G

AB19450916VIRGO
 

遠い旅3百済新羅

2007-03-07 21:43:44 | 極東古史考
「北史 百済伝」
其の人雑あり 新羅 高麗 倭等 又あり中国人

「北史 新羅伝」
或いは称す 魏将母丘儉(かんきゅうけん)高麗を討ち これを破る 奔 沃沮 其の後故国に復帰した
留まる者あり 遂に為す新羅 亦曰く斯盧 其の人雑あり 華夏(中国人) 高麗 百済の属である
兼ねてあり沃沮 不耐 韓 濊の地 その王 本百済人 海より新羅に逃げ入り
遂に其の国の王となる(246年)

更に謂う

沃沮に留まり 斯盧 初め百済に附庸す 百済征す高句麗 過酷な使役に耐えず
師はよく率いて遂に強盛に至る 因りて百済を襲い 伽羅国を附庸したと言う

鶏林 斯盧 音 通ず しろ あるいは しら


高句麗 百済の先は 扶余の王族 東胡(ツングース)だ

東胡 すなわち東の胡人
ソグド人アラブ人など西方の容貌の人を胡と言う
胡瓜は胡から伝わった瓜であり 胡弓は胡から来た楽器であり
胡姫と書いてあれば 金髪青い目の美しい女性を指す事もある

又 満州は トルコ人のはるか昔の故郷でもある

王位継承の紛争を避け 高句麗の始祖は鴨緑江右岸 輯安(ちーあん)のすぐ北の丸都山城を修復し 国を建てた

その後王族に内紛が起こり
王族の一人が嘗ての楽浪郡城付近 帯方郡の地に新国をつくり
公孫度(たく)の娘を妻に貰い 
雑居していた 倭人 濊人 中国人 高句麗からの帰化人を束ね東夷の強国となっていった

いにしえの辰国は 馬韓 辰韓 弁辰に別れ
馬韓は 百済の物となっていった

中国で言う国とは 
1辺が数キロ4方 厚さ10m以上 高さも10m以上の城壁に囲まれた
城塞都市をいう ポリス国家だ

城の内部には 川が流れ 田畑があり 市場 工房があり 
王の居城 貴族の館 庶民の家々 中央官庁施設 軍隊 武器庫
人口数万から 数十万の人たちがそこで暮らす
貴族たちが 出城を沢山作れば 勢力範囲 領地は増える
点で 面を広げてゆくそれが古代国家だ

大変な土木工事が必要だ
当然 滅びた国を修復して使用することが多い
基本的に国名は変わっても 城の位置は変わらない事が普通だ

国を作ったと言うことは 
すなわち嘗て何らかの国 城塞があったと言うことになる

話はとぶ
「好太王」碑文
而して 辛卯年(391) 倭 海を渡り来て百残○○新羅を破り 以って臣民となす
日本書紀 応神記 参照

この時百済は今の平壌付近と思われる
高句麗好太王 その時の 高句麗居城は丸都
好太王6年(396)高句麗 百済を破る

この時百済南下 漢城に至るか?

その後「南史 百済」
梁 天監元年(502年)~普通2年(521年)の間に
南 韓の地へ 居を移す

「日本書紀」
継体6年12月(512年) 任那の4県を百済に与う

百済 扶余に都を移す 百済最後の都

「日本書紀」応神8年(397)
後 唐に破れ 百済の書物はすべて亡命人と共に日本に来た
<百済記>に謂う
阿花王は 礼を失してた
とむたれ(済州島) けんなむ ししむ こくな  所を奪われぬ(今の忠清南道 全羅道)
王子(せしむ) 直支(とき)を質して先の王(こきし)の好を修むと言えり

百済をくだらと読むのは日本だけ 古代の くんなら かもしれない
中国読みでは ぼーしー ぱくしぇ か

最新の画像もっと見る