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「和の国」のかたち: 日本人への遺言PARTII

2021-01-12 14:26:14 | 日記
「和の国」のかたち: 日本人への遺言PARTII (日本語) 単行本 – 2017/1/31

日下公人、渡部昇一

第三章 皇統はかくあるべし

陛下の第一のお仕事は日本の安泰をお祈りすること

陛下は”象徴天皇”が日本人の目に見えるようにと、東日本大震災の被災地をお訪ねになったり、
席に戦争で死闘が繰り広げられたぺりりゅー島(パラオ共和国)を訪れなさったり(15年4月)
しておられますが、これは大変なことです。日下さんや私のように8-サイを越えたら、ふつう、あんなことはできるものではありません。
しかし、陛下はそれをなさっておられます。それは、そうしていなければ象徴天皇としての任務を果たせないと思い込まれていいらっしゃるからではないでしょうか。

陛下のお蕎麦にもののわかる人がいれば、「被災地のお見舞いとか鎮魂の旅とか、そういうことは天皇の本務ではございません。
神代以来の天皇の一番のお役目は日本国および日本国民の安泰をお祈りしてくださることです」と箴言したと思うのです。
「したがって、陛下は宮中におとどまりになって、お祈りください。宮中祭祀でも、肉体的に大変なものは摂政にお預けになり、お体にさしつかえないかぎり、
お祈りをお続け頂ければ天皇のお仕事として十分だと、国民はみなそう思うはずです」と。
「ですから、譲位などなさらずに、天皇のままdえいらっしゃって、摂政を皇太子殿下にしていただければ何の問題もありません。
そうすれば、年号を変える必要もありませんし、皇室典範も変えなくて済みます。これでいいのではないでしょうか」と、
そう具申できる人がいれば、今回のような「生前退位」という問題は起こらなかったと思います。

明治天皇の御製にも、国民を想ってお祈りする、という趣旨の御歌はいくつもあります。

(国民のために、心の休む時はない。それは、宮城のなかにいてもいつも国民を、国を想って祈っているからだ)

民のため 心のやすかれと 神がきに ゆふしでかけてけて いのるなりけり

(国民のために、世の中が平和でありますようにと、神の御下記に木綿神垂をかけて、御神前にお祈りもをするのだ)

神がきに 朝まいりして いのるかな 国と民とのやすからむ世を

(朝、神域に参拝してお祈りする。日本の国が栄、国民が安らかに暮らせる世の中であるようにと)

国民の うへやすかれと 思ふにも 祈るは神の まもりなりけり

(国民の身の上が安らかであるようにと思うにつけても、お祈りするのは、わが国の神々のご加護がありますように、ということである)

このように、国民のためを思われてお祈りすることが天皇陛下のいちばん重要なお仕事なのです。
ところが、そうした進言をできる人がいないため、下手をすれば現在の天皇陛下が皇室典範を犯すことになってしまいます。どういう意味かというと、現行の皇室典範は天皇の上位を認めていないからです。
それでにもかかわらず、「譲位」なされば・・・これは皇室典範に違背することになってしまうのです。
しかし、摂政の存在は認めています。そうであれば、皇室典範どおりに摂政を置かれればよいのはないですか、というのが私の意見の基本です。

臨時措置法で「南北朝」の愚を繰り返してはならない

日下
のちほどお話しますが、陛下はどうも摂政を置かれることをお嫌いになっているように見えます。

渡部
たとえそうだとしても、私は、軽々しく皇室典範に手を付けてはならないと考えています。
あの皇室典範をつくるきっかけは、大日本帝国憲法もできるので(発布はともに明治23年)、
それまで何の規定もなかった皇室の”家法”をも明文化しようということでした。
そこで伊藤博文や井上毅、さらには有職故実に詳しい人たちが一同に会して、どうしたら皇位が安定するか、一所懸命に研究をはじめたのです。
伊藤博文という人は維新の前、井上馨らとともに密出国して、イギリスにわたっておりますが、そのときも頼山陽の「日本政機」をもっていっております。
これは神武天皇から豊臣・徳川紀の後陽成天皇にいたる編年体の歴史書ですが、彼は無効でそれを精読しています。
また、井上毅というのは「天才」と謡われた人で、元来はフランス語から入った学者でした。
しかし皇室典範に取り組むとなると、日本の古典籍に通じていなければなりません。
そこで、岩倉具視の支持もあって、優れた国文学者に就き、熱心に国学を研究しています。そのうえで、日本の歴史を徹底的に調べ上げています。

そういう人たちが甲論乙駁しながら、
①行為の安泰には何が需要家、②皇位が乱れたのは何が原因であったか、そういうことをみな調べつくして、皇室典範の素案をつくり上げました。
しかも、一条一条、すべての上皇を決める時には明治天皇が御臨席されて、「よし」といわれたわけです。
皇室典範はそうしてでき上ったものですから、後世の人が軽々に変更してはなりません。
ということで、日本の歴史を振り返りますと、皇位を乱さないためには、天皇が生前譲位などなさらないことが寛容だおtいうことがわかります。
健康上の問題などが生じた場合は摂政を置くのが好ましい。その摂政も皇位継承権のあるお方でなければなりません。
史上、藤原氏などが摂政を務めたケースもありますが、そうではなく摂政は皇族から、と決められたのです。

そうした伝統を急に変えてはいけません。また、急に変えられるわけもないのです。
しかも、皇室典範を変えるとなると、それには何年かからうか、わかりません。
五年、六年かかるとすれば、いま、「公務を休みたい」とおっしゃっている陛下のご陽性にお応えすることはできません。間に合いませんよ、きっと。

また元官房副長官の石原信雄さんなどはヒアリングに際して、「天皇陛下がご高齢になった場合は退位を認めるべきだ。それには、臨時措置法によって皇室典範の法整備をするのが適当である」という趣旨の発言をなされています。
しかし、臨時の法律によって一代かぎりで買えることができるとなったら、憲法だってなんだって簡単に変えられることになって、大混乱におちいってしまいます。そんなばかな話は通用しません。
また、臨時措置法などと、そんな軽々しいことを言い出すと皇室のためによくありません。げんに、前例があります。
鎌倉時代の半ば、第八十八代の御嵯峨天皇が譲位されると、皇位継承をめぐって皇統がふたつに割れてしまいました。
五深草天皇の持明院党と、亀山天皇の大覚寺統です。そこで鎌倉幕府が間に割って入り、「それならば代わりばんこにやればいいでしょう」と、それこそ臨時措置法みたいなことを言い出しました。

当初は、持明院統の御深草天皇が第八十九代、大覚寺党の亀山天皇が第九十代と、だいたい交互に皇位に就いていました(両党迭立)が、大覚寺統に属する第九十六代・後醍醐天皇が”代わりばんこを拒否して、みずから政治に乗り出すべく、鎌倉幕府を倒しますと(建武中興)、そこから皇位継承争いはグチャグチャになってしまいます。
皇室の混乱に乗じて、後醍醐天皇の御神聖を打破したのは武家の足利尊氏でした。尊氏は持明院統の光厳上皇の権威をバックに、後醍醐天皇を廃亭とすると、1336年、持明院統(北朝第二代)のこうみょ天皇を担いで室町幕府を開いたのです。
皇位を追われた後醍醐天皇はどうしたかといいますと、吉野(奈良県南部)に本拠を移し、南朝を開きました。
かくして、京都(北朝)と吉野(南朝)というふたつの朝廷が並び立ち、日本全土の武士団を巻き込んで南北朝の混乱が始まります。
いってみれば、臨時措置法でやった結果、長い間癒えることのない”深い傷”を負うことになってしまったのです。
その意味dめお、臨時措置法による「譲位容認」などという安直なことを口にすべきではありません。
繰り返しになりますが-陛下のいちばん大事なお仕事、それは国と国民の為を思ってお祈りされることです。
それだけを行っていただければ十分なのです。そして八十歳を越えたら、それは病気に準じるようなものですから、摂政を置かれてもいいでyそう。
そうすれば何の問題もありません。そう考えていくと、陛下が「摂政は好ましくない」とおっしゃられたこと、それが問題なのです。

※陛下はなぜ「摂政」を望まれないのか?

日下
例のビデオメッセージでは、次のようにおっしゃっておられます。
天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。
また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。
しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
摂政を置いたとしても、「十分に務めを果たせぬまま、天皇であり続けること」は心苦しいとおっしゃっておられるわけです。

渡部
皇太子殿下もすでに五十六歳でいらっしゃいます、庶民の言い方をすれば”働き盛り”じゃないですか。そうであれば、瀬翔をお勤めになるのは、のちに天皇として即位される場合に備えたいい訓練になるはずです。

日下
渡部さんもお読みになったかもしれませんが、11月8日付の産経新聞には「陛下はなぜ「摂政」をのぞまれないのか」という記事があって、そこにはこんなことが書かれていました。

対象10ねん11月、皇太子である裕仁親王(昭和天皇)が20歳で摂政に就いた。健康に恵まれなかった大正天皇は、数年前から国会開会にあたっての御言葉が読めなくなるなど病状が悪化していたからだ。
ただ、天皇の祖金の日記には、侍従長が皇室会議の決定を報告し、天皇が書類の裁可に多雨飼う印籠を引き取ろうとすると、大正天皇がこれを拒否したことが記されている。
さらに対象天皇は侍従長の退室後、侍従武官長に「侍従長がここにあった印を持ち去ってしまった」と訴えたという。
昭和天皇は訳五年間、摂政をつとめられたが、父の政務を奪ったという自責の念を感じていたとの指摘もある。
昭和天皇は昭和63年9月に大量吐血されて重体となったが、翌年1月の崩御までは摂政は置かなかった。
こうした経緯もあり、天皇陛下は、平成22年7月の参与会議では「健康上の問題が起きる前に譲位を考えたい」
と発言し、その場にいた出席者に摂政での対応を求められても、強く否定されたという。
参与会議に出席した元宮内庁参与の三谷太一郎氏は「陛下は大正天皇の霊は望ましくないとの考えで、その日う運に同情的であられた」と振り返る。
摂政をお勤めになられた昭和天皇は「父(大正天皇)の職を奪った」というじせきの念をもっておられたというのです。
昭和天皇はおそらくそういうことを皇太子時代の今上天皇にお話しされたことがあるのではないでしょうか。
そこで、根性天皇は「摂政」という地位に何か不信感のようなものをお持ちになられたのではないか?
私にはどうもそんなふうに受け取れます。

渡部
それはいかにも今上天皇らしいご反応ですが、しかし、なぜ大正天皇が摂政を置かざるをえなくなったかといえば、御存知の通り、御病氣が脳の病気だったからです。それでは公務はお勤めになれません。
昭和天皇にすれば大正天皇はご自分のお父様ですから、「天皇を続けたい」という大正天皇のお気持ちは痛いほど感受されたとおもいますが、しかし、明治天皇がおつくりになった皇室典範に従われたのでしょう。

日下
皇后陛下は陛下がビデオメッセージを流されるのを反対された。ということもチラっと耳にしました。
渡部
道子皇后が正しいのは、陛下が皇室典範に抵触していることを御存知だったからだと思います。

※戦前・戦中・戦後を貫かれた昭和天皇の意義
渡部
日本の歴史を振り返ると、大きなごたごたはすべて皇室の混乱から始まっています。
大海王子(のちの天武帝)が天智天皇の直系の相続を拒んだ壬申の乱(672)、崇徳上皇と後白河天皇が争ったのが保元の乱(1156年)、
そして先ほど指摘した南朝と御口調が皇統を争った南北朝の争い(1336年)。世を騒がせた大動乱はすべて、皇室を中心とした争いが基になっています。
今度は壬申の乱を見ておきましょう。
御存知のとおり、これは天智天皇の御病気に端を発した争いです。
天智天皇は一度、弟の大海人皇子に「皇位をゆずる」と言っています。それを真にうけて「では、そのように・・・」と答えると殺されるかもしれないと危惧した大海人皇子は、その申し出を自体して吉野に引きこもります。
ところが、天智天皇の死後、天皇の第一応じ・大友皇子が即位すると、大海皇子はすかさず兵を挙げ、皇子を討ち、自分が天武天王として側しています。伯父が甥である大友皇子を討ったわけです。

以上が壬申の乱の概略ですが、この内戦は後世まで尾を引きます。というのも、大友皇子が天皇に即位したとすると、それを討った大海皇子すなわち天武天皇は「天皇を弑逆した男」となってしまいます。
そこで、天武天皇の命を受けて成立した「日本書紀」では大友皇子を認めております。「それはおかしい」という声が水戸学の人達を中心にした湧きおこり、大友皇子が「弘文天皇」として認められたのはやっと明治三年のことでした。
ここから引き出すことのできる教訓は、皇室が乱れると国が乱れる、という一事です。それを避ける為には-、
①在位中の天皇の退位は認めないこと。
②もしも病気や老齢のため公務を果たせなくなった場合は、皇位継承権のある人から摂政を選ぶこと。
この二点です、これが皇位安泰のポイントになります。

今回の問題に際して、一部には、「象徴天皇になったいまは皇位をめぐるゴタゴタは起こらないだろうから、あまり固いことはいわなくてもいいおんでは」という意見もありました。
しかし、そんなことをいうのは歴史を知らない人です。というのも、これから百年後か二百年後か、それはわかりませんが、天皇陛下が勝手に「辞める」とか「辞めない」と言い出したら、必ずやそれを利用しようという勢力が出てくるからです。そしてそれは国家大乱の元になるはずです。

日下
私も、歴史を知らない人の議論は怖いと思います。(注-正確には知っていると思って自惚れている人)

渡部
ここで、昭和天皇の例を挙げておきたいと思います。昭和天皇は、御存知のように明治天皇をこの上なく尊敬なさっておられました。ですから、明治天皇のお決めになった立憲政治に忠実でいらっしゃいました。そこで、政治に直接口を出されるということはありませんでした。
あったのはたった二回です。それも、いずれも内閣が昨日しなくなったときでした。一回目は二・二六事件のときです(昭和11年)。
朱鷺の岡田啓介首相が暗殺されたという情報が流れて(じつはころされたのは義弟で、首相は難を逃れた)政府が昨日しないうえに、軍部のほうもオタオタして、事変をどう納めていいかわからなくなったとき、昭和天皇は二・二六事件の青年将校たちを「彼らは反乱軍である」と規定されました。
それによって、二・二六事件はたちまち春の淡雪のごとく収束したわけです。
もう一回は、終戦のときでした。あのときは「ポツダム宣言を受諾する、しないか」という問題をめぐって内閣がフィフティー・フィフティーに分かれ、どうにも結論が出ませんでした。
そこで鈴木貫太郎首相は「われわれで決めることができません」と、昭和天皇に下駄を預けたのです。
昭和天皇は「それならばいおう」ということで、「私が外務大臣の意見(ポツダム宣言受諾)に賛成である」とおっしゃり、それによってわが国は終戦を迎えることになったわけです。
昭和天皇が政治に口を出されたのはこの二回だけです。
終戦直後の危機に際しても、昭和天皇は明治天皇が定められた皇室典範をお守りになりました。あれは昭和二十一、二十二、二十三年のあたりでした。
有名な大学の学長とか最高裁判所の長官まで、あるいは有名な保守思想の大家までが「天皇陛下は戦争の責任を負われて退位なさったほうが皇室のためにいいのではないか」というような意見を表明していました。
ところが昭和天皇は、明治天皇がお決めになった皇室典範をお守りになり、「退位する」とは絶対におっしゃいませんでした。
それがどれくらいありがたいことであったかというのは、いまになって初めて分かります。
そいれは、歴史を振り返ったとき、戦前も戦中も戦後も昭和天皇というひとりの天皇が変わることなく在位されたという一貫性です。
ということは、日本の統一に大きな傷がつかなかたということを意味します。
日本人の”自身”の元になっているわけです。いわんや、これから数百年たって日本史を振り返ってみますと、占領下の七年間など、ほんのささいなエピソードにすぎなくなります。
それこもこれも、昭和天皇が退位なさらなかったことに由来します、時代がたってみますと、それがいかに重要で、ありがたいことであったか、よくわかると思います。

渡部
それも大きくいえば「グローバル化」に対する反対ですな。

日下
私には皇室に縁やゆかりのある友達がいるんです。皇室関係の閣僚とか、学習院の関係者とか、そういう人たちから漏れてくる話はたくさん耳にしています。それを総合すると、皇族はまったく人間来意暮らしができていないじゃないか、かわいそうだなと思います。
そりゃあ、昔は何人も側室がいたり、莫大な財産があったりして、悪くはなかったでしょうが、いまはいいことなんて何ひとつありません。それにも関わらず、臣化が集まって「新憲法では・・・」とか、「皇室典範とは・・・」と、文書上の議論ばかりしているわけです。
それに対して私は、生身の皇太子殿下が目の前にいらっしゃるじゃないか、直接ご意見をうかがったらどうだと、そういってやりたくなります。

私の友だちは軽井沢でテニスなどしていましたので、彼らからちょっと聞いたところでは-
「ご成婚前の道子さんは人気の中心ではなかった」といいます。みんんが美智子さんを取り合いしていたなんていうことはまったくなかったそうです。
美智子さんもそういうことはよく自覚されていたといわれています。それにもかかわらず、美智子皇后にとっては、軽井沢生活が一番人間らしい時代であったと思われます。おかわいそうですよ、それでは。
そこで皇室の生活はどんなものであるかと聞いてあるくと、まずなによりも窮屈である、といいます。
そういう生活をなさっている皇族の方々に向かって「皇室典範にはかくあるから、辞めなくてはなりません」というのは、監獄の監督のいうことではないかというのが私の感想です。
渡部先生のご意見に反対するようですが、「生前退位に反対」というのは人間のいうことではないと思います。私の根っこのところには、そういう気持ちがあります。
渡部
ハハハ
日下
一例を挙げますと、皇后陛下がお年を召されて崩御されたら、お世話をしていた五人か住人の御付の人たちの次の仕事はどうなるかといえば、みな首だそうです。
個人的な使用人扱いだそうです。大使館で働くシェフもパスポートは、”サーバント”だそうです。また、戦後すぐの話では、共産党員が学習院大学の先生になって皇太子殿下(今上天皇)をイジメたとかそんなこともあったようです。
学習院が宮内庁書簡から文科省の新制大学になったとたんに共産党員が教員に潜りこむようになったからです。
その点、皇族でも学習院以外の大学に行けるようになったのはいいことだと思っています。佳子さまなどは学習院大学を途中でやめられ、ICU(国債キリスト大学)の試験を受け直していかれていますから、こういうのはいいですね。
専卒有、学習院は日光の山奥に移されました。田母沢の御用邸ですね。そのとき、当時の宮内庁は栃木県庁に命令して、たとえば「卵は毎日三つずつ、皇太子さまにお出しする」とか、いろいろ銘じています。
ところが、栃木県庁に力がなかったために、卵が全然出てこなかったり・・・と、そんなこともあったようですよ。
お役所というのは、議論はするけれど力がないから結構いいかげんなんです。
そうそう、こんな話も聞いたことがありますー昭和12年に開場した名門ゴルフクラブの小金井カントリークラブ、あそこが戦後、学習院初等科になって日光からお戻りになった皇太子殿下の遊び場だったそうです。
そこで何があったかも、いろいろ話に聴いています。それが嘘でない証拠は、毛利元敬というご学友が「戦争中はちやほやされたけど、戦争が終わったら、皇太子さま(今上天皇)がみんなに殴られたこともあった」「自分もやられた」と教えてくれました。
ドイツなどでは皇太子の学友はムチで打たれる身代わりが役目だっちょうで、それが日本にも入っていたようです。
そういう境遇で育って、ある日突然、「あなたは皇太子なのですから、皇室典範をお守りください」といわれたら、どうです?
われわれは今上天皇と年齢がふたつ、三つ違いますけど、私だったら「そんなのは御免蒙る」といいますよ。
渡部
ははは。
日下
いま皇位継承権を有している方は四人です、一位が皇太子徳仁親王、二位が秋篠宮文仁天皇、三位が秋篠宮の御長男悠仁親王、そして四位が常陸宮正仁親王です。
この方々に「跡をお継ぎになられますか、放棄なさいますか」とお尋ねすればいいと思うんです。みなさん全員が「放棄」とお答えになられたら、天皇の制度は途絶える。それでもいいのではないかと思います。
今度の「生前退位」の問題でも、直接、皇位継承者にお尋ねになればいいと考えています。部外者が「ああでもない、こうでもない」と議論するのはいかがなものかと思いますね。このあたりが私の本音です。
先ほども申し上げたように、私はおかわいそうで見ていられないのです。

※恋愛結婚制が皇室に入った
日下
私は、皇室の待遇をもっとよくしてさしあげるべきだといっています。一般人の人達に通じる言葉で言えば-もっとお金持ちにしてあげなさい、時々は休暇を取れるようにしてあげなさい、嫌になったら辞職できるようにしてあげなさい、等々でうs。
なぜそういうことをいうかというと、いまのままの状態では皇室にお嫁さんがこないからです。いまの皇太子さまもどれだけご苦労されたことか。
そういうことを考えない国民が「皇室が滅びる」などとエラそうなことをいってはいけません。
国民は何もしないでエラそうなことばかりいって、いざ、自分の娘を「皇太子妃にさし出せ」といわれれば逃げてしまう。そのくせ、雅子妃の悪口を言う。
正直にいえば、皇族の方々んは「残酷な国民、自分勝手な国民の上で皇室なんかやってられない」という思いもあるのではないでしょうか?もしそういう思いがあったとしても、私はあって当然だと考えています。
渡部
戦後は左翼運動が激しく、皇室はほんとうに危機にさらされていました。そのとき、慶應義塾大学の塾長をつと得m、今上天皇陛下の師父であった小泉信三先生が参考にしたのはイギリスの王室でした。
イギリスのように”開かれた皇室”にすればいいのではないか、明数が皇室に入れば民衆との連帯感が生まれるのではないか、と考えたわけです。
そう考えて探してみたら、日本の民衆のなかにあっても立派な家が見つかった。それが美智子皇后の御実家の正田家です。
正田家の一族では、東大出身者だけで六十人ぐらいを数え、品行の悪い人間はひとりもいない。
その一族には美智子さんという美しいお嬢さんがいて、彼女は聖心女子大学では二位に大差をつけたダントツのトップの成績でした。
いわば、一般民衆のなかにおける”サラブレッド中のサラブレッド”が美智子皇后だったのです。
先おhど、日下さんは「ご成婚前の美智子さんは人気の中心ではなかった」とおっしゃられましたが、その道夫kさんが軽井沢のテニス・コートで皇太子時代の今上天皇と出会ったところ、おふたりの間には本当に恋愛感情が芽生え、恋愛結婚ということになったわけです。
しかしこれで、皇室千年間の伝統が破られました。大化の改新依頼、宮廷の虚勢はほぼ全員が藤原家のすっしんです。
藤原一族は、天皇から「娘をほしい」といわれたら、絶対に文句をいわないという伝統を千年以上続けていました。ですから、皇室に陰謀を企てたりする皇后や女官はいっさい出ませんでした。
日下
そういうところが諸外国との違いです。

渡部
ところが、美智子さまが皇室に入られたため、宮廷に仕えていた女性たちはみな辞めてしまったそうです。私はそう聞いています。
もちろん、それは美智子さまの責任ではありませんが、宮廷にいた女官たちは「藤原家の使命はこれでもう終わった」と思ったわけです。
それでどうなったかといいますと、皇太子殿下の結婚が一氣にむずかしくなってしまったのです。それまでは、天皇になられるお方が配偶者に困るなどということはいっさいありませんでした。

日下
なるほど、なるほど。
渡部
いいことか悪いことか、それは微妙ですが、美智子さまは皇室に恋愛結婚制を導入したということになります。
そして、「皇族は恋愛結婚でなければならない」というオブセッションが、いまの皇太子殿下に真子さまを選ばせたということでしょう。
本来のおきさき候補の筆頭は久邇宮家のお嬢さんだったといわれています。久邇宮家なら藤原家ですし、しかも皇室の血が流れていますから、何の問題も、何の文句もない婚姻だったと思います。
日下
だから、久邇宮家のお嬢さんも、「私はそのつもりで育ってきたのに、急にフラれた」とおっしゃっていたようです。もっとも、現在は精神科医としてご活躍中だと聞いておりますが。

※帝王学とイギリス留学

渡部
皇室が大変に特殊だということを知る手掛かりになる話があります。私はかつて評論家の会田雄次先生から次のようなお話をうかがったことがあります。
会田雄次先生のおじいさんは会津の武士で、京都にいらっしゃたのですが、ある日、書見をしていたら泥棒が入ってきた。
すると、会田先生のおじいさんは床の会田の刀を取るや、一等のもとに泥棒を切り殺したそうです。そして刀をぬぐって床の間に戻すと、奥さんに「片づけておけ」といって、何事もなかったかのように、また書見を続けたというんです。
これは武士の家だからできることであって、町人や百姓の家ではとてもできません。
それ以上に、天皇家や公家の家は一般の家とは違っていたはずです。その意味では、皇室に恋愛結婚制を導入した小泉信三先生は、知らず知らずして、大化改新以来の大きな”改革”をやってしまわれたことになります。「恋愛でなければ結婚しない」という現代庶民の習慣が皇室に入ってしまったのです。
小泉先生はもちろん、愛国心からやられたことです。ただ、小泉先生は優れた経済学者ではありましたが、福沢諭吉の系統の人でしたから神道や皇室にお詳しかったとは思えません。御存知だったのはむしろ、イギリス王室だったでしょう。
結果論からいいますと、皇室においては、われわれの知らないところでものすごく大きな変化が起こっていたということになります。

日下
皇室に伝統精神を注入する人がいなかった、ということもいえそうです。たしかに小泉信三は偉かったと思いますが、日本的ではありませんでした。
また、今上天皇の皇太子時代にはバイニング夫人という家庭教師がいて、ずいぶん欧米流の考え方を鼓吹したようです。

渡部
アメリカの占領軍がなぜバイニング夫人を送り込んだかというと、彼女がクエーカー教徒だったからです。
クエーカーはプロテスタントのなかでも絶対に戦争はしないという超平和主義を固守しています。GHQはそうした絶対平和主義を次期天皇に植え付けようと考えたのです。
一種の深謀遠慮でした。
ですから、クエーカーが残ったのはアメリカとイギリスだけです。この両国はクエーカー教徒が出征しなくとも戦争ができた国だからです。
ほかの国では戦わないクエーカー教徒を戦場に駆り出さ板から、彼等はみな滅びていsまったのです。

日下
たしかに場イニング夫人を当時の皇太子殿下の家庭教師にしたところにはアメリカの”意図”を感じますね。天皇になられるお方といえども、われわれと同じ人間ですから、まだ子供のころに絶対平和主義を植え付けてしまえば、日本という国はぁ戦争をしない国になると考えたのでしょう。
GHQが押し付けた日本国憲法の第九条「戦争放棄」に通底する考え方ですね。

渡部
先ほどの会田雄次先生のおじいさんの逸話にあったように、武士には武士の育ち方があり、天皇には天皇のための帝王学が必要です。
その帝王学をきちんと学んであれば、戦争が起ころうが何があろうと、精神が揺らぐことはありません。
戦国時代など、皇室はずっと貧乏で、天皇の即位の儀式も執り行えなかったといわれておりますが、帝王学を受けておられましたから、天皇はいっさい動じることがなかったと伝えられています。
その意味では、現在の皇太子殿下がいちばん大事な時期に、イギリスに何年も留学なさったというのはちょと長すぎたと思います。

日下
留学は一年で切り上げなければいけなかったと思います。
渡部
そう、留学といっても”見学”程度でよかったと思いますよ。一般的な知識は天皇にとってはさほど重要ではありませんからね。
日下
そこで、畏れ多いことですが、皇太子殿下がイギリスに留学されたときのことを想像してみます。
-まず、英語はおできにならない。背は向こうのほうが高い。日本など、まら立派な国とは思われていない。そこに四年間もいらっしゃったわけです。そして、当時、名前の挙がったお后候補を顧みてみると、いずれも日本的で、おとなしいお嬢さんたちでした。
そんなこんなを勘案すると、皇太子殿下はちょっとしたコンプレックスにとらわれて、「これでは欧米に勝てない」と思われたのではないでしょうか。
いや、負けてもいいのです。「欧米に勝てなくてもいいのです」と、そうお教えする人が御傍にいなかった。
そこが問題なのです。「あんな連中と競争する必要はありません」と、誰かが進言しなければならなかったのです。早い話が、”皇室外交”否定論をお教えする人がいなかった・・・。
渡部
さらに付け加えれば、日下さんや私のような知識を使って「日本海軍はイギリス海軍に負けたことなんかないんですよ」と、教えて差し上げなければなりませんでした。
日下
それもある(笑)
渡部
前にも話に出ましたように、日本海軍はイギリスが誇る戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」の二隻をたちまちのうちに撃沈してしまったのです。赤子の手をひねるようにイギリス海軍に打ち勝ったわけです。
日下
友達同士で議論するときのネタも提供しなければいけませんね。ところが、四年間ものイギリス留学中、周囲が放っておくものだから、英語のじょうずな女性はいないか?氣の強い女性はいないか?ということになってしまわれた。さらにいえば、ハーバード大学出身ならもっといいのではないか、ということになってしまわれた。これは、放ったらかしにした国民が悪い。

天皇は「大学中退でもかまわない」

渡部
小泉(純一郎)首相が皇室典範を変えようとしたことがありました(2005~06)。あのtきは幸い悠仁さまがお生まれになり、議論が立ち消えになりましたが、危機はまだ去っていないと、国民はみな周知しておかなければなりません。
皇室の相続法は大名とは違います。大名は財産相続法です。町人も同じです。跡継ぎがいなければ養子をもらえばいい。
江戸時代の大名など、直径が続いているところなんてほとんどありません。ヨーロッパの王室も同様です。大阪の商家のようなもので、優秀であれば番頭が跡を継ぐこともあったわけです。
ところが、天皇家と公家は全然違います。貧乏であろうと、金持ちであろうと、関係ない。重要とされるのは結党です。皇室であれば皇統です。

日下
しかし、戦後は結党以外のもの、たとえば個人の能力や教養も問われるようになりました。それで思いだすのは-皇太子殿下が留学なさるとき、天皇陛下と美智子皇后が駐英大使を呼び、ともに食事をなさった話です。そのときの陛下のお言葉は「皇太子にはちゃんとした学位を取らせたいと思うものですから」というものだったそうです。
渡部
あ、ご自分が学位を取っていらっしゃらないから。
日下
そうです。今上天皇は学習院大学中退なのです。その理由は学習院大学の二年生のとき、公務で欠席が多すぎたからだということらしい。でも、御公務です御公務。
渡部
立派なことですよ。
日下
それなのに、学習院大学は留年にせず、中退にしている。なんとも解せない話でした。だって、御公務が理由での留年なら、何も問題ないじゃないですか。
渡部
真偽はともかく、竦場大学名誉教授の中川八洋さんの説によれば-当時、学習院にいた安倍能成さんも清水幾太郎さんも党籍なき共産党員だったからだといいます。
あのころは、大学教授は党籍を有していなくても日本共産党は高く評価したといいます。げんに、清水幾太郎さんは晩年、「自分は党籍がなかったけれども、党内ではとても優遇されていた」と語っていたそうです。
「皇室を廃しせよ」というのはスターリンの命令(コミンテルンのいわゆる「32年テーゼ)でしたから、日本共産党は皇室にとって不利に働くことなら、どんなに些細なことでも、何でもしたのでしょう。だから、当時の皇太子殿下が留年されることも邪魔立てしたのだとは思われます。
日下
学習院大学に左翼が忍び込んでいたのを別としても、その後、誰も今上天皇に「中退でもいいんです。天皇はもっとお偉いのですから」と、お教えしていないのが不思議で仕方がないんです。
宮内庁の役人の怠慢です。これからでも遅くないから、いま宮内庁にいる外務省と警察庁の出身者を総入れ替えして、きちんとした帝王教育のできる人を御傍に置くべきです。

朝日新聞の異常なる「反皇室」退室

日下
敗戦後、日本にやってきたマッカ―サはイギリス国教会から派生した日本聖公会に肩入れしたり、東大を相対化するプログラムとしてICU(国債基督教大学)をつくったらいしましたが、効果は上がりませんでした。
日本聖公会の信者も増えませんでした。そこで彼は、皇室が滅びるようなワナを仕掛けて帰国しています。
そのひとつが次章で触れる「ウォーギルトインフォメーションプログラム」(WGIP)、すなわち日本人に罪悪感を植え付けるためのプロパガンダでした。

渡部
あのWGIPというのは、日本人に「悪うございました」という意識を植え付けるためのプログラムでした。

日下
それにまんまと引っかかったのが日本の左翼です。日教組や左翼的なアカデミズム、さらには朝日新聞や岩波新聞といったメディアです。WGIPをそっくろそのまま鵜呑みにした駆られが日本をボロクソにいっていい氣になったり、戦後日本に害毒を垂れ流したりしたことは周知のとおりです。
しかも、彼らは弟子や後輩たちをいいポストに就け、左翼手的源氏を再生産し続けてきましたので、朝日新聞などもう真っ赤っかです。
一例を挙げましょう。長い間、朝日の論説をリードしてきた有名な男と車に乗って、さる料理屋へ向かったことがあります。
車のなかで彼は「私おn健康法は皇居の回りを一周することです」と言い出しました。
「でも、不愉快でね。もう不愉快で不愉快で仕方ないんです」と続けました。
そこで私は、これは朝日の「反皇室」の理由が聞けそうだと思いましたので、「そんなに不愉快なら、ほかの場所を歩いたり走ったりしたらいいでしょう」と話しを合わせました。
そうしたら彼も調子に乗って、「あんな広いところにひと家族しか住んでいないんですよ」というから、「ああ、住宅問題ですか」と訊いてやったんです。
渡部
日下さんは住宅問題の元祖ですからね。
日下
すると、「いや、そうじゃなくて、アレがあるせいで交通渋滞がひどいんです。全東京に迷惑をかけているんdねす」というから、
「それはむしろ皇居の周りに集まって来たビルのほうが悪いんじゃないですか。だって、天皇は前からあそこにおられるんdなから」と反論してから、
「その点、築地へ移ったお宅の朝日新聞はエラいですね。ほかのビルも朝日を見習うべきですよ」といってやったんです。
すると今度は、「いやいや、交通渋滞だけの問題ではありません。東京の土間んんかに皇居があるから、地下鉄を通すときもあそこを迂回しなければならないんです」というから、
「あなたともあろうものが、それはちょっと不勉強だなあ。私は仲間と力を合わせて「地表から四十メートル以下は私有権がなく、そこは国有財産とする」(2001年思考の「大深度地下使用法」)という法律を通したばかりです。
地下40メートルより下であれば、皇居の下でも地下鉄を通せるんですよ」と。
そして私は、「地下鉄の問題なら、皇居は難の師匠もありません」と続けました。
そうしたら、「いやいやそうじゃなくて、皇室の世襲がいかんと思うのです。世襲なんて、近代的じゃないし、第一、合理的じゃないんですよ」
というから、「御宅の朝日だって、村山・上野の良家が世襲でがんばってるじゃないですか」と。
そうしたら、ちょっと黙ったあと、「でもねえ、日下さん、あんな皇室なんて日本にだけにしかない特殊な存在ですよ」という。
だから、「日本だけの特殊が悪いというなら、新聞の宅配はどうなんです?新聞の宅配は世界中どこにもありまsんえよ」と・
すると、「皇室なんて、あんなものは何の役にも立ちませんよ」と、はきすてるようにいったので、
「違います。五百年に一回ぐらいの国家の危機、そのときにお役を果たしてもらええればいいのです。すぐ役に立つとか立たないとか、そんなサラリーマンのようなことをいってはダメですよ」といってやりました。
渡部
その人は難と答えました?
日下
そのときちょうど、料亭に就いた。
渡部
ワッハッハ(爆笑)。
日下
これでわかりますが、朝日の「反皇室」はきわめて情緒的なのです。
渡部
天皇や皇室について、朝日はまったく本気で考えていないということですな。
私は、左翼オン本質は「オーガナイズド・ジェラシー」だと考えています。
すなわち、権力や富、あるいは皇室などに対する根深い嫉妬心です。それに凝り固まっているのが左翼だとすると、
朝日新聞、岩波書店、進歩的文化人といわれる人びと、それから日本共産党、社民党、日教組う・・・みな、この範疇に入ります。

国民にできることは何か

渡部
ここで私の持論を申し上げますと、日本の皇室をヨーロッパの王室と同じように考えてはいけないと思っています。
ヨーロッパの王室は日本の大名と似たようなものであって、皇室は別なのです。
ローマ帝国がだんだん衰えていったとき”Rex",という言葉が出てきました。これは傭兵隊長という意味です。
「ゴート賊の傭兵隊長」「フランク族の傭兵隊長」・・・といったふうに使われました。ここからもわかるように、傭兵隊長は最初、土地に根差していたのではなく、部族の名前でした。
そういう一族が当時のヨーロッパには五百家ほどもありました。そうした部族が次第に土地に根付くようになりますと、"Rex"という言葉は、"king"に変わります、”king"というのは一族という意味です。
はじめは”kinging"といっていましたが、それが”king"となったわけです。そして”king"同士、連帯感をもっていましたから、近代的な意味では「国境」はありましたが、通婚していました。
日下
そうしたヨーロッパの王家・王朝はころころかわるんですね。
その点、日本の皇室は二千年以上続いています。その会田、皇室は皇族をどんどん臣籍降下させていますから、日本人は大半が皇室の血を受け継いでいることになります。
渡部
そういう意味では、皇室はやはり二千年続いているローマ教皇庁に近いというべきでしょう。
恐慌は代々、聖ペテロから天国へ行く鍵をバトンタッチされ、魂をアズから唯一の人として今日まで続いています。
ローマ教皇庁は途中で堕落して、クレメンス五世がフランスのアヴィニョンに教皇庁を写したり、無くなりかけたりしたこともありますが、しかし二千年間どうにか危機を乗り切ってきました。
そんなローマ教皇庁の歴史をG・K・チェスタトンは「乗馬の達人が山あり谷ありの道を、落ちそうになりながらも駆け抜けてきた」といった比喩を用いて表現しています。まさにそのとおりです。
私はこのイメージは日本の皇室にも当てはまるのではないかと思っています。
日下
皇室が谷に落ちそうになったとき、国民は自分たちのアイデンティティを確保するために「何をすればよいか」と考えることが大事だと思っています。


皇室問題は宗教的な観点から論じなければならない

渡部
もう一点、指摘しておけば、皇室を論じる際には啓蒙的な思想で論じてはいけないと思います。宗教的な観点から論じなければいけません。
一例を挙げますと、なぜローマ教皇は独身でなければならないのか?それは啓蒙的に論じても、歴史学的に論じても、まったく意味がありません。
なぜなら、その問題は宗教の分野の”決まり事”だからです。皇室もそれとまったく同じです。
それから私は戦後の”開かれた皇室”というのはよくなかったのではないか、という印象ももっています。
昔は皇室というのは遠い遠い存在でしたから、それを侵す人はいませんでした。平安朝の日記を見ますと、御所に泥棒が入ることはよくあったそうですあ・・・。

日下
あ、そうですか。
渡部
御所に泥棒は入ったけれども、ただし天皇になろうという人はいませんでした。
平安時代にわが世の春を謳歌したのは藤原道長です。ご承知のように-、

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
(藤原実資「小右記」に載る)

という有名な歌を詠んでいます。それでも、道長は天皇の暗いを狙うことはありませんでした。
なぜ皇位を狙おうとしなかったかといえば、それは藤原家がに二二ギノミコトの「天孫降臨」につき従ったアメノコヤネノミコトにこ従うした身分であるから、けっして天皇になることはできないと考えたのです。
御所にコソ泥は入るけれども、野心のある男でも皇位は狙わない-このあたりに天皇の秘密があるといっていいでしょう。
だから、天皇もお城のようなところにお住まいになる必要はありませんでした。
京都御所の塀など低いものです。いまお住いの公共は豪華ですが、もともとは徳川家のものです。
繰り返しになりますが、戦国時代であろうが、いつの時代であろうが、天皇にとって代わろうという人間は出ませんでした。
あえて探せば、蘇我蝦夷と入鹿の父子、僧・道鏡、そして足利三代将軍・義満あたりでしょうが、彼等の試みはみな潰えてしまいます。
だから、皇位継承権のある方々が争わないかぎり、皇室は安泰です。そしてそれこそが皇室典範の主旨なのです。
「皇室も時代とともに変わる」といわれることがありますが、いま、皇室典範を変える必要はまったく感じられません。
それに、変えるとなったら何年かかるか、わかりません。よって、皇室典範の改正に手をつけたら、いま「休みたい」といっておられる天皇陛下のお気持ちに添うことはできません。
すると、残る手立ては現行の皇室典範にある通り、陛下はお祈りに千円されてお体お安めになり、皇太子殿下に摂政をしていただっこと、これ以外に選択肢はないのです。
そうすれば年号も変わることなく、皇太子殿下も天皇の御役目の予行演習をなさることができます。万々歳ではないでしょうか。皇室の継承についてはまた別の問題となります。

皇統の継承は男系男子による

日下
皇室というのは、古いことをいえばいうほど、根拠が怪しくなってきませんか?
だって、古い時代にさかのぼれば、鉄の武器をもった人たちが列島に上陸してできた制服王朝でしょう?
私はそこから考え始めるわけですが・・・。
渡部
私は神話から考え始めます。
日下
あ、神話から。
渡部
たとえば、「古事記」ができたのは712年ですから、これはものすごく古い。712年から続く歴史をもっている近代国家ではありません。
日下
ありませんね。
渡部
そして、「古事記」は皇室を中心とした伝承だけでなく出雲のほうの伝承、すなわちオオクニヌシノミコトをめぐる伝承も詳しく述べています。
オオクニヌシの伝承は「国譲り」の神話として知られています。地上に降り立ったタケミカヅチノカミはオオクニヌシに対して
「アマテラスオオミカミの子孫にこの地上の国を譲るように」と迫ります。
それによって日本という国が統一されたわけですが、オオクニヌシは「出雲の国を譲る代わりに、壮大な出雲大社を立てるように」と要求しています。
「古事記」にはこう記されています。

底つ石根に宮柱太しり、高天原に千木高しりて治め賜はば、僕は百足らず八十くま手に隠りて侍ひなむ。

-土の底の石根に届くまで宮柱を据え、高天原に届くほど高々と千木を立てた大社を建ててくれれば、自分は国を譲り、鎮まって籠りましょうと、オオクニヌシがいったといいます。
これは神話ではありますが、じっさいにも日本の国の歴史にはこれに似通った出来事があったと思われます。
しかも、日本の国の面白いところは、2014年(平成26年)、高円宮家の典子女王と出雲大社の権宮司(父の宮司に次ぐ地位)の千家国麿さんが御結婚なさったことです。
単に皇族の女性と神社の宮司の結婚というのではなく、まさに「古事記」に記されているアマテラスの系統とオオクニヌシの系統とのご結婚でした。
「日本書紀」に従って、初代の神武天皇(すいてい)在位-紀元前660~582年)がざっと二千六百年前に即位されたとすると、「国譲り」の神話は三千年以上前にさかのぼることになります。
そんな大昔の”歴史”が二十一世紀のこの現代に再現されるというのはじつに驚嘆すべきことです。
そう考えると、一筋、日本という国の大きな流れが見えてきます。
これこそが日本の歴史の特徴であり、世界に例のないケースであるといっても言い過ぎではありません。
つまり、神話がじかに現代まで続いているのです。神話と人の代の歴史が地続きです。
「古事記」でも「これ(上巻)は神代の話ですよ」「ここから(中巻以降)は人間の歴史ですよ」と断っています。
そう断わりながらも、神代の神話と人代の歴史が地続きになっている。こんな例は世界のどこにもありません。

日下
ハイハイ、そうですね。だから、皇室とは何かといったら、日本人の”総本家”であるということになります。
あるいは、日本列島全体の”総地主”といっていいかもしれません。

渡部
そして天皇とは、日本人みんなのために絶えずお祈りくださる祭祀であります。
将来、この皇室がどうなるかはわかりませんが、しかしそれはまあ、カトリック教会が無くなるかどうかというのと同じような問題で、
あまり議論すべきテーマではないように思います。
もうひとつ、余計な話を付け加えておきますと、今回、私が「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」のヒアリングに出るというので、
とんでもない怪文書がいろいろ届きました。「皇太子殿下のほんとうの御父さんは朝日新聞社の社員だ」といって、その社員の顔写真をつけた文書が舞い込んだり、
美智子皇后のお母さんはじつは韓国人である」という怪文書が届いたりもしました。

もちろん、そんな話は歯牙にもかけませんが、万万が一、皇后陛下のお母さんが韓国人だったとしてもまったく問題はありません。
なんとなれば、皇室は男系男子によるけいしょうだからです。では、なぜ男系でなければならないのか、ということについては、こんなふうにお話すればわかりやすいのではないかと思います。

怖れ尾覆い比喩ですが、-「種」と「畑」は違いますよ、ということです。
皇統は「畑」(女性)ではなく「種」(男性)によって維持するのが原則とされてきました。
日本は農業国ですたから、農耕のイメージで考えたのだと思いますが、「種」は畑に植えても田んぼであれ、稲を植えれば稲が育ちます。
麦を植えれば麦が育つ。それゆえ、「種」には永続性や連続性がイメージされています。
ところが、「畑」は違います。稲を植えれば稲が生えてきますが、栗を植えれば栗が生えてしまいます。
麦を植えれば麦、稗を植えれば稗が生えてきます。まれにセイタカアワダチ草のタネが飛んできて、育つことだってあるでしょう。
これでは永続性や連続性は崩れてしまいます。とてもではないけれど、系統概念にはなり得ません。
そのために皇室では「畑」より「種」が重視されてきたのです。これが、皇位継承が男系男子によるとされてきた根本的な理由です。

日下
では、日本史に十代八名が登場する女性天皇はどういうことになるのか?それも説明していただいたほうがいいでしょう。
渡部
これまでわが国には古代に六名、江戸時代に二名、都合八名十代の女性天皇が、いらっしゃいます。
年代順に申し上げますと、推古天皇、皇極天皇(斉明天皇)、自党天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇(称徳天皇)、明正天皇、後桜町天皇です。
斉明天皇と称徳天皇はともに重祚ですから、八名ということになりますが、在位当時は、誰ひとりとして配偶者はいらっしゃいませんでした。
推古天皇から元明天皇までは、即位される前は皇后(元明天皇のみ皇太子妃)でしたが、夫である天皇が崩御されたため、
あくまでも次の男系男子の天皇が即位されるまでの”中継ぎリリーフ”として天皇暗いに就かれています。
元正天皇以降の女性天皇も事情はまったく同じです。次の男系男子の天皇へバトンをつなぐ”リリーフ役”でした。
どなたも独身のまま即位されて、生涯独身のまま過ごされています。
それはなぜかといえば、女性天皇が結婚され、そしてお子様が生まれ、そのお子様が皇位を継げば、
たとえそれが男子であっても、その天皇は「女系」になってしまうからです。
男系男子による継承という皇室伝統はそこで断ち切られてしまいます。それうえ。女性天皇はどなたも即位後は独身を貫かれたわけです。
したがって、日本語には「女性天皇の配偶者」という言葉はありません。

日下
イギリスには女王がいても結婚もしていますから、英語には”prince contort"という言葉があります。
これは「女王の夫気味」あるいは「皇婿」などと訳されますが、日本の場合、女性天皇は皆独身ですから
”prince consort"に相当する言葉はないのです。



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