昨日は地域の家族会に行ってきました。
そこで耳にした個別の件について、
直接ここへ書く訳にいきません。
それらの内容は個人上の事情であるし、
また自助グループとして例会を行う以上、
そこで聞いた話を、よそで他言しない。
これが最重要ルールの一つだからです。
ただ、その場で私が感じたことや、
私が自分で気付いた点をあげてみて、
そこが何を意味する話に読み取れたのか。
その辺りをブログに書いてみるのは、
書き方においての配慮ができていたなら、
私の考えを知ってもらうのに問題はないと思います。
というよりも、ぜひ読み手の皆さんと、
ここで共有を図ってみて、学びあうべきだなと、
そういった気持ちが湧いてきていますので、
今回は、そうした投稿内容で綴ることにしました。
また、そのことは、
隣人の体験から、知る、教わる、学ぶという点で、
セルフヘルプの本来でもあるのだし。
また共通のバックボーンを持ったお互いで、
支え合う、助け合う、認め合うことに通じることでもあり。
グループの趣旨や性質に添うものとしても、
これを読んでいただくことには、
そういう相応しさが備わっていると考えています。
では、書いてみますが。
参加者の何人にも共通する部分として言えると思ったのは、
まず、その本人の現状について、多くの家族は、
たいてい、もっとこうだったら、だとか。
あるいは、こんな風ではなくて、どういう具合に、
してほしいとか、なってほしいとか、
また、何々させてみたいと感じているのだとか。
そういう観点で物事を見たり受け止めたりしていることです。
もちろん、その発想そのものは理解できない話ではない。
そのこと自体なら間違った考え方とは言えません。
ただ腑に落ちないのは、もっとこうしてくれたらというのも、
もっとこうなってくれたらというのだって、
ある程度、上手くいくようになっている場合でも、
そして本人に任せられている状態になった家族でも、
さらにさらにで、続きを望み続けている様子もあるのです。
それは、どこまで良くなったかというより、
「いいところ探し」ならぬ、
まだ「良くないところ探し」がやまらないみたいな。
しかも、それらは昨日や今日から始まったのではなくて、
ずいぶん前から続いているはずなのに、でも依然として、
そういう見方で接するだとか、感じていたりなのです。
でも、少し考えてみてください。
それらが思ったように変わらないし変えられないというのは、
これは本人だって同様な部分として感覚していることなのです。
やめようとしても、やめられないし、
自分だって終わりにしたくてやまやまですが、
そう思ったくらいで変えたり終わりにできたら、
最初から困らないし悩まないことです。
むしろ自分がやめたいのに、自分ではどうしようもない。
ここのジレンマこそが、悩みや困りごとの核心部分というべきです。
つまり常に自分が抱えていて重荷になっていることなのです。
それが、どこから来るているかは、さて置いておくとしてですが。
何よりも家族という一番に身近にあって、
最大限ずっと長い間に渡り、
自分の目の前にいる、その相手から、
何かにつけ、本人には自分で出来ないこと、苦手なことで、
いつも常時、これはしないでほしい、やめてくれないか。
そう見ている相手が目の前に居続けている話ですから。
そう考えると、これは、それ以上の苦行がないぐらいです。
そばにいる家族と、病気をしている本人との関係は、
そんな境遇にいる意味だといっても過言じゃないほどですから。
やめたくても、どうしようもなく、やめられずにいるしかない。
そういう奈落な螺旋階段をグルグルしている本人ですが。
傍らにいる人間から「大変だねえ、辛いだろう」と思いやって、
そういった声掛けをしてもらえるのならまだしもだが。
これがそうはならない。
真逆に「お前は、いつまでしているんだ」
「いい加減にもうやめたらどうなんだ」
日夜そういって責め続けられてやまないのが現実です。
本人が自分の問題を引き受けられていないのもアレだけど、
そういう家族を抱えている家人が、
目の前に居る本人の、これが現状なのだというのを、
家族というのは認めようとしないのです。
その部分を、いつまで経っても引き受けないということでは、
家族にしたって、本人にしても、同じことをしている意味だし。
それを踏まえた上での次なる展開へと進まないのは当然でもあります。
確かに今の現実は不十分というのは百も承知だ。
でもなんで、今のようにしているか、
そこを汲もうとしていないから、
言い換えるなら、その事態に陥った相手の窮状を理解してこそ、
じゃあ、この場合、どうするかという、組み立てに入れるが。
でも、「この現状は認められないので責任を問う」みたいに、
善処を求めるがごとく困っている相手へ自己解決を迫っても、
これで解決に繋がるはずがないじゃありませんか。
そこを見えていないというか、知ろうともしないのです。
そもそもが、まず自分本人こそが一番大変な目にあるのに、
それに倍加するようにして家族からも追い立てられる形勢ですし。
これで困りごとが膠着するのは、いったい何が理由であるか。
傍目からは、手に取るように見えることでしょう。
だから少しは察してほしいと思わずにいられません。
それをわざわざ声に出して言われてみたりだとか、
口で言わないまでも、窺うような目付きで覗くようにされます。
そういう状況に日々晒されされているというのは、
ひょっとしたら病気本体そのものよりも、
こういう接し方をされる事の方こそ、
より一層に大きな苦痛になるんだといっていいでしょう。
そういう態度を一生懸命にやり続けられていて、
しかも、それを自分では間違った働きかけだとは、
微塵も考えてないどころか。
むしろ、そこに反発したりすると、相手から、
「お前のことを一番考えて言っているんだぞ」とまで、
そうまで言われてナジルようにもされたりします。
ですから、そういう本人を病気だとか、病人なんだと、
そういう見做し方で、呼んだりしているけれども。
その本人の病気の苦しさの中身の半分は、どこからきてるのか。
そこを家族こそ、少しは気付くべきなのかも知れないぞと、
そう思わずにいられませんでした。
さて、今日のところは、ここまで。
また続きを書きますね。
ではでは、