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森の中の恍惚

野山が笛を吹いている

畠山重忠公史跡公園

2014年01月19日 | 空色の休日 2014

埼玉県農林公園からほど近く‥‥、嵐山町「菅谷館跡」の主、畠山重忠公の墓のある「畠山重忠公史跡公園」。そして、北風。

埼玉県指定史蹟畠山重忠墓

鎌倉時代の関東の代表的武将畠山重忠(秩父氏の出)は長寛二年(1164年)父重能の二男としてこの地畠山館に生まれ幼名を氏王丸といい長じて畠山庄司次郎重忠となる。剛勇にして文武両道に勝れ源賴朝に仕えて礼節の誉れ高く県北一帯の支配のみならず伊勢国沼田御厨の地頭職を兼ねた鎌倉武士の鏡として尊敬されたが賴朝なきあと讒言により北条氏のため横浜市二俣川にて一族と共に討たれた。時に重忠四十二才 子重秀は二十三才であった。
後にこの地畠山館跡に重忠主従六基の五輪塔を建て暮碑としてまつった。
この地の東北方に重忠産湯の井戸がある。また北方三百メートルの荒川の嶮崖に鶯の瀬という浅瀬がある。
ここは重忠が岡部六弥太(棒沢成清の説もある)のもとに行き帰路雨に逢い洪水で渡れずにいるとき鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたという所である。
その時よんだと伝えられる
 時ならぬ岸のおささのうぐいすは
 あさせたづねて鳴き渡るらん
との歌碑がある
 昭和四十五年十一月吉日
埼玉県教育委員会
深谷市教育委員会
畠山重忠公史跡保存会


源平合戦、一ノ谷の戦いで愛馬三日月を背に鵯越(ひよどりごえ)を下りる畠山重忠の像。


重忠公とその家臣の墓と言われている五輪塔が納められている覆堂。


畠山重忠公の墓

 鎌倉時代の関東武士を代表する武将である畠山重忠公は、長寛二年(1164年)秩父庄司重能の二男として、現在のこの地の畠山館に生まれ幼名を氏王丸(うじおうまる)と言い、後に畠山庄司次郎重忠となった。
 剛勇にして文武両道にすぐれ、源頼朝に仕えて礼節の誉れ高く県北一帯の支配のみならず、伊勢国沼田御厨(三重県)奥州葛岡(岩手県)の地頭職を兼ね、鎌倉武士の鑑として尊敬されたが、頼朝なきあと北条氏に謀られて、元久二年(1205年)六月二十二日に二俣川にて一族とともに討たれた。時に重忠四十二歳、子重秀は二十三歳であった。
 この畠山館跡には、重忠公主従の墓として六基の五輪塔がある。
 また、館跡には嘉元二年(1304年)の紀年号のある百回忌供養の板石塔婆、芭蕉句碑や畑和(元埼玉県知事)作詞による重忠節の歌碑などがあり、館の東北方には重忠産湯の井戸などもあって、通称「重忠様」と呼ばれて慕われ、現在は、この地一帯が重忠公史跡公園として整備されている
 平成十一年九月  埼玉県


館跡内には「重忠産湯の井戸」と伝えられる井戸が残されています。

畠山重忠公産湯ノ井戸
 秩父より進出してきた、秩父荘司重能は武蔵国男衾郡畠山村(現大里郡川本町畠山)に館を構えました。のちの長寛二(西暦一一六四)年、秩父荘司重能と相模の豪族・三浦大介義明の娘眞鶴姫との間に二男として重忠が誕生し、その際用いた井戸として【重忠公産湯ノ井戸】と称され伝えられております。又、この井戸は、江戸時代の記録に残された、古井戸二ヶ所のうちの一つでもあります。
 平成十六年十一月吉日建立 畠山重忠公史跡保存会


:新編武蔵風土記稿の中では『城蹟ノ邊知ニ重忠ノ井ト唱フル古井二アリ按ニ重忠カ比企郡菅谷ノ館ニ住セキコトハ世ニ知ル所ナリ然レトモ此人世々畠山の庄司タルトキハ先代或ハ重忠初年マテ此所ニ住セシコト理ニ於テ然ルヘシ
 (巻之224>男衾郡之三>鉢形領之二>畠山村>古城蹟)』と記されています。


「重忠の 武勇を祀る 五輪塔」

:ここです→ Google マップ

>森の中の恍惚:比企城館跡群 菅谷館跡


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