聖書と共に

私への語りかけ

イスラエルの歴史の中でBC1350~1050年は、
士師の時代で、「これは主を知らず、主がイス
ラエルの為に行われた業をも知らなかった」
イスラエルでは、代々、口語伝承で親から子へ
神様の業が伝えられていたはずなのに。

これについて「旧約聖書一日一章」(榎本保郎
)から抜粋しご紹介します。

彼らは主を知らずと言っても、父や母あるいは
祖父母や近親者から聞いていたに違いない。
神があの荒野において、どんなにイスラエルの
民を顧みて下さったかという証を聞いてに違い
ない。
しかし、彼らは自分に対する神の業を知らな
った。他人に示された神の栄光は知っていたが
この自分に対する神の栄光を拝した事がなかっ
た。

では彼らは、どうして自分に対する神の栄光を
仰ぐ事が出来なかったのか。それは彼らが、
神の言葉を自分への語りかけとして聞いていな
かったからである。

神は決して一般論を語られる方ではない。
「アブラハムよ」、「アナニヤよ」と迫られた
様に、神は常に私達、個人に語りかけ、迫られ
る方である。
彼らは神の言葉を聞いても、それを自分への語
りかけとして聞かず、ある時、ある人に語られ
たものとして聞いたのである。

だから彼らにとっては、神の言葉は、いつも
物語であり、昔話に過ぎなかった。
その様に、自己不在のあり方に留まっている限
り人は誰も、自分に対する神の栄光を仰ぎ見る
事はできない。

神の私への語りかけを聞くように聖書を読む事
によって、初めて聖書の言葉を聞くことが出来
る。そこから祈りの生活が始まるのである。
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