「若さの記憶は充分あるが、実感と習慣がいつのまにかなくなっているのに、気がつかない。」
―PHP 1980年8月号 「男の明日は未知」より
いつから赤塚不二夫は若者、特に“一人遊びを好む現代の若者”にモノ申すオヤジになったのだろうか。はたしてそれは的を得ていたのか、的外れだったのか。
今回は若さについて述べているエッセイを取り上げる。PHP研究所発行の雑誌・『PHP』1980年8月号の特集「年齢考 ―男の場合・女の場合―」に寄稿された『男の明日は未知』だ。
赤塚はまず、昭和30年代の漫画界を振り返り、“乱世”と例える。手塚治虫の登場によるまんがブームの最中。ベテラン作家が少なく、20代の青年たちが酷使されてゆく。一方赤塚は本望ではない少女漫画を描きつつ、本望のギャグ漫画への情熱を絶やさずにいた。1955年(昭和30年)「漫画少年」夏増刊号『小包とりんご』で雑誌デビュー後、翌年曙出版から『嵐をこえて』で単行本デビュー。『おそ松くん』の連載開始が「少年サンデー」1962年(昭和37年)16号であるから、漫画家として大成するまでの期間が昭和30年代と重なり、そのまんが道を駆け抜けたということとなる。
「人気作品になるなんて意識は毛頭なく、普段、細々とかいている他の作品と同じ気持ちでかいていたが、とにかく、仕事がどんどん増えていった。それから十年余、ぼくは年齢のことなど、意識したことが無いように思う。」
と当時を振り返りつつ、こんなエピソードも明かしている。
「自分の子供に、「パパはね・・・・・・」という替わりに、「おにいさんはね・・・・・・」と無意識に言ってしまって、自分で照れてしまったことさえあるぐらいだ。」
自分より若い世代へ漫画を描いている自身には、とってもいい状態だと赤塚は振り返るが、40を過ぎた寂しさがあったという。
自身の行動と、アシスタントたちの行動ギャップに触れ、今の自分をこう表す。
「若さの記憶は充分あるが、実感と習慣がいつのまにかなくなっているのに、気がつかない。四十代半ばにかかったぼくは、漫画家としてこれからが一番つらい時期だと覚悟している。」
どうにもならない身体の老いと、どうにかなりそうな心の老い。まだ伸びるのだ、伸びたいのだと、赤塚はこう結ぶ。
「今までの体験から得た技術や、精神のコントロールの仕方だけは、確かに青年時代に絶対持ち得ないものである。しかし、これがすべての財産だと錯覚したくはない。男の明日は、常に未知であり、冒険だ。だから面白いし、スランプも失敗も、ちっとも恐ろしくないのだ。」
すでに歴史が完結してしまった今、赤塚不二夫がこの後どうなっていったのかは明らかだ。1980年当時若者はまだ、わかる範囲だったのかもしれない。この後、赤塚不二夫にはご多分に漏れず“老い”がやってくる。「コミックボンボン」で、自身の漫画と同時期に連載されている漫画の面白さが分からない、以前取り上げた居酒屋でのエピソードという形で。
赤塚不二夫は今の若者、そして自分をどう思うのだろうか。赤塚の嫌う“一人遊びを好む現代の若者”ながらも赤塚に魅入られた自分は考え込む。「ああ、会いたかった」と想いが漏れるまで。
1980年の赤塚不二夫
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満45歳・『お笑いスター誕生!!』レギュラー出演
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