神奈川県厚木の海軍飛行場にひとりの男が降り立った。
レイバンのサングラスにコーンパイプをくわえて専用機で
あるバターン2号から傲全(ごうぜん)と姿をあらわした男の
名は ダグラス・マッカーサー といい米陸軍元帥
にして連合国軍の最高司令官だったのです。
「バターン号」 は、マッカーサー元帥の専用機に使われる
愛称で、コールネームというよりは、軍事的なコードネーム
(コールサイン)と言ったほうが正しいのかもしれません。
米大統領専用機を「エアフォース・ワン」 と呼ぶ
のと同じパターンですネ
… なんて、ダジャレとしてはレベルが低すぎて笑えません
が、「バターン」 というネーミングにも笑えない事情
というか由来があるのです。
ちなみに、マッカーサーが使用したとされるバターン号は
全部で3号機まであったのですが …
バターン1号は B-17Eフライングフォートレスの改装機
で、シリアルNo.は 41-2593、1943年の改装にともなって
XC-108 という機種記号が与えれています。
バターン2号は C-54B輸送機の改装機で、1945年4月
から1950年まで使用していますので、沖縄本島経由で厚木
飛行場に到着したとき、また、朝鮮戦争勃発直後の1950年
6月29日に最前線を視察した際に乗っていた専用機です。
バターン3号は VC-121Aロッキード・コンステレーション
で、1950年9月から1951年4月まで使用されました。
1951年4月16日、朝鮮戦争における原爆使用発言などの
問題で国連軍総司令官を解任され、日本を去るときに使用
されたのがバターン3号(シリアルNo.48-613)です。
これらのバターン号とは別に、終戦直後の1945年8月19日
に降伏調印準備使節団を乗せて木更津から沖縄の伊江島
まで飛行した2機の一式陸上攻撃機の指定コールサインが
バターン1、バターン2、として使用されています。
バターン半島の戦いとそれに続く 「バターン死の行進」へ
のマッカーサーの屈辱と執念が見て取れるようです
ところで、
有名な 「I shall return」 という言葉を残し、屈辱の
敵前逃亡となったフィリピンからオーストラリアへの脱出時
に使用したB-17をバターン1号としていることが多いです
が、それはバターン1号機とは別の機体です。
また、その時に発したとされる
「アイ・シャル・リターン(必ずや戻るだろう)」も
脱出時(1942年3月12日)のセリフではなくオーストラリアに
到着後のスピーチ(3月20日)での発言のようですよ
1941年当時に、フィリピン防衛の任に当たっていたのは、
フィリピン駐在米極東軍司令官マッカーサー大将でしたが
同年12月22日、本間雅晴中将率いる第14軍がルソン島
リンガエン湾に上陸します。
26日、占領の際におけるマニラでの戦闘を避ける目的で
無防備都市宣言(都市に軍事力が存在しないことの告知)
を行なったマッカーサーは、マニラから撤退しバターン半島
の沖合いにあるコレヒドール島の要塞に立てこもります。
日本軍は翌 1月2日、オープン・シティとなっていたマニラ
の無血占領に成功するとコレヒドール要塞の陥落にむけて
攻撃を開始します。
個人的にマッカーサーを嫌っていたルーズベルト大統領
でしたが、万が一にもマッカーサーが戦死したり捕虜にでも
なった場合に、米国民の士気に悪影響が出かねないことを
危惧した大統領はオーストラリアへの撤退を命じたわけで
、日本軍を前にして家族とともに、しっぽを巻いて逃げ出す
ような失態をマッカーサーが恥じないわけはありません。
プライドの塊のようなマッカーサーには、もう恥ずかしくて
真っ赤~さぁ というようなダジャレよりもオソマツな
脱出劇は 彼の軍歴における大きな汚点となり、自尊心が
痛く深く傷つけられたことは疑いようもありません
一方で結果として、日本軍は死者130人、負傷者6808人
を出しながらも 4月9日にパターン半島を占領します。
降伏した米比軍の捕虜は、日本軍の予想 2万5000人の
3倍にあたる約 7万6000人にまで膨れ上がり、捕虜全員
をトラックで輸送するという計画に大きな狂いが生じます。
捕虜たちは疲労に加えて健康状態も悪かったのですが、
結局、マリベレスからサンフェルナンドの区間 88kmを半数
以上の捕虜が徒歩で行進することになるのですが …
炎天下のなか、マラリアやデング熱、赤痢などの蔓延する
エリアでの行進は悲惨を極め、無事に収容所に辿り着いた
のは約 5万4000人というありさまでした。
これが戦史に悪名高い「バターン死の行進」 と
呼ばれるもので、戦後に開かれたマニラ軍事裁判において
本間雅晴中将と捕虜の移送責任者であった河根良賢少将
がその責任を問われて有罪となり処刑されています。
こうしたフィリピン・バターン半島での一連の戦時事件が
「バターン号」 の由来のもとだとされていますが、
マッカーサーの怨念が感じられるネーミングですよね
さて、冒頭に戻って話を進めましょう。
バターン2号から降り立ったマッカーサーは厚木飛行場
から横浜へと向かうわけですが、この占領軍総司令官を
迎える日本軍の態度は、彼らの予想を大きく超えるもので
、それはいい意味でも、悪い意味でもなく、なんとも奇妙で
不思議な光景でした。
マッカーサーが進む横浜までの沿道には、完全武装の
日本軍兵士が適度の間隔で道路を背にして並び、彼らの
一行を警護・防衛していたのです。
このようなことは他国に類例を見ないものであり、米軍の
将官たちは一律に驚嘆の表情を隠せない様子でした。
下記 参照
http://www.youtube.com/watch?v=vuB1n6JcTgI
こうした日本人の律義さや従順とも言えるひとの良さは
お人好しの枠を超えて純真な子供の姿を彷彿させるもの
で、帰国直後の米上院公聴会で「日本人は12歳」
と証言した問題発言の心底にあったのは訪日直後の情景
と無関係ではなかったのかもしれません。
こうしたひとの良さはマッカーサーの帰国の際にも、また
先般のソチ・オリンピックの舞台でも垣間見られました。
離日にあたり、マッカーサーの宿舎であった米大使館前
には早朝から多くの老若男女が集まり別れを惜しんだが、
出発が翌日に遅れると 「門前の日本人市民は夜になって
も去らず、何を祈るのか、頭をたれる主婦の姿もあった」と
朝日新聞は報じ、同紙の「社説」 は、敗戦国の国民が
このように 「占領軍司令官の風格を慕うことは、おそらく
空前絶後のこと」 であろうと書いています。
それと同列にはできないまでも、ソチ五輪 の場でも証明
されたように、どう頑張っても日本人には向かない競技の
ひとつに ショートトラック (スピードスケート)があります。
ところが、
この競技には何故か滅法強くて圧倒的にメダルを奪取
しているのが、中国と韓国であるという歴然たる事実には
大いに納得し、メダルを廻って両国が繰り広げるネット等
での場外乱闘の醜聞も妙に腑に落ちてくるのですが …
そのわけは言うまでもないですよね
「バターン号」 に屈辱の怨念を込めたと推測される
マッカーサーの気持ちはよくわかります。
その程度ならば、お人好しの日本人にも理解できる範囲
の行為だからですが …
それに引き換え、理解できないのはテロリスト(殺人犯)
である安重根を英雄にして伊藤博文を怨み続けるという
韓国(朝鮮)の人々の心根と 「反日無罪」 を公言し
剥き出しの憎悪で威嚇する中国という国家です。
「併合」 と 「占領」 では、占領されることのほうが
はるかに悲惨であることはいうまでもありません。
にもかかわらず、日本の国民は天皇陛下よりも偉そうに
見えた不遜なる マッカーサー元帥 を慕い感謝する人々が
かくも大勢いようとは … しかも、そうしたマッカーサーを
いとも簡単に解任する トルーマン大統領 なる人物が本国
にいることに、さらなる驚愕を覚えるわけです。
日韓併合に反対していた伊藤博文を殺した安重根
を讃える記念碑を暗殺の地である中国のハルビンに設置
したいという韓国の大統領とそれを認め「安重根記念館」と
してより大規模な施設の建立に努力した中国の国家主席。
まともな日本人なら開いた口が塞がらないでしょう
『ひとり歩きの慰安婦たち』 の記事のなかで
朴槿恵大統領の馬鹿げた要請に対して習近平国家主席が
検討を示唆したのは外交辞令的なものだろうと1号 さん
はタカを括っていたようですが、とんだアテはずれです
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/310.html(参照)
日本にとってのマッカーサーと韓国にとっての伊藤博文
はある種、同等の立場にあったと言える人物ですが …
その処遇というか、人生における明暗は統治した国柄や
国民性によってハッキリと分かれました。
尊敬と感謝の念に送られて帰国した者と暗殺されて棺と
ともに帰国した者との違いです。
それだけではありません。
安重根記念館がオープンするというニュースが流れた時
に、2号 さんがボクに言ったのです。
「マッカーサー神社、知っているか」
当然、聞いたこともなかったので「知らない」と答えると …
安重根記念館とは全く正反対で、歴史的に偉大な将軍の
威徳を称え、「マッカーサー神社」 を建立しようと
する動きがあって、発起人には秩父宮両殿下を筆頭として
最高裁長官など多数の名士が名を連ねたのだそうですが、
先の「日本人は12歳の少年」発言に差別意識
を感じ取ったことからマッカーサーに対する熱気は急速に
冷え、いつしか人々から忘れ去られていったのだそうです。
さてと、前々回のことですが …
『極東国際軍事裁判 1、2』 で、2号さん
に貸しがあった関係で、今回は続けてエントリーできるとの
お墨付きをいただいておりますので …
つまり、
「熱しやすく冷めやすい」 国民性ゆえに立ち消えとなった
「幻の神社」 と「熱し出すと沸騰する」 民族性ゆえに
他国の土地でも遠慮なくモニュメント(安重根記念館
や慰安婦像)を作りたがる韓国との違いは何だろう
という新たな疑問と興味がフツフツと湧いてきたのです。
そこで、
次回は、『幻のマッカーサー神社』 というもの
について、朝鮮、いや、挑戦 してみようと
いま、秘かに考えているのですが…
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皮肉のアッコちゃん
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