から抜粋し、ご紹介します。
「兄弟達よ、気を付けなさい。あなた方の
中には、不信仰な悪い心を抱いて、生ける
神から離れ去る者がある」 (ヘブル3-12)
不信仰は、サタンが我らの心の中に作った
ものであり、我らを変化させて、ヨハネ8章に
記されている様に、我らを悪魔の子にして
、我らの内に古いアダムを創造し、心情、
意志、願望、魂における愛情を、ことごと
く腐敗させる。サタンが心を支配するから
である。
この大敵に注意すべき事が二つある。
①不信仰は、心が聖霊によって、その実相
を表され、暴露されないうちは、決して
意識されないものである。
我らが、自分の行為行動を注意する時、
自分の高慢、虚栄、利己心、私欲、貪欲、
嫉妬、その他、多くの悪をわきまえる事が
出来ない、という事ではない。
しかし、不信仰を恐るべき罪として見る事
や、内住の罪、まとわりつく罪として知る
事は、聖霊ご自身が我らに臨んで、これを
現されるまでは、分からい事である。
②不信仰は、我らの意志の下に深く潜伏し
ている内心の悪である。
彼らは、神を信じる事を望み、意志も願望
も、みな神の方に向かっている。しかし
悲しい事に、彼らは善を行いたい、と思っ
ても、これを行わず、反って望んでいない
悪を行っている事に気付く。
自己意志、自我などがキリストと共に
十字架に釘付けられ、葬られているのは
事実であるが、まだ、内部にも失敗がある
しかし、我らが神に向かって叫び、神を
待ち望む時、聖霊が強い光の様に臨んで
「これを行うのは、私ではなく、私の内に
宿る罪である」 (ロ-マ7ー20)と我らの魂に
示したもう時が必ず来る。
神は、ほむべきかな。我らの魂がこの事を
発見する時、即ち不信仰な悪い心ー内住の
罪ーは我自身ではなく、自分の内にあって
我を捕虜にする一物である事を悟る時、
我らは既に、半ば勝利を得たのである。
神を信じる事を妨げている大きな障害が、
ここにある。この「大山」が、計り知れな
い神の愛の「海」に投げ入れるまでは、
信仰は誠に至難の業である。
しかし、、この大きな障害を取り除く道も
手近にある。
主は「からし種ほとの信仰があれば、この
山に命じて「海に入れ」と言っても、必ず
、その通りになる」 (マタイ17-20)と告げら
れた。
即ち、全ての罪と汚れを洗い潔める為に
開かれた泉であるイエスの尊い血を信じる
からし種ほどの信仰さえあれば、主の前に
不信仰な悪い心という「この山」も平地に
されてしまう。(ゼカリヤ4-7)
からし種の中に、山よりも、更に大いなる
力があるのである。
願わくば神よ、我らを恵み、敵の内で、
最も力ある敵を、我らの内から追い出す事
を得させたまえ。