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20/11/23(月) 勤労感謝の日 トイザらス、小柴さん、日本シリーズ

2020-11-23 17:11:53 | 日記
休日だったので、家族でトイザらスへ
そのあと、公園で遊んで昼食を済ませて帰って来た。



近くでバーベキューをやっていていい匂いが漂ってきた。
空には、トビが風を利用して気持ちよさそうに飛んでいた。



昼食






◆◆ どうした”巨人” ◆◆ サンスポ 【エモやんの舌好調】
連敗巨人に喝!切羽詰まった強さだった当時に比べて今は…一世一代の奮起せよ
SMBC日本シリーズ第2戦(巨人2-13ソフトバンク、ソフトバンク2勝、22日、京セラ)本紙専属評論家の江本孟紀氏(73)が1973年の日本シリーズ、南海-巨人を述懐。「当時の巨人には切羽詰まった強さがあった」と表現し、「ソフトバンクもどこか似ている」と独特な視点で評した。返す刀で「それに比べて、今の巨人は」-。厳しい言葉で奮起を促した。
        
1973年10月27日の日本シリーズ第1戦。大阪球場で南海時代の江本氏は完投勝利を挙げたが、ここから巨人が4連勝でV9を達成した。
 ホークス連勝で、あの記憶がよみがえる。1973年の日本シリーズ。大阪球場での第1戦。エモトが3失点で完投勝利を挙げたとき、正直なところ「巨人も大したことはないな」と思った。そこから4連勝で、巨人がV9。痛感させられたのは「切羽詰まった集団の強さ」だったね。
あの年の巨人は、公式戦の最終戦で阪神に勝って優勝決定。薄氷を踏むように、日本シリーズに進出してきた。長嶋茂雄さんも負傷で欠場。危機感にあふれていたからこそ、逆に気合が入っていた。それこそが、切羽詰まった強さだ。
 今年のソフトバンクも、どこか似ている。公式戦終盤まで、西武とロッテに食い下がられ、気の休まることのない日々で、鍛えられた。切羽詰まったところから、バネが弾けるように強靱(きょうじん)なチームになっている。
 それに比べて、今の巨人はどうだ?! と厳しく言わざるをえない。シリーズ前、ソフトバンク圧倒的有利の世間の声に反して、あえて「巨人の4勝2敗」と“逆バリ”で予想したけれど、さすがにもう、かばえない。
 当たらない打線もさることながら、投手陣のレベルが低すぎる。リリーフ陣も含めて、きっちりと抑えてベンチに戻り、攻撃にリズムをもたらすような投手が、いない。
 そもそも、第2戦の先発が今村…という時点で「?」マークよ。せめて3戦目までは、シーズンを通して投げて、成績もそれなりに伴った投手が出てこないと勝負にならない。そのレベルの投手は菅野だけ…というならば、そのこと自体が、レベルの低さを如実に物語っているよ。
 移動日をはさみ、球場が変わる第3戦。よほどの気分転換ができない限り、ひっくり返せない。しょせんシリーズに出場するレベルではなかった…と言われないよう、一世一代の奮起が必要だ。巨人だって十分、切羽詰まっているのだから。 

◆◆ 小柴先生 ◆◆ 2020年11月12日没
    
小柴昌俊先生は、大正15年(1926年)9月19日にお生まれになり、少年時代を横須賀市立諏訪小学校(当時は尋常高等小学校)、神奈川県立横須賀高等学校(旧制横須賀中学校)で過ごされました。
学生時代は、ご本人曰く「あまりいい生徒ではなかった。作曲家になりたいと思ったこともあった」そうです。
中学1年生のときに病気で半年近く入院しましたが、その際に担任の数学の先生からアインシュタインらが書いた物理学の本を贈られ興味を持ったのが、物理学との最初の出会いでした。
その後、東京大学理学部物理学科、ロチェスター大学大学院で物理学を修めました。
直径約50センチの光電子倍増管を持つ小柴先生の写真
小柴先生は、星が滅ぶ際の超新星爆発(星が寿命を終える時に起こす爆発)で生まれる謎の粒子、ニュートリノ(イタリア語で「小さな中性子」の意味)を検出するため岐阜県神岡町に観測施設「カミオカンデ」を昭和56年(1981年)建設し、昭和58年(1983年)に観測を開始しました。そして、昭和62年(1987年)2月23日、地球から約16万光年離れた大マゼラン星雲で起きた超新星爆発により放出されたニュートリノ11個を13秒間にわたって観測することに成功しました。天体からのニュートリノを、その時刻、エネルギーまで明確に検出したのは世界初で、この成果は超新星爆発の仕組みを解明し、光では観測不可能な星の中心部を直接研究することを可能とする、ニュートリノ天文学という新しい学問分野を開拓したのです。
平成10年(1998年)6月、「カミオカンデ」の性能を数十倍に高めた「スーパーカミオカンデ」は、ニュートリノに質量があることを確認する成果を上げ、素粒子理論に大きな影響を与えました。平成14年(2002年)10月8日、スウェーデン王立アカデミーは、ノーベル物理学賞を小柴先生に贈ると発表し、同年12月10日にその授賞式が行われました。受賞の理由は「天体物理学、特に宇宙ニュートリノの検出へのパイオニア的貢献」でありました。
これらの功績と栄誉をたたえ、横須賀市は、平成15年(2003年)2月15日の市制施行96周年記念式典において、小柴先生を初の横須賀市名誉市民として顕彰いたしました。
◆あきらめざるを得なかった少年時代の夢
 小柴昌俊博士は1926年愛知県に生まれました。小学生の時に神奈川県横須賀市に引っ越し、旧制横須賀中学(現県立横須賀高校)に入学。陸軍幼年学校を受験しようと準備を進めていました。「将来は音楽家か軍人になろう」。ところが陸軍幼年学校受験の一か月前に、不運にも小児まひにかかってしまいました。小児まひはポリオウイルスという病原体に感染することで発病し、手足に運動まひが残る病気です。現在では良いワクチンがありますが、当時は散発的に流行していました。小柴博士は後遺症により、音楽家の道も軍人の道もあきらめざるを得ませんでした。
◆物理学との出会い、苦学して東大へ
 病床にあった小柴博士を物理学と出会わせたのは、当時担任だった金子英夫先生(故人)でした。金子先生はアインシュタインらが書き記した『物理学はいかに創られたか』という本を小柴博士に贈りました。病気が回復すると旧制一高(現東京大学教養学部)に進学しました。小柴博士は、勉学に励む一方で、家庭教師や米軍の荷揚げ作業の帳簿(ちょうぼ)付けなどのアルバイトをして家計を助けていました。物理学を専門にしようと思ったのは、物理学教授の話し声を思いがけず聞いてしまったからでした。教授は寮の割れたガラスの向こうで次のように話していました。「小柴は物理のできが悪い。物理学へ進むことはありえんだろう」。
 教授の言葉を聞いて頭にきた小柴教授は猛勉強を始めました。家庭教師を買って出たのは寮で同室だった親友の朽津耕三(くちつ・こうぞう)現東大名誉教授。努力の甲斐あって、小柴博士は東京大学理学部物理学科へ入学することができました。
◆東大物理学科を卒業し、アメリカへ留学
苦労して進学した物理学科でしたが、成績はお世辞にも良いとはいえませんでした。しかし「物理学実験第一」と「物理学実験第二」は「優」をとりました。物理の実験がいかに好きだったかが伺えます。在学中、旧制一高時代の校長に、後にノーベル物理学賞を受賞することになる朝永振一郎博士を紹介してもらい、アメリカロチェスター大学に留学するための推薦状を取り付けました。「成績は良くないが、バカじゃない」。小柴博士が自分で書いた推薦文に朝永博士は苦笑しながらサインしました。こうしてアメリカ行きを手に入れ、東大理学部を卒業し、アメリカのロチェスター大学大学院へ留学しました。
◆1978年、頼まれて一晩で「ある装置」を考案
ロチェスター大学とシカゴ大学を経て、1970年、小柴博士は東大理学部の教授に着任しました。そして1978年に研究仲間から、「理論的には予言されていながら観測されていない陽子崩壊を何とか確認できないものか?いい実験装置を考えてほしい」と頼まれました。
 地球上の物質は、細かく分けると原子という小さな単位に行きつきますが、原子の中には「原子核」というさらに小さな単位が存在し、その原子核は陽子と中性子という極小の粒子(素粒子)から成り立っています。陽子崩壊とは、陽子がほかの軽い素粒子に分解されてしまう現象で、おきているはずなのですがだれも観測できていなかったのです。
 小柴博士は一晩で実験装置を考えだし、概念図を書き上げました。実は依頼される20年も前から、ひそかにそのような実験装置を考えていたのでした。それは、地下1000メートルに巨大な水槽を設置し、水槽に入ってきた素粒子が水中の電子などにぶつかると光を発するようにして、光センサーで解析するというものでした。1983年、この巨大な装置は「カミオカンデ」という名で、岐阜県神岡(かみおか)鉱山の地下に建設されました。名前の由来は、地名の神岡にちなんだものでした。
◆巨大なカミオカンデでニュートリノの検出を始める
直径15.6メートル、高さ16メートルに達するカミオカンデの水槽には、3000トンもの水(純水)がたたえられました。水槽の内側には約1000本の光センサーが取り付けられています。水槽の中に素粒子が入ってくると、素粒子は水中の電子などにぶつかって微弱な光を発します。その光をセンサーでとらえることができれば、素粒子のふるまいを知ることができるというわけです。完成までには、センサーを開発した浜松ホトニクスに対して「これだけの金で、うんとすごい光センサーを作ってほしい」と詰め寄ることもありました。
 完成後、あらゆる手を尽くしての観測がはじまりました。しかし結局、陽子崩壊の現象をとらえることはできませんでした。でも、この程度の失敗でしょげる小柴博士ではありませんでした。1987年、小柴博士は確実に成果を上げられる観測として、大気中の素粒子「大気ニュートリノ」の宇牛を検出を試みはじめました。大気ニュートリノは、主に太陽から地球に降り注ぐ宇宙線が地球の大気とぶつかってできる素粒子です。
 観測開始直後の1987年2月、小柴博士が東大を去る直前に、すばらしい幸運が訪れました。宇宙のはるかかなた、大マゼラン星雲で383年ぶりの超新星爆発がおき、それまでとはケタはずれに多量のニュートリノが地球に降り注いだのです。超新星とは、急激に明るさが増し、太陽の100億倍もの光度になる星のことで、一つの銀河内で出現するのは約100年に1個といわれています。超新星の中には星全体が吹き飛ぶような大爆発をおこすものがあり、その爆発を超新星爆発とよんでいます。
◆世界で初めて太陽系外の素粒子をとらえた
 小柴博士のところに超新星爆発がおきたとの知らせが届いたのは、爆発観測の二日後の2月25日でした。さっそくカミオカンデの観測データを取り寄せて解析が始まりました。2月28日、ついにニュートリノの信号を見つけだしました。その日、すでにイタリアとソ連(当時)の共同チームがアルプス・モンブランの地下観測装置でニュートリノをとらえたと発表していました。しかしその後、イタリア・ソ連チームのデータには誤りがあることが判明。小柴教授はあせることなくデータを詳細に検証し、3月5日に発表しました。勝利は、小柴博士が率いる東大宇宙線研究所のものとなりました。
        
◆1996年、次世代型スーパーカミオカンデが完成
ーカミオカンデ」が建設されました。かつてカミオカンデが設置されていた跡地には、第三世代の装置であるカムランドがつくられました。1998年、東大宇宙線研究所とともに研究をすすめる文部科学省高エネルギー加速器研究機構の戸塚洋二教授らは、これらの最新の観測機器を用いて「ニュートリノに質量がある」と確認するという快挙を成し遂げています。
◆2002年、小柴博士がノーベル物理学賞受賞
小柴博士はその功績の偉大さから、「いつかノーベル賞が与えられるだろう」と思われていました。2002年、ついにその偉業が評価される時がきました。2002年10月8日、電話でノーベル物理学賞受賞の知らせを受けた小柴博士は「サンキュー ベリー マッチ(どうもありがとうございます)」という言葉を繰り返しました。同時に物理学賞を受賞したレイモンド・デービス・ジュニア博士は、同じニュートリノを利用して星を観測する新しい天文学を切り開いた人でした。
 「苦労なんて感じません。無我夢中でここまできました」。受賞決定後のインタビューに満面の笑みで応える一方で、「毎年受賞者が発表されるたびに今年もはずれかと落胆しました」と本音もみせました。ノーベル物理学賞の受賞は1973年の江崎玲於奈(えさきれおな)博士が受賞して以来、29年ぶりのことでした。
◆ニュートリノ観測で宇宙誕生の謎が解けるかもしれない
宇宙観測の歴史は、17世紀はじめにガリレオ・ガリレイが手作りの望遠鏡で惑星をのぞいたのがはじまりとされています。その後、さまざまな望遠鏡が開発され、20世紀以降には肉眼でとらえることのできる可視光だけでなく、星が出す赤外線やエックス線、電波などをとらえて画像化することで、宇宙の姿を探ろうとする時代がやってきました。その結果、超新星爆発後に残されるブラックホールの存在や宇宙の温度のゆらぎといった、全く新しい天体や現象が観測されるようになりました。
 小柴博士は「宇宙のはじまりにおきたビッグバン直後から宇宙を満たしてきた宇宙背景ニュートリノを観測できれば、宇宙誕生のようすがわかるはず」と話しています。
◆「研究の卵」をいつも数個温めておこう
「教え子がノーベル賞をもらうことだ」。今後の夢について小柴博士はこのように話しています。現在でも6畳ほどの研究室をもち、平日はそこに毎日通っています。そのドアはいつも開け放たれ、後輩達を歓迎しているといいます。「でも学生はなかなか来てくれません。むしろパソコンの操作を教えてもらいに、自分から学生の部屋を訪ねることが多い」。若い研究者に対しては、研究のアイディアを詰めた卵をいつも複数温めておくこと、自分の研究を本気でやることの大切さを強調しています。
 「こんちくしょう」「みんなとちがう戦い方を考えよう」。どうやら、小柴博士を支えてきたのは、逆境に陥ったときに発揮された負けず嫌い根性だったようです。
https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/tour/nobel/kosiba/p4.html
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