本拠として地中海
で活躍しましたが、オスマントルコ軍に追われ、のちに
マルタ島に移っています。現在でも「マルタ騎士団」と
いう名前で国際人道団体(というよりも一つの国家)と
して活動を続けているようです。
ドイツ騎士団 history-maps.com
ドイツ騎士団は、第3回十字軍で成立し、プロイセン
(ドイツの前身)の東方植民運動で活躍しました。
ヘルマン・フォン・ザルツァのドイツ騎士団 cookie-blog.com
テンプル騎士団は、1119年にエルサレムにて設立され
ました。その名称は、かつてソロモン王の神殿(temple)
があった場所に本拠地を設けたことに由来します。
テンプル騎士団(Order of Templars) note.com
なお、「テンプル騎士団」は、別名では「聖堂騎士団」
と言います。
テンプル騎士団(Knights Templar) pixabay.com
歴代教皇の庇護を受けたこともあり、テンプル騎士団
には諸侯からの寄進が相次ぎ、その勢力は全ヨーロッパ
の国々に拡大しました。
テンプル騎士団(Knights Templar) coconala.com
彼らの残したもので最もよく知られているのが、世界
最古の銀行システムです。
王侯貴族を相手にし、貸し付け、財産管理、為替業務
まで扱ったテンプル騎士団は、「国際銀行」として莫大
なる富を築くのです。
ところが、
そんな富が彼ら自身の首を絞めることになってしまう
のは歴史の皮肉と言わざるを得ません。
AD1307年、フランス王フィリップ4世は、それらの
富と金融システムを手中に収めるべく、テンプル騎士団
の弾圧を強行し、教皇クレメンス5世もそれに手を貸す
ことになります。
テンプル騎士団に悪魔崇拝や同性愛嗜好などの異端と
しての罪状を着せ、騎士団に解散を命じました。
この一斉弾圧が実施されたのが、10月13日の金曜日で
あり、「13日の金曜日」が不吉な日と言われているのは
このことに由来しています。
以上、
『カクレマショウ』やっぴBLOG内の記事
(blog.goo.ne.jp)より、適宜に抜粋引用、加筆修正して
構成してみました。
ちなみに、
テンプル騎士団と他の騎士団
映画『ダ・ヴィンチ・コード』の大ヒットによって、
「シオン修道会」なる秘密結社が注目されることになり
、この結社の実行部隊(攻撃隊)として、
テンプル騎士団の紋章
「テンプル騎士団」が召集され、その残党が現在 、巷に
知られるところの「フリーメーソン」を組織したとか?
フリーメーソンのシンボルマーク
そして、
この「シオン修道会」なる秘密結社に名を連ねて
いたのが、我らがレオナルド・ダ・ヴィンチで、
シオン修道会の紋章
しかも、
彼は歴代総長のひとりであったというのですが・・・
画像元:casie.jp
むろん、これは陰謀論界隈ではよく知られた話であり、
興味を惹かれますが、限りなく眉唾物だと思われます。
さて、
思いつくままに筆を進めてきた関係で文章にまとまり
がなく、とっちらかしの印象が拭えませんが、
これも、自称『ダ・ヴィンチの罠』風味ということで
勘弁してください。
下記は、19世紀の画家ギュスターヴ・ドレによる戦う
女性戦士のエッチングです。
『絵で見る十字軍物語』に掲載されている「強き女」の
イメージですが、
フロリン・ド・ブルゴーニュ(ギュスターヴ・ドレ) hannaandart.com
この女性は、第1回の十字軍に夫と共に参加していた
フロリン・ド・ブルゴーニュ(1083年-1097年)です。
彼女はブルゴーニュ公ウード1世の娘で、デンマーク
の王子スヴェン( Svend Korsfarer, 英:Sweyn the Crusader,
1050年頃-1097年)の妻です。( Florine of Burgundy )
二人は十字軍に参加しますが、エルサレムへと向かう
途中でトルコ勢と交戦し、共に戦死したのでした。
十字軍の遠征 history-maps.com
イスラム側の記録にも、キリスト教側に武装して戦う
女性がいるとあり、そのような女性たちは、頭から足の
先まで武装し馬を巧みに操り、男に負けない闘いぶりで
あったと言います。
落馬させて兜(かぶと)をはぎ取り初めて女性である
ことに気づいたと、感心しながら書き綴っています。
中近東地域に打ち立てた十字軍の国々は、常に周辺の
イスラム勢力に脅かされていました。
このような環境下に生れれば、女性であろうと自衛の
ためには剣を手にしたでしょう。それに世は、騎士たち
がもてはやされた中世です。
少しばかり気が強い女性ならば、甲冑をつけ槍をもち
剣を振うことも、さしたる抵抗感もなしにやれたに違い
ありません。
なにしろ、殺されるか、そうでなければハーレム行き
かのいずれかだったのですから ・・・
以上、塩野七生 著『絵で見る十字軍物語』(新潮社)
より、適宜に抜粋引用、加筆構成いたしました。
ところで、
エルサレム王国 history-maps.com
多くの女性たちが自ら鎖かたびらを着て、兜をかぶり、
剣を操ったようで、たとえばシチリア島のノルマン人の
妻たちがそうであった他にも、勇敢に戦い、剣を振るい、
矢を放ち、弩(いしゆみ)を敵に向けた貴族の女性たち
の数は、決して少なくはないそうです。
しかし、大半の女性は戦士というよりも援助者であり、
水を汲んできたり病人を看病したりしていたわけです。
もっとも雄弁な証言は、『第一回十字軍記』を書いた
無名の著者の記録でしょう。
それによると、十字軍は、ビザンツを去って小アジア
に向かいニケーアを占領した後、聖地に進んで、初めて
トルコ軍とあいまみえたそうで、そこでの女性の活躍が
活写されています。
ドリレウムの戦い history-maps.com
このドリレウムの戦いにおいても、女性たちは十字軍
の戦士たちに飲み水を運んだり、戦う夫たちに大声援を
送るなどしていたそうで、戦いは見事に十字軍の勝利で
終わったのでした。
然は然りながら、
イスラム(ムスリムや異教徒たち)の側にも、女性の
戦士(つわもの)がいなかったわけではありません。
例えて言えば、『解放されたエルサレム』に登場する
タンクレディ(タンクレード)は叙事詩的な英雄として
描かれ、架空人物である異教徒の女性戦士クロリンダと
アンタキア(アンティオキア)の王女であるエルミニア
の二人から愛されることになります。
タンクレーディの肖像画
19世紀フランスの画家メリー=ジョセフ・ブロンデルによる想像図
「タンクレディとクロリンダの戦い」アンブロワーズ・デュボワ作 meiga-louvre.amebaownd.com
『タンクレーディを襲うクロリンダ』フィノーリア画 ja.wikipedia.org
十字軍との戦いにおけるイスラム側の女性も少なから
ず存在しますが、架空の女戦士クロリンダ・恋する乙女
エルミニア・妖艶な魔女アルミーダなど三人のヒロイン
が特に知られているようです。
「木にタンクレディの名前を刻むエルミニア」ピエルフランチェスコ・モラ作 meiga-louvre.amebaownd.com
『エルミニアと傷ついたタンクレディ』グエルチーノ画(1619年)
『タンクレードとエルミニア』ニコラ・プッサン画(1649年)
アルミーダは、最強のキリスト教騎士リナルド(Rinaldo)を誘拐します。
『リナルドとアルミーダ』フランソワ・ブーシェ画(1734年)ja.wikipedia.org
「魔法の宮殿のリナルドとアルミーダ」ジャンバッティスタ・ティエポロ作 meiga-louvre.amebaownd.com
さて、
女性のつわものたちの話は、この辺りで切りあげて
「十字軍の戦い」に話を戻しましょう。
下記に掲載した絵画は、
1291年のアッコン包囲戦を描いた油絵。城壁上でメイスを振り上げる赤い外衣が聖ヨハネ騎士団員。
その横で槍を振るう白い外衣がテンプル騎士団員である。1845年、ドミニク・ルイ・パプティ作
画像元:ja.wikipedia.org
十字軍が建国したエルサレム王国の首都であるアッコ
がイスラム勢に襲われている場面ですが、この絵画には
抵抗する聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団の勇猛果敢な
姿が描かれています。
アッコは1291年陥落しますが、生き残った騎士団らは
キプロス島に逃げて生き延びることになります。
(ウィキメディアコモンズより)
十字軍の遠征を総括すれば、ローマ教皇の号令で各地
に騎士団が編成され、聖地エルサレムの奪還を目指して
行軍したわけですが、
合計8回に及んだ遠征のうち、聖地エルサレムの奪還
という目的を果たしたのは、1099-1187年と1229-1244年
のみであって、中には東ローマ帝国を倒してラテン帝国
を打ち立てた第4回十字軍や教皇に破門されたまま遠征
に出掛けたフリードリヒ2世の第6回十字軍など、聖地
エルサレムに到達できなかった十字軍も多かったのです。
第6回十字軍(Sixth Crusade) history-maps.com
総じて当初の目的に照らし合わせれば首尾よく進んだ
とは言い難いもので、実態として各地で虐殺を繰り返し、
聖地奪還のためならば、如何なる手段も選ばないような
残虐な手法が、今日の視点から捉えると甚だ芳しくない
行為に映るわけです。
しかしながら、
結果としては、それまで封建領主として、それぞれの
領地において一国一城の主として君臨していた騎士たち
が徒党を組んで大移動した影響は大きいものと言えます。
交通の発達や、貨幣・物資の流通によって商業が栄え、
イタリア各地の諸都市が発展したことは、ルネサンスの
気運を高めるキッカケや素地を生み、その効果としての
経済活動が静かにゆっくりと動き始めたのでした。
イタリア・ルネサンスの三大巨匠
画像元:blogs.yahoo.co.jp
しかし反面においては、成功裏に終わらなかったこと
でローマ教皇の地位や権威は失墜し、騎士は遠征のため
の借金のカタに自らの領土を商人たちに預けていたので、
これらの借金は返済されないままになります。
その結果として、騎士階級は没落し、国王たちの権力
が強まることになったのです。
ところで、
宗教と軍事行動が深く結びついていることは、現代に
おいてもよく見られる現象ですが、軍が動くことによる
利権に群がる連中と純粋な信仰心から宗教を支えている
人々との間に、隔絶されたギャップという大いなる矛盾
が生まれてしまうのは如何ともしがたいのでしょうか?
振り返れば、
教皇庁は「十字軍」の廃止・解散を宣言していません。
その意味からは「十字軍」はまだ続いていると言える
のかもしれません。
ですが、今となっては最早、「十字軍」は現実的では
ない、実情にそぐわない骨董品です。
一般的に「骨董品」には、希少性や古くて価値のある
品物などの意味での捉え方が多くなされますが、一方で
は【古いだけで無価値な物】と言う意味合いもあります。
この場合には、その両方と言うか、中間の意味合いで
「十字軍」を「骨董品」として扱っています。
東西の教会の分裂を越え、「キリスト教世界の解放」が
目的のひとつであったことに加えて、「ヨーロッパの統一」
というもうひとつの目的が、欧州連合(EU)という形で
紛い物ながらも現在において実在しているからです。
Photo Adobe Stock 欧州連合(EU) diamond.jp
つい先般までは、「聖地エルサレムの解放」が欧州や
米国などで叫ばれ、その反動がイスラエル共和国の建国
に繋がっているわけですが、中世の世界では実のところ
ローマ教皇を頂点とする教会によって管理される秩序の
実現に力点が置かれていたわけで、十字軍はそのための
手段にすぎなかったのです。
〝パクス・ロマーナ〟と言われる全盛期のローマ帝国
が平和と呼ばれたのは、領土内から異端分子である盗賊
や海賊たちを徹底して追い出したからでしょう。
多くの国が分裂していた中世ヨーロッパでは、それを
教皇の権威と十字軍によって実現しようとして失敗した
わけです。
「秩序の維持」は、ローカルごとに実行しても効果は
限定的で、犯罪者たちの逃げ場がなくなるくらい全体的
に実施しなくてはまったく意味がないわけです。
宗教改革を経て教会の体制自体が崩壊しつつある現在
においては、グローバル化やグローバリズムの考え方が
、それらを代弁しているのかもしれません。
今日の「米国 VS イスラーム」のような構図に矮小化
された「侵略者としての十字軍」としてのイメージは、
スルタン、聖戦を宣言する history-maps.com
当時はもちろん、近年まで指摘されることは少なく、
こうした見方は最近の対米批判と同類で、歴史上での
十字軍とは直接的には無関係なのものと考えます。
むしろ、地政学的観点からの地中海における制海権
の方が問題であり、ヨーロッパの入口に陣取っている
トルコとの関係が当時から現代までずっと尾を引いて
いる重大なる要素なのです。
畢竟するに、十字軍の功罪を敢えて問わば、
ヨーロッパの経済的な意味での十字軍の「功」の面は
イタリア諸都市の商業の活発化であって、これによって
後のルネサンスの土台が築かれたわけです。
イタリア・ルネサンスの三大巨匠
画像元:www.el.tufs.ac.jp
先にも述べたように、
それと同時に、騎士階級は没落し、土地が主体の経済
から貨幣経済へと移行してゆく過程において国王の権力
が強まり、後々の専制君主国家から絶対王政への道筋が
出来上がってしまうことにもなるのですが ・・・
「罪」としては、急速に発展する地中海貿易での結果
、各国による船の拿捕合戦が相次ぎ、東地中海の経済を
停滞させ、エルサレム国の滅亡とオスマン帝国の勃興を
招くことになったわけです。
19世紀の初頭になると、オスマン帝国に対する対抗策
としてヨーロッパの諸国は意思統一をはかり、かつての
十字軍と同じ目的で神聖同盟を結びます。
つまり、
その正体は姿かたちを変えた「救世主」の復活であり、
「唯名論」に連なるグローバリストたちの大いなる野望
の種蒔きが十字軍の遠征だったと言えるかもしれません。
さて、次回では、
ディープステート consultancymk.p-kit.com
DS(ディープ・ステート)とも表現されることのある
闇の勢力としてのグローバリストたちの暗躍と「唯名論」
との関連性についてメスを入れてみたいと考えています。
彼ら、
DS や グローバリストたちは、いわゆるところの
「秘密結社騎士団」(シークレットオーダー)
なのかもしれません?
確か、日本のパンクロックバンドの中に
「騎士団」とかいう連中がおったのぉ!
「騎士団」じゃなくて、『氣志團』よ!
リーゼントに学ラン姿で、もう、断然
つっぱりハイスクールって感じよね!
「横浜銀蝿と勘違いをしとらんか!」
「ツッパリ High School Rock'n Roll !」
・・・ って、おいおい、
(騎士団と氣志團と横浜銀蝿か!)
Nazism=Zionism❓(シオニズムはナチズムなのか❓)
「歴史を繰り返すな」と訴えるスペインでのデモのプラカード newsweekjapan.jp
はたまた、ヒトラー=プーチンなのか?
スターチルドレン www.konohana-yuan.jp
Nazis & Israel(ナチスとイスラエル)X.com
スターチルドレン note.com
「横浜銀蝿」が「氣志團」に見えるとは世も末だな!
・・・・ ・・・・ う~む (^▽^;)(^^ゞ
… to be continued !!
なんだかなぁ!
ボールドウィン・オブ・ブルク、エデッサ伯、エルサレム王 history-maps.com
1291年のアッコン包囲戦を描いた油絵。城壁上でメイスを振り上げる赤い外衣が聖ヨハネ騎士団員。
その横で槍を振るう白い外衣がテンプル騎士団員である。1845年、ドミニク・ルイ・パプティ作
画像元:ja.wikipedia.org
タンクレッドの失地回復(Tancred recovers lost ground) history-maps.com
一方的で、独善的で、排他的でもあり、独断と偏見に
満ちた侵略行為にして、ややもすれば「唯名論」なる
イデオロギーに貫かれた現代におけるグローバリズム
に連なるムーブメントであったように感じています。
画像元:christianpure.com
ダ・ヴィンチの推理は続きます。