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お山にお宮がたちました

お山の神様と神社仏閣めぐり

丹生都比売神社 特別拝観

2021-12-21 06:50:00 | 神社仏閣詣り
高野山へのお詣りを終えたら、丹生都比売神社は絶対お詣りしなきゃと思ってました。
丹生都比売様が空海さんに真言密教の修験の拠点として高野山を譲ったのです。
本当は高野山へのお詣りの前に丹生都比売神社にお詣りしなきゃいけないのかもしれないけど、一回お詣りしてるから高野山へのお詣りの後にご報告も兼ねて寄らせて頂きました。


太鼓橋を渡ると鳥居の向こうに美しい女性らしい拝殿が見えて来ます。
主人ははじめてなのでお詣りできて良かったです。
高野山もそうですが、この丹生都比売神社も世界遺産なのです。


第一殿:丹生都比売大神
通称「丹生明神」。古くより祀られていた神。

第二殿:高野御子大神
通称「狩場明神」。高野山開創と関係する神。

第三殿:大食津比売大神
通称「気比明神」。承元2年(1208年)に氣比神宮(福井県敦賀市)からの勧請と伝える

第四殿:市杵島比売大神



本当に美しいです。


丹生都比売神社の隣の敷地に向かいます。

光明真言板だったのですね。
前に訪れた時には何が書いてあるのだろう思ってました。

オンアボキャベイロシャノウマカボタラマニハンドバジンバラハラバリタヤウン

御真言を唱えさせて頂きました。

お遍路をまわって真言を沢山覚えました。




丹生都比売神社のお詣りを終え出発しようかと思ったら、本殿特別拝観の張り紙をみつけました。
あと30分だけ待てば良いのです。
先着20人だったかな?
凄い!嬉しい!こんな偶然はあり得ないと待つ事にしました。

そして特別拝観。
勿論写真はダメです。
拝殿にて宮司さんの説明が始まります。
内容はこんな感じでした。

この地は今も天野というのですが、高天原を意味します。この土地には昔は神々しか住めず、人間は下の地で生活をしていました。
神主と僧侶が59人(50数人だったのは間違いないのですが曖昧です??)が毎日山を上がり神様のお祀りをし祈りを捧げ仕えていました。
昔は神仏習合であり、お寺の横には神社があったのです。

丹生都比売神社と高野山金剛峯寺
日吉大社と比叡山延暦寺
春日大社と興福寺

といった感じです。

それが神仏分離になり丹生都比売神社は取り残され、世界遺産に登録されても何処?というふうになったのですが、そのおかげでこの自然溢れる景観が保たれたと考えています。


神様の事を知ってほしいとの宮司さんの思いからか短い時間しかないのに詳しく優しく教えてくださいます。

神仏は表裏であると考えます。
御祭神である丹生都比売様は天照大御神様の妹神といわれており、仏教でいう大日如来と同神とも考えられます。
この4殿の隣に僧侶を神様として祀っています。
神仏分離の流れにより僧侶を祀るのはおかしいといわれたのですが、一度お祀りしたのにそれをやめる事はおかしいので神様になったといってこのようにお詣りを続けています。

それは高野山でも同じで、高野山にも丹生都比売様や高野大明神を朱塗りの鳥居の奥にお祀りしています

僧侶をお祀りしているのは、この地に人間が住めなかった時代、神主と僧侶合わせて59人でお祀りしていたその神主のトップと僧侶のトップがある日、同じ夢をみたと言います。
その内容が、丹生都比売様が私と仲が良い(縁が深い?親しい?)神様をこちらで一緒に祀って欲しいといわれたそうです。
それで、大食津比売大神と市杵島姫様が一緒に祀られるようになったといいます。


その僧侶をこちらの横で祀っていて、神仏分離の流れでもそれをやめる事はしなかった。
今でも、高野山でお坊さんになった方は修行を終えるとこちらにお詣りをし、神様の前にお札を奉納し、それがこちらにあります。
(わかりますか?本殿前にあります。)



なんか、感動しました。

私も神仏は表裏のように思っています。それはお遍路をまわってより強く思うようになりました。
元々神様が好きだったけど、お遍路をまわって仏に神を感じる事が何度もありました。

無形の神を感得できた方が、人間の視覚にもわかるように偶像をつくってお祀りするようになった。
そんな感じに思っています。

拝殿をお詣りした人に、絵馬が配られましたので皆(これは全ての人)の幸せを願ってきました。



全ての人が幸せである事が神様が一番嬉しいことです。


私たちが生かされているのは神様が命を与えてくれ、命を輝かせて来なさいと送り出してくれたからだと思うのです。

神様の事を皆がもっと知り、神社を好きになってお詣りにいかれる方が増えたら、日本の神様のご神威が増し、皆が幸せになると私は信じています。















高野山 ③奥の院

2021-12-20 07:27:00 | 四国八十八箇所 別格二十箇所
高野山の奥の院は歩いて行った方が良いよと、高野山にお詣りをした方から、私たちがお詣りをする直前に教えてもらいました。
これは、駐車場の関係です。行くとわかります。
それを言われてたから、主人とテクテク歩いて行きました。
道中の紅葉が美しいです。


高野山奥の院入口に到着です。

高野山奥之院の正式参拝は、一の橋からスタートです。
一の橋は奥之院の入り口となる橋で、正式には大渡橋(おおばし)といいます。御廟までの道のりには3つの橋がありますが、高野山を流れる御殿川(おどがわ)にかかる一の橋は最も大きい橋です。





橋を渡って歩きます。
奥の院は高野山の信仰の中心であり、弘法大師さまが御入定されている聖地です。

一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでおり「日本の総菩提所」とも呼ばれています。








2番目の橋は奥の院参道にあります。
一の橋と御廟橋の中間点にあることから中の橋と呼ばれています。正式名称を「手水橋(ちょうずばし)」と言い、平安時代には中の橋の下を流れる川で身を清めて罪やけがれを洗い流してから参拝していましたようです。
中の橋の下を流れる川の名は「金の河」。「金」は死の隠語とされ、現世とあの世とを分ける三途の川を表しているそうです。

3番目の橋は、弘法大師御廟へと向かう参道の最後の橋が御廟橋です。
御廟橋を渡ると大師御廟への霊域に入ります。
ここを越えるといよいよ聖域に足を踏み入れることになるため、橋の前で服装を正し、礼拝してから渡るのが参拝の作法です。
写真も何もかも全てダメです。

納経所にて住職さんに結願ですね。おめでとうございますと言ってもらい、有難う御座いますと言いました。
あとで、なんか嬉しいねと主人と話しました。

お詣りを終え行きとは違う道から帰りました。


夕方になっていましたがそれもそれで美しいです。






行きとは違う景観を楽しめたのですが、道路には比較的に早く出るとこができ、出たところに駐車場があって、そこから一の橋までの距離が遠いのです。
なるほど、だから歩かないと日本の総菩提所を歩けないまま辿り着いてしまうのですね。
わかりました。

行く前に教えてもらってたことに感謝ですね。




奥の院のすぐそばに、豊臣秀吉がお花見をしたというしだれ桜があるようです。
ちょうどこの写真のあたり。
紅葉の季節も良いですが桜の季節も美しいでしょうね。

高野山を満喫でき、素敵な1日となりました。



高野山 ②壇上伽藍

2021-12-19 04:44:00 | 四国八十八箇所 別格二十箇所
伽藍の入口(金剛峯寺)から壇上伽藍内(東塔)へ向かう小道を蛇腹道といいます。
蛇腹道の紅葉は格別に美しかったです。
蛇腹道と名付けたのは弘法大師空海だといわれており、大師は生前に高野山全体を蛇ではなく龍が伏せる姿に例えていたともいわれています。


丹生都比売様と善女竜王、そしてこの蛇腹道をひっくるめて、高野山に龍神信仰があったといわれます。
高野山全体を上空から見た時、龍が伏せているように見え、蛇腹道は蛇の腹、つまり、龍の腹あたりということから、高野山自体に龍が棲むという龍神信仰が誕生したと考えられます。


蛇腹道を抜けると東塔があります。
紅葉とのコントラストが美しいです。



不動堂です。
鳥羽上皇の皇女である八條女院内親王というお方が発願され、行勝上人によって建立されました。


愛染堂です。


大塔の鐘・高野四郎です。
お大師さまが鋳造を発願され、弟子の真然大徳の時代にようやく完成したと伝えられています。






壇上伽藍(だんじょうがらん)は、真言密教の創始者・弘法大師が高野山に修行の地を開いた最初の場所で、奥の院と合わせて高野山の二大聖地とされています。
伽藍とは「僧侶が修行する場所」という意味で、インドのサンスクリット語に由来します。

朱色がひときわ目を引く「根本大塔(こんぽんだいとう)」が見えてきます。真言密教の根本道場のシンボルとして、威風堂々の佇まいです。


根本大塔の先には大きな松の木があります。
高野山が日本仏教の聖地となったきっかけが、この松の木と関係があるといわれています。

弘法大師が、唐から帰国するときに「三鈷杵(さんこしょ)」という法具を投げ、その「三鈷杵」が海を越えて日本に飛んでいき、この松に引っかかっているのを弘法大師自身が見つけ、この発見によって、弘法大師は高野山に真言密教の聖地を開くことにしたといわれています。


観光客が「三鈷の松(さんこのまつ)」と呼ばれる松の葉をここで探すようですね。
知らなかったです😅


金堂です。こちらには僧侶が一同に集まることから総本堂(講堂)ともいわれ、根本大塔と共に高野山の中心ともいえます。
根本大塔に先立ち金堂が造営されたといわれています。
現在でも高野山内の重要な行事は、この金堂にて執り行われています。


金堂から中門を眺めます。



西塔です。
お大師さまの伽藍建立計画案である『御図記(ごずき)』に基づき、真然大徳によって建立されました。
その計画とは、大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として二基一対として建立する計画でした。しかし、諸般の事情により建設が遅れ、仁和2年(886年)に建立されました。
西塔では、大塔の本尊が胎蔵大日如来であるのに対し、金剛界大日如来と胎蔵界四仏が奉安されています。現在の塔は、天保5年(1834年)に再建された、擬宝珠(ぎぼし)高欄付多宝塔で、高さは27.27メートルです。
高野山HPより


御社です。
お大師さまが弘仁10年(819年)に山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守とされました。


社殿は三つあり、一宮は丹生(にう)明神、二宮は高野明神、三宮は十二王子・百二十伴神がまつられています。
丹生、高野明神社の構造形式は春日造で、総社は三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)と呼ばれ、どちらも檜皮葺の屋根で仕上げられています。
現在の社殿は文禄3年(1594年)の再建で重要文化財に指定されています。
高野山HPより


中門を出ると蓮池があります。
昭和の頃までは美しい蓮(はす)が咲き誇っていました。この池には小さな祠(ほこら)がまつられています。
明和年間のこと、干ばつが度々起こり、民衆は苦しみました。そこで明和8年(1771年)、瑞相院慈光(ずいそういんじこう)というお方が善女竜王(ぜんにょりゅうおう)像と仏舎利(ぶっしゃり)を寄進し、蓮池の中島に小さな祠を建立しておまつりしたところ、たちまちに霊験が現れたそうです。
高野山HPより



主人が夜ライトアップされてるから見に行こうといいます。
1日で2万歩も歩いて足が痛かったけど行ってみることにしました。
蛇腹道綺麗ですね。




大塔も美しいです。
夜来るのも良いですね。



赤と白のコントラストが美しいです。


金堂です。

今日泊まる宿坊の一条院です。

素晴らしい宿坊でした。




高野山 ①大門 金剛峯寺

2021-12-18 07:05:00 | 四国八十八箇所 別格二十箇所
お四国が終わると和歌山県の高野山にお詣りをする習わしがあります。
主人に合わせて1日だけお仕事を休み、2泊3日で高野山へ出発しました。
早朝4時くらいに家を出て10時くらいには高野山に着きました。
行くと決めて行動すれば何処でも行けるもんですね。
運転は1.2時間で交代します。お互い安全運転を心がけます。

世界遺産である高野山。まず、大門が見えてきます。こちらは車が停めにくかったですが降りてみました。
朱塗の大門は素晴らしいですね。火災があったりして、今の大門は宝永2(1705)年再建されたもののようです。



案内板があります。


仁王門です。国内で二番目に大きいという金剛力士像(仁王像)がお迎えしてくださいます。




大門前はこんな感じ。車の往来が激しいのです。

大門の正面からくぐり、振り返ると裏から見た感じはこんな感じです。
綺麗ですよね。心が幸せだと喜んでます。


いよいよ、高野山金剛峯寺にお遍路が終わりましたとご報告のお詣りです。

高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの盆地状の平坦地に位置する。
100か寺以上の寺院が密集する日本では他に例を見ない宗教都市である。京都の東寺と共に、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が修禅の道場として開創し、真言密教の聖地、また、弘法大師入定信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。
2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部。
Wikipediaより


弘法大師が都遥かに都を離れ、しかも約1000mの高峰であるこの高野山を発見されたことには古くから伝えられる物語があります。
それは、弘法大師が2カ年の入唐留学を終え、唐の明州の浜より帰国の途につかれようとしていた時、伽藍建立の地を示し給えと念じ、持っていた三鈷(さんこ)を投げられた。
その三鈷は空中を飛行して現在の壇上伽藍の建つ壇上に落ちていたという。
弘法大師はこの三鈷を求め、今の大和の宇智郡に入られた時そこで異様な姿をした一人の猟師にあった。
手に弓と矢を持ち黒と白の二匹の犬を連れていた。弘法大師はその犬に導かれ、紀の川を渡り嶮しい山中に入ると、そこでまた一人の女性に出会い「わたしはこの山の主です。あなたに協力致しましょう」と語られ、さらに山中不深くに進んでいくと、そこに忽然と幽邃な大地があった。
そして、そこの1本の松の木に明州の浜から投げた三鈷がかかっているのを見つけ子の地こそ真言密教にふさわしい地であると判断しこの山を開くことを決意されました。
高野山金剛峯寺HPより

高野山を空海にお渡しした神様は、丹生都比売様です。


手入れが行き届き美しい境内です。


お詣りをしていると沢山のお坊さんが入ってきました。
どうやら東寺のとても偉いお坊さんが来るとかで、そのとても偉いお坊さんをお迎えする為に沢山のお坊さんがスタンバイしてました。
そんな方が来る時に、この場所で同じ空気を吸えるなんて幸せです。


拝観料を支払って中に入ります。






なんて美しいんでしょう。






1000人分の食事を作ったといわれる台所です。









紅葉の季節でした。
高野山全体が日本仏教の聖地です。
本当に美しくて敬虔な気持ちになります。

4月末からお四国詣りを始めて10月末に88箇所詣りを終えました。
紅葉の季節にこちらにお詣りできて本当に有り難いなと思いました。




四国八十八箇所お遍路 第八十八番札所 大窪寺

2021-12-17 06:02:00 | 四国八十八箇所 別格二十箇所
四国お遍路八十八ヶ所結願(けちがん)の霊場は大窪寺です。

長尾寺から大窪寺に向かう道中お猿さん🐒3匹がいました。
亀が現れたり、猿が現れたり、本当に楽しいお遍路道中でした。
夫と、お遍路が終わるロスを感じると、しみじみ話しました。それくらい楽しかったから、2周目とか、別格霊場巡りとか真面目に考えます。
神社仏閣巡りに、喜んで付き合ってくれる夫に感謝しないといけないですね。

山門をくぐると紅葉が美しいです。

縁起によると、養老元年に行基菩薩がこの地を訪れた際に、霊夢を感得し草庵を建て修行をしたと言われます。
弘仁6年に、唐から帰国した弘法大師が、現在の奥の院にある岩窟で、虚空蔵求聞持法を修法し堂宇を建立。
等身大の薬師如来坐像を彫造し本尊とされました。また唐の恵果阿闍梨より授かった三国(印度、唐、日本)伝来の錫杖を納めて大窪寺と名づけ、結願の地と定めました。
大窪寺HPより。



空海さんの幼少期、佐伯眞魚だった頃の像です。


木々が真っ直ぐ凛と聳え立ちます。

木々の間からお不動さんが見えます。

沢山の不動尊がいらっしゃいますね。
五大明王石像です。

御本尊 薬師如来
本尊真言 おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌 南無薬師諸病なかれと願いつつ 詣れる人は大窪の寺

こちらが本堂になります。


阿弥陀堂です。


境内に大銀杏の木があります。この大きさになるなんて凄いなと思います。

本堂をお詣りして山門を横目に大師堂に向かいます。



まず、お大師さんにご挨拶です。
やっと結願です。怪我もなくここまで順調にお詣りさせて頂き有難う御座います。


大師堂です。




1988年より原爆の火が灯されています。
人間は二度と原爆など使ってはいけないのです。
その後ろには宝杖堂があります。
結願した遍路の金剛杖が奉納され、毎年春分の日と8月20日に柴灯護摩供の焚き上げが行われているようです。



心経塔です。

お決まりの鐘をつきます。ゴーン


こちらが仁王門です。




帰りに美味しいと有名な打ち込みうどんを食べる予定だったのに、4時ちょっと過ぎてたからお店がぜーんぶ終わってました😅
私はそれでもいいんですけど、夫が食べたかったようで機嫌が…。


帰って、もっと美味しいもん食べに行こうと笑って機嫌とりました。
あんたが遅いからやとブツブツブツ😅


高知に帰ったら美味しいお店が沢山あります。
最高にお刺身の美味しいお店に寄って帰りました。

お四国88箇所詣りを無事終えることができて本当に良かったです。
あと、このブログで四国88箇所詣りを見てくださった方、行ったこと無かったら、お付き合いもしんどかったのではないでしょうか?
それなのにご訪問してくださって本当に有難う御座います。
皆様にご加護がありますように🙏

こうして、綴ってきたのは私の頭の整理が一番の理由なんですけど、もう一つだけ挙げるとすると、身体の自由が利かない人やお遍路に行きたくても行けない人に、写真でお詣りしてもらえればと思ったからです。

昔は歩き遍路しかなくて、道中で倒れても良いようにと白装束を着てまわったと言います。
今は車でまわれるから便利になったんだけど、それでも、時間の関係や身体の不調などで叶わない方も沢山いらっしゃると思ったのです。

沢山写真を撮ったのは、参拝した気分になってくれる方が一人でも居てくれたらなぁと思ったからです。
そんな綺麗ことばかりじゃなくて、頭の整理と復習がメインですよ。笑

お遍路をまわりながら、主人と歩き遍路を既に2回終えている悟くんの事を話していました。
今度3回目のお遍路をすると言ってた悟くん、高知に来るたびに実家で泊まってくれていたんです。
いつもニコニコニコニコしてて、恵比寿様のように笑っていて優しさとか愛の塊みたいな方でした。そばにいるだけでこっちまで笑顔になれる優しいお顔。笑っている顔しか思い出せないです。

歩いてまわった悟くんは凄い、今度来たらお遍路について悟くんと語らんといかん。。と主人がお遍路の難所に行く度に話していました。
悟くんが闘病してた事も知らずに、何度も何度も私たちのお遍路道中で悟くんは登場しました。

自分の病気を伏せ母を励まし、お空に旅立った悟くん。どれだけ沢山の神様に迎えられ素晴らしい世界に旅立ったんだろうと想像します。
清く善い人生を歩まないと、とても悟くんが今いる世界には辿り着けないだろうと姉と話しました。
今頃は笑ってお空の旅を満喫していると思います。心からご冥福をお祈りします。