いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

きっと、お月さんも、見ています!?

2021年09月24日 | 日記

お月見はしましたか?
まだ今は大きな問題なさそうですが。
もうじき台風の強いやつがまた来るようですね。
これからの進路が大いに気になるところです。

さて、今夜は少し違う角度からで、
お話をさせて戴きますので。
気が向いたら、どうぞ読んでみて下さいね。

今回は、来たものは引き受けるということを、
少し考えてみようかなと思います。

どんな物事にも、これはありますから。
もし待ち焦がれていた何かが到来すれば、
これを迎えた方なら、きっと喜ぶところでしょうし。
また反対に、来て欲しくないような出来事だと、
その歓迎できないことに関して、
認めたくなかったり、飲み下せないなと感じたり。
それも、またあったりすることですよね。

これらを、別な観点で眺めてみるなら、
それは何の出来事でも、また物事にしても、
誰もが、ひとびとの眼差しというもので、
それらの良し悪しというのを、
自分の気持ちのなかで、評価してみるのです。

それもたいてい、非常に近くて狭い範囲で、
それを目の当たりに見ながらで、
これは良いとか、これじゃ駄目だとか、
けっこう好き勝手に自分都合な、
ほとんど偏見に近い決め付け方をしてみたりです。



だから、その場では嬉しいようなことじゃなくても、
でも、後になって振り返ってみると、
あの時に、ああいう体験をしていたことが、
後々、自分には、とても大事な経験でしたという、
そんな振り返りに繋がることもあります。


それ自体、確かに同じ物事・出来事なのですが。
ただ、自分にとって、それがいったい何だったかで、
あるいは、何々ではなかったという、
そういう気付きを、あとから持つというのは、
これは違う時点・別の観点に立てば、
評価は変わる、変えられるという経験になる。

もっと言えば、それは解釈ということですよ。
自分にとって、その何かについて、それをわが身に、
どう活かせるか、また殺してしまう結果に終わらせるか。
それは自分の物事の見方・考え方なのですね。
それ自体、何か絶対値みたいな意味合いでの、
価値や無価値が、そこにあるからではなくてですね。
何があっても、またそこに何がなくても、
それを、どう見るか、どう受け取れるかというさえもが、
これは、そこに立ち会った本人が持った、
その場の心の構え次第で、決められていくことなのです。
そこの意味合いというのが、色合いを染め変えるにくらい移る。
同じことの、その意味がマサに正反対になるくらい。


そこを知らない人は捻じ曲げだと受け取るかも。
そこに何の意味合いがあるかないかとは、
読み解く人の気持ち一つ、心の持ち方なのです。


きっと極端だと聞こえるかもしれない。
もはや、そこに何があるかないかというより、
あなたの心や気持ちに、何があるかないかというのを、
目の前にある何かに、あなたの心が被せるようにして、
それをあなたは、そこに何があるとか・ないとか、
そう映し出して、感じていることです。
そう言い切っていいくらいなほどね。

そこが極端にパーソナル過ぎる価値先行に奔れば、
ひとからは妄想の輩だとも見えるのだろうし。

でもこれだって幻聴を苦しめる相手だと言い張れば、
幻聴だって、主張をし続けるのでしょうけど、
受け入れる気になって、上手く付き合う気持ちに立つと、
幻聴さんと呼んで、慣れ親しむ人もいることなのです。

その幻聴が、幻聴だというのは、同じことなのに、
それと、どういう関係を持つか・持たないかで、
自分が抗い続けていれば幻聴にも苦しみを味わうけど、
心次第で、それを、どう受け止めるかが、
ここで変わってきたりしてきます。

ルーレットを回せば、当たりとハズレに物事が分かれます。
期待しているのがアタリでも、外れも必ず来る。
しかも、ルーレットだけじゃなく、
実際に好機というのは、限られて少ないことの方なのです。
人生というのは、当たりを狙っても、必ずババも引く。
当たりを狙いたいから、ババは抜きたくないというのでは、
もしかして虫が良すぎたゲーム参加者なのかも知れない。
最初から、外れあってこそで、当りのある仕組みですよ。
負けたくないから、ひとは勝とうと思って頑張ります。
負けるのは引き受けたくないから、勝負にも出ない?
生きていくというのは、勝ち負けじゃあないけれど、
頑張る励みが、どこにあるのかないのかを楽しめない。
上手くいっても、上手くいかなくても、
やるだけやり切って、楽しんだなあという心地は。
負けを引いたって、それはそれでチャレンジしたという。
そういう達成感がある訳で、その達成感を楽しむから。
また挑もうとする。これが生きているイキイキ感なのだと思う。

それは、誰が病んでいるとか、どこに障害があるとか、
傍のモノサシが横ヤリで決めてくるような事柄と、
もっと違う次元のことでして、あくまで主観ありきな、
自分本位な健康さの発揮をしているかどうかであって、
自分が活きているというのは、そういう意味だと思う。

楽しむというのは近傍からの他己評価的な基準から、
自分は、どう見られているかで、考えていたのじゃ、
本気になって面白がるなんて、なれないことですもの。
人生もっと自分が楽しんでナンボ、ということでいい。
自分の生き方は、自分の感じ方で楽しむものだと思えば、
好きにやってみる気がしてくるかもしれません。

変な言い方ですけど、
これはホンコの遊びなんだと達観すれば、
怖がってばかりいないで、マジに励んでみるというのが、
アリで面白がれるんだろうなあと思いますけど。
そういう意味で、これは大人になれるということでもありましょうか。


さて、明日は外出の予定がありますので、また。

オヤスミナサイ。

一週間お疲れさまでした。






コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。