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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 結び目

 このページの画像は、故あって表示されませんが、

連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、

別途、新しく作り直すことにしました。

 同じ内容ですが、画像はその限りではありません。

  新たなページは、

 『ダ・ヴィンチの罠 結び目(改)』です。

 (以下、本文)

 

 絵画などの有名な美術作品を鑑賞する
際に、まず 真っ先に思うことは、

       

 作者とされる人物がほんとうに描いた
作品であろうかという素朴な疑問です。

 現代では美術作品のほとんどが
投機対象になっていて、贋作
の出現や出品には枚挙にいとまがなく、

 各美術館所蔵の有名作品の半数程度
は偽物(贋作)であると言われるほどに

     

 それは業界の常識となっているのです。

 いかなる時代や異なる宗教観のもとに
描かれる絵画であっても、そこには作者
の何かしらの思想・観念が具現化されて
いて、それらが昇華還元されるかたちで
巧みに表現されているとすれば、

 たとえ、贋作と言えども、

 琴線に触れる作品として、十分価値の
ある絵画だと小生には思えるのですが、

 つまり、

 投機(物質・金銭)的な価値よりも美術
(精神)的な価値の方に魅かれるわけで

 そこに知性の産物としての何らかの印
(メッセージ)が見つかれば、

 真贋は別にしても、

 個人的には魅力ある芸術作品として
十二分なる評価をしたいと思うのです。

 現に、
 
 ヨハネス・フェルメールの贋作
で有名となったハン・ファン・メ―ヘレン
は、その顕著な例で、

  本当にあった世紀の贋作事件
 url https://mmms.me/articles/masu/684
 
 この場合には技量や技術(テクニック)
だけではなく出来事の痛快さによって
ある意味で偽物(贋作)が本物を超える
という事態に発展したわけで、として
こうした異常な事件も起こりうるのです。

 それにしても、67年という生涯において、
わずか十数点の作品しか真筆であると
されていない絵画の中に 、

 それも残されている手記によれば ・・・

 「わたしが神様を嬰児として描いたとき、
あなたはわたしを牢屋へと投じた、が、
わたしが神様を大人に描けば、あなたは
もっとひどい目にあわせるにちがいない」

 とすら、書き残しているにもかかわらず、

 わざわざ大人キリスト姿



 それも「肖像」という言い訳のきかない
かたちをもって描き上げるなどということが



 かのレオナルド・ダ・ヴィンチ
において起こり得る出来事なのだろうか

 という、そもそもの疑問があります。

 特別に注文された作品であったわけで
もなく、アンチクライストたる言動の
目立った彼がキリスト肖像を描く
理由がどこにあるというのでしょうか

 人間は自らの主張を正当化しようとする
あまりに、その論理的な道筋を、しばしば
辻褄合わせにために使いがちですが、

 厄介なことに、論理が破綻している文言
にも、特定の意味や「謎」を持ち込んで
読み解こうとするのも、また人間の悪癖で
あって、偶然にも、そこに秘密めいた飛躍
「謎」の断片でも見つけようものなら、
かえってインパクトは増大し、真実
虚構とを見誤るのが世の常なのです。

 この場合における、論理写実性
破綻不自然なる描写文言
絵画に、例えると、そのまま(くだん)
『サルバトール・ムンディ』
に関する真贋問題に行き当たります。

 精神的な意味で、権力に屈しないのは、
己に自信があるからですが、

 

 この時代、異端者の烙印が押されたら、
抗う術はありません。

 権力迎合するのではなく「罠」
を仕掛けることによって懐柔してしまおう
と決意したならば、キリスト(救世主)
を大人に描くことを拒んでいた精神的な
ストレス(PTSDなど)も雲散霧消する
のかもしれませんが

 果たして、

 「ゴルディオンの結び目」
如く、複雑に入り組んだ「罠」の欠片を

  
     出典:blog.livedoor.jp

 『サルバトール・ムンディ』
肖像画から見つけ出せるのでしょうか

 それこそが、ダ・ヴィンチの作品における
真贋を見極める際のシロウト兵法としての
小生の鑑定方法だからですが、

 たとえ、見つけられたとしても、



 アレクサンドロス大王のように一刀両断
に出来るものではありません

  「ゴルディオンの結び目」に関しては

 『ゴルディオンの結び目』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/287.html

 詳しいのでそちらを参照してください。

 しかるに、どうしても

 先の手記による否定的な文言が贋作
であろうという先入観を膨張させ、それが
作品としての違和感と相まって、小生なり
の観察眼を鈍らせてしまうのです。

 まず、否定材料としては、


『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』

 1 制作時期が重なるとされる最期まで
手もとに置いていた3枚の油彩画に共通
するフマガッリ(すべてを知る者の笑い)
と呼ばれるめいた微笑みがないこと。

 2 真正面を向いた肖像画で、当時から
よく見られた球体状のモノを左手に乗せ、
右手の中指と人差し指で祝福するという
ありきたりのポーズ(構図)であること。

 

 3 顔のボカシに比べて首から下の描写
が鮮明で、特に右手のクリアさと巻き毛の
見事さに加えて



 水晶玉の透明度が異質なものを感じさせ、
はっきりとした衣服の(ひだ)が違和感を
増幅させること。



 4 『最後の晩餐』のためのイエスの習作
とされる素描よりも、

   
   『最後の晩餐』イエスの習作
 
 むしろ、

 

 『最後の晩餐』でのイエス像が念頭に



 あるような出来映えに仕上げていること。

 5 ピンぼけ顔の周辺部を除けば、輪郭
がハッキリとしていて、ダ・ヴィンチ特有の
スフマート画法が活かされていないこと。

    

 6 常にチャレンジしていた新しい工夫や
革新的な試みが希薄で、先行する様式美
と確立している技法をなぞっているだけの
平凡な作品であること。

 7 原画からの模写説、ダ・ヴィンチ工房
の弟子たちによる共作説、後世の修復家
による加筆などを考慮して、100%純粋の
ダ・ヴィンチ作品とは言えないこと。

 などが挙げられますが、


     出典:cardiac.exblog.jp

 これらの大半は「贋作であろう」
いう先入観がブレイクダウンさせた否定的
な見解であって、

 実は、

 こうした否定材料は逆にそっくりそのまま
肯定材料にもなり得るものでもあるのです。

 たとえば、1については、

 謎めいた微笑みがないかわりに、鑑賞者
の視線を斜視気味の目に集中させることで


     出典:sputniknews.com

 不思議な神秘性を醸し出すことには成功
していますよね。

 それは小生の帰納的鑑定法によれば、



 手もとに置いていた3枚の油彩画とは
全く異なった目的で描かれているという
新たな仮説の提示につながるのです。

 何となれば、


『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』

 小生の仮説の重要なアイテムである
「罠」につながる「隠し絵」などを
探知する「ドラゴン・レーダー」
を構成するための基盤とパーツとしての
役割が3枚の油彩画にはあるからで、


  ドラゴン・レーダー(プロトタイプ)

 そのことを知らせるサインのひとつが
フマガッリにあるのかもしれませんpeace

  ドラゴン・レーダーについては、

 『ダ・ヴィンチの罠 パズル』 
 『ダ・ヴィンチの罠 地動説』 

 などを参考にしてください。

 2についても、だからこそ旧来からの
オーソドックス・スタイルとしての右手で
祝福をする正面像を採用し、その相違
を強調しているとも言えるわけで、

   
  修復前の『サルバトール・ムンディ』

 こうしたポーズは珍しいものではなく、

   
 1913年当時の『サルバトール・ムンディ』写真

 世界の救世主たるキリストの肖像画
として以前から踏襲されていたスタイル
なのですが ・・・

  参考として下記URLを参照のこと。

 url http://mementmori-art.com/archives/21899324.html

 それが、

 3における画面を二分割するが如き、
首から上の不鮮明度(ぼやけた暗さ)に
比べ、右手や衣装のクッキリさと水晶玉
の不自然な透明度合いが妙な違和感と
なって襲ってくるのですから、



 こりゃあ、何かあるかも・・・
という好奇なる「罠」の疑念がアタマ
をもたげて来るわけです。

 仮に、

 『サルバトール・ムンディ』
ダ・ヴィンチの真筆であるとした場合に、
この水晶玉をどう見るかということですが、

 『ダ・ヴィンチの罠 鑑定法』 

 でも示したように、球体に屈折し反射した
光は 上下が逆に反転するか、拡大するか、
歪んだ像を映し出すもので、



 このように手のひらや衣装の襞(ひだ)が
そのまま透き通って見えているということは
、写実性を重んじるレオナルド・ダ・ヴィンチ
らしからぬ描写であるとも言えるわけです。

 すなわち、そのことによって、

 「罠」としてのメッセージが水晶玉に
あるとすれば、逆説的にはダ・ヴィンチの
真筆であることの傍証となるわけですが、

  もしも、小生がダ・ヴィンチであって、
「ゴルディオンの結び目」
逸話を知っていたなら、そして水晶玉の
部分に何某かのメッセージ・サイン
を組み込みたいと思ったならば、

  

 きっと透明の水晶玉の代わりとして、

  
     出典:blog.livedoor.jp

 こんな結び目を描くかもしれません


 4については、12とも関連しますが、

 『最後の晩餐』におけるイエス
の姿をイメージさせるもので、



 「罠」の連続性を補完するほかにも、
前述した3枚の絵画の合体・合成による
「ドラゴン・レーダー」とは幾分
違った意味での作意(作為)を読み取る
ことが可能になります。





 しかしながら、



 紙幅の都合もあって、ここでの解説は
控えさせていただきます。

 5に関しては、イエスの顔をぼかすこと
によって、独特の奥行きが生まれ、



 空気遠近法とは異なる手法で平板上の
3次元が実現されているわけで、

 このことは、6の新しい工夫や革新的な
試みにチャレンジしていることになります。

 つまり、この場合には、

 

 右手や水晶玉がフォーカス・ポイントに
なっていて、顔は焦点がずれたピンぼけ
の状態で、所謂ところの写真画像と同じ
理屈で構成されているわけです。

 7については、模写説、共作説、修復
による加筆なども含め、「言わずもがな」
の話でしょう。

 さて、次回では、

 『サルバトール・ムンディ』
が、ダ・ヴィンチの真作であるとしたなら、



 彼はいったい、この絵画で何を訴えよう
としていたのか

 あるいは「救世主」姿のなかに
何を求めようとしていたのか



 などについて探ってみたいと思います。

それは人差し指と中指
がつくる祝福サインでしょpeace

   

 ・・・ って、おいおい、祝福だけかよ

 はてさて

 「罠」の糸口となる「結び目」

 

 「くんずほぐれつ」するどころか、
 縺(もつ)れるだけ縺(もつ)れていくよう
 にしか思えんのじゃが ・・・

  
     出典:blog.livedoor.jp

 そだねー!


        ふむ

       何々

       !!

      出典:shanti-phuia.net

 のようにして探したところで、


     出典:sputniknews.com

 100%純然たるダ・ヴィンチの作品など、
おいそれと見つかるものではありません。

 但し、

 「青は藍より出でて藍より青し」

 ということも ・・・

   

 … to be continue !!

 「自分の芸術を真に理解できる
      のは数学者だけである」


    (レオナルド・ダ・ヴィンチ)

コメント一覧

江戸川ケイシ
最新の「継承者」の記事で、2号さんが臭わせているように
弟子のボルトラッフィオが大きく関係していると思います。
ココナン
ケイシさんが言わんとするのは、ダヴィンチではない別の
人の作品の可能性を示唆してトンビだとしてるんですね!
江戸川ケイシ
出藍の誉れをにおわせているのかな?

トンビが鷹を生んだみたいに・・・
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