昨日も書きましたが、ブロ友さんから各務原ニンジンをいただきました。
色がきれいで、甘みが強く人参シリシリーにバッチリです。
沖縄でどこの家庭でも、人参シリシリ器を持っています。
私は母からもらった何十年ものを持っています。
人参シリシリは料理名になっていますが、このシリシリ器から来ています。
これが下ろしたものです。
これを炒めてにツナを混ぜます。私の場合、油は先にフライパンに空けます。
塩味でしんなり炒まったら、ツナを加えます。味付けは塩とカツオの顆粒ダシのみ。
後は溶き卵をまぶして返すだけです。
今日はたくさん人参があるので、食感を変えるため、シリシリ器を使わず、包丁で下ろしてもやってみました。
丼にして食べました。
さてここから先は長い私の独り言です。
光江さんがどうしてクリスチャンになったのか、教えてほしいとリクエストにたいしてのお答えです。
時間があって、興味のある方だけお読みくださいませ(^▽^)
もう、四十年ほど前になってしまいました。
仕事から帰って来た主人が、「これ」と言って一冊の本を手渡してくれました。
どうもクリスチャンの方々の証し集のようです。
「どうしたの、これ?」と、聞き返したら、
「隣のうちに来る沖縄の人がくれた。」と言います。
その頃、主人は小さな鉄工所に勤めていましたが、
その隣の家に沖縄出身の人が良く来るようで、主人の妻(私)が
沖縄出身であることを鉄工所の奥さんから聞いて、本をくれたと言うのです。
私は「昼間によく来るなんて、その人、随分暇人ね。」開きもせずに読むこともなく本棚に立てました。
私は聖書の話に懲りていたのです。
☆
それより更に数年前のことですが、人の良さそうなO子さんという方が、平日は私が仕事をしていることを知って、週末になると決まって訪ねて来て、「聖書の話を聞きませんか?」と、熱心に誘うのです。
その都度、私はきっぱり断り、こんなことを言っていました。
「あのですね。私は今、何も困ってないし、何でも自分で考えて、自分行動できるし、もし失敗しても、そこからまた、立ち上がって歩きだせる自信があります。だから、神様なんて私には必要ないんです。言ってみれば、私の中では、私が神様なんです。」
まあ、まあ、知らないから言えた言葉ですが……。
それだけ強い言葉で言っても人の良さそうなO子さんはニコニコと次の週末も来るのです。
そして、私が引っかかる決定的なことを言いました。
「光江さんは聞きもしないで、内容もわからないのにそうやって貶すんですね。」と。
カチンと来ましたね。「じゃ、聞いて断ってやろうじゃないの。」と。
何年も経ってからわかったことですが、その人たちは各家庭を訪ねて行って、兎に角相手をしたら、言われた言葉を本部に持ち帰って対応する言葉をもらって、また訪ねて行くのだと。
団体名は書きませんが、輸血拒否をする団体と言えば、おわかりになりますでしょうか。
彼女が持参した本を買ったと思います。
毎週末、半年間、本を広げて読みながら話を聞いたのですが、私は相変わらず飲み込めず、立ち向かってばかりでした。とても良い方なので「ごめんなさいね。と謝りながら反抗していました。
話を聞くのを止めようと思ったのは、私がそんな状態なのに、保育園年長組の娘は子供聖書でお勉強してスイスイ入って行くのです。「この子はすごい!神様の言葉をリトマス紙が吸うように吸い取ってくれる。」とO子さんが言いました。
すごいといわれた娘は、家族の言動を裁き始めました。
それで、私は話を聞くのを止める決心がつきました。
「Kさん、せっかくですけど、私は話を聞くのを止めます。
私が納得していないのに、5歳の娘がどんどんあなたの話に染まっていきます。
娘が自分で判断できる歳になって、それでも話を聞きたいと言ったら考えますが、5歳の娘に母親が納得していない話を聞かせ続けるわけにはいきません。」
そして、私は聖書の話を聞くのを止めました。
☆
さて、話を戻しましょう。
主人が最初に本をもらってから一か月ほどしたら、主人がまた一冊の本と今度はゴーヤーを持って帰って来ました。
ゴーヤーは別の沖縄出身の方が育ててものだそうでした。
「主人の顔もあるし、しょうがないなあ。」と、思って証し集の本をめくってみました。
仕方なくと思って読み始めましたが、引き込まれました。一気に読みました。
そして、感じたこと。「これは本物だ!」と。
本をくれた沖縄出身のK子さんが「連絡をします、と言っていたよ。」と主人から聞いていました。いつの間にか心待ちにしている自分がいました。
1ヶ月ほど経った頃、K子さんから電話をいただき、クリスチャンの集まるホームパーティーへのお誘いを受けました。
行ってみると皆さんのお顔がとても明るくて、居心地の悪さを感じました。
それで話しかけてくれた男性に「私は皆さんと違います。陰険ですから。」といいました。
彼はニコニコしながら「それ、聖書にありますよ。」と言って聖書を開いてくれました。
人の心は何よりも陰険で、それは直らない。
だれが、それを知ることができよう。
エレミヤ書17章9節
何故か、とてもホッとしました。
その日、本物の聖書をプレゼントされました。
その聖書を40年経った今も読み続けています。
私がO子さんから聞いていた聖書の話では、「やってはいけないこと」を並べ立て、「良い行ないをしなければ地獄に落ちる」みたいな話をたくさん聞かされました。
「やってはいけない。」と言われても、「既にやってしまったものは、どうしたらいいのでしょう?」
そうです。私には「やってはいけない。」ということを、たくさんやってきた自覚があったのです。やるなと言われてもやってしまったものはどうしたらいいの?
そこの話がなかったから、私は飲み込めなかったのだと思います。
私は子沢山の長女として育ち、成績もよく、家の手伝いもよくやり(実際はやらされた)、周りからも褒められていました。褒められ方を知っていると言った方がいいかも知れません。
でも、自分はろくなことを考えないし、ろくでもないことをたくさんやってきた、という自覚がありました。
矛盾しますが、私や少しは役に立つ人間だと思っていたので、
「自分がどうしようのない人間」と知るまでには2~3年掛かりました。
これを話すとまた、長くなりますので、細かくは書きませんが、私は聖書を読むようになってから、作家の三浦綾子さんの本をたくさん読みました。書かれていることがズンズンと自分の中に入って来るのです。
三浦綾子さんがある講演のなかでこんなことをおっしゃっています。
「まことに、私は自己中心な人間で、ほんとにこの世の欠点はすべて私に神様が与えてくださったような気がするぐらい、欠点だらけの人間ですが、クリスチャンです。
クリスチャンを誤解しないでください。クリスチャンは人格円満な人がなるんじゃなくて、あたしはどうにもならないな、どうしようもないなあ、と思う人がなるのであって、立派な人はならないでください。神様が赦してやろうとおっしゃるんで、私は赦していただいたんですね。
私はキリストに罪を赦していただいたクリスチャンとして、よく作家とか、小説家と言われますけど、私にそのつもりはありません。キリストを証ししているつもりです。」
三浦綾子さんの言葉を、100%両手を挙げて同意しています。
長い文章を読んでいただいた方、ほんとにありがとうございます。