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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 切り株

 福音書の記者であるマタイが、

 「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者
  たちによって、『この方はナザレ人と呼ばれるであろう』
  と言われたことが、成就するためである」

       『マタイの福音書』2章23節 

 と書き記した時、マタイは、旧約聖書のどの箇所を差して
『ナザレ人』を預言であると解釈したのでしょうか?

 この言葉「この方はナザレ人と呼ばれるであろう」という
部分は預言です。

 この預言は、旧約聖書のどこを探しても見つかりません。


     『聖書』預言 crossroadchapel.jp

 にも関わらず『マタイの福音書』には「これは預言者たち
を通して、『この方はナザレ人と呼ばれる』と言われた事が
成就するためであった」と堂々と書いているのです。

    
       『マタイの福音書』

 こうした言い回しが、ダ・ヴィンチには腹立たしいものに
感じられて仕方がないのです。

 いかにも、『旧約聖書』における救世主(メシア)預言が
イエスによって次々に成就されているということを示したい
がための印象操作であるとしか思えないからです。

 このことは一体どう理解すれば良いのでしょうか?

 いろいろな解釈が可能ですが、たとえば、 

 「エッサイの根株から新芽が生え、
          その根から若枝が出て実を結ぶ」

        (イザヤ書11章1節)

 という箇所の「若枝」と和訳されている原語「nêtser」
だと言う主張や『旧約聖書』には書かれていない口承預言の
ひとつである、とする意見などが考えられます。

 ところで、

 ナザレにはかつて、洗礼者ヨハネと同じグループに属する
ユダヤ教エッセネ派の人々が住んでいたと言われています。

 エッセネ派の聖徒たちは主の戒めを熱心に守り、身を清め
て敬虔な生活を送り、聖書の写本にも力を注いでいました。

 このエッセネ派から新しいグループとしてナザレの共同体
(ユダヤ教ナザレ派)が生まれたわけです。

 このナザレとは、ネツァール(若枝、新芽)という語源
から生まれた名前です。

 このことを理解すると、「この方はナザレ人と呼ばれる」
という預言の真意がどこにあるかがわかります。

 『イザヤ書』にはこのように預言が記されています。
 

 「エッサイの根株から新芽が生え、
          その根から若枝が出て実を結ぶ」

        (イザヤ書11章1節)

 ここに記されている「若枝」がネツァールです。


     エッサイの株 blog.goo.ne.jp.maria_theresia

 エッサイの根株は、伐採された後の切り株のことです。
木が切り倒され、残った切り株です。

 その切り倒され、枯れたと思われた切り株から、一つの
芽が生えてきて、「若枝」になるのです。

 「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る
 根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿
 もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」
        (イザヤ書53章2節)

 つまり、

 ナザレ人とは、若枝(ネツァール)のようにこの地に
芽ばえ、育たれたキリスト(イエス)のことを預言した
言葉であると言うのです。 

 しかし、ダ・ヴィンチの見方は違っていました。


     レオナルド・ダ・ヴィンチの像 world-note.com

 ここには「ナザレ人とナジル人」の混同があって、
「ナザレ村の出身者」という意味で「ナザレ人」と訳す
ことは誤りであるとダ・ヴィンチは思っていたのです。

 ところが、

 マタイは「ナザレ人」という呼び名がイエスを約束の
救世主(メシア)として見分けるしるしのひとつとして
旧約聖書に預言されていたということを言いたいがため
に、わざわざヘロデ大王の死後にヨセフがマリアとその
幼子(イエス)をエジプトから連れ戻ったとする経緯を
述べたうえで、さらにこう書き加えています。

 「夢の中で神からの警告を与えられたので(ヨセフは)
ガリラヤ地方に退き、ナザレという町に行って住んだ。

 預言者たちを通して、『この方はナザレ人と呼ばれる
であろう』と言われたことが成就するためであった」
    (マタイの福音書2章19-23節)

 『ナザレ人』はヘブライ語聖書には出て来ません。

 マタイは何らかの失われた預言書もしくは不文の伝承
に言及していたとみる向きもありますが、『預言者たち
を通して言われた』という表現を理解するカギは、前述
の『ナザレ人』を若枝や新芽という意味の「ネツァール」
と同一視することにあるようです。

 したがって、マタイが、

 「エッサイの根株から新芽が生え、
          その根から若枝が出て実を結ぶ」

        (イザヤ書11章1節)

 という預言の言葉に言及していたことは明らかであり、
マタイは複数形を用いて「預言者たち」が、来たるべき
「新芽」について語ったと述べているわけです。

 たとえば、それは、

 ダビデの横枝となる「義なる新芽」について語った
     (エレミヤ書23章5節および33章15節)

 「新芽という名の」王なる祭司を描写している
    (ゼカリヤ書3章8節および6章12節)

 などが、それらに該当しますが、「枝」の主旨が
些か違うとダ・ヴィンチには思えたのです。

 これについてはより具体的に後述する予定でいます。

 ダ・ヴィンチに唯一考えられるものがあるとすれば、
『士師記』13章5節と7節に書かれている サムソンに
対する御使いからの預言でしょう。


 マノアの捧げ物(サムソンの誕生)アルテ・マイスター絵画館蔵 chinosionnan.com

「あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。その頭
にかみそりをあててはなりません。その子は生れた時
から神にささげられたナジルびとです。彼はペリシテ
びとの手からイスラエルを救い始めるでしょう」
       (士師記13章5節)

「しかしその人はわたしに『あなたは身ごもって男の
子を産むでしょう。それであなたはぶどう酒または濃
い酒を飲んではなりません。またすべて汚れたものを
食べてはなりません。その子は生れた時から死ぬ日ま
で神にささげられたナジルびとです』と申しました」
       (士師記13章5節)

 つまり、『士師記』が、

 ヘブライ語聖書(ユダヤ教正典)において、預言者
の書(ネビーイーム)の前期預言者(リショーニーム)
に属しているから、マタイが「預言者たちによって」と
書いたとしても大きな矛盾はない、という程度のことで
あって、むしろ、「ナザレ人とナジル人」との混同だと
考える方が自然であり、得心もいくわけです。

    ふむ      ふむ      ふむ

 

      画像元  www.pinterest.jp

 そもそも、

 洗礼者ヨハネは間違いなくナジル人であるわけですし
ある意味においては、イエスでさえもナジル人であると
言っても差し支えないかもしれません。

 こうしたマタイによる一般的ではない聖句の引用は、
神がサムソンのために備えた自主的に発動する任務を、
イエスの「世の罪のために神から捧げられた贖いの僕」
すなわち、「解放者」=「救世主(メシア)」として
の使命とに重ね合わせてみていたという可能性が十分
に指摘されるわけです。

 要するに、こういうことです。

 ● その子は生れた時から神にささげられたナジル人
  です。
 ● 彼はペリシテ人の手からイスラエルを救い始める
  でしょう。
 ● その子は生れた時から死ぬ日まで神にささげられ
  たナジル人です。

 つまり、

 それがイエス・キリストであると言いたいのです。


   聖骸布に写し出された顔のイメージ kids-nurie.com

 ところで、

 イザヤはダビデの家から新芽が生え、とは言いませんで
した。 そうではなく彼は「エッサイの根株から新芽が生え、
その根から若枝が出て実を結ぶ」と言ったのです。

 エッサイとは、ダビデの父親の名前です。ダビデは非常
に有名な王でしたが、エッサイはそうではありません。 

 それなのに預言者イザヤは、エッサイの根株から新芽が
生え、その根から若枝が出て実を結ぶと言ったのです。

 ダビデではなく、エッサイの根株なのは何故でしょう? 

 救世主がダビデの家系から生まれることを伝えたかった
のはもちろんですが、ダビデが築いた王国は次のソロモン
に受け継がれ、イスラエルは最盛期を迎えます。

 ソロモンの死後、息子のレハブアムがあとを継ぐのです
が、非妥協的であったため、紀元前922年にヤロブアムを
擁する10支族によって北のイスラエル王国と南のユダ王国
とに分裂してしまい、やがて、どちらも神の審判によって
切り倒されて根株のようになるわけです。

 その根株から新芽が生えて、その根から若枝が出て実を
結ぶ、すなわち救世主(メシア)はダビデの家系から出る
が、富貴な者ではなくエッサイのように名もなき羊飼いの
如き存在として生まれることを示しているのでしょうか?


        預言者イザヤ 

  ★ ここで、ちょっと思いだして欲しいのですが、 

 ダ・ヴィンチの「遺言状」にあった4つの教会に
ついての考察です。

「4つの教会」とは、一体、何を指しているのでしょう?

 これもまた、複合的に多重層する「4」に絡む内容で
構成される事柄を意図しています。

 たとえば、それは、

 第1に、王として来る救世主(メシヤ)を指しています。

 「主は仰せられる。見よ、わたしがダビデのために一つ
の正しい枝を起す彼は王となって世を治め、栄えて、公平
と正義を世に行う」  (エレミヤ書23章5節)

 第2には、しもべとしての救世主(メシヤ)を表します。

 「大祭司ヨシュアよ、あなたも、あなたの前にすわって
いる同僚たちも聞きなさい。彼らはよいしるしとなるべき
人々だからである。見よ、わたしはわたしのしもべなる枝
を生じさせよう」   (ゼカリヤ書3章8節)

 第3には、一人の人間としての救世主(メシア)です。

 「見よ、一人の人を。その名は若枝。彼のいる所から
芽を出し、主の神殿を建てる」 (ゼカリヤ書6章12節)

 ここでは、この「若枝」のことを「一人の人」である
と言っています。

 第4に、としての救世主(メシヤ)を表しています。

 「その日、主の若枝は麗しく栄え、地の産物(果実)は 
イスラエルの生き残った者の誇となり、また光栄となる」
       (イザヤ書4章2節)


        預言者イザヤとイザヤ書 www.newlifeministries.jp

 これらは冒頭での聖句における「預言者たち」の言葉に
相当するかもしれませんが、それに対してダ・ヴィンチは
「遺言状」における「罠」で反駁します。

 このように「主の若枝」には4つの意味がありますが、
それはちょうど『新約聖書』での「4つの福音書」
シンクロします。

 それぞれ、

 ①『マタイの福音書』は、王としてのイエスを、
 ②『マルコの福音書』は、しもべとしてのイエスを、
 ③『ルカの福音書』は、人間としてのイエスを、
 ④『ヨハネの福音書』は、神としてのイエスを、 

 指し示すように、やがて来たるべき救世主(メシヤ)は
王の王として、人々に仕えるしもべとなって、人間の姿の 
ままに、十字架の上で死なれた であるということ
にどうしてもしたかったのでしょうね。

       しかしながら、

 「エッサイの根株から新芽が生え、
         その根から若枝が出て実を結ぶ」

        (イザヤ書11章1節)

 の前の章である『イザヤ書』10章33-34節には、

 「見よ、万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り
払われる。 丈の高いものは切り倒され、そびえた
ものは低くなる。主は林の茂みを鉄の斧で切り倒し、
レバノンは力強い方によって倒される」とあります。
      (イザヤ書10章33-34節)

 ここでのイザヤの聖句の対象は、当時の強大なる
アッシリアであり、そのアッシリアが新バビロニア
に倒される未来を見事なレバノン杉の生い茂る地も
倒される。と比喩的表現で預言しているわけで、

 それが『イザヤ書』11章の「根株」=「切り株」
につながると、ダ・ヴィンチは推理していたのです。

 

 ダ・ヴィンチが、「遺言状」において、

 「松明を、4つの教会に分けることを希望している」
と書き記したわけは、こうした『新約聖書』における
捏造された欺瞞、ひいては ローマ・カトリックの虚構
の闇を白日の下にさらけだすことや人類創世に纏わる
秘密、あるいは真の救世主(メシア)が誰であるのか
をあきらかにすることによって、未来世界が拓かれる
ことを切に希望していたからです。

 ちなみに、「4つの教会」とは、

 4人の人物、4つの編成、4つの証し、4つの窓、
4つの頭、4分の1、4分割、4線譜、等々 ・・・

 複合的に重層化する「罠」を構成するものです。

 さて、次回では、

 イエスを救世主(メシア)として崇め奉るキリスト教
の偽善と欺瞞についてのさらなる探究を考えています。

  
     イエスの真実         出典:www.jizai.org      

 キリスト教は、我々人類にとっては「垢」であり「埃」
でもあるからです。 

 彼らの存在によって生じた老廃物や分泌物をそのまま
にしておくと、人類は単に穢れるだけでなく、破滅して
しまうかもしれないのです。

  ところで、

   お前さん、ダビデ王を知っとるかのぅ?

     
     「ダビデのことは知っているけど」 
  
     エッサイのことについては、 
  
 「 えっさい(一切)知らんのじゃ!」
   
  
 
  「で~たぁ、親父ギャグ !」

 エッサイの株から一つの芽が出、
 その根から一つの若枝が生えて実を結び、
 その上に主の霊がとどまる。
 これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、
 主を知る知識と主を恐れる霊である。
 彼は主を恐れることを楽しみとし、
 その目の見るところによって、さばきをなさず、
 その耳の聞くところによって、定めをなさず、
 正義をもって貧しい者をさばき、
 公平をもって国のうちの
 柔和な者のために定めをなし、
 その口のむちをもって国を撃ち、
 そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。 
 正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。

      『イザヤ書』11章1-5節


『狼と小羊が共に宿る』イメージ kanazawa-baptist.jimdofree.com
       (Ria SopalaによるPixabayからの画像 )

おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に
伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さい
わらべに導かれ
雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に
伏し、ししは牛のようにわらを食い、
乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手を
まむしの穴に入れる。

彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうこと
なく、やぶることがない。水が海をおおっているように
主を知る知識が地に満ちるからである。

      『イザヤ書』11章6-9節

        そ、そっち なの?
  
    ・・・ って、おいおい、 
   
    
 マジかょ!

 オオカミやヒョウやライオンといっしょって、
 
     (ホンマかいな)           (夢夢む ・・・) 

  … to be continued !!  

    symbol2 ダ・ヴィンチの推理は続きます。

コメント一覧

小吉
とてもややこしい話。

つまりなんとかキリストを救世主にするためにあれこれ印象操作をして(聖書をそのように解釈して)いたってこと?
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