常陸の国の民俗史料館に展示されていた「女土方・よいとまけ」人形
丸山明宏 氏 (現・美輪明宏) がひと昔前に唄っていた
『よいとまけの唄』 1965年7月にリリースされ40万枚を売上げています。
【よいと‐まけ】
重い物を滑車で上げ下ろししたり、綱で引いたりする動作を、大勢で一斉にするときの掛け声。転じて、そのような労働、主に地固めなどの仕事を日雇いでする人。
重い物を滑車で上げ下ろししたり、綱で引いたりする動作を、大勢で一斉にするときの掛け声。転じて、そのような労働、主に地固めなどの仕事を日雇いでする人。
※滑車の綱を引っ張るときの「ヨイっと巻け」のかけ声を語源とする。
当時の工事現場では、現在のような建設機械がまだ普及しておらず、土を固める際に重量のある槌(つち)を滑車で上下するために数人がかりで綱を引いていました。美輪さんによればその時の掛け声の「ヨイッと巻け」が語源だそうです。
歌の源となった人が幼い頃、工事現場で日雇い労働の土方として働いていた、今は亡き母親のことを思い出して謳います。
小学生のころ、土方で働いていた母親の子供ということで「ヨイトマケの子供」「汚い子供」といっていじめられました。
悔しくて泣きながら家に帰る途中、工事現場で働く母親を見かけました。
真っ黒に日焼けし汗を流し泥だらけになりながら、男たちに混じって大きな掛け声をあげ綱を引く母親の姿を見た時
「イジメられたので、母ちゃんに慰めてもらおう」と泣きながら帰ってきたのに、貧しい家庭のために毎日懸命に働く母親に心配かけまいと、親孝行して助けようと、もう一度学校へ戻る決断をします。
当時、貧しさから抜け出す唯一の方法は、たくさん勉強をしていい学校を出ていい所に就職して一生懸命働くことでした。
そう思った主人公の少年は「勉強するよ」とつぶやきながら学校へ戻っていきました。
それから何年か月日が経ち、大人になって、あの日の誓い通り一生懸命勉強をして高校、さらに大学を卒業し、戦後日本の高度経済成長の建設ラッシュの中でエンジニアとして働いていました。
時にはグレそうになった時もあったが、そんな時は母親を思い出し懸命に頑張ってきました。
今ではすっかり機械化された工事現場での昼休みに
「母ちゃんの唄こそ 世界一」
家族のために一生懸命働き苦労を重ね亡くなった母親に思いを馳せる姿がありました。
ヨイトマケの唄
歌:美輪明宏 作詞:美輪明宏 作曲:美輪明宏
父ちゃんのためなら エンヤコラ
母ちゃんのためなら エンヤコラ
もひとつおまけに エンヤコラ
母ちゃんのためなら エンヤコラ
もひとつおまけに エンヤコラ
今も聞こえる ヨイトマケの唄
今も聞こえる あの子守唄
工事現場の昼休み
たばこふかして 目を閉じりゃ
聞こえてくるよ あの唄が
働く土方の あの唄が
貧しい土方の あの唄が
今も聞こえる あの子守唄
工事現場の昼休み
たばこふかして 目を閉じりゃ
聞こえてくるよ あの唄が
働く土方の あの唄が
貧しい土方の あの唄が
子供の頃に小学校で
ヨイトマケの子供 汚い子供と
いじめ抜かれて はやされて
くやし涙に暮れながら
泣いて帰った道すがら
母ちゃんの働くとこを見た
母ちゃんの働くとこを見た
ヨイトマケの子供 汚い子供と
いじめ抜かれて はやされて
くやし涙に暮れながら
泣いて帰った道すがら
母ちゃんの働くとこを見た
母ちゃんの働くとこを見た
姉さんかぶりで 泥にまみれて
日にやけながら 汗を流して
男に混じって ツナを引き
天に向かって 声をあげて
力の限り 唄ってた
母ちゃんの働くとこを見た
母ちゃんの働くとこを見た
日にやけながら 汗を流して
男に混じって ツナを引き
天に向かって 声をあげて
力の限り 唄ってた
母ちゃんの働くとこを見た
母ちゃんの働くとこを見た
なぐさめてもらおう 抱いてもらおうと
息をはずませ 帰ってはきたが
母ちゃんの姿 見たときに
泣いた涙も忘れ果て
帰って行ったよ 学校へ
勉強するよと言いながら
勉強するよと言いながら
息をはずませ 帰ってはきたが
母ちゃんの姿 見たときに
泣いた涙も忘れ果て
帰って行ったよ 学校へ
勉強するよと言いながら
勉強するよと言いながら
あれから何年経ったことだろう
高校も出たし大学も出た
今じゃ機械の世の中で
おまけに僕はエンジニア
苦労苦労で死んでった
母ちゃん見てくれ この姿
母ちゃん見てくれ この姿
高校も出たし大学も出た
今じゃ機械の世の中で
おまけに僕はエンジニア
苦労苦労で死んでった
母ちゃん見てくれ この姿
母ちゃん見てくれ この姿
何度か僕もぐれかけたけど
やくざな道は踏まずに済んだ
どんなきれいな唄よりも
どんなきれいな声よりも
僕を励ましなぐさめた
母ちゃんの唄こそ 世界一
母ちゃんの唄こそ 世界一
やくざな道は踏まずに済んだ
どんなきれいな唄よりも
どんなきれいな声よりも
僕を励ましなぐさめた
母ちゃんの唄こそ 世界一
母ちゃんの唄こそ 世界一
今も聞こえる ヨイトマケの唄
今も聞こえる あの子守唄
父ちゃんのためなら エンヤコラ
子どものためなら エンヤコラ
今も聞こえる あの子守唄
父ちゃんのためなら エンヤコラ
子どものためなら エンヤコラ
この唄は人権派と呼ばれる「役には立たずに害毒を垂れ流す人々」の圧力により「言葉狩り」 に遭い
🔶「低所得者層に対する差別的な歌」
🔶「土方(どかた)」は土木作業員への差別用語
として放送禁止歌に指定され ています。
日本人は古来から「労働や勤労は美しいこと・善いこと」という観念があり、額に汗して働くことを美徳としていました。
今でこそ、「何も物質を産み出さない投資や投機、小奇麗で格好良いiT関連で大儲け」などが囃されていますが。。。
終戦後もロシアに拉致・抑留された日本人がサハリンで酷い目に遭わせられながらも自ら進んで働いていたという話もあるほどです。
世界常識では「働くのは食うため」に仕方なく働いているというのが一般的らしくて、休暇は長く 労働は短く 労働は奴隷のようなもの
、過去の日本の「労使は家族同様」意識とは異なる「労使は支配者と従属者」という意識も窺える状態ですから。。。
平成・令和の子供たちに「ヨイっと巻けの唄」の美しさを忘れないで欲しいと思います
氷川きよし の ヨイトマケの唄
絣の着物に紅いけだしで地下足袋を履いた
小母さんたちが元気に えーんやこらと歌いながら
綱を引っ張る。みんな見物していました。
汚いと言うより、華やかな感じがしました。
父が、馬鹿面してみていると歌に歌われるんだよと
言っていました。
あそこの親父は・・・・仕事も行かないで・・・ とか
見物人が歌にされるとか。・・・
私の記憶のよいとまけと美輪明宏さんのよいとまけとは、少し違っていました。
私もヨイトマケのオバサンたちが働いている姿を見ながら通学していました。皆貧しかったのに、このオバサンの子供が同級生に居たらきっとイジメていたと思います。
親父が「石に噛り付いても家族は喰わせる」という男気と献身的な専業主婦が中心の時代でしたからオバサンたちは「現代と違う特別な理由があったシングルマザー」だったのでしょうね。唄のモデルになった子供は立派です。今なら全て国や他人に責任転嫁するでしょうから。
懐かしいですね。
❝どうして警察官やっているのにうちは貧乏だったんだ❞って聞いた私に向かって親父がよく言ってました、❝あの頃は皆、貧しかったんだ❞、って。何ともいい加減な親父でした。
差別を表向きで悪として、心の奥では差別をすると言うことがアメリカ社会ではごく一般に起きていますよ。黒人差別が良い例です。たてまえと本心が違うんですよ。
三輪さんも昨今変な感じになりました。初めてこの歌を聞いたときは非常に心に響く感じでしたが、あまりにも修飾が激しいと、ちょっとねです。素直な歌い方が良いです。
丸山明宏氏は前から変な感じですよ~。
歌い方は丸っきり別の唄のようですが昔の歌手が昔のヒット曲を歌うとこんなのありがちですよね。
私もマミーさんと同じく過去の記憶にある素直な歌い方が好きです。