宗教や共同体など、理想を共有する人々がまとまってエネルギーを焦点化する媒体として、特定の想念形態は機能しています。
儀式における祈りによって、人々のリアリティが想念形態に注がれ、一人一人がその想念形態を実現するモジュールと化します。共通の認識はそのようにして生まれます。
祈りによってできる意識のグリッドは、外部の者をフィルタリングし、そこに軋轢が生まれます。
同じ平和を祈っていても、想念形態に違いがあることで、行き違いが生じ、争いの元になります。
したがって、特定の想念形態にリアリティを注ぐことに問題があると考えます。
筆者の書いているものの分野はスピリチュアルに該当するらしいですが、瞑想はほとんどしません。
不用意にマインドを開くと、先述の意識のグリッドによって発生するノイズを拾ってきて内面化してしまう危険があるからです。
日本は無宗教の国と言われますが、それは誤りで、あらゆる想念形態を超えた意識に直接アクセスできる常に瞑想状態の人々がいるため、宗教などで意識のグリッドを設定する必要がないのです。
常に瞑想状態の人々は、特定の立場にあるわけではなく、遍在し、事態の成り行きを見守り、助けが必要な時だけ手を差し出します。
平和はそうやって維持されています。
想念形態はマインドによって構築されています。
そこにリアリティを注ぐのはハートです。
マインドはハートの乗り物です。
儀式はハートがマインドに乗ってドライブするためのエーテル体のテンプレートを配布する場です。
瞑想は、マインドを止め、ハートが実在と一体になる意識の操作です。
マインドは消えるのではなく、静止しているのです。
ハートに仕えるマインドだけができることです。
マインドは、ハートに反く時があります。
瞑想を集団ですることの利点は、誰かのマインドがハートに反いて動き回っていても、他の誰かのマインドが静止していれば、成し遂げられるところです。
ハートは実在と一体にならなければ、どこか粗大なものに依存します。そのとき、意識のグリッドによって干渉される危険があります。
静止しているマインドは、その時のために待機しています。
集団瞑想は平和のために行うとき、あらゆる想念形態を無効化する愛のエネルギーを広げます。