私の住む町の総合体育館の西側に下記のような碑がある。
名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所跡
沿革
昭和十五年二月 九九式小銃弾製造工場用地として約二十六万坪(うち六万坪は西山町地内)を陸軍により強制買収され、敷地造成工場等建物の建設が始まる。
昭和十六年 六月一日 名古屋陸軍造兵廠高蔵製造所鷹来分工場として発足。一部生産開始。
昭和十六年十二月一日 名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所として開設され、造兵廠本部より、会計、医務、技術、作業、監督、各課分室と製造所庶務、工務、検査、後に防衛の各掛及び第一、第二、第三、第四、第六(西山町地内)の各工場、その後第五、第七工場が設けられ、
軍人、一般工員、徴用工員、女子挺身隊員、動員学徒(約一千名)を加え、その数約五千有余命を超え、昼夜二交代制の激務の続く中フル生産を行った。
昭和二十年八月十五日 終戦により工場閉鎖
茲に従業員、動員学徒有志の浄財により当時の歴史を後世に伝え、恒久平和の悲願をこめてこれを建立。
昭和六十一年八月 記念碑建設委員会
今ある名城大学農学部の建物は、この施設の遺構であるが、ん十年前の悪童にとっては格好の遊び場で、その地下室に潜り込んでは探検ゴッコをしたものだ。
名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所跡
沿革
昭和十五年二月 九九式小銃弾製造工場用地として約二十六万坪(うち六万坪は西山町地内)を陸軍により強制買収され、敷地造成工場等建物の建設が始まる。
昭和十六年 六月一日 名古屋陸軍造兵廠高蔵製造所鷹来分工場として発足。一部生産開始。
昭和十六年十二月一日 名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所として開設され、造兵廠本部より、会計、医務、技術、作業、監督、各課分室と製造所庶務、工務、検査、後に防衛の各掛及び第一、第二、第三、第四、第六(西山町地内)の各工場、その後第五、第七工場が設けられ、
軍人、一般工員、徴用工員、女子挺身隊員、動員学徒(約一千名)を加え、その数約五千有余命を超え、昼夜二交代制の激務の続く中フル生産を行った。
昭和二十年八月十五日 終戦により工場閉鎖
茲に従業員、動員学徒有志の浄財により当時の歴史を後世に伝え、恒久平和の悲願をこめてこれを建立。
昭和六十一年八月 記念碑建設委員会
今ある名城大学農学部の建物は、この施設の遺構であるが、ん十年前の悪童にとっては格好の遊び場で、その地下室に潜り込んでは探検ゴッコをしたものだ。