時間がかかりました。
乗り換え時間も含めて約7時間の旅でした。新幹線の中もホテルもカラカラに乾燥していて、久しぶりに指に逆剥けができ、何度も何度もクリームを塗っても治りません、マスクを忘れたので、咽喉もカラカラ、風邪をひいてしまいました。
さて、山形新幹線に乗ると新幹線が二両繋がっているではありませんか。福島で切り離されます。
福島から北に行ったのは北海道だけです。そして、冬は始めてです。
福島までは遠くの山々は冠雪しているものの、屋根にも道路にも全く雪はなく、ところどころ集めた雪が固まっているだけでした。
さて、福島から米沢へ。それまでとはうって変わって銀世界、真っ白な山々が連なり青空とのコントラストが!ああ今すぐ絵を描きたいと思ってしまいました。
山中にかかると速度は自転車よりも遅く、ええ~あんた新幹線でしょ!!!と突っ込みたくなるほどノロノロ入っていきます。木々には雪がまとわりつき気温が低いことがわかります。
乗客の中に台湾の親子連れが乗っていて、3歳ぐらいの男の子がずーと「ジングルベル、ジングルベル」と歌っていました。
後で、以前はスイッチバックで登っていた難所だったことを知りました。広島では芸備線で島根に行くときにスイッチバックがあります。
米沢は屋根にも雪があり、雪かきの山がありました。
やっと天童につきました。歩道や路地には雪が10センチくらいあり、屋根からつららが下がっていて広島県北出身の私は懐かしく、キンとした空気を思い切り吸いました。
会議のメンバーはすべて大人、そしてこれまでさんざん原爆の学習をしてきた方々で、被爆者から被爆体験を聞いてこられましたが、今回初めて「伝承者」の話を聞いてみようと、声をかけていただきました。
顔見知りの方もおられる中「伝承講和」を実施すると「これまで被爆者の話を聞いてきたが、被爆二世とはいえ体験のない人が話すためには、幅広く学習をしたうえで話しているので、被爆者の体験以上に感動しました。そして、地図だけなので想像しながら聞き、心に強く残りました」と言っていただきました。
これからも、知人が大勢いようが居まいが、変わらず心を込めて講和しようと決心しました。
翌日は、細かい雪が降る中広島へ帰ってきました。
全国どこへでも行きます。
写真は名前も性別も国籍もわからない骨「7万人あまり入っている」原爆供養塔の入り口です。