第二次パープル問題

<15代目フーシェ>が管理人のハンネです 

私のハンネの元ネタ<ジョゼフ・フーシェ>について フランスの警察大臣(警察庁長官)

2015年11月30日 | 日記
ジョゼフ・フーシェ(仏: Joseph Fouché, 発音例, 1759年5月21日 - 1820年12月25日)は、フランス革命、第一帝政、フランス復古王政の政治家である。ナポレオン体制では警察大臣を務めてタレーランと共に主要人物。特に百日天下崩壊後は臨時政府の首班を務めてナポレオン戦争の戦後交渉を行った。

近代警察の原型となった警察機構の組織者で、特に秘密警察を駆使して政権中枢を渡り歩いた謀略家として有名で、権力者に取り入りながら常に一定の距離を保って激動の時代を生き抜いた人物であったとされ、「カメレオン(冷血動物)」の異名を持つ。後世からは「過去において最も罪深く、将来においても最も危険な人物」[要出典]と評された。オーストリアのユダヤ人作家シュテファン・ツヴァイクによる評伝が有名。



目次 [非表示]
1 略歴
2 家族
3 脚注 3.1 注釈
3.2 出典

4 参考文献
5 関連書籍 5.1 フィクション作品
5.2 その他

6 関連項目 6.1 フーシェになぞらえられた人物

7 外部リンク


略歴[編集]

ナント近郊のル・ペルラン出身。父は船員で、フーシェにも後を継がせるつもりだったが、体が弱く、勉学の才があったためにナントのオラトリオ教団[注 1]で学ぶ。その後、僧籍には入らずに、同教会所属の学校で物理科学を教える教師となった。なお、この時期に北部の町アラスにおいて、カルノーや無名の弁護士であったロベスピエールと交わり、彼の妹と交際している。

こうした面々とのつながりから政治運動に目覚めたフーシェはフランス革命後に教会を否定する非キリスト教化運動(英語版)に関わるようになって、1792年に国民公会の議員に当選し、パリに向かった。当初は同郷であるジロンド派に近い穏健共和派の立場であったが、国王ルイ16世の裁判の際に処刑票を投じ、それを契機にジャコバン派内の山岳派に鞍がえした。これによりジロンド派追放から免れるが、国王殺しの罪が後に尾を引くことになる。

ロベスピエールによる恐怖政治を支持して革命運動に身を投じ、1793には私有財産を禁じる法令をナント州などで発布し、リヨンの大虐殺を指導するなど辣腕をふるうが、その後ロベスピエールと対立した。テルミドール9日のクーデターに参加し、情報収集能力の高さを評価されて総裁政府の警察大臣を務めた。ブリュメール18日のクーデターでは体制側であったが、ナポレオンの政権奪取に貢献し、統領政府でも引き続いて警察大臣に就任した。1800年のサン・ニケーズ街暗殺未遂事件の阻止には失敗したが、その入念な捜査でカドゥーダルの陰謀を暴き、王党派を一網打尽にすることに成功。終身制に反対して一時失脚するが、アンギャン公事件で再評価され、ナポレオン1世の帝政において警察大臣、元老院議員を歴任した。

フーシェは総裁政府時代から密偵を雇い、秘密警察を使って国家のあらゆるものを監視させたと言われる。ナポレオンの私生活まで監視し、「奴はネコみたいな顔をして、ネコのように小賢しい」と言われ、「私はタレーランは信用したが、フーシェを信用したことは一度もない」とまで吐露される。それでいてナポレオンは、フーシェを厄介払い出来ず彼からの報告書には欠かさず眼を通し、一方フーシェもナポレオンにいくら面罵されても顔色一つ変えず自分の意見を淡淡とのべていたという[要出典]。

1808年に衛星国ナポリ王国のオトラント公爵に叙されるが、タレーランと同様にナポレオン帝国の崩壊を予想して、次政権の構想を画策し始める。翌年イギリス軍がベルギーに迫ったときに独断で国民軍を編成し、ベルナドットを司令官に据えた越権行為、対英和平交渉が露見して辞職した。この時の駐仏オーストリア大使シュヴァルツェンベルク(英語版)は、「ナポレオンをなだめられる唯一の人物が全国に惜しまれつつ去った」と本国に報告している[要出典]。その後、1813年、短期間であったが、ジュノー将軍の後任としてイリュリア州総督を務めた。

百日天下では再びナポレオンを支持して警察大臣に再復帰。崩壊後、退位したナポレオンに代わって臨時政府首班となり、ルイ18世をパリに迎えたが、首班の地位はタレーランに奪われた。王政復古でも短期間だけ警察大臣となったが、王党派は国王殺しのフーシェを忘れていなかった。両親であるルイ16世とマリー・アントワネットを殺されたマリー・テレーズは、フーシェが現れると席を蹴り、決して同席しようとしなかった。1815年8月、フーシェは大臣就任後わずか2ヶ月で失脚し、ザクセン王国(当時はドイツ連邦の加盟国)駐在大使としてドレスデンに左遷された。1816年1月9日、パリの議会による百日天下の際にナポレオンに与した国王死刑賛成投票者はフランスから永遠に追放するというフーシェを狙い撃ちにする決議により国外追放される形でプラハに亡命した[1]。

その後はオーストリアのリンツ、イタリアへと渡り歩き、1820年にトリエステで死んだ。晩年は家族と友人に囲まれた平穏な生活を営み、人が変わったように教会の参拝を欠かさなかったという。フーシェは死ぬまで敵対者の個人情報を手中に収め、保身に成功した。オトラント公としての居城跡地のフェリエール城(英語版)があるセーヌ=エ=マルヌ県・フェリエール・アン・ブリー(英語版)に埋葬されている[2]。
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 私はかってに<フーシェ15世>を僭称(せんしょう)していますが、現在もフーシェ家はスウェーデンに土着し、第8代フーシェさんが現在の当主ですね。


 フーシェは生まれは第3身分の平民で、船乗りの息子でしたが、からだが弱くて船乗りには向かず、数学(物理学)の教師になりました(たしかキリスト教の教会の教師だから僧侶と兼業)*あっと失礼、{オラトリオ教団}所属ですが、僧籍には入らなかったそうです*そこからフランス革命の混乱期に、代議員として、パリでそれなりに活動しているうちに、リヨンに派遣され、そこでの仕打ちから<リヨンの霧弾乱殺者>とかよばれることに、ルイ16世の死刑投票には賛成したフーシェでしたが、宿敵のロベスピエールを打倒することに成功しましたが・・・・・その後はしばらく充電期間。総裁政府ではじめて<警察大臣>になったものの、閣僚でありながら、総裁政府打倒のナポレオンの考えに同調して、総裁政府を打倒し、ナポレオン主導の統領政府に参加、引き続き警察大臣をつとめる。

 ナポレオンが権力の中枢にいた<1798年から1814年>までは、外務大臣のタレーランと並んで、ナポレオン政権の車の両輪(タレーランとフーシェ)として活躍、1813年にナポレオンが前年のモスクワ遠征で大敗北した次の年に、一時的に<イリュリア州総督>になったものの、戦わずして降伏した(ってか、さっさと逃げ出した)

 <<<ナポレオンがエルバ島に流刑になったあとの、ルイ18世の<復古王政>では役職につけなかったものの、ナポレオンがエルバ島から脱出した<100日天下>では、ふたたび警察大臣になり、絶大な権限をもった。
 ナポレオンが、1815年のワーテルローの戦いで、連合国に敗北した時には、パリはフーシェの手中にあった。ルイ18世が、ナポレオンがいないパリを奪還するにはフーシェの協力が不可欠だったために、タレーランの提案で、フーシェを警察大臣として、タレーランとフーシェは{臨時政府首班}となる。首班の地位はまもなくしてタレーラン単独になるが>>>

 しかし、復古王政での栄光時代は長続きせず、両親と弟(ルイ17世)を革命で殺されたルイ16世とマリー・アントワネット王妃の娘の<マリー・テレーズ>が、フーシェとの会議にはイスをけって同席しなかったり、昔ながらの古い保守的な貴族たちのせいで、フーシェはフランスにはいられなくなり、今のドイツのドレスデンの大使となり左遷された。

 その後は各地を転々とし、最終的には、イタリアのトリエステで死んだ。若いころは教会を破壊していたくせに、最晩年は、よきキリスト教の理解者となり、教会にあししげく通っていたという。
 タレーランは最後には塗油を受けたが、神さえもあざむいた。しかしながら、フーシェは、死ぬ間際はキリスト教の信仰者に、普通の信者に戻りたかったのだと思う。
 昨夜、NHKの<新・映像の世紀>で、1920年代のアメリカの好景気とグレートファミリー(大富豪)について放送していたが、初代ロックフェラーが1937年に97歳で死んだときに、同じく富豪の自動車王の<フォード>に「さようなら また 天国で会おう」と言ったが、フォードはこう切り返した「あなたが天国に行ければね」

 どんなに巨万の富を集めた人であれ、権力者に登りつめた人であれ、死んだら天国に行きたいらしい。死後の世界があると信じているから、人間は生きていけるのだろう。私もカトリック(キリスト教)の一員としては、死後の世界があることを純粋に信じたいものだ。


フーシェとおなじ激動の時代を80歳までいきのびたタレーランの画像
 

 


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