聖書と共に

口でイエスを主と言い表し

今日は、「ローマ人への手紙10章」です。

◯キリストは全て信じる者の義とせられる為に、
   律法の終わりとなられた。
◯口でイエスを主と言い表し、心にて神がイエス
 を死人の中から、よみがえらせられた事を信じ
 るならば、救われます。

ここから「新約聖書1日1章」(榎本保郎著)から
です。
 ユダヤ人は、神に対して非常に熱心である。
例えば、安息日を守る、1/10献金をする、等で
ある。しかし、その熱心さが、深い知識によるか
どうかが問題である。

日本のことわざに「イワシの頭も信心から」と
いうのがある。熱心にさえ拝めば、何でもかまわ
ないという考え方である。
 キリスト教信仰は、熱心であれば神に喜ばれる
というものではなく、何を熱心に求めていくか、
という事が大事なのである。

神は一人子を、たもうほどに私達を愛して下さっ
ているのであるから、私達に必要なものを、神は
私達より先に知っておられる。そういう神に対し
て、私達が熱心に祈るとは、どういう事なのか。

私達の熱心が神を動かすとか、私の熱心が何かを
生み出すとすれば、重点が自分になってしまう。
キリスト教の重点は神にある。神が、こうして
下さった、という神の出来事から、私達の信仰は
始まっているのである。

イエスは、本当に、ダメな人のために来られたの
である。私達の罪のために来られたのである。
そして、イエス・キリストの十字架に、あずかり
たいと心から願う者に、救いは喜びとなる。

信じるとは、イエス・キリストの十字架によらな
ければ、私はどうする事も出来ない、と口で告白
し、心で信じる事である。

ここからは「静まりと黙想の朝に」(松木祐三著)
からです。
人が救われる為には難行苦行は、しなくても良い
。キリストは人間には、とうてい、なし得ない
贖(あがな)いの死と、神の子としての復活をされ
たのだから、人は、ただ、それを受け入れれば
良いのである。

私達は、
ある程度の事が分からないと、信じられないのは
当然である。しかし、実際には、信仰は単純で
イエス・キリストの御業への信頼から始まる。

「私を求めて来なかった者(異邦人)に私は見い出
され、私を尋ねなかった者に、私は現れた。」

福音に心を開かない民(イスラエル)に対して、
神は、なおも愛を表しておられる。
イスラエルについて
「私は服従せずに、反抗する民に、終日、私の手
を差し伸べていた。」

私達を救い、信仰を成長させる為の、神の憐れみ
を思う。

   *************

私の行っているホリネス系の教会では、全員が
「静まりと黙想の朝に」を呼んでデボーション
しています。

昼食は炊き込みご飯と、漬物です。

私が知っている教会で、良い思う教団、教会は

日本ホーリネス教団、インマヌエル総合伝道団、
キリスト兄弟団、シオン・キリスト教団、
日本同盟キリスト教団、日本イエス・キリスト
教団、ナザレン教団、アライアンス教団、
聖契キリスト教団、チャーチ・オブ・ゴッド教団
メソジスト教会、等々です。



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