森の中の恍惚

野山が笛を吹いている

妻沼台白山神社

2022年02月13日 | 1/7,726 

謎の多い(?)「摩多利神社」のすぐ北、田畑に囲まれた“台”の地に鎮守する「白山神社」に参拝。


鳥居の前には塞神塔。「明治3年 庚午」とありました。道標にもなっていて「西ほかや ほんじょうみち 東めぬま くまがや道 北小嶋舟ばみち」となっています。(「小嶋」は利根川を越えた北にある妻沼小嶋地区のこと。刀水橋(旧・古戸橋)の開通が明治19年とあるので、それまでは中山道脇往還、利根川の中瀬の渡舟場となっていたようです。)


では、参拝。
 台は、利根川の自然堤防上にあり、周囲よりやや高い所である。伝説では「昔、妻沼に女体様が、男沼に男体様が住んでおられた。この二神は夫婦神で仲睦まじく、男体様が女体様を訪ねられる時は、女体様が途中にある高台の当地まで出迎えられ、お帰りは見送られて、この高台を休み台に別れを惜しまれていた。それから当地を台と呼ぶようになり、また男体様の社は東向きに、女体様の社は西向きに把られ、当社は両社の中間にあって南向きに祀られている」という。女体様は白髪(しらかみ)神社、男体様とは神明社のことであろう。
 『風土記稿』は「白山社、蔵王権現社、以上二社、共に村の鎮守にて円満寺持」と載せている。この白山社が当社のことで、蔵王権現社は中島にあり、明治初期に曾登(そと)神社と改称し、明治四十一年に当社に合祀している。ちなみに、円満寺は天文三年(一五三四)、僧良栄の創建との伝えがある。
 口碑によると、古くは当社内陣に、青い小さな像が祀られていたが神仏分離調査の折に持ち去られたという。また、本殿の下に大きな石が据えられていて、これが昔の神体であるとも伝えている。
  (中略)
台は、周囲よりも高い所であり、干ばつの害を受けやすかったので、昔、日照りの時には、本殿の下に据えられた大石を担ぎ出して神社の周りを巡って雨乞いをした。しかし、ある時、余りにも効き過ぎてしまい、近隣から苦情が出て、以来行っていないという。また、この石が汗をかくと、世の中に悪い事が起きるともいわれている。
 晴天を祈る天気上げも昔は行われた。これは、当社の周りを巡ってから聖天様に行き、鐘をついて祈るものであった。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)


社殿に並ぶのは「曾登神社」。ご祭神は「小彦名命」
 曾登神社は、当社に合祀され境内に祀られているが、一方、旧地でも権現様と呼んで跡地に社殿を建て、古くからの神像を祀り現在に至っている。この神像は室町初期の作と推定される蔵王権現像である。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)


ご祭神
菊利媛命(くくりひめのみこと)
伊弉諾命(いざなぎのみこと)
伊弉冉命(いざなみのみこと)
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
菅原道眞公
少彦名命(すくなひこなのみこと)
 利根川右岸に沿った低地帯に位置する妻沼には、かつて同じような大きさの沼が二つあった。そのうち、上の沼はそのほとりに伊弉諾命を祀る男体社(なんたいしゃ)があることから男沼、下の沼は同じく伊弉冉命を祀る女体社(にょたいしゃ)があることから女沼と呼ばれるようになり、それが村名にもなっていったという。また、男体・女体の両社は互いに向かい合う形になっており、その祭神は仲睦まじく往き来し、両社の中間点にある高台(大字台の白山神社付近)で休息したとの話も残っている。
(Resource:「埼玉の神社>妻沼町>神明社」埼玉県神社庁)

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