森の中の恍惚

野山が笛を吹いている

深谷市 石塚稲荷神社

2024年02月24日 | 1/7,726 

新1万円札で賑わう深谷市を走るカッ飛び17号「上武道路」。赤城山を望む「新上武大橋」を登っていくと左手に現れる気になっていた神社『石塚稲荷神社』にやっと参拝........、久しぶりの神社。


境内は数年前に整備されて、瓦チップでしょうか?(深谷市だからレンガチップかな?)参道から境内一面に敷き詰められていてきれいですね。社号標は『稲荷神社』となっています。


かわいらしい手水鉢ですね。後ろに見えるカーポートがなんかファンタジー。


では、参拝。
 当社は「住殿稲荷(じゅうどのいなり」、又は「住殿様」と呼ばれる。住殿の名の起こりは、鎌倉幕府滅亡の端緒となった元弘の乱(1331)に、鎌倉を攻めた新田義忠が布陣したことによるという。これを裏付けるかのように、当社裏には、新田軍の戦死者を葬ったと伝える殿塚の地名があり、かってここに建武元年(1334)の五輪塔があったという。
 また、住殿の称は永禄三年(1560)に新田氏と深谷城主上杉憲政との間に生じた境界争いの時に起こったとする説がある。このことは、『新田家御軍記(写本)』に「之を以て新田方勝利を得、勝鬨を上げ、軍勢を率ゐて速かに石塚郷稲荷之陣に退き、社頭に於て待てども敵来たらず。篝火を焚いて夜を明かして凱陣す。依て以て今此の所を住殿之森と称する也」と見える。
 以上のことを勘案すると、幾度か陣を布いた地にいつしか当社が祀られ、後に石塚村の鎮守となったものであろう。
 明治九年に村社となり、同四十年には石塚字本村の無格社赤城神社、同境内社神明社・八坂神社、字谷田の無格社大宰府神社(現天神社)を合祀した。

(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)


扁額は見あたりませんでしたが、「敬神崇祖(けいしんすうそ)」と書かれたボードが掲げられていました。「神を敬い、祖先を崇ぶ」という神道の基本精神ですね。氏子のみなさんの気持ちがズン!と伝わってきます。


社殿南側には小祠が二棟。両方とも稲荷神でしょうか? なんだか、趣のある祠です。後ろに見える石碑は、平成18年に行われた社殿改築の碑です。碑に写り込んでいるのが「新上武大橋」の登り道。
社殿改築之碑

住殿の社に神鎮まります稲荷神社は石塚郷人の鎮守神として世情如何に変われども我民族の道統たる敬神崇祖・神人和合の祭事は綿々と受け継がれて来た。明治の年に郷内の社を此の地に合祀して以来百余年の星霜を経過した本殿覆殿拝殿など積年の風雨により損傷甚だしく之が修理について憂慮するところであった。平成十一年四月二十五日に稲荷神社々殿改築整備奉賛会を発起し浄財の勧募を開始することとなり氏子崇敬者より多大な奉賛を拝受し平成十七年八月九日起工・平成十八年二月竣工することが出来た。茲に長期にわたる奉賛会役員の努力と関係各位の赤誠の結晶に深く敬意を表し又地区の弥栄を祈念するとともに荘厳秀麗な社殿の完成を祝し改築の記念とする。

 平成十八年 二月吉日  稲荷神社 宮司 江守義好


その隣には『天神宮』の石塚。「武運長久 菊名氏 佐藤氏」と刻まれています。


社殿東側には社務所でした。


上武大橋を登るたびに気になっていた神社だったんですが、ついつい登っちゃっていたんですね。畑の中にビシッと建つその姿は、氏子さんたちの「敬神崇祖」を清々しく感じることのできる『石塚稲荷神社』でした。

:ここです→ Google マップ



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 台湾蜜棗 | トップ | プロペラ咲き »

コメントを投稿

1/7,726 」カテゴリの最新記事