< アリ は、元々は人間であった > と言うものです。
昔の人間たちは、みんな大層な働き者で農業に精を出す
のはよいのですが、強欲で隣の畑の穀物を盗むような悪い
癖がどうにも抜けなかったのだそうです。
それを知ったゼウスが怒って 人間 をアリ へと変えて
しまったのでした。
ところが、アリ になっても、そんな心根までは変えること
ができなかったのか、今でもアリ は働き者ではあるけれど
他所(よそ)様の土地を歩き回っては、穀物や獲物を自分の
巣穴に運んでいるのです。
そうかと思えば 『伊曽保物語』 には、こんな話も …
――― 『アリとハエ』 ―――
あるとき、ハエがアリに自慢話をしました。
「俺様ほど恵まれた者はいないだろう。 神様への犠牲
(いけにえ)の味見はできるし王様の頭にだって止まれる。
その気になれば、慎み深いご婦人方の唇だって盗めるし
なにも働かなくても好き勝手に楽しめるんだよ」
するとアリが切り返します。
「神様と一緒に食事ができるのは、確かに名誉なことかも
しれませんが、それは招待された場合のことです。
招かねざる客ではなんにもなりませんし、身勝手なだけ
の嫌われ者なのですよ。
食事のたびに追い払われるわけだし、王様やご婦人方
の唇のことにしても恥ずべき無作法な話で隠しておくべき
内容なのに、あなたはそれを自慢しているのです。
なんの働きもないまま、いつもは壁際で糞を食べている
じゃありませんか。
それに、秋になれば弱って飛べなくなり、見苦しいかぎり
ですよ。
その点、私は一生懸命働いて、いつでも準備しています
から、冬にあなたが寒さで凍え死んでしまいそうな時にも、
豊かな食物に囲まれた巣穴で安心して暮らせるのです」
と言って、見事にハエの高い鼻をへし折ったのでした。
なんてね、ちょっと 2号 風にアレンジしてみましたが …
教訓:役に立たないことはすべきではない。
意味のない自慢話で見栄を張る人たちって、案外と多い
ですよね。
放っておいても、徳は自然と滲(にじ)み出てくるものです。
何だか、『アリとセミ(キリギリス)』 の話にも少しだけ
似てなくもないけど、ハエは五月蝿(うるさい)だけじゃなくて、
いろんな意味で無礼千万ですよね。
むしろ、前回 <7> の 『アリとミツバチ』 の話と対比
させて 『アリとハエとミツバチ』 の話を創作しても
面白いのかも …
… と、ここまでは 1号 さんのたってのリクエストで
前回、『アリとセミの物語 <7>』 のなかで紹介できなかった
<アリ>についての補足分を付け加えてみました。
ところで、
「ウサギ とカメ をモチーフにして、世の中の仕組みや
カラクリを、《八百長レース》 というかたちで表現して
いるのが、イソップの 『ウサギとカメ』 の物語である」
と言うのが、『 ウサギとカメの物語 <1>~<7> 』 を通じての
1号 さんの一貫する解釈だったように思います。
そして、アリ とセミ (キリギリス) を共演させた今回の
物語では、善悪、清濁、強弱、甘酸といった人間の所業の
一切の振り幅と人生の機微(喜怒哀楽)を労働を介して
各人のそれぞれの人生 に当てはめて考えさせようとして
いるのが、『アリとセミの物語 <7>』 のなかでの 1号 さん
の論旨のようなのですが …。
それは、ただ単に、
「勤勉に働く人生の方が、野放図に歌い暮らすよりも良い」
と言っているわけではないようなのです。
我々はどうしても、
こつこつと努力して長生きをするような慎(つつ)ましい
アリ の人生を選ぶのか
短くも、面白おかしく愉快で楽しいセミ (キリギリス)の
人生の方がいいのか
といった二者択一の問題に走りがちですよね。
『アリとセミの物語 <7>』 に登場した …
http://sun.sp.teacup.com/japan-aid/216.html(参照)
『アリとミツバチ』 の話を例に引くまでもなく、ただ働くだけ
の人生では、なんらの意味も為さないのでしょうか
また、面白おかしく愉快で楽しいだけの無計画な人生では
いけないのでしょうか
こうした疑問が当然のように出てくるわけですが …。
「尊敬に値する仕事や生き方を実践しなさい」 と、までは
言わないけれど、せめて、お世話になっている社会や地域に
貢献するような …。
いえ、それはちょっと無理でも、せめて、身近にいる人々に
恩返しをすることくらいは、必要かつ十分なる条件として
求められているのかもしれませんね。
ですから、
何事も他人の所為にしがちな昨今の風潮ですが …、
「おかげさまで」 という気持を忘れたくないものです。
さてと、話を元に戻せば、
単純に計画的なのか、無計画なのか、というような話では
なく 「働かざる者、食うべからず」 の原則の上
に、「禁欲的に懸命に働くも良し」、「遊び歌い暮らすも良し」、
また、「適度に遊び、適度に働くも良し」、あくまでも、生き方
は、本人の自由な意思による選択であり、結果については、
自己の責任において 「その代償を支払う」 という
のが、イソップの真意なのでしょう。
「夏に歌っていたなら、冬には踊っていればいい」 と言う
アリ のセミ(キリギリス)に対する最後の言葉のなかに、
隠されたイソップの本当のメッセージが代弁 されている
のかもしれません。
それは同時に、
「未来を見通した言葉でもあった」 と
言えなくもないのです。
過去において、その日の糧や収入を得るためには、額に
汗して働くことしか手段がなかった時代のアリにとっての
セミ(キリギリス)は、怠け者のごくつぶし以外の何者でも
なかったでしょう。
時を隔てた現代社会では、ライフスタイルは様変わりして、
肉体労働以外の頭脳労働や十分に価値のある多種多様な
職業と仕事内容に満ち溢れています。
人生には、仕事のほかにもやるべきことがたくさんあって、
人々はさまざまなライフパターンやライフサイクルのなかで、
それぞれのマイライフを模索しているのです。
そこで、現代版のイソップ物語では、
働きすぎて 過労死 した悲惨なアリ たちの物語とか、
シンガー・ソング・ライターとして、自らの音楽ライブの切符を
売った収入で、冬のみならずに、一生涯を悠々自適に暮らす
セミ(キリギリス)の話や、仕事と遊びを上手に両立させて
生活をエンジョイする アリギリス タイプの出現など …、
多種多彩、多士済々の様相を見せています。
ライブ・オン・ステージのチケットに高額のプレミアムがつく
スーパースターのセミ(キリギリス)を必死に追っかける
ファンのアリ たちの姿を、すでにイソップは、2600年も前に
見ていたのかもしれません。
『アリとセミ(キリギリス)』 の物語が、<働く> ことを
テーマのひとつにしているのなら、<はたらく> と
いう言葉には、<傍(はた)を楽にする> という
意味もあると聞き及びます。
ならば、
セミ(キリギリス)が、傍(はた)を 音 や目で 楽 しく
させるような …、そういったミュージシャンや芸術家といった
芸能人やアーチストであれば、それはそれで、また、社会に
貢献あるいは還元していると言えなくはないのです。
ひょっとしたら、1号 さんが、
イソップ物語 を 《予言の書》 だとする根拠は、
こうしたことを指して言っているのかもしれませんね。
よぉ~し、俺 も、プロダクションに所属して、
スーパースター を目指すぞ
… と、奮起した途端に 1号 さんが、
こら、2号 ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと
働けぇ~ですって
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むらさき納言
透明人間2号
2号の2号
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