いるので、その食品の履歴や変遷、つまり、国籍(原産国)
や本籍(生産地)や氏素性(素材)といったものが、非常に
分かりにくくなっています。
本当は、どこのどういう材料のものが加工されたのか
国産表示されたものが、たとえ中国産でも北朝鮮産でも、
ボク たちには調べようもないのです。
以前、アメリカで
狂牛病が問題になったときに、狂牛病に罹(かか)った
牛たちが同じ病気の牛の脊髄や脳の粉末を飼料に混ぜて
食べさせられていたように、ボク たちも何を食べさせられ
ているのか、分かったものではありません。
食品に国籍、本籍、氏素性などと擬人化した表現を使った
のにはわけがあります。
ボク たちの食卓に並ぶ、ほとんどすべての食べ物は、
かつて生き物として暮らし育てられていた生命体(動植物)
だったからなのです。
ある日、父がどこからかニワトリをもらってきたときの
ことでした。
手伝えと言うので何をかと思っていると、金づちを持って
きて、いきなり、ニワトリの頭を殴ったのです。
そして、気絶しているニワトリの首に包丁を入れて
血を出します。
その時 でした。
「何をしてるんだ!」 「早く逆さににして木に吊るせ!」 と
言われたのです。
血を抜く為に首を下にして吊るすのです。
それから、しばらくして …
おもむろに 毛(羽根)をむしるのを手伝いました。
その日の献立は鶏がらのスープにささ身のカツだったか
よくは覚えていませんが、すぐには箸がつけられなかった
ことだけは、確かなことでした。
でも、それも、数分のことで、空腹には誰も敵いません。
現金にもペロッと平らげたという記憶もまた確かなのです。
食べる前は動物がかわいそうだとか、生き物の命は大事
にしなくちゃなどと思っていても、腹が空くとその限りではない
のです。
ましてや、その姿が認められないほどに調理されてしまうと
もはや憐憫の情もへったくれもありません。
「おいしい、おいしい」 と頬張りついて他の命を食べている
というわけですね。
きのうの 1号 さんの記事にあった切り身で売られる魚も
そうです。
子供たちが実際の魚を知らないと言うような笑えない話も
強(あなが)ち大袈裟ではないのかもしれません。
最近ではさらなる形成処理が施されて、いったい実体は
何なのか まったく想像のつかないような一口サイズに
カッティング加工された食品が出回っているようです。
果たして、一口サイズにカットされてしまった食材は …、
それが、牛なのか、豚なのか、鳥なのか、魚なのか、何が
なんだか分からないようになっているのです。
もちろん、それは元の生物の姿を連想させない為の工夫
でしょうが、そこに問題はないのでしょうか
たとえば、それは、
冒頭の原産国や原材料表示の信憑性の問題の他にも、
生物の命を奪うことで日々の糧や肉を食するという厳然たる
事実と犠牲となった生き物に感謝するという謝肉の意識が
より希薄になるなどの危険性についてです。
それでなくても、食品に限らず、元々のかたちや素材の
分からない製品や商品のオンパレード状態が昨今の世情
なのです。
それをいいことに、食品の偽装や詐欺まがいの悪徳商法
などが常時横行しています。
一流と呼ばれる企業にしても、ややもすれば利に走るだけ
の薄っぺらな経営や脱税その他の脱法行為になんの臆面も
ないところも見受けられます。
巷では、大河ドラマの影響もあってか、幕末の志士たち、
殊に 坂本龍馬 がブームとなっているようなのですが、
いま一度、日本人のこころ の洗濯 を致したくもうし候
ことに …、してもらいたいものです。
他にもうひとり、江戸時代後期の偉大な農政家で、「至誠
(しせい)・勤労(きんろう)・分度(ぶんど)・推譲(すいじょう)」
の報徳思想を唱えた人に、二宮金次郎 がいます。
「至誠」 とは、誠実なる心の持ち主を言います。
人間は「勤労」 から何かを学び自己を磨きます。
自分の置かれた立場や状況をわきまえて節約するのが
「分度」 です。
節約して余ったものを子孫や他者や社会に譲り還元する
のが 「推譲」 との教えなのです。
金次郎(尊徳)は、「弱者同士が助け合って豊かで幸せな
生活と社会を築く」 ことに主眼を置いた《相互扶助》の
精神を説いています。
それは、「お助けマン=エイドマン」 としてのジャパンエイド
(透明人間たち)の精神とも合致します。
また、
「道徳なき経済は罪悪であり、
経済なき道徳は寝言である」
という言葉を残していますが、コンプライアンスだけでない
創業の理念や志といった精神的な企業マインドと経済活動
のなかで派生する道徳的な倫理観の融合が極めて重要で
あるとする遠い昔の時代からの遥かなるメッセージを今日
(未来)に託してくれているのです。
すでに、現在の腐敗した世の中を見越して看破していたと
いうわけですね。
それにつけても …、
小学校などで二宮金次郎(尊徳)の銅像を見かけなくなって
久しいですが、金次郎といえば薪を背負って本を読みながら
歩く姿が有名です。
現代の道路交通事情では、その姿が交通事故を誘発させ
る恐れがあり危険だということで次々に撤去されたという話
は本当のことなのですか
もしも、そうだったとしたら、実に ナンセンス です。
時代錯誤というより、認識欠如のやぶにらみでしょう。
携帯メールを打ちながら、前も見ずに片手運転で走って
いるチャリ(自転車)の中・高生のデンジャラスなこと …
えっ、片手でノッチ(乗って)、あたりまえですって
Yes we can! デンジャラスはノッチの
Change で復活しました。
… って、お笑いタレントの 《デンジャラス》 のこと
じゃなくて、メールを打ちながらの片手運転の方が数万倍
も危険だってこと
それに比べれば、金次郎の姿は、なんともセーフティーで
合理的でムダのない動きなのでしょうか。
そもそも寸暇を惜しんでの、否、同時並行的(ながら)行為
は、脳トレのひとつでもあるのです。
その姿勢、つまり 「分度」 の実践化した姿こそが、
銅像のそれではないですか
そうです。 それを、禁じよう(金次郎)だなんて、
どっちが、損得(尊徳) ナンセンス か
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