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聖書と共に

自分に語られた言葉

今日は「新約聖書1日1章」(榎本保郎著)
からです。
マタイの福音書23章は、
「偽善なる律法学者、パリサイ人よ」、又
文語訳で「禍害なるかな、学者、パリサイ
人よ」とイエス様の叱責があります。

教師という者は、教える立場にあり、
自分は持っているから与える立場である。
しかし、自分こそ許されなければならない
者、自分こそ求めて求めて行く者、罪人の
頭である事を知ろうとしない。

それは結局、聖書を自分に語られたものと
して、読んでいないからである。
聖書を読んでいく場合、誰かに主が語られ
たとして読む事は、これは話として読んで
いるのである。
私に語られた言葉として読んでいなかった
ら聖書読みの聖書知らずになる。

自分が関与せず、自己不在の読み方をして
いたのでは、聖書の素晴らしさも分からず
神の御言葉への驚きも生まれて来ない。

私達に語られた言葉として聖書を読んでい
く時に、初めて私達が罪人である事に気付
く。そして私は、イエスの教えに、程遠く
、のろわれなければならないのは他の誰で
もなく、この自分だという事が、御言葉に
よって示されていく。

丁度、自分が目で見て、真っ直ぐな線を
引いたと思っても、正しい定規を当てると
歪んでいる事が分かるのと同じように、
イエスの言葉に自分を合わせて行った時、
自分が、なんと、みにくい者であり、
人の前に、大きな顔をして出る事のできな
い人間であるかを知るのである。

そういうふうに聖書を読んでいかない人は
自分は人よりも偉いとか、一生懸命やっ
いるとか、聖書をよく読んでいるとか、
祈りをしているとか、献金しているとか、
そういう事を、いかにも大事な事の様に
思ってしまう。

自分が罪人だと知らない人間は、イエスの
十字架は、どうでもよい、という気持ちに
なってくるが、私達が、本当に打ち砕かれ
た時、あなたの為に来たのだという十字架
の主の呼び掛けが聞こえてくる。
自分が罪人である事を知る時、イエスの
十字架以外に、救われるすべはない、と
いう姿勢になるのである。

  *********
以前に取り上げました、キリスト教の異端
(カルト)の人々に共通しているのは、
十字架は、どうでもよい、という教えです
即ち、罪もどうでもよいのです。
エホバの証人、統一教会には十字架は
ありません。モルモン教は聖書以外の
モルモン経典を基準にしているため、罪の
概念がないのです。




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