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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 直観力

  「優れた画家はふたつのものを描く。
     人と人の心の動きである」


          (レオナルド・ダ・ヴィンチ)

      

 今回はこの言葉の意味するものから掘り下げてみます。

 この言葉の核心はモチーフやモデルのみならず鑑賞者を
その対象の第一義においているということです。

 一般的に解釈すれば、「人と人の心の動きである」の部分
は、「人(モデル)と、人(モデル)の心の動き」 であると理解
しがちですが、「『人と人』の心の動き」、つまり、人(モデル)
と鑑賞者の双方とも、あるいは 多くの鑑賞者のそれぞれの
心の内を意図しているとも言えるわけです。

 その核心において考察すれば …

 今で言う エコロジー 的な考え方をベースにして、
自然環境の破壊地球危機につながることを
危惧していたダ・ヴィンチが『モナ・リザ』を制作する
にあたり、インスパイア(誘発)されたのが『黙示録』
記述で、使徒ヨハネに啓示されたいくつもののなかから
インスピレーション を受けていたことは背景の
隠し絵や構成からも疑いようもないわけですが、そのように
考えるのは2号妄想に過ぎないのでしょうか

      

 それとも、ダ・ヴィンチにつながる何らかの直観力
作用した結果なのでしょうか


 「同じ眼でながめた対象があるときは
   大きく、あるときは小さく見える」


          (レオナルド・ダ・ヴィンチ)

 同じ自分の眼で捉えた対象でさえ、その日の気分や状況
次第で大きくも小さくも見えてしまうのならば、ましてや他人
が同じ対象を見た場合に同じように見えている保証が一体
どこにあるというのでしょうか

        
            【カニッツァの三角形】

 上の図形は、イタリアの心理学者 ガエタノ・カニッツァ
発表したもので現実には存在しない三角形が見えてしまう
という錯視の解説用に考案されたものです。

 周辺にあるパックマンのような3つの黒い図形と黒い線で
作られる正三角形の中心に無地の逆三角形が知覚される
と思いますが、これは主観的輪郭(subjective contour)
と言われる効果で、この無地に見える逆三角形は周辺より
も明るく感じられます。

 しかし、実際には中心部と周辺の輝度は等しく、これを
パックマン刺激と呼ぶこともあります。 

 ダ・ヴィンチが『モナ・リザ』『最後の晩餐』
などに施した細工やトリック(隠し絵その他)は、錯視を利用
したものではありませんが、指摘されるまでは、そのものが
眼に映ることは 皆無であったとしても、一度なりとも示唆
されるとほとんどの場合、そのように見えてしまうという点に
おいては錯視に近いメカニズムがあるのかもしれません。

 人間の脳には補正機能が備わっていて、脳が勝手に
イメージして存在しないものを見せているわけですが、

 ダ・ヴィンチがそうしたことを理解していたかどうかは別に
しても、心の動きひとつで各人各様に見えるかたちや世界
が違ってくることを意識していたことは確かです。

  「優れた画家はふたつのものを描く。
     人と人の心の動きである」


 そのような微妙な人の心の動きに乗じて『黙示録』
登場する四つの生き物などを隠し描いたダ・ヴィンチですが



 その意図は、『黙示録』世界を暗に投影させる
ことで、視覚的メタファー(隠喩)を強調させる
演出を図ったわけです。

 殊に

 聖書は、メタファー譬え話のオンパレードで、
そこに創作的虚構の数々を感じ取ったダ、ヴィンチ
は自身の作品を通じてキリスト教の、それも特に新約聖書
に対するローマ・カトリック教会の欺瞞性を告発すること
を決意するわけですが、コペルニクスの地動説を擁護
して火あぶりにされたジョルダーノ・ブルーノや終身判決を
受けたガリレオのような直球勝負では身の破滅は必至
であり、コペルニクスのように自身の死を契機に公表する
ようなクセ球は趣味ではない性格のダ・ヴィンチには …

 落ちるカーブやフォークでもナックルでもチェンジアップ
でもない視覚的寓喩という超魔球での勝負
選択します。

 この辺りの件(くだり)の意味が明確でない方は …

 『ダ・ヴィンチの罠 地動説』を参考のこと。

 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/420.html

 ちなみに、

 ダ・ヴィンチよりも後輩にあたるコペルニクスやブルーノ
やガリレオを登場させて、野球の球種に譬えて解説をして
みましたが、これは隠喩(暗喩)ではなく、直喩(明喩)
ということになります

 こうして、『黙示録』をモチーフに徹底した秘匿性の
高い隠喩的描写を選択したダヴィンチでしたが、

 それでもなお、目の錯覚であり、偶然にそう見えるだけの
ことであるという言い訳が十分にできるような布石が見事
に打たれているのです。

 その証拠に、他にもネズミや鳥(ニワトリ)や犬(オオカミ)
や馬など、十二支を思わせる動物たちがわからないように
描き込まれているのですが、それをひとつひとつを挙げる
だけの紙幅も意味もありませんので、時間にゆとりのある
方は是非探してみてください。

 「何で十二支なんだ」とツッコミを入れたくなるくらいに
細心の注意を払った周到なる証拠隠滅作業ですが、

 常に『モナ・リザ』を手もとにおいて、繰り返し筆を
入れ直していたわけは、そうしたいくつものアリバイ作りに
精を出していたということだったのかもしれません

 さて

 「知るだけでは不十分である。活用しなければならない。
 意思だけでは不十分である。実行しなくてはならない」

 と、ダ・ヴィンチは言っていますが …

 『モナ・リザ』『最後の晩餐』などの作品は
、現代のCDやDVDとプレイヤーを兼ねた情報記録および
再生装置であると『ダ・ヴィンチの罠 小宇宙』
の最後に記しましたが、具体的にはこういうことです。

 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/429.html

 『モナ・リザ』が、レコーダーであり、プレイヤーでも
あるとは言っても、再生するには、まずはプレイヤーにCD
なりDVDをキチンとセットしなくてはなりません。

 言わば、その状態がドラゴン・レーダー(合成・合体画像)
だと思ってください。



 次いで、再生ボタンを押すことになるわけですが、電源が
入ってなければ作動しませんよね。



 この電源(電気)に相当するのが「直観力」です。


 ところで

 聖書には馴染みが薄く、ほとんど接する機会などない
我々、日本人でも『黙示録』という言葉には聞き覚えが
あると思います。

  「そして、第一の生き物はライオンに似ており、
  第二の生き物は雄牛に似ており、第三の生き物
  には、人間のようながあり、第四の生き物は
  飛んでいるに似ている」  『黙示録 4:7』




 何でこんな文章が聖書に書かれているのでしょうか

 奇妙でへんてこりんな内容はイエスが最も愛したとされる
弟子のヨハネがに昇って見たというを綴ったもので、

 「見よ、彼は雲と共に来る。そして、すべての目は彼を
 見るであろう。 彼を刺し通した者たちも見る」


            『黙示録 1:7』

 文中の彼とはイエス・キリストのことですase2

 現代訳では、どこかモヤモヤっとした感じで、ドラマチック
ではありませんが、昔の聖書ではもっとずっと劇的です。

 「見よ、彼は雲に乗りてきたる。衆目、彼を
見ん。彼を刺したる者もまたこれを見るべし」


         

 なんだか孫悟空筋斗雲みたいですが ・・・



 この一文を読んだだけで、即座に『黙示録』の本質を
見抜いたダ・ヴィンチは、それが作り物であると察知した
のではないか、と思われるのですが …

 天才は天才を知る。

 使徒ヨハネもまた天才ゆえの才を駆使して『黙示録』
を認(したた)めていたものと推察します。

 ヨハネは地中海に浮かぶ監獄の島パトモス島に島流しに
なっていたときに『黙示録』を書き上げますが、

 「『わたしは … ラッパの音のような強い声がわたしの後ろ
 でこう言うのを聞いた。『あなたが見ることを巻き物に書き
 それを、エフェソス、スミルナ、ペルガモン、テアテラ、サル
 デス、フィラデルフィア、ラオデキアにある、七つの会衆に
 送りなさい』」   『黙示録 1:10』

 これらの会衆は すべて海を隔てたパトモス島の真向かい
にある小アジアに位置していました。

 つまり、

 獄につながれている立場のヨハネが初期キリスト教団の
布教貢献できるとするならば、イエス・キリスト から
として啓示(黙示)されたとする出来事をできる限りに
恐ろしく、かつ神秘的脚色したうえで、これを指定
の七つの会衆(教会)に送り、このアイデアを実践にうつす
ように促がすことくらいしかなかったのです。

 「我ヨハネは … 神の道とイエスの証しのために、パトモス
 という島に居りて、主の日に我、霊に感じてラッパの如き
 大いなる声の、わが後ろにあるを聞けり。 いわく、なんじ
 の見しところを書にしるして、これをアジアにあるエペソ、
 スムルナ、ベルカモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、
 ラオデキヤの七つの教会に贈るべし」

 先の『黙示録 1:10』の古いバージョンですが …

 文語調というか、昔の文はどこか歯切れがよく、また妙に
心に訴えてくるもので、それは日本語に限らず、ラテン語の
聖書もまた、ダ・ヴィンチにとっては同様の響きとして感じ
取っていたのではないでしょうか。

 要するに、

 このあとに天に昇ったヨハネが見たものが、エメラルド色
の虹に取り囲まれ、碧玉や赤メノウのような玉座にすわる
の姿と頭に金の冠をかぶった二十四人の長老がその
周りに鎮座しているという光景で、そこから電光がひらめき
、雷鳴が轟く。そしてライオンのようなもの、牛のようなもの
、人間の顔をもったもの、鷲のようなものが登場するという
先のシナリオにつながります。

      

 そこからは四つの生き物に導かれるかたちで、それぞれ



 白・赤・黒・青の四頭の馬に乗った騎士が現れたり

      

 七つの頭に十本の角がある火のように赤い色の

        

 その尾っぽで天にある星の三分の一を払い落としたか
と思うと、その赤いもまた地に落とされます。


        

 その龍が砂浜で立ち止まると海から出現した七つの頭と
十本の角をもち、ヒョウに似た顔と熊の足とライオンの口を
した野獣に自らのとその権威を与えます。



 
 さらにその後には、その野獣の背中に巨大な大婬婦が
またがっているというありさまですが、これらの話の間にも
さまざまな苦難や恐怖が人類(地球)に襲いかかってくる
わけで、いちいち拾い出すのも面倒なくらいにこれでもかと
いう凄まじい限りの描写に溢れかえっているのです。

 神秘にして荘厳な天上での舞台設定に始まり、
いかにも感タップリの舞台装置から繰り出される脚色
された筋書きと大胆な演出で全編がもうスペルタクルの
連続なのです

 ここまでくると、天才クリエーターのダ・ヴィンチでなくとも
真偽のほどは明白ですが、それでも『黙示録』
なかに彼は真実らしきものをみつけるのです。

  関連ページ 『ダヴィンチの罠 黙示録』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/426.html


 「故郷に帰りたい。あるいは原初の混沌に戻りたいという
 望みや願いを抱いている。 明かりに向かう蛾のように、
 春や夏の再訪を喜びとともに待ち望む人のように、自分
 の願うことがやってくるのが遅すぎると嘆き、自分の望む
 ことが自分の破滅につながるとも知らず。しかしこの願い
 こそ、その本質において、人間の体に閉じ込められ、元に
 戻りたいと願っている元素の霊なのだ。この願いは、その
 本質において、自然に内在するものである」

 自己の死生観についてダ・ヴィンチが語った言葉ですが、

 このなかで気に懸かるのが「自分の願うことがやってくる
のが遅すぎる」が、それは「自分の破滅につながる」として
いることです。

 素直に読めば、

 「最後の審判」の時が遅すぎる。  だが、不信心
極まりない自分は破滅させられる運命にある。 あるいは、
もっと単純に、イタリア(フィレンツェ)に帰りたいが、帰れば
ローマ・カトリック教会から何をされるかわからない。

 といった平凡な解釈もできますが、やはり、ここでは …

 人間の組成はひとつひとつの元素の集合体で、それは
自然の一部であり、全部でもあるが、最終的には自然に
還ることでそれらは統合される、と考えていたようです。

  「すべては、すべてから来る。
  すべては、すべてから創られ、
  すべては、すべてに戻っていく。
  すべては、すべてに包み込まれる」


          (レオナルド・ダ・ヴィンチ)

 つまり

 「すべては、ひとつに統合される」という
確固たる信念をダ・ヴィンチは持っていたようで、それだけ
はどうしても譲れないことだったようですね


       「すべてはひとつだとよ」

      

   「じゃあ、オレらも一緒ってわけだ」

      

       「蛇」であり「龍」としても ・・・


 「ジー …、 ツクツクホーシ、
    ツクツクホーシ、ツクツクホーシ」


 陽が傾き始める頃から日没にかけて、よく耳にするように
なるつくつく法師の鳴き声を、今年の夏はまだ聞いて
いないような気がします。

 それとなく秋の訪れを知らせていたつくつく法師
どこへ行ってしまったのしょう。

 セミの声が消えてしまったのは、それだけ季節が狂って
いるのか、地球環境変化したのか ・・・

 「自然は自己の法則を破らない」

 破るのはいつだって人間勝手都合からだと
ダ・ヴィンチは訴えます。


  「知るだけでは不十分である。
        活用しなければならない。
  意思だけでは不十分である。
         実行しなくてはならない」
 

          (レオナルド・ダ・ヴィンチ)

 次回では、ダ・ヴィンチが見つけた『黙示録』のなかに
ある真実らしきものに迫ってみたいと思いますが ・・・





 これぞ、ダ・ヴィンチの面目躍如といったところです。



 そして、それもこれも「直観力」賜物なのですが、

      

  ギリシャ神話に登場する9つの頭を持つ怪物ヒドラ

 ダ・ヴィンチにとっての『モナ・リザ』 は、にして
にしてである『永遠の小宇宙』なのです。



 … to be continue !!

コメント一覧

フォーチュンクッキー
ペテロってピーターなんだ!
じゃあ、ペテロパンとかペトロパンもありなのか?
何だかパンと来ませんね!
あっ、ピンでした。
むらさき納言
つくつく法師もそうですが、梅雨時でもカタツムリを見かけなくなって久しいです。
アジサイにカタツムリと言えば、梅雨の季節の定番で小学生の頃にはよく捕まえて遊んだものでした。
もっと注意して観察すると他にもたくさんの生物が行方不明になっているかもしれませんね。
透明人間2号
ハンドルネームから推察すると、ホームズ4世さんは探偵指向が
あるのでしょうか?
だとしたら、透明人間の正体を推理してみてください。

小吉さん、おじさんは可哀想ですよ!
ペテロかペトロ、またはピーターと呼んでやってください。
小吉
 伝わらなければ意味がないけれど、簡単に伝わってしまってもダメ。
 芸術家としての、天才としての絶妙な「力」が感じられますね。
 少し本題から外れますが、最後の「おじさん」が段々いいキャラになってきている気がします。
 次項期待
ホームズ4世
ダ・ヴィンチとは、何者ですか?
モナリザとは、一体、なんぞや!
と問いただしたいけど、その前に
透明人間2号とは、何者ですか?
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