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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 諜報員

 このページの画像は、故あって表示されませんが、

連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、

別途、新しく作り直すことにしました。

 同じ内容ですが、画像はその限りではありません。

  新たなページは、

 『ダ・ヴィンチの罠 諜報員(改)』です。

 (以下、本文)

 

  イタリアの「華麗なる一族」と言えば、
真っ先に名前が上がるのはメディチ家でしょう。

 万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチ



 ヴェロッキオの工房での6年にわたる修業を
終え、フィレンツェの画家組合に加入したのは
彼が20歳になった西暦1472年のことでしたが、


 ロレンツォ・ディ・メディチの像 ヴェロッキオ作

 その3年前の1469年に同じく、父ピエロの死
によって20歳にしてメディチ家の当主になって
いたのがロレンツォ・ディ・メディチでした。

   
  ロレンツォ・ディ・メディチ Wikipediaより

    

 当時、

 フィレンツェで実権を握っていたメディチ家は、
13世紀の初頭にフィレンツェに進出した新興の
勢力で、フィレンツェで始めた銀行業が大成功
をおさめたことで次第に同国の実権を握るよう
になるわけです。

 15世紀中期には国政を掌握するまでに至り、
メディチ家が最盛期を迎えたこの時期の当主
がロレンツォで、ダ・ヴィンチがひとり立ちした
頃の若きフィレンツェの統治者だったのです。


   ロレンツォ・ディ・メディチの像

 彼は、政治・経済だけでなく、芸術にも関心
が高く、多くの芸術家を庇護していました。

 ボッテッチェッリやフィリッピーノ・リッピの他
にも、まだ少年だった若き日のミケランジェロ
を自宅に住まわせていたそうで、メディチ家と
ミケランジェロとの関係は、ロレンツォの次男


『レオ10世と枢機卿たち』ラファエロ・サンティ画

 ジョヴァンニがローマ教皇レオ10世となって
からも続いていたのですが、

 ミケランジェロの気難しい性格を敬遠してか
、フィレンツェなど他の場所での仕事を命じて
、彼をローマからは遠ざけていたようです。
 
 幼い頃から一緒に過ごしていて、扱いにくい
芸術家肌の人間だと感じていたのでしょうか。

 ミケランジェロやジョヴァンニ(レオ10世)の
話はともかく、

 自ら長編詩を綴るなど芸術的な素養にも
恵まれていたロレンツォですが、彼は芸術
そのものよりも、芸術が持つ政治的な利用
価値の方により関心が高かったようで、


   ロレンツォ・ディ・メディチの肖像

 彼の祖父で「祖国の父」と尊称される
コジモ・ディ・メディチのように

   
   コジモ・ディ・メディチの肖像

 金融業などで得た巨万の富を惜しげもなく、
学問と芸術の保護・発展に費やし、ギリシャ
の古典研究サークル(プラトンアカデミー)を
創設して自らも参加したり、別荘を開放して
学者・文人・芸術家たちのサークルやサロン
を開設したりと、後のルネサンス隆盛の礎と
なったというような意味ではなく、

 むしろ、

 他国との外交や情報を得るには、教会から
の仕事の依頼を受けて、さまざまな国へ赴く
ことが可能な画家などの芸術家がうってつけ
であって、そうした諜報活動的意味合いから
もロレンツォは、ボッテッチェッリ、ペルジーノ
、フィリッピーノ・リッピなど大勢の画家たちを
抱えて、彼らを近隣諸国へと派遣していたの
ではないかと考えるに至ったのです。

   
    ロレンツォ・ディ・メディチ

 もちろん、

 芸術家たち全員が諜報活動をしていたと
いうことではなく、限られたごく一部の人間
が何かしらの密命を帯びて派遣されていた
わけで、そうした人物の中でも特別な使命
を与えられていたのが、ダ・ヴィンチ
はなかったか、と推測されるのですが ・・・
 
 というのも、

 フィレンツェで多くの芸術家を庇護していた
メディチ家とダ・ヴィンチとの関係が今ひとつ
ハッキリしないことにあります。

 ダ・ヴィンチは、ロレンツォとの表立っての
関係性は希薄ですがプラトン・アカデミーに
通い、サロンに顔を出していたのは確かで、
有り余る才能を持て余していたダ・ヴィンチ
に目利きのロレンツォが目を付けないわけ
はなく、彼の隠密として重要な役割
ダ・ヴィンチが担っていたと思われます。

 西暦1478年4月26日に、

 世に「パッツィ家の陰謀」として
知られる事件が起こります。

 ここではその詳細には触れませんが、

 要は、

 メディチ家の排斥を目論むパッツィ家の
面々と教皇シクストゥス4世とが共謀して
起こしたメディチ家の兄弟(兄 ロレンツォ
と弟 ジュリアーノ)に対する暗殺事件で、

     
 ジュリアーノ・ディ・メディチの肖像
    (ボッテッチェッリ)

 全身十数か所をメッタ刺しにされた弟の
ジュリアーノはその場で絶命、

  
  ジュリアーノ・ディ・メディチの肖像

 ロレンツォは首に軽傷を負ったが辛くも
逃げ延びることができたということですが

   

 この後の報復劇が凄まじく 70人
数える者たちが1~2年のうちに処刑され、
暗殺などの手段で殺された者を含めると
100人を超えるという陰湿凄惨
結末を迎えるわけです。

 こうして、

 教皇シクトゥス4世とメディチ家の確執は
抜き差しならぬまでに決定的となります。

 捕り押さえた者の供述によれば、

 「ひとたびロレンツォがフィレンツェ
 から消えれば、われわれは、その
 共和国を思い通りに動かすことが
 でき、実に好都合なのだ」


 シクストゥス4世は、そう嘯(うそぶ)いて
いたそうですが ・・・

 
     教皇シクストゥス4世

 盤根錯節なるメディチ家とロレンツォ
の存在は、教皇シクストゥス4世にとって、
「目の上のたんこぶ」以上に目障り
で邪魔な異物だったのでしょう。

 この事件の首謀者たちが描かれている
とされるメロッツォ・ダ・フォルリの絵画に


 『シクストゥス4世からヴァチカン図書館長
    に任命されるプラーティナ』1477年頃

  
 メディチ家排斥謀議に加担した面々の
うちの何人かが登場していますが、



 このローマ・ヴァチカン VS メディチ家の
対立については、後日に機会があったら
お話することにして、

 小生が個人的に解せないことの一つに
1481年に、ローマ教皇シクストゥス4世が
システィーナ礼拝堂の壁画制作のために
フィレンツェから才能豊かな若き画家たち
(ボッテッチェッリやフィリッピーノ・リッピ)
をローマに呼び集めた時に、ダ・ヴィンチ
の名前がなかったことが挙げられますが、

 何故に才能溢れるダ・ヴィンチが招聘
されなかったのかが不可解で ・・・

 その結論として、1478年にフィレンツェ
政庁から受けたサン・ベルナルド礼拝堂
の祭壇画の依頼を下絵段階で途中放棄
したことやフィレンツェ郊外の修道院での
祭壇画の仕事も素描の途中で仕事放棄
しているなど、その移り気な性格ゆえに
信頼に値しない人物との評価によるもの
と考えていましたが、ロレンツォの密命
があったと考えると合点がいくのです。

 つまり、

 

 ロレンツォの隠密(密偵)としてのミラノ
行きが、すでに計画されていたとすれば、
すべての辻褄が合ってきます。


   『音楽家の肖像』 1485年頃

 実際に、ダ・ヴィンチはロレンツォから
「最良の画家」との推薦を受けて、
自らを売り込むための自薦状にリラの
演奏家、楽器職人、都市計画者、軍事
技術者などの肩書をつらつらと連ねて、
ミラノ公ロドヴィコ・スフォルツァ
のもとへと旅立っています。

 こうして、

 ダ・ヴィンチの師であるヴェロッキオは
ヴェネツィアへ、ボッテッチェッリやリッピ
等はローマへ、ダ・ヴィンチは ミラノへと
ロレンツォから命が下った芸術家たちが
次々に各地に派遣されていったのでは
ないかと考えられるのですが、

 それが事実に近い推理であるとすると

 外交官でもあったルーベンス
推して知るべしで、

 
 ピーテル・パウル・ルーベンスの肖像

 『ダ・ヴィンチの罠 外交官』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/535.html

 において、考察過程の一環として記した
 
 「ルーベンス諜報員(スパイ)説」
ガセではなく、それなりに嫌疑に適う
内容だったということです。

 彼がエージェントであったからこそ、
彼等だけが知り得る符合や符丁の存在
に気付き、『ダ・ヴィンチの罠』
意図が見抜けたわけで、そのメッセージ
ルーベンスは後世へと伝えるべく
自身の絵画のいくつかに隠し描いたこと
はすでに一部の作品で紹介済みですが

 そうです。

  



 『受胎告知』におけるの存在と



 『最後の晩餐』でのの登場が


 『最後の晩餐』 ピーテル・パウル・ルーベンス

 そのメッセージシグナルであり、

 
 『聖家族』 ピーテル・パウル・ルーベンス

 聖家族と聖エリザベス、幼児のヨハネを
描いた作品がそれを物語っているのです。

 今回も予告した内容とは食い違う展開に
なってしまいましたが、

 次回では、ルーベンスにおける
の意味と『聖家族』が物語る
真実の一端やその他の作品の意図など
に迫れればと考えていますが、

 果たしてどうなるものやら

 ちなみに、


 音楽家の肖像 レオナルド・ダ・ヴィンチ

 この絵のモデルは未だ不明ですが、
近年の赤外線調査で右手に持つ紙片に
楽譜の描写が見つかり、音楽家である
ことは判明しています。
 
 1482年にダ・ヴィンチがミラノに来た際
に、一緒にやって来たとされる音楽家の
アタランテ・ミリオロッティがモデルとの
説が有力であり、一説では ダ・ヴィンチ
が 彼の音楽の師であったとも言われて
いますが、小生が観るところにおいては
30代半ばのダ・ヴィンチ自身のすがたを
描いたものではないかと考えています。

 その論拠としては、

 些(いささ)か説得力に欠けるものの
男性の肖像は確認されている限りでは、
この作品のみで、パトロンたちの肖像で
さえ描かなかったダ・ヴィンチが弟子の
の肖像画を描くでしょうか


 ダ・ヴィンチの青・壮・老の自画像?

 唯一の男性の肖像画であるとすれば、

 それはナルシスト傾向にあった
ダ・ヴィンチ自身のすがたと考えるのが
妥当かと思われるのですが ・・・

 いかがでしょうか

 ところで

 その音楽家の弟子とやらの名前は
アタランテ・ミリオロッティ ・・・

 そりゃ、

 「当たらんて見てろよって」

  

 で、出た~あ。 親父ギャグ

 「座布団一枚あげてください」




 でも 「さもありなん」というような
意外な結論が得られるかもしれないし、

       

 「なるほど」とはいかずに、残念な
結果に終わるかもしれませんが、



 とにかくも、腑に落ちない不毛な記事に
ならないことだけを祈りましょう。


 はてさて

 外交官でもあったルーベンス

 
 ピーテル・パウル・ルーベンスの肖像

 イタリア・ルネサンスの三大巨匠たち


     出典:blogs.yahoo.co.jp

 学校では教えてくれない歴史の裏舞台。

 
    出典:www.el.tufs.ac.jp

 教科書に載らない舞台の裏ではどんな
ドラマが展開されていたのでしょうか


 『洗礼者ヨハネの斬首』 カラヴァッジョ 1608年

 

 「あなたがたのうちの一人
   わたしを裏切るでしょう」


       
       !!



 だが、

 「裏切者はユダではない」


 

 「解剖して分かったことだが、
 人間は死ぬように出来ている」


    (レオナルド・ダ・ヴィンチ)

  
      (確かに・・・) 
           


   
   『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年  

 基本計画(マスタープラン)の青写真は、



  これですよ


    ロレンツォ・ディ・メディチ

 … to be continue !!

コメント一覧

ゴスペル999
指摘のルーベンス作品に一定の謎や何らかの意味が隠されてる可能性は否定できへんけど、ダヴィンチの罠とは直結せえへんと思う。

猫や犬や言うても、他の画家も描いてるし、獅子足も飾り彫りや言えば終りやで・・・

もっと直接的な証拠が欲しいとこやな!
江戸川ケイシ
ヨーロッパ各国の宮廷や力のある貴族たちに迎え入れられる立場にあったルーベンスやダ・ヴィンチが画家であることを利用して、エージェントとしての使命を果たしていたという
推測や仮説は十分に成り立ちますが、ルーベンスについてはカトリックに与した絵画をたくさん描いていますし、自身も敬虔なカトリック信者であったように伝えられています。

もっともダ・ヴィンチと同様に、そう装い演じていたとすれば、「優れた画家だからこそスパイ外交が可能」だったとも言えるわけで、次回以降での展開に期待したいと思います。
透明人間2号
きくらげさんの疑問はもっともで、スパイであったと断言しているわけではありません。

要は、スペインやイングランドのエージェント(協力者)として、働いた可能性に言及したまでで、平和に貢献したという論功行賞のような形で両国からナイトの爵位を授かっていることも一例ですが、戦争回避や平和というキーワードで括ると、いわゆる二重あるいは三重スパイ的に暗躍した可能性を否定できないわけです。
きくらげ
ルーベンスが世渡り上手であることは、同時代人のカラヴァッジョが殺人犯となり、レンブラントは妻子に先立たれ、経済的にも不遇であったことからもうなずけますが、外交官としての活躍と同時に諜報員としても超一流であったとする説はどうなのでしょう?

2号さんは7か国語を話したとしていますが、オランダ語、ドイツ語、イタリア語、フランス語、英語、スペイン語、ギリシャ語、ラテン語の8カ国語を操ったという説もあり、スパイとしては、まさにうってつけの人材ではありますが、一説では2000を超える作品をルーベンスの工房では制作していますし、時間的にも、また群雄割拠の封建制から絶対君主制に移行していた時代背景からも大いに疑問なのですが。
むらさき納言
スパイの語源は古いフランス語の「見張る者」の意味からインド・ヨーロッパ語で「見る」を意味する「Spek」に由来するようですが、

うろうろと嗅ぎまわる意味を持つ「SNOOPY」から「SPY」となったとする方が説得力がありそうですね!

それにしても、ブログの内容と「スヌーピーの謎」とが微妙にシンクロする偶然性には驚かされるばかりです。
ココナン
ルーベンスやダ・ヴィンチのスパイ説は面白いです。

いま、コメント欄で問題となっている「スヌーピーの謎」の綴り、「SNOOPY」の最初の1文字と最後の2文字でスパイ「SPY」となりますが、これは偶然でしょうか?
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