イメージで語られることが多いレオナルド・ダ・ヴィンチです
が、そんな肩書や教科書的な説明は「くそくらえ」の
とんでもない“食わせ者”でもあるというのが、本稿の
根底に流れる考え方のひとつです。
同時に、それはさすがはダ・ヴィンチという称賛でもあり、
それにしても … という尻毛を抜かれるような唖然さに
呆然となりつつも陶然とさせられる痛快さとともに適度に
ふらつかせてくれる微妙な不安感とが混ざり合ったような
不思議な好奇心を喚起してくれるものでもあるのです。
酔い心地に散りばめられた不安感とは、彼がいったい
何者であり、何を考え、どんな計画をもっていたのか
そしてそれは、
どこまで実行(遂行)され、何処で頓挫(挫折)あるいは
中止(中断)を余儀なくされたのか
それとも、見事に本懐を遂げて、完成(達成)の暁と
いう日の目を見ることができたのか、どうなのか
漸(ようや)くにして、
地球が丸く、且つ、太陽の周りを地球自身
が回っているという事実が解りかけてきた時代に …
『アダムとエヴァ』 アルブレヒト・デューラー 画
全部で15000ページにも上ると言われているダ・ヴィンチ
が残した素描や手稿(現存する約 5000ページ)のなかで、
「神」 について触れられている書き込みは意外にも
少なく、また教会とは、絵画の仕事や代金の支払いなど
のトラブルや揉め事を抱えていたり、教会が好まない種類
の絵をいくつも描いていますが、ダ・ヴィンチは異端者
だったのでしょうか あるいは独自のキリスト教に対する
観念を持つ無神論者だったのでしょうか
「神」 そのものへの言及は極めて少ないのですが、
間接的な表現や教会および聖職者や修道士に
関する文章はちらほら散見されますので、参考までに …
岩波文庫 『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)』
より、いくつか抜粋(補足アレンジ)して紹介します。
聖徒が裸であるかどうかたずねるがいい。
俗物(パリサイ)とは、聖なる坊主を意味する。
イカサマ師の道具は神々に対する人間の呪詛の種子
である。
ペテンやにせの奇蹟を商売にして大衆をだましていた
者がたくさんいた、万一 誰かがそのペテンを見破った
ら、連中はそのひとを処罰するに違いない。
わたしが神様を嬰児として描いたとき、あなたはわたし
を牢屋へ投じた、が、 わたしが神様を大人に描けば、
あなたはもっとひどい目にあわせるに違いない。
そして、さらに …
(キリスト教徒については)子の教えを奉じている大衆
はもっぱら母の名において寺院を建てるであろう。
(聖職者司祭については)自分の仕事をとりおこなう
ために、いときらびやかに装う人々が多数あらわれる
であろう。 衣装は前垂のごとくに作られるであろう。
(売られる十字架については)われは見る、またしても
キリストが売られて十字架にかけられたもうのを、また
聖徒達の殉教するのを。
(天国を売る教会商売については)数知れぬたくさん
の人々が、おおっぴらにしかものうのうとして一番大切
なものを、そのものの持ち主の許可も受けずに、売り
飛ばすであろう。 もちろん、それは彼らのものでも
なければ、また 彼らの権限の内にあるものでもない。
それなのに、人間の法律ではこれをどうすることもでき
ないであろう。
(大昔の聖徒のおかげで生計を立てる修道会の宗教
については)死せる人々が、千歳の後、生ける多数の
人々に、生活費を与えることになろう。
(言葉を費やして莫大な富をもらい天国を与える聖職
系修道士については)見るべからざる銭は、その銭を
費消する多数の人々をして凱歌を奏さしめるであろう。
(教会と修道士の住居について)修行、勤労、貧しき
生活と貧しき物を放棄して、威風堂々たる大廈高楼と
富貴の中に往いて住み、これぞ神の友たるべき道なり
と広告するものおびただしくあらわれん。
・・・ などと綴っています。
これらの批判めいた内容を見る限りにおいては、教会
や修道士たちに対して、かなり激しい憎悪と厳しい反骨
の視線を浴びせていたことが窺えますが …
そうしたダ・ヴィンチの考え方を知ってもらったうえで、
『ダ・ヴィンチの罠』の封印を解く第2の鍵である
謎の人差し指の意味するものとは
… に迫っていきたいと思います
ところで、
「神」の教えを唱え導くべき教会や修道士には
批判的であったダ・ヴィンチは 「神」そのものについて
はどのように考えていたのでしょうか
先の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)』では、
(祈りとして)主よ、わたしはあなたに帰依しまつる。
一つには当然あなたに捧ぐべき愛のゆえに。
二つにはあなたこそ人の子らの生命を延ばしも縮めも
なしえたもうがゆえに。
原初の動かし手(たる神)よ、あなたの正義は何と驚嘆
すべきでありましょう。
あなたはいかなる力にも、その必然的結果という秩序
と性質とを欠くことをゆるし給わなかったのです。
教会には不審の目を向けていたダ・ヴィンチも「神」
そのものの存在は認めていたような文言ですね。
さて、
“謎の人差し指”の意味ですが、“人差し指”と
呼ばれるように、この指は特定の物体や人物を指し示す
ときに、その位置や方向などを真っ直ぐに伸ばした指先
で知らせる目的で使用されますが、それを真上に向けて
真っ直ぐ伸ばした場合は、数字の「1」に相当し、「1人」
や「1つ」という意味にもなりますし、唇のあたりに持って
いけば、「シーッ」 静かにというポーズにもなります。
加えて言えば、手のひらの向き如何では、その意味する
ところも大きく違ってきます。
「天を指し示す」のなら手のひらは正面か横向き
で、「1人」や「1つ」の場合も手の甲は見せないでしょう。
ならば、
『最後の晩餐』でのトマスのように手の甲を相手に
向けている場合にはどんな意味が考えられるのでしょう
この絵を従来通りに「主の晩餐」における1シーン
であるとすれば、「裏切り者は1人ですか」と主イエスに
尋ねているトマスで一見 妥当なようですが、手首を捻って
まで手の甲をイエスに向ける必然性がありません。
それならば、手に残る釘の傷痕に「この指を差し入れた
ならば信じる」とする復活したイエスの姿に訝(いぶか)る
気持を隠せない疑り深いトマスの方が手の甲の向きから
はむしろ自然な感じがします。
こうしたポーズは、ペテロの不自然に捻られた右手とも
共通するもので、あきらかにダ・ヴィンチの意図したサイン
であると考えるべきものなのです。
そこで、同じようなポーズの作品がないかと探してみると、
はっきりそれだと判る作品が他に2つ見つかりました。
ひとつは、『聖アンナと聖母子』の下絵のモデル
となったデッサンにおける聖アンナの左手の人差し指です。
『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』のデッサン
『聖アンナと聖母子』
もうひとつは、『洗礼者聖ヨハネ』の右手が示す
天を指差すが如くに突き立てられた人差し指です。
『洗礼者聖ヨハネ』
『聖アンナと聖母子』は未完のままともいわれて
いますが、『モナ・リザ』と『洗礼者聖ヨハネ』
とともに終生に亘り、ダ・ヴィンチの手もとに残される3作品
のうちの2つに“謎の指”が関連しているのです。
これは単なる偶然で片付けられるものなのでしょうか
【ダ・ヴィンチが手放さなかった3作品】
『聖アンナと聖母子』 『モナ・リザ』 『洗礼者聖ヨハネ』
そこには何か共通する秘密があるはずですが …
今回のテーマとは直接的な関連性は薄いので、それに
ついての追求は別の機会に譲りたいと思います。
通常、この天を指す『洗礼者ヨハネ』のポーズは、
「あとからもう1人やって来ますよ」 という救世主キリスト
の到来を告げるサインの意味があるとされますが …
それならば、カメラ目線で首を傾げ、しかも、わざわざ手
の甲を捻ってまで天を突き刺すかの如き悪魔的な挑発に
も映るような表現にする必然性は全くなく、笑顔のままに
「天から救世主がやって来ます」でいいわけですね。
それに、
『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』の
デッサンでは、聖アンナの左手は、いかにも意味ありげに
輪郭のみが浮き出るように彩色をせずに描かれていて、
それ相応のメッセージを込めたサインとしての別の
意味の存在が大いに疑われるものとなっています。
『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』のデッサン
それらを考慮すると、『最後の晩餐』でのトマスの
人差し指にもなんらかの隠し事やメッセージが暗示されて
いるはずであると勘繰りたくもなりますよね
ましてや、他の使徒たちとは違って、
身体は描かれずに、顔(首から上の頭部)と右手の指
だけの登場ですから、なおさらというものです
いずれにしても、
素直に見たままに感じることが大切ですが、今のところ、
イエスに向けて立てられたトマスの人差し指は
「裏切り者は1人ですか」と尋ねるポーズ
「傷あとに指を差し入れる」と疑るポーズ
… の2つだけですが、他に何が考えられるでしょうか
思いつくままに挙げてみれば、
ラファエロが『アテナイの学堂』で、ダ・ヴィンチを
プラトンのモデルとして描き、且つ、その右腕は天に向けて
人差し指を突き上げているポーズを採用していることからも
当時のダ・ヴィンチのイメージとして推察されるのは …
「二つがひとつ」(プラトニズム)の暗喩かも
『アテナイの学堂』
「プラトン(ダ・ヴィンチ)&アリストテレス(ミケランジェロ)」
人差し指によるダ・ヴィンチ式のF〇ck you!かも
トマスの顔つきやイエスの情けない表情に、聖ヨハネの
挑発的な眼力と冷やかな薄笑いにもみえる口許から侮蔑
や侮辱を意味する(手の甲をみせて中指を立てる)ポーズ
今で言うところのF〇ck you ! が連想されます。
単なる思い過ごしであって、特に意味はないのかも
… といったようなところでしょうか
それでは、他の作品から「指で何かを指し示す」ポーズを
探してみると、
ダ・ヴィンチの真筆ではないものの素描を元に弟子たち
の誰かが制作したとされる 『荒野の聖ヨハネ』
別名 『バッカス』が見つかりました。
右手の指はナナメ上を指し、左手の指は下にある泉を
指しているようですが、手にはブドウの房を携えています
ので、そこに深い意味はなく、単に形状がそうなっただけ
であるとも言えなくはありません。
これが『洗礼者聖ヨハネ』の右手のように真上
を指さしているのならば、「天上天下唯我独尊」
のブッダのような、あるいは 「天国と地獄」 的な
メッセージとか、いろいろに想像されるのですが …
この仕草(場面で)の解説としては、
個人的には「(救世主は)すぐそこまでやって来ています
この泉の水で洗礼を施すのがわたしの使命なのです」
… とでも言っているのでしょうかねぇ
『洗礼者聖ヨハネ』のヨハネとは、顔もそっくりで
、どうにもカメラ目線が気になるところですが …
それではここまでをまとめてみましょう。
まだ、気づかないメッセージがあるのかもしれませんが、
上記した~のいずれかの意味合いか、さもなければ、
複合的に解釈できるように指サインで遊んでいる 罠に
嵌めるためのエサを撒いているのかもしれませんね
個人的に期待するのは、
無責任な野次馬根性では、 のF〇ck youだと
したらズッコケに倍旧する拍手喝采なのですが …
妙に臨場感あふれるカットになっていますしねぇ
但し、
「主よ、わたしはあなたに帰依しまつる」 と祈っていた
ダ・ヴィンチが「神」に対して、そのような不遜な表現を
するはずはなく、それがイエスに向かって行なわれている
のだとしたら、それはイエスのようで「イエス」ではない
何者か、はたまた、神のようで「神」ではない何か
に猛烈なる抗議しているということになるのですが …
その辺りをもう少し追いかけてみたいので、
『ダ・ヴィンチの罠 謎の指』は、
『岩窟の聖母』の天使ウリエルと〇〇〇
『ダ・ヴィンチの罠 指芝居』 として
次回へとつづきます
「まさか、真実なのか !!」
「嘘なのか !!」
… to be continue !!
「良い子ね、ヒツジさんをイジメちゃダメよ」
コメント一覧
むらさき納言
ココナン
ココナン
ココナン
むらさき納言
バカボンのパパのパパ
最新の画像もっと見る
最近の「ノンジャンル」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事