てつがくカフェ@いわて

てつがくカフェ@いわてのブログです。

てつがくカフェ@いわて-etcetra avec DAN- Bien fait⑫

2013-12-19 13:33:45 | イベント

リクエストに応えてDANさんは、1Fに降り準備をし始めました。今度は音響ありのライヴです。初めに聴いたのとどういう風に違って聞こえてくるのでしょうか?

間奏にフルートを交え『命の花』、そして同じく間奏にフルートを交え『命の音』を演奏してくださいました。

しゅんの中央にあるでかい階段に座りながら聴く人(私も含めて)、1Fの間近で立ちながら聴く人、二階で紅茶を飲みながら聴く人、いろんな想いが駆け巡ります。

やはりフルートに入ると皆の様子が違います。いつかブログでも言いましたが、フルートの音色って魂に届く気がするんですよね。昔から童話なんかでも笛をふく人って魔法使いとか旅人とか、定住しない人が多い気がする。

DANさんのフルートは本当に魔法使いのようでした。

そしてフルートを交えた『命の花』。『命の音』。

魂に響くといいましたが、魂というものが実体としてあるのではなく、このメロディーと歌と詞とフルートの音色が「魂」なるものを形象化するのかもしれません。

ライブ後の会場から感想を簡単に拾いました(本当にあっという間で濃厚・濃縮された時間でした)。

「二回目に聞いたからかもしれないが、映像がない方が状況がありありと浮かんでくる」とか、「音楽の力、音楽は無力か?という問いではなく、音楽には目的を求めるものではないのではないか?」とか「音楽は無力。でもいつも傍にあるもの」といったご意見が出されたことを記憶しております。

音楽を含め、すべての芸術は自分の実存にはりついた固有の<今・ここ>から私達を解放する機能を持っているような気がします。それは<私>を超えて非-人称的な<わたしたち>なるものへ明け渡すような気さえします。

自分や身の周りの人に起こった事を歌っているのだけれど、それが作者の固有性を超え普遍性を獲得していく。人間存在に宿る「固有と普遍」のテーマは永遠の不思議なテーマですが、やはりこれは「死」というものをつきつめて考えなければ出てこないような気がします。<私>の死と<あなた>の死と<彼/彼女>の死と。

また、表現することの意味や起源を今回問いましたが、そこにも何か表現せざるをえないものとしての「死からの力」というものがあるような気がします。死を私達は決してこれまでわかったことはなかったし、今もわからないし、これからもわからないでしょう。そして自分の死以上に私達に何かを触発しつづけてやまないもの、それは自分の死ではなく、「他者」の死でありつづけるでしょう。

今回お忙しい中お集まりいただきました皆様、そして会場を提供してくださった喫茶店「しゅん」の各位様には、心から感謝の想いをお伝えいたします。本当に本当にありがとうございました。今までで一番楽しかったし、初めて本当の「てつがくカフェ」をした気がします。

また、てつがくカフェ開始時から今回最後までご協力いただいたI先生(そして宣伝をかなり力いれて手伝ってくださったTさん)、本当にありがとうございました。

そして何よりDANさん夫妻、ご家庭お持ちでお忙しい中釜石からご参加いただき本当に本当にありがとうございました。あの非常時に「歌」を作ってくれたという出来事自体、私には全く信じられず、人間の可能性、多様性に改めて希望をいただきました。まさに「sing or die 」ですね(加賀谷)。

※カフェ後、美しいDANさん夫妻、大好きI先生夫妻、いってるH君を交えた打ち上げもめっちゃ楽しかったです!!盛岡ベアレインexcellentでございました。では、またいつか会えましたら、Au revoir!

 


てつがくカフェ@いわて-etcetra avec DAN- Bien fait!⑪

2013-12-18 12:29:04 | イベント

おしばらくです。最近いろいろありまして、必要事から『現代思想 googleの思想』という雑誌を読んでいて、この思想で成り立っている世界から早く撤退しないと(笑)、と考えております加賀谷です。

さてさて、然しながらこのてつがくカフェの報告だけはしないと。

前回の続きですが、「災害」を表現することについてでした。今回は人の命を花に喩えることについて・・・。

前回の報告でアドルノの詞を引用した男性曰く。

「昔から現実が悲惨なことを写し取る、真似するという芸術的行為はあった。今回の震災でもコンサートが中止になったりと文化活動が「不謹慎」という圧力があった。そこに表現されているのは「事実」ではないこと、何か「正確」ではないから、この種の居心地の悪さがあるのではないか?」

この正確ではないという、この「なさ感」、ズレとは何なのでしょうか?逆に不調和や違和を感じさせる音楽なら齟齬はないのでしょうか?

「現実は過酷。過去も過酷」。DANさんの『命の音』という曲の歌詞にもありました。

もしかしたら、この「なさ感」や「ズレ」を感じさせるものが、芸術という「物語化」なのかもしれません。

そこで脱サラして農業を始めた男性の想いを込めた発言がなされました。

「私は脱サラして農業をやっているけれども、1年単位で毎年毎年、大地や作物とつきあってるわけです。食用作物とは違って、花というものを考えると大地の中の種が芽をだし、枝や葉を伸ばして成長し花をつけ、そして枯れていく。その命の営みを人間の命に喩えるのは別に悪いことではないと思う。私は震災後、歌は作っていないけど、農業というものを通して何かを「表現」しているんだ、と思うようになった」。

なんて地に足のついた説得力のあるご意見!人の命を花に例えること。昔から人は人を何故か花に喩える。冠婚葬祭、イベント事には必ず花。花言葉。花とイメージと言葉を結びつける。今更ながら花のパワーに驚かされます。人間の比喩の力にも。

この男性の花に対する態度は、大地や自然や人間を「愛でる」といった日本語がぴったり寄り添っているような気がします。

先ほどの男性がそれを受けてまた発言されます。

「DANさんがイメージしているのはこれから生まれてくる種。でも種というのは撒かれても過酷な自然の中で芽を出せないものもある。その視点はどう思いますか?」

DANさん。

「そうですね。私のイメージしているのは仏教です。人の命を種に例えて大きな自然の枠組みの中で人の命を捉えています。そう考えるとそれはとても過酷できついことを言っているのかもしれません。釜石に医者で住職もしている方がいるのですが、その先生にこう言われたことがあります。「私は絶望した患者の前で事実しか言えない。それはその人にとっては過酷なことだろう。人の命を花というものに喩えることができる。それは君がミュージシャンだからできるんだ」と」。

ことに、事実や情報知としてしか伝えることが許されない職業に置かれている人は、「DANさんの歌を聞いて救われた」、と言う人が多いそうです。

続けて私の隣に座っていた男性が発言されました。

「これは震災という経験からDANさんが素直に表現したことで、そこに良いか悪いかということはないと思う。表現することに善悪、真偽をもってくることはおかしいのではないか?」

この発言には納得させられた方は多いと思います。価値観の相対化でありまさに表現の自由で民主主義を代表するようなご意見です。

その後色々な意見(主に震災時に自分が何をしたか、これからどう向き合っていくかなど)も出ましたが、この論点がクライマックスだったように思います。そして会場から『命の花』を映像なしで聞いてみたい、フルートが聞きたいと熱いリクエストがあり、てつがくカフェはライヴ第二幕に入るのです(加賀谷)。

 


てつがくカフェ@いわて-etcetra avec DAN- Bien fait!⑩-2

2013-12-13 15:44:55 | イベント

前回の報告の補足です。

<希望>とか<絶望>は人間の側の主観的な感情なわけですが、ここに出てくる「星」はそれとは違う超越的な感覚を感じます。

震災後見上げた美しい「星」がなかったら、DANさんに『命の花』のメロディーや詞は「降りて」きませんでした。

多くの被災者の避難場所になった、「南三陸町観光ホテル」の女将さんも「震災翌日のいつものように何も変わらない真っ赤な朝日を見て涙が出た」とおっしゃていました。

こんな苦しい状況にいるに関わらず、太陽はいつも変わらず昇り沈む。

人間を超えたところでの地球の営み、<私>が死んでも続いていく宇宙の運動を感じたとき、人間は「楽」になる部分があるのではないでしょうか。もちろんそこに「無力感」や「虚しさ」を感じる人もいるでしょう。

でも私は何か楽になります。

人間の側での感情では計り知れないもの、人間の丈、尺度を超えたもの。<絶望>とか<希望>という二項対立がなくなって、大きなものに包まれるというか、溶けていく感覚。融合。

「無限」を感じて人は二つのタイプに分かれると誰かが言っていました。確か、ジョルダノ・ブルーノとパスカルの宇宙観の違いで。「無限」を目の前にしたとき、脅威を感じ、恐怖にかられてそれをコントロールしようとするか、神秘を感じて大地に向けて感謝し祝福するか。

「ユーミン」の新曲に対するインタヴューを思い出しました。

『ひこうき雲』は「レクイエム(鎮魂歌)」。今度の新曲『シャンソン』は「アンセム(賛美歌)」。(加賀谷)


てつがくカフェ@いわて-etcetra avec DAN- Bien fait!⑩-1

2013-12-13 11:42:23 | イベント

さて、てつがくカフェ@いわての報告も⑩を迎えましてそろそろクライマックスですね。

前回の報告で『命の花』が「希望」の歌と説明された男性(Iさん)の発言の紹介から。

「アウシュビッツの後で詩を作るのは野蛮である」

というドイツの哲学者アドルノの言葉を最初引用され発言されました。

「DANさんは、どくっどくっという心臓の鼓動、二足歩行すること、リズム、つまり<生きる>ということに対して肯定的。さきほど発言された男性が希望の歌を聞いて違和感を感じるのは、調和のとれた歌を聞くと、そのリズムの切断、つまり日常を奪われてしまったその衝撃、亀裂、世界との不和がそこに表現されていないからではないか?」というご意見でした。

その方の読んだ本によると、原始人は二足歩行ができたから、かなりレベルの高い音楽の文化を持っていた、という仮説があるらしいです。ただ、言語は話せなかったそうです。

震災後はアウシュビッツに加えて「アウシュヴィッツ、サンリク、フクシマの後で詩を作るのは野蛮である」という言葉が、詩人の中では一時期頻繁に言われていたそうです。

ここには、厄災(カタストロフィ)の「意味づけ」、「物語化」という問題があると思います。

続けて進行で私が対話に入りました。

「Iさんはこういっておられますが、(前回の)男性が今回の震災を<希望>の歌として表現することに対して違和感を感じるのは、何故でしょうか?ではそこからどうすればよいと思いますか?またどんな事を問えると思いますか?」と前回の男性に投げかけます。

この私の問いかけに対して、とても言葉を探しておられて(ごめんなちゃーい!とても聞きたかったので突っ込んでしまいました)、言葉がご<自分>のものとして熟成されるまでじっくり待ってもらい、回答は留保いたしました。これからもこの課題を考え続けてほしいと切に願います。

私もこれを機に釜石からの<問い>をDANさんにぶつけてみようと質問いたしました。

今度は言葉の問題です。

私はこのてつがくカフェの1週間前に出張で陸前高田・釜石に行っており、夜は待望の「のんべえ横丁」に行ったのでした。

そこで偶然会った、ママと親しくなり3~4時間!ほどお話ししたのですが、もちろんDANさんの話題にもなりました(有名人のようでお店のお客さん皆知ってました(°д°))

「ねぇ、こんどそのてつがくカフェとやらでさぁ、DAN君に聞いてきてよ。私も津波でひどい目にあったけどさぁ、目の前であんな酷い町の情景やたくさんの数の痛んでる死体を見て、どうしても人の命を<花>とは思えないのよ。そりぁ、確かに更地になった大地で、春がきて草木が生い茂る様子を見て、なんて凄い生命力だろう、と感激したわよ。でもね死んだ人は戻らないのよ。再生しない。人の命は<花>じぁないわよ」

という趣旨の事をおっしゃっていて、心に残っていました。私はこの言葉をてつがくカフェでDANさんに投げかけました。

死んだ人の命、これから生まれてくる命。それを<花>、<花>の種にたとえること。災害の表現に<希望>の意味を与えること。

「表現の自由」と倫理道徳。次回は災害や災禍を<表現>することという人間の本質に迫ります(加賀谷)。

 

 


~小休止♪~

2013-12-11 12:16:08 | イベント

12付8日の『釜石第九』、素晴らしく荘厳だったみたいですねーΣ(ノ≧ڡ≦)

宮古の友人が感激&感涙しておりました!!釜石はどうしてこんなに音楽がさかんなのでしょうね。本当に行きたかった~

・゜・(ノД`)・゜・

さて、てつがくカフェの報告も⑨に至りましたところでちょっと小休止します♪

以下のようなDANさんの演奏&メッセージがYOUTUBEに掲載されていたので、ご紹介いたします。

『震災から1000日、感謝を込めて「命の花」台湾語字幕付き artistDAN』というタイトルで、『命の花』の演奏が台湾語字幕付きでUPされていました。

「震災から1000日、この歌を演奏するのも100回をこえ、色々な思いが巡る。

今回の「命の花」の字幕は台湾語で、個人的にもお世話になった台湾赤十字社、また日本の赤十字社の方々への感謝も込めた映像です。

震災後、私達にとって身近な存在になった赤十字社。

義援金や、仮設住宅の電化製品、全ての被災者へ送り届けるその力の大きさに当時は皆驚いたはずです。

もちろんお金や物も大事でしたが、私が一番感謝しているのは、やはり人の力、そして想いでした。

特に私達家族には、震災前より2ヶ月位ずっと、風邪やウイルスやらで高熱続きで弱りきっていた、まだ1才にもならない3男がいました。

もちろん私達には何もできない状況で、、、

そんな時、たった数日で赤十字のテントが隣の避難所に設置されました。

本当に命の光が射したようでした。

そして常時、医師や薬などを頂ける環境になり私達は元気に生きてこれました。

今、私達が生きているは奇跡です。

それを現実にしたのは、応援、励まし、手を差し伸べてくれた多くの人の心です。

だから私達は一生感謝して生きていきます。

そしてそれを伝えていきます。

まだ見栄もはれない生活ですので、今出来る唯一の恩返しはこれくらいしか、、、

ありがとう」(DAN)。

カフェの時、一人の参加者が「非日常に陥って、今までの生活が異常だったんだ。本当の絶望を経験して、日常を感じた」といった趣旨の事をおっしゃられた方がいました。

それに応えてDANさん。

「避難所で<不便>な状態にいるなか、今までの日常がおかしかったんだと感じた。停電の中、ろうそくの小さな灯りがこんなにもみんなをあたたかく照らしてくれる。これが<普通>なんだ、と思った。電気が復旧したとき皆どれだけがっかりしたか」。

私の頭をよぎったのは、FUKUSHIMA.・・・・・・

このDANさんの言葉からあなたは何を感じますか?(加賀谷)