誹謗・中傷・罵詈雑言・承り処

私のホームページを見て、講評、批判を受け付ける場。

名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所跡

2012-04-22 07:17:45 | Weblog
私の住む町の総合体育館の西側に下記のような碑がある。

名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所跡
沿革
昭和十五年二月    九九式小銃弾製造工場用地として約二十六万坪(うち六万坪は西山町地内)を陸軍により強制買収され、敷地造成工場等建物の建設が始まる。
昭和十六年 六月一日 名古屋陸軍造兵廠高蔵製造所鷹来分工場として発足。一部生産開始。
昭和十六年十二月一日 名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所として開設され、造兵廠本部より、会計、医務、技術、作業、監督、各課分室と製造所庶務、工務、検査、後に防衛の各掛及び第一、第二、第三、第四、第六(西山町地内)の各工場、その後第五、第七工場が設けられ、
軍人、一般工員、徴用工員、女子挺身隊員、動員学徒(約一千名)を加え、その数約五千有余命を超え、昼夜二交代制の激務の続く中フル生産を行った。
昭和二十年八月十五日 終戦により工場閉鎖

茲に従業員、動員学徒有志の浄財により当時の歴史を後世に伝え、恒久平和の悲願をこめてこれを建立。
昭和六十一年八月 記念碑建設委員会

今ある名城大学農学部の建物は、この施設の遺構であるが、ん十年前の悪童にとっては格好の遊び場で、その地下室に潜り込んでは探検ゴッコをしたものだ。


サクランボの花

2012-04-21 10:07:56 | Weblog
この写真にある白い花はサクランボの花です。
サクランボにも当然さまざまな品種があるのであろうが、そこまでは知らない。
家を作った時に何となく居間の前に植えたもので、それが毎年こういう花を咲かせる。
当然のこと、実、サクランボもなるが、最初からその実を得るために植えたものではないので、野鳥に提供するばかりで殆ど自分たちで食べた記憶はない。
それでも毎年、二粒、三粒は口にしてみるが、やはりサクランボの味はする。


醍醐寺の五重の塔

2012-04-19 09:57:14 | Weblog
4月17日と18日に関西に小旅行に出かけた。
最初は京都の醍醐寺を訪問したが、桜は既に散ってしまっていたにも関わらず、それでも見るに値する風情があった。
私は名古屋を中心として東の方は割合行く機会が多かったが、西の方はどういうものか機会が少なかった。
だから関西は全く地理不案内で、名所旧跡に関しても知見が乏しい。
しかし、常識的に関西にはお寺が多いが、軽佻浮薄な私は、そのお寺の魅力を今までは理解し切れていなかった。
だが、今回、自分が棺桶に足を突っ込む時期が近づくと共に、だんだんお寺や仏像に親近感を抱くようになってきた。
私は古い過去を懐かしむよりも、生きた人間の生き様の方に関心があったので、歴史に対して無関心であった。
しかし、加齢とともにそういうものに対する懐古の念が強くなったのだろうか。
それとも地獄からの使者が、地獄行きか極楽行きかの選別を始めたのだろうか。
どちらが割り当てられようとも悔いはないので素直に従うつもりである。
この日の醍醐寺は残った桜の花吹雪に魅せられて、極めて心豊かな一時を堪能させてもらった。
写真は醍醐寺の五重の塔です。



この日の宿は大津市のKKRホテル琵琶湖というところに投宿したが、ここに高校時代の元悪童四人組が、それぞれに奥様同伴で集合して、ミニ同窓会を開くことになっていた。
夕食は、その後のスケジュールの関係もあり、元悪童の割には平穏に終わって、早々に切り上げた。
が、夕食の後ホテルの計らいで三井寺の夜桜見物としゃれこんだ。
ライトアップされた三井寺の夜桜も神秘的な雰囲気が漂っていた。
ライトアップされた光の中を、白いふわふわとした物体が妙な動きをしながら横切った。
幼少のころ自然豊かな土地で生育した一人のご婦人が、「あれ?、ムササビだ!」と叫んだ。
私も同じものを見たが、確かにムササビだと思う。
昼間、醍醐寺の庭園を見ていて、石庭にきれいに箒目がついていたので、係員に「毎日手入れしているのか?」と聞いたら。「毎日ではないが、野生動物が来て足跡をつけるので、週に二,三回している」と言っていた。
京都にも未だにこういう野性味があることも不思議なことだと思った。

翌日はホテルが企画した、『海津大崎クルーズ』という企画に参加した。
参加者の数は知れたものだろう、とタカを括っていたら、朝食のときに見た顔が沢山あって、総勢約40人くらいの団体となった。
マイクロバス2台に分乗して今津港に出向き、そこで遊覧船に乗り換えて60分ほどのクルーズとなったが、ここの桜もそれこそ満開で、この日我が家に帰り着いて朝刊を見たら、その一面にこの海津の桜並木のことが載っていたので大いに驚いたものだ。
しかし、帰り道中では散々な目にあった。
時間もたっぷりあるので、のんびり帰ればいいと思って、下道をゆっくり走るつもりでいたが、彦根を過ぎたあたりで渋滞に嵌ってしまってニッチモサッチモ行かなくなって、散々な目におあった。渋滞でイライラさせられたので、もう我慢が出来ず、高速に乗ってしまったが、車が流れていさえすればイライラが高じることはなかった。
まだまだ修行が足らないみたいで、地獄も極楽も受け入れ難く思っているに違いない。
昨年の暮れカーナビを買ったので、ナビに頼りきって反って事前の検討をしなくなったので、逆に家内(マニュアル・ナビゲータ)との喧嘩が多くなってしまった。





「東谷山フルーツパーク」

2012-04-13 16:48:41 | Weblog
我が家から東に30分ぐらい行ったところに、「東谷山フルーツパーク」という施設がある。
名古屋市の農業試験場のように思うが、そういう固いネーミングではなく普通に『東谷山フルーツパーク』と呼びならわされている。
中央線・高蔵寺駅を東側に降りて真っ直ぐ25分ほど歩くとこの施設がある。
名前の通りフルーツに関する情報提供する場所であろうが、それに関連して四季折々の花が楽しめる場所でもある。
車で高蔵寺駅前の交差点を渡り、庄内側の橋を渡って真っ直ぐ進むと、登り坂になる頃からしだれ桜が迎えてくれる。
今回はうっかりしてこの交差点を通過してしまったので裏側から辿りついたが、桜の花は今が真っ盛りとなっていた。
桜はフルーツではないので、この施設のメインの樹ではなかろうが、園内には沢山の桜があって、それぞれに名前がきちんと付いているので有難い。
例によって年寄りがワンサときていた。
老いも若きも、立派なカメラをぶら下げて桜の花を撮っていたが、平和な光景だ。


桜の花見

2012-04-10 14:05:24 | Weblog
今朝の新聞を開くと各地の花見のニュースが載っていたが、私達の地域の桜の花の名所といえば、岩倉の五条川や、入鹿池あるいは春日井市内の落合池の桜が手ごろであろう。
案外世間的に知られていないのが名古屋空港の周回道路の桜並木である。
この名古屋空港がセントレアとして常滑沖に移ってしまったので、その後にスーパーが進出して、そのスーパーに買い物に行ったついでに、この周回道路で花見をしてきた。
桜の花を愛でることは極めて優雅なことであるが、我々凡人はついつい「花より団子」で、酒に溺れてしまう人が多い。
今日は平日なので、流石に桜の下で酒宴を開いているモノは居なかった。

犬山祭りに行ってきた

2012-04-08 21:02:33 | Weblog
8日は最近の天候不順が嘘のような良い天気だったので、犬山祭りを見に行って来た。
今朝の新聞にも載っていたので天気につられて出掛けてみた。
良い天気なので大変な人出で身動きが取れない程の混みようであった。
桜も満開に近く丁度見ごろであった。
このお祭りの山車というのは昔から日本各地にあるようだが、一体どういう意味があるのであろう。お神輿とはどういう風に違うのであろう。
人生も黄昏れてきてからこういう素朴な疑問が湧いて来た。
子供のころは何の疑いも持たず、自然のままに目の前にあるものに順応していたが、老い先が短くなると共につまらない疑問が心に引っかかるようになってきた。

家族見学会に参加して

2012-03-20 14:58:04 | Weblog
現役の時在職していた職場のOB会の肝いりで、職場の家族見学会に参加して、元の職場を見学してきた。
定年になって既に既に13年を過ぎたわけで、当然、幾ら元の職場と言っても知った人はいない。
思えば、この工場がまだ埋め立てしたばかりの更地で、ペンペン草が生えていた頃からこの工場に関わって来たわけで、1947年昭和47年に新たに展開した時から私は知っていることになる。
当時の主力製品は海上自衛隊のP2VのエンジンR3350とC-1輸送機の8Dエンジンが主力であって、それらが大幸工場から移転してきた。
その時の建物と言えばテストセルと第1工場のみであった。
その後、本格的に大幸工場から移転が完了して、独立した事業所となったのが平成元年であった。
それからもう既に4半世紀たったという事で、最初から思えば大きく様変わりしたと言える。

予期せぬ出来事  パンク修理

2012-03-17 08:38:19 | Weblog
ながねん馬食を重ねていると運の悪い事が往々にして起きる。
15日朝、新聞を読んだ時、メガネを脇に置いたら不注意でそれを押しつぶしてしまった。
当然、変形してしまったのでそれを伸ばして掛けていたら、トイレに立って下を向いたとき、右眼のレンズが落ちて割れてしまった。
代わりのメガネで使っているが、夕方、翌日家内を送って行かねばならないので、車のガソリンを入れに行った。
そしたらスタンドの若者が言うには、「前の右がパンクしている」というではないか。
先回、給油した時は「右の後ろがおかしい」と言って精密に調べてくれたが、その場では不具合ヵ所が見当たらず空気圧を補てんして済んだ。
今回も丁寧に見てくれたら「空気を入れるバルブがおかしい」というわけで、「特殊なものだから取り寄せねばならない」ということだ。
仕方がないのでスペアータイヤを付けてもらって、家まで戻って来た。
翌日、16日、家内を駅まで送って、その足で近所のカーショップに飛び込んだ。
そこでもやはり「特殊なバルブで取り寄せねばならない」というものだから、「ホィールごと元の純正部品に取り換えたらどうだ」といったら、その方がベターだという。
この時装着していたのは息子が買った若者向きの高価なホイールで、車を買い替えた時に不要になったのをもったいないと思って使っていた。
だから、その時取り換えた純正タイヤは家に保管してあったので、それと取り換えることにした。
それでもタイヤそのものは経年変化しているので交換せねばならず、全く予期せぬ出費だった。
どうもこの15日、16日というのは私の厄日だったみたいだ。

愛知県がンセターで内視鏡検査

2012-03-13 14:51:24 | Weblog
地下鉄を降りてがんセンターに向かう途中に白梅が咲いていた。
土手の石垣で判りにくいが、立派な梅で、これで2年連続で同じ梅の花を見たということになる。


今日は愛知県がんセンターに出向いて内視鏡検査をしてきた。
この内視鏡検査というのは何度やっても好きになれるものではない。
がんを患ってから何度したのであろう。
自分でも数え切れないが、何度やっても慣れるというものではない。
でも、自分ががんの保菌者?がんマン?がん患者であるとするならば、常に監視を怠るわけにもいかず、半年に一度の拷問に堪えざるを得ない。
「それほどまでして生きねばならないか」と問われると、「何時でも三途の川を渡る用意はできている」と大見えは切っているが、生きるということは自分一人のことではなさそうで、方々に影響が出るらしく、今のところそう無碍に迷惑も掛けられず、ああだこうだと躊躇している。
さて、所定の手順を踏んでベットの上に横たわると、後はもう「まな板の上の鯉」そのもので、口を開けて成されるままにしている他ない。
薄目を開けて先生の動作を観察すると、小声で回りの人と何か言っているがよくは聞き取れない。
こういう無意識の独り言というか、つぶやきの中に真実が潜んでいそうで、耳を澄ませて聞いていたが、特段に悪い事も言っていなかった。
仮に、悪性腫瘍でもあったとするならば、「あれ、これは何だ?」、「これはひどい!」とか、「これをよく見よ!」とか、という言葉が本人の知らぬ間に無意識のうちに出るに違いない。
それはともかくとして、内視鏡の管の途中から、針金のようなものを通して、検体を採取したので、生理検査に回すのだなと、私は察した。
その事は、顕著な腫瘍はないが、得体の判らない異変があることは確かだ、ということだと思う。
まあ今更命が惜しいわけでもないので、そう悲観することもなかろうが、暫くは要観察ということであろう。
次は4月5日に行かねばならない。
本日は検査が終わった後、どういうものかオナラが出て、オナラが出て仕方がなかった。
オナラだと判っていても、もし万一実が出てしまうと大変なので、その度にトイレに走らねばならず、まことに厄介であった。
帰りの地下鉄は故障で間引き運転され、この日は実に運の悪い一日であった。

歯医者に行ってきた

2012-03-12 18:50:43 | Weblog
2週間ぐらい前からだろうか、口の中、特に左のほっぺたの中が突っ張るような違和感があって、モノを噛む時何だか痛みを感じて、1週間ぐらい前から大口も開けられなくなった。
あくびをすると、口を大きくあけるので、ほっぺたの筋肉が突っ張る感じがして痛みがあった。
何時も朝にはトーストを食べるのであるが、焼いたトーストを半分に折って合わせて口に入れることができない。
それだけ大きく口をあけると、痛くて開けられない。
その様子を見かねて家内が漢方薬の痛み止めをくれたので、それを呑んでいたら、いくらか痛みが遠のいた。
しかし何時までも放置するわけにもいかず、今日、覚悟を決めて歯医者に行って来た。
病院とか医者というのは実に嫌だ。
今回も何とか自然の治癒力で元に戻らないかと期待したが、どうもそう上手い具合にはいかない。
何が嫌だと言っても歯医者ほど嫌なものはない。
だから痛くて痛く我慢ならないぎりぎりまで我慢するのだが、最後はどうしても諦めねばならない。
で、覚悟を決めて本日歯医者の門を叩いた。
家の近くの歯医者に家内が既に掛かっているので、家内の紹介という形で予約を取っておいてくれた。
家内の言うところによると、初診の際は問診で根掘り葉掘り詳しく聞かれれるからというわけで、私の既応症に関する手紙を書いてくれた。
折角書いてくれたのだから初診の受け付けの際にそれを出してみたら、素直に受け取ってくれた。
この歯科医院は家内が既に掛かっていた時、私は何時も建物の外に停めた車の中で待っていた。
建物の中に入ったのは今回が初めてであった。
入り口は非常に狭く、待合室もそれなりに狭かったので、妙な歯科医院だと思った。
ところが名前を呼ばれて診察室に入ると、中には例の歯医者専用の診療台が幾つも並んでいて、外からは想像もつかないぐらい広く、沢山の人が働いていた。
示された椅子に座って待っていると、若い先生が見てくれたが、その場では余り沢山のことは言われず、すぐにレントゲン撮影が行われた。
このレントゲンはまた別の場所で、特別の部屋に案内されて、三宅眼科で視野の検査をするような機械でレントゲン撮影が行われた。
それが済むと再び元の椅子に戻って、若い先生が診察してくれたが、その間にレントゲンの写真が出来上がって、それを元に堀井先生が症状の説明をしてくれた。
その説明は、要するに歯石が多くて、何が何でも歯石の除去を先にしなければならず、その後で歯周病、恐らく歯槽膿漏であろうが、その治療を検討しなければならないということであった。
堀井先生の説明を聞くと、先生は家内の手紙で私が過去に舌がんの手術をした事を知っているので、舌の機能低下が歯石の形成に影響を及ぼしているのではないか、ということを気にしている様子であった。舌がんの手術は平成11年のことで、既に13年経っているが、その後、歯医者で歯石を取ってからもう既に10年近くたっている。
私ぐらいの年配になると、歯石の除去は1年に1回ぐらいはしなければいけないようだが、それを怠っていたに過ぎない。
先生の話を総合すると、歯石というのは歯肉縁上歯石と歯肉縁下歯石という2種類があって、私の場合その両方を除去しなければいけないらしい。
生きた人間から出る老廃物というのは何ともいじらしい思いがする。
歯を磨いているとき、時々歯石がポロンと転がり落ちで来ることがある。
その転がり落ちてきたものをよくよく手に取って眺めていると、不思議で不思議でならない。
自分の歯にこんな石灰質の石がたまることが何とも不可解千万である。
そういえば以前、もう20年近く前になるであろうか、尿管結石に悩まされたこともあった。
この時は、石が出たか出なかったか自分では判らなかったが、病院の診断ではそう言われたのだから、内臓のどこかに石が出来たことは間違いないのであろう。
がんの手術の後、リンパ節に転移していてリンパ節隔清手術をし、縫合し抜糸した跡が阿蘇山の外輪山のようにケロイド状になっていた。
傷はすっかり治っていたけれど、その部分を石鹸で洗ってはならないものと思い込んでいて、風呂に入ってもその部分を洗わずにいた。
そしたら、そのケロイドの底部に黒いものがたまって来た。
先生の検診の時、「こんなところに垢が溜まっている」と言われて、ピンセットではじいて取ってしまった。
私にはそれが垢だとはどうしても思えず、大恥をかいたが、自分の身から出た錆ならぬ老廃物であっても、何ともいじましい思いがしたものである。
今回の歯石の除去も、1回や2回では取り切れないそうで、暫く通わねばならないらしいが、歯医者というのは幾つになっても嫌なものだ。