厳島神社(常磐弁財天)、常磐姫とさぎ草伝説
室町時代時代末期、上馬の地は世田谷城主七代目吉良頼康公の所領となっていました。この頼康公に一番信頼されていたのが、奥沢城城主大平出羽守でその愛娘が常盤姫でした。ある日、頼康公は鷹狩の際、奥沢の近くで足に短冊を付けた一羽の鷺を捕まえました。短冊を見た頼康公は、その美しい筆跡を見て、この人に会いたいと小姓の天王丸に探させました。探し疲れた天王丸が等々力の谷に降り喉を潤している時、一人の若侍が「我が君の放した鷺を知りませんか」と聞きました。それで短冊の主は奥沢城の常盤姫と解ったのです。
頼康公には複数の側室もありましたが子供は無く、なんとかして源氏の血筋を子孫に伝えるため、美人の評判の高い常盤姫にお側に来てもらいたいと大平出羽守に強く申し入れしました。お城に入った常盤姫はその美しさと優しさから頼康公の寵愛を一身に受け、公が一番望んでいた子供も宿しました。側室達は若君が生まれれば城から出されてしまうと、嫉妬と恐怖から常盤の方を追い出す為、城中一の美男である内海掃部と恋仲だと、頼康公に告げ口をしたのでした。はじめは信じなかった頼康公もついには常盤の方の言い訳も聞かず殺そうとしました。常盤の方は奥沢城の両親に、無実の訴えと、助けを求める手紙を白鷺の足に付け放しましたが、折からの風雨に力尽き奥沢城近くの沼地に落ちてしまいました。死んだ白鷺を見つけた村人は丁寧に葬り、手紙を奥沢城に届けましたが、間に合いませんでした。常盤の方は、共二人を連れ世田谷城を抜け出しましたが、上馬の地で追っ手に捕らえられ、妊娠八ヶ月の身で自害して果てました。翌年あの白鷺を埋めた所を中心に、白鷺の舞い立つ姿にそっくりな花が一斉に咲き出しました。人々は常盤姫を偲びこの花を鷺草と名付けたのでした,厳島神社(常磐弁財天)やがて、常盤の方の無実は証明され弁財天として祭られました、その弁財天は戦争直後迄、駒留八幡神社前の池の中島に祀られていましたが、現在は駒留八幡神社の境内末社に、厳島神社として祀られています。常盤の方と共に非業の死を遂げた頼康公の子は頼康公により駒留八幡神社に相殿として祀られ、若宮八幡宮と称し、田畑を奉納しその追福が祈願されました。
なお常盤姫にまつわる伝説が、奥沢城(九品仏浄真寺)にも伝わっています、淨眞寺が創建する以前、この地には奥沢城が建っておりました。奥沢城主大平出羽守には常盤姫という美しい娘がおりました。年頃になると主君である世田谷城主吉良頼康の側室となり、常盤姫はその美しさのゆえに頼康の寵愛を一身に受ける様になります。しかし、その事が原因で他の側室から妬まれてしまい、側室達は常盤姫が不義を犯したかのような告げ口を頼康にする様になっていきます。何度も告げ口を聞かされた頼康は徐々にそれを信じ常盤姫を遠ざけるようになってしまいました。悲しみにくれた常盤姫は、幼い頃から可愛がっていた白鷺の足に、自らの潔白を書き記した文を結びつけ、父母のいる奥沢城へ放ちました。しかし、時を同じくして奥沢城近くで狩りをしていた頼康の目にとまり、白鷺は射ち落されてしまいます。白鷺に近づいた頼康は足に結ばれている文に気付き、開き読んで愕然とします。常盤姫の無実を知った頼康は急ぎ世田谷城に戻りますが、常盤姫はすでに自害しておりました。その後、白鷺を奥沢城近くに埋めて供養した所から草が生え、白鷺に似た花が咲きました。この花が「さぎ草」であります。現在さぎ草は世田谷区の花とされており、境内「さぎ草園」に毎年8月上旬多くの花を咲かせております,