いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

生きてれば、いろいろあるから・・・・

2021年09月26日 | 日記


困っている人に対して、あまりに唐突かも知れませんが、
そこにあるのは、何かの正解探しなんかじゃありませんから。

こうあるべきだとか、こうでないといけないことだから、
そういう無理繰りな順序に従いながら、
ひとが活きていこうする人生になぞ取り組んだりしているから、
どれが正しいとか、何は間違いだからみたいな、だけで。

そのためには、ここはどうしなきゃいけない、にもなるし、
どんな風じゃ駄目だから、ここは変えるべきだと決め付けてみる。

それで、ここはダメ、アソコは飛び出しすぎだって、
いつまでたってもハサミを持ってチョキン、チョキンって。
切ってきって、縮めまくって、まるで素人仕立ての、
下手な盆栽かなにかでも作っているみたいな、
イジリ過ぎをしているから、それでよけいに格好はつかないし。
見るからにヘンテコリンナ出来上がりにしてしまう。

これは手間暇かかる「時間」を味方にした作業なのに、
「一日」で作り込むみたいなつもりになってるもんだから、
いまの体裁を良くする気持ちに襲われたりして。

枝葉が自然に伸びて来るのを待つのも知らないし、
少しずつ変えていくことも分からずに無理な力を加えているから、
大事なところまでポキッとヘシ折ってしまうヘマしてるのです。

そこはもっと時間も手間もたくさん使うところだと知ろうとしない。
ダメなところを失くしていけば、良いところだけ残るはずって、
それはぜんぜん違いますからね。
今の格好が悪くても、一旦そこを伸ばしていってから、
しかる後に手を加えるんだって、そこまでは考えようとしません。

目先の判断と、見通し持った計画とが、もうすべてがゴッチャ。
育つ、育てる、ということには、時間が要るし、
総合的な判断というのは、単なる目の前のこととは違うのですよ。
それを分かろうとしない知恵不足になっています。

第一、人間は、ある意味どんな風でもアリなのです。
どういう形だって、それは、それで、それなりに良い訳なのですよ。
そこさえ理解をしていれば、ここ不味い、あそこダメの、
ダメ押し世界で、結果すべてをブチ壊しにする、
イジリ過ぎて壊しちゃうアホアホだとか、
下手すれば八方塞がりしか残されてない気分になってみたり、
そういう勘違いしたドツボでグルグル回りになっていく。


取り敢えず、現状いまこうだ、というのは、
すべて現時点、それでいい、構わない、良しとする。
先ず、その評価をすることです。

なぜならば、
それが、そうであるとは、
そもそも、そうなるはずだからこそ、そうなっている。

だからこれは、そうなる必然から生まれ出でたところの、
現状な訳でして、これが、
いま目の前にある、その状態なのです。

だから、これは、なんでだろうじゃないんです。
それが、そこにそうあるのは、これが何のことだろうと。

先ず、それを認めろ、引き受けろ、というのは、
つまり、そのことであって、
それで、その物事は、そのようにしてあるんだということを、
目の前にあるのを、認めたうえで、
とにもかくにも、まず承知をしておくこと。

そう承知したうえで、そのあとですからね、
今後を考えるというのは。
そこにワンテンポの大休止を置かないと、
これが順序なんです。

承知するというのは、
文字通り、「承って」、「知って」おきます、の意ですよ。

その間を惜しんで、今即これダメ、あれ間違いに短絡をすれば、
今何が起きて、それが立ち現れている話なのか、
そこが抜け落ちてしまいますから。

そのことには、およそ考えが及びませんよね。
考えもせずに、すぐ次に取り掛かろうとするので、
その失敗が次に生かせなくなります。

だから失敗をしたら終わりだみたいな馬鹿も言いかねない。
失敗というのも、それをキチンとしておかないと、
次に取り組むときに、そこで探せるはずの方法も見付けずで。

それもこれも、まず現状あることの必然が分かっていないから、
判ってないせいで同じシクジリ方に、また落ちていく。

嫌なことを嫌だから、だけでは困るんです、大人として。
嫌なことを嫌なこととして、その不味さを味合わないとね。
味合わおうとしないから、苦いものは、
苦いもので価値があることに気が付けません。

だから引き受けようとしない、認められないままでいたら、
認めてもらえるまで、そいつは何度だって、
畳みこむように幾たびもいくたびも訪れますからね。
言われているんですよ、私の言うこと聞いてみてくださいって。
聞いてあげないから、成仏しないんですよね。
ちゃんと成仏させてあげるには、
自分がやった、上手くなかったことというのは、
やった自分が、自分のなかで引き受けておかないと、
それが終わらず、いくらでも、いつまでも、残り続けて、
耳を貸してもらえるまで、何度でも問い続けてきます。

聴いてやる、聞き届けるというのは、
他者に関してのことだけじゃない。
むしろ我が身、我が行いにこそ、しっかり出来ていないと、
ほかの人のことにだって、正確には向かい合えはしないんです。
向き合っているつもりと、向き合えたは、別物なのです。
偽物は目を養わない人には見抜けませんから。

そういう偽物でお茶を濁しているような生き方は、
最期の時に、お前は何をしてきたのか述べよ、
そう問われたときに応えられないです。
応えられないことというのは、やはり成仏もしえないから、
次代も次々代でも、何代にも同じ問いは繰り返される。
あなたがしなければ、次の代。

私は8050の件でアワを喰う目にあっていることの、
本当の中身というのは、まさにこれだと思う。
自分が死んだ後に残された子供がどうだこうだというのは、
そこをあんまりカスリもしていませんけども、
そういう問題が、問われた中身のような気もします。


では、このへんで。

どうぞ秋の味覚でも楽しみましょう。

今夜は、何を頂きますかねえ。





コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。