いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

今朝の投稿の続きです。

2021年09月21日 | 日記


朝、起きてきた妻が読んでみて、
あのブログに関する感想を聞かせてくれました。
それで、ひとによっては読んでも理解しないかな。
そんな気もしたので、これは追記ですが。

まず、植物や、動物の件に触れましたが。
あれは人間と違う意味で、述べたのではありません。
ほぼ同じように、言えるから例にしたまで。

人間は自由な意思があるので云々という。
そんな読み方をされてしまっていたようですから。

また、相手に聞く点も、それは観察してみて知る面が大きい。
何か問い詰めて、答えさせる式の、尋ね方で分かるは、
暗に、その聞き方で、何かを言わせるだけで終わる。

そんな問い詰めで、ひとの本意が聞けるものではない。
相手は、こちらを読んで、それに応じてくるのです。

「大丈夫だよ」が期待されていれば、そう応えます。
そういうのは会話としては成立をしていても、
これは対話する意味合いでの関係性は、そこにありません。

その意味で、2者間で二人だけで話すとそうなりやすい。
そこに3人目がいないというのは、そうなりがちです。
家族構成が小さければ、それは起きやすいし、

ひとは自分の気持ちを聞かれているのか、
それとも何かを期待されていて、言わされた意味の返事を、
するよう求められた場面であるのか、実に巧みに読みます。

小さい子でも、これは言えるのです。
フランクに本音を言う関係があるかないか。
そこの家に何か特有の偏りが少しでもあれば、
知らずしらずに、相手の気持ちでも、行動でも、
自ずと、そこへと誘導されていきますから。

まだ子供だから分からないなんて、とんでもないです。
むしろ、力関係上、一層これを敏感に読み取ります。

だから、家族だけでは、そこに臨める話じゃない。
どんなに気を付けて、気を配ったところで、
それがベースのように染み渡っていますから。

そこを表面的に誤魔化せる気になっているのは、
親の側にこそ、よくあることです。
どこの家族でも陥るところですけど。

さてと、昼にしますので、続きは後程。



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